芙蓉部隊(Fuyou Force) - 特攻拒否の異色集団

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2010/01/12(火)
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芙蓉部隊(ふようぶたい)とは太平洋戦争末期において夜襲戦法を用い活躍した日本海軍第131航空隊所属の3個飛行隊の通称。隊長(飛行長)は美濃部正少佐(最終階級)。

芙蓉部隊の生みの親、美濃部 正と夜襲戦法の着想

美濃部は1937年海軍兵学校64期を卒業、水上偵察機のパイロットとなる。旧姓太田、1941年11月結婚により姓を “美濃部”に変更する。開戦と同時に太平洋戦域へ赴任。1942年4月のセイロン沖海戦に参加する。 1943年11月にはソロモン諸島方面で活動していた938空(水上機装備)の飛行隊長に就任する。この時期に彼は指揮官として水上偵察機を率い夜間索敵や基地襲撃を敢行。この経験により「夜間飛行に慣れたパイロットによる夜間攻撃」というアイデアを得た。

実際に1944年1月に零式水上偵察機1機で敵飛行場を攻撃、成功する。これにより上層部は水上機による夜襲部隊の編成を許可、トラック基地で訓練を始めた。だが同年2月17日のトラック島空襲により機材が失われ、夜襲部隊の編成計画は頓挫した。代替の飛行機を得て戦闘316飛行隊(301空所属)の隊長に就任するも、美濃部の推進する夜襲と、上層部の要求する防空という部隊の運用方法の相違から対立、隊長を解任された。飛行隊はその後迎撃で消耗し全滅する。

初めての夜襲部隊の編成と消耗

異動先の302空司令の小園安名大佐は美濃部のアイデアを受け入れ夜襲部隊の編成を許可、ようやく夜襲部隊が編成されることとなる。部隊は零戦と夜間戦闘機月光を装備していた。攻撃法はまず部隊を索敵隊と攻撃隊の2つに分け、敵艦隊の発見後更に攻撃隊を銃撃隊、爆撃隊の2つに分けて発進、航空母艦から艦載機が飛び立つ前に攻撃する、というものだった。1944年7月の初出撃こそ悪天候により損害を出すが、フィリピン方面に進出した同年9月には敵機動艦隊を攻撃、至近弾を与えさらに10月にも攻撃を敢行する。ただし既に旧式化していた月光では損害も続出、パイロットも当初の1/3にまでなってしまった。

急降下爆撃機彗星と芙蓉部隊

消耗した部隊の再編成のため静岡県藤枝飛行場に引き上げた部隊は、零戦と共に、既に生産中止で数が揃わない夜間戦闘機月光に代わるものとして各地で大量に放置されていた急降下爆撃機彗星一二型を集めて訓練を再開した。彗星一二型は水冷型のアツタ32型エンジンを用いていたため技術力の劣る日本で整備、運用するには手に余る代物であり、エンジンは問題続出、稼働率も悪かった。そのため、空冷型の金星62型エンジンに換装された彗星三三型が量産されると、彗星一二型は第一線の艦上爆撃機部隊の運用から外されることとなった。ただし高速で夜間飛行にも問題は無かったため、そこに美濃部少佐は目をつけ、さっそく自らの部隊で運用を開始した。

美濃部少佐は、機体と扱いの難しい水冷型アツタ32型エンジン整備のため徳倉大尉以下の整備担当者を製造元の愛知航空機へ派遣するなど彗星の整備方法を習熟させ、稼動率を彗星80%、零戦90%にまで上昇させた。徳倉大尉らは、廃棄される予定だった彗星の残骸から部品を取り、新しく彗星を作ることもした。結果、満足に一定の機体を揃える事が出来ない日本の中では(ソロモン、マリアナ沖海戦や台湾沖航空戦で大量に飛行機を損失していた)突出した存在になっていた。

また、パイロットの訓練は効率を第一にして実用的なことのみ徹底して教えたため、訓練時間を約1/3にまで短縮することに成功し、武装でも対地・対空用の仮称三式一番二八号爆弾(ロケット弾)や空中で爆発して爆風や破片で周囲に被害を与える三一号光電管爆弾など、特殊爆弾を積極的に採用した。三式一番二八号爆弾(ロケット弾)に至っては、制式採用前の時点で、「暴発の危険性がある」との造兵側の意見にも関わらず、「特攻まで出るこの時期、ある程度の危険は仕方ない」として部隊に導入している程である。

1945年1月、戦闘804(彗星一二型)、812(彗星一二型)、901(彗星一二型、零戦五二型)の3個飛行隊を統合した独立飛行隊の編成が許可された。この部隊の名称には富士山の別名“芙蓉峰”からとった芙蓉隊(のちに芙蓉部隊)が用いられた。これは部隊の根拠地となった静岡県藤枝基地から富士山がよく見えたことにちなんで美濃部少佐自身が命名したものであるが、第三航空艦隊長官の寺岡謹平中将の揮毫による隊旗まで作られた。この名称はあくまでも愛称であり、非公式なものであったが、戦果を挙げるにつれ後に公式文書にも使われるほどになった。

小艦艇や飛行機場攻撃に於いて、粘り強い通常攻撃を反復した芙蓉部隊であったが、本土に来襲する機動部隊に対して使用する戦法は、「未明に索敵機が空母を発見すると、位置を通報した後、飛行甲板に体当たりして発艦を不能として攻撃力を奪う(夜襲では艦船に対しての通常爆弾による通常攻撃は、まず期待出来ない。それは以前の月光による艦船夜襲で明白であった。)、その後の夜明け時、索敵機の知らせた地点に到着した第二波以降が通常攻撃を反復する」と言うものである。この戦法は特攻を前提としており、実際に美濃部は昭和20年2月17日の出撃で特攻を指示している。ただし、この時に敵は見つからなかった為、特攻攻撃は無かった。

なおこの時期、芙蓉部隊が第二御盾特別攻撃隊の名称で特攻隊になるという噂が流れたが、美濃部は「うちの隊から特攻は出さない。夜間作戦が出来る人間が少ないので、あとがなくなってしまう」と否定している。

特攻主体の沖縄戦

1945年3月、沖縄戦が開始された。この戦いに於ける日本軍上層部の航空運用方針はただ一つ、「特攻による敵水上部隊への打撃」であった。

沖縄戦に先立つ2月4日、軍令部総長官邸にて研究会が開かれ、沖縄周辺に来攻することが予想されるアメリカ軍機動部隊の攻撃に対する話し合いがなされた。この時点で日本軍の航空兵力は不足しており、実用機と同時に練習機を特攻に加える案が提出される。このときