ボスニア内戦 民族紛争の真実

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2010/01/15(金)
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ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(ボスニア・ヘルツェゴビナふんそう)は、ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナで1992年から1995 年まで続いた内戦。

背景

ユーゴスラビア解体の動きの中で、ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に独立を宣言したが、独立時に約430万人の人口のうち、民族構成の33% を占めるセルビア人と、17%のクロアチア人・44%のボシュニャク人(ムスリム人)が対立し、セルビア人側が分離を目指して4月から3年半以上にわたり戦争となった。両者は全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したほか、ボシュニャク人女性に対するレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。

戦闘の展開

紛争のはじまり

1991 年6月、クロアチアの独立宣言をきっかけに、クロアチア警察軍とユーゴスラビア連邦軍との間で武力衝突が勃発した(クロアチア紛争)。それを契機に、ボスニア・ヘルツェゴビナの独立を求めるボシュニャク人・クロアチア人と、独立に反対するセルビア人との間で対立が深まり、セルビア人はクロアチアと同様に自治区を設立して独立の動きに対抗しようとした。だが、当時ボシュニャク人主導だったボスニア・ヘルツェゴビナ政府は自治区設立を認めなかったので、セルビア人との間で武力衝突も生じるようになった。

そのような状況の中、セルビア人の反発を無視し、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府は1991年10 月に主権国家宣言を行い、1992年2 月29日から3月1日にかけて独立の賛否を問う住民投票を行なった。住民投票は、セルビア人の多くが投票をボイコットしたため、 90%以上が独立賛成という結果に終わる。これに基づいて、ボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言、4月 6日にはECが独立を承認し、5月には国際連合に加盟した。独立に不満を抱いていたセルビア人は、ECの独立承認をきっかけに大規模な軍事行動を開始し、翌日にはボスニア・セルビア議会がボスニア北部を中心に「スルプスカ共和国」の独立を宣言した。

92 - 93年 セルビア人勢力の優勢

紛争の開始直後は、その数と装備の質において、セルビア人勢力が優勢であった。ボシュニャク人勢力は装備の質で劣り、クロアチア人勢力は数の面で劣っていた。しかも、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力は、必ずしも緊密に連携しているわけではなかったのである。そのため、セルビア人勢力は、最初の攻勢でボスニア・ヘルツェゴビナ全土の6割以上を制圧、サラエヴォを包囲する。クロアチア人勢力は、ヘルツェゴビナ西部の確保に専念、ボシュニャク人勢力は残るサラエヴォ、スレブレニツァ、ゴラジュデ、ジェパなど主要都市を含む3割弱を必死に防衛するという状況になった。国際社会は、セルビアへの制裁、サラエヴォへの人道支援などを行うが、戦局の大勢を動かすまでには至らず、92年中はその状況が続いた。

1993年春、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力の間での対立が深まり、クロアチア人勢力は同年8月にヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の樹立を宣言した。セルビア人勢力と争う地域が少なくなっていたこともあり、クロアチア人勢力はセルビア人勢力と同盟を結ぶ。モスタルなどでは、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力の間で激しい戦闘が開始された。これにより、ボシュニャク人勢力は一層の苦境に立たされた。

94 年 - 95年春 対セルビア人勢力包囲網の構築とその破綻

94年に入ると、アメリカの圧力によりクロアチア人勢力が再びボシュニャク人勢力と同盟を結んだ。3月 1日にはワシントンで、ボシュニャク人・クロアチア人の連邦国家が結成されることも決定された。これは、アメリカによる対セルビア人勢力弱体化への第一歩であった。4月10日から11日にかけては、小規模なものではあるが、北大西洋条約機構(NATO)によるセルビア人勢力への空爆が実施された。8月5日、セルビア人勢力が国連管理下の武器集積所を襲撃するという事件が起きる。これに対してもNATOによる空爆が行われた。NATOによる空爆に加えて、秋ごろからは、アメリカによるボシュニャク人・クロアチア人勢力に対する軍事援助も開始された。

これにより勢いづいたボシュニャク人勢力は、10月下旬、セルビア人勢力に対して、ビハチ周辺で攻勢に転じる。この攻勢は一時的には成功したが、 11月初めには早くもセルビア人勢力による反撃に遭い撤退を余儀なくされた。これを支援するため、11月21日および23日にNATOによる3度目の空爆が実施される。繰り返される空爆に対し、セルビア人勢力は少数・軽武装で活動していた国際連合保護軍兵士を人質として拘束するという手段をとった。これにより、国連保護軍に兵士を派遣しているイギリス・フランスとさらなる空爆を求めるアメリカとの間で意見が対立、NATOは機能不全に陥る。紛糾した事態は、ジミー・カーター元アメリカ大統領による和平交渉で打開された。これにより、95年1月 1日から4ヶ月の停戦が実現した。

戦闘の終結

1995年春、4ヶ月停戦の期限が切れると、再び激しい戦闘が始まった。セルビア人勢力とボシュニャク人勢力の間では、セルビア人勢力が最後の攻勢に出た。7月にはボシュニャク人勢力が保持していたスレブレニツァ、ジェパが陥落、サラエヴォ、ゴラジュデも激しい攻撃にさらされた。一方、セルビア人勢力とクロアチア人勢力の間では、クロアチア軍と連携したクロアチア人勢力が優勢であった。戦闘は、ボスニア・ヘルツェゴビナではなく、隣接するクロアチア国内のセルビア人居住区で行われた(嵐作戦参照)。この間の5月から7月にかけて、セルビア人勢力の攻勢に対し、NATOはセルビア人勢力の拠点を攻撃することで対応した。

また、6月3日にNATOは、国連保護軍の保護を目的とする緊急対応部隊を設立、セルビア人勢力による人質作戦への対応を行った。8月 28日、サラエヴォ中央市場に砲撃が行われ、37人が死亡する事件が起きた。この事件をきっかけに、NATOはこれまでにない大規模空爆・デリバリット・フォース作戦を実施する。8月30日から9月 14日まで(9月2日から4日は一時停止)というこれまでにないものであった。この結果、セルビア人勢力は、クロアチア方面で敗退しただけでなく、ボシュニャク人勢力からの反撃を支える力も失った。これにより、セルビア人勢力も和平交渉への本格的な参加を決定し、10月13日には停戦が実現して戦闘が終結した。

「民族浄化」

「民族浄化」とは、異民族を排除し、ある一定の地域を民族的に単一にしようとする政策である。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において、各当事者はそれぞれ自民族の勢力圏を拡大することを目的とし、紛争は「陣取り合戦」の様相を呈していた。このような中で、安定的な自民族の勢力圏を確保し、支配地域から不安要因を取り除く目的で、自勢力の支配下に住む異民族を排除し、勢力圏を民族的に単一にする「民族浄化」が行われた。

「民族浄化」は、異民族に対する各種の嫌がらせや差別的な待遇、武器の没収、資産の強制接収、家屋への侵入と略奪、見せしめ的な殺人や強姦によって、その地域の異民族が退去せざるを得ない状況に追いやる方法や、強制追放、強制収容、あるいは大量虐殺によって物理的に異民族を地域から取り除く方法がとられた。

従軍可能年齢にある男性は各地で集団殺害や強制収容の対象とされた。また、女性らは強制収容後、組織的に強姦を繰り返し、妊娠後暫くしてから解放することによって出産せざるを得ない状況に追い込まれた。家父長的な男権社会の影響が残るボスニア・ヘルツェゴビナの村部では、女性を強姦によって妊娠させるこの方法は、効果的に異民族を排除する方法として用いられた。

ボスニア・ヘルツェゴビナでは、それぞれの民族の間のわだかまりは根強く残っている。紛争のさなか、特にセルビア人による蛮行が大きく報じられ、セルビア人を取り立てて悪とみなす論調が広まった。一方でクロアチア人やボシュニャク人も、少なからざる虐殺や強制連行などの蛮行を行っていたことが証明されており、セルビア人だけが非人道的行為に及んでいたわけではない。

スレブレニツァの虐殺

1995 年7月6日、ムラディッチ率いるセルビア人勢力は、国際連合の指定する「安全地帯」であったスレブレニツァに侵攻をはじめ、7 月11日には中心部を制圧した。7 月12日には、セルビア人勢力はスレブレニツァに居住していたボシュニャク人の男性すべてを絶滅の対象とし、8000人以上が組織的に殺害されるスレブレニツァの虐殺が引き起こされた。スレブレニツァの虐殺は、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷および国際司法裁判所によってジェノサイドと認定された。

和平合意

戦闘中もボスニア3分割案などによって和平が模索されたが、NATOによるセルビア側への攻撃を含んだ介入によって停戦となった。1995年10 月、アメリカ合衆国のクリントン大統領が内戦の当事国間による平和協定妥結を発表した。そして11月に、アメリカ・デイトンのライト・パターソン空軍基地に内戦の当事国であるボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、ユーゴスラビアの各大統領が集まり、43ヶ月間にわたった内戦終結のための平和協定に仮調印した。12月、NATOは6万人のボスニア和平実施部隊(IFOR)派遣を承認し、12月14日にはパリで和平が公式に合意(デイトン合意)・調印されて戦闘は終息した。

合意により、クロアチア人・ボシュニャク人がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦、セルビア人がスルプスカ共和国というそれぞれ独立性を持つ国家体制を形成し、この二つが国内で並立する国家連合として外形上は一国と成すこととなった。領土配分は、スルプスカ共和国が約49%、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦が約51%とされ、両国はそれぞれの主体が独自の警察や軍を有するなど高度に分権化された(その後、軍は統合された他、警察制度についても改革が議論されている)。

さらに詳しく → ユーゴスラビア紛争  ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争  民族浄化


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(2008/03/13)
佐原 徹哉

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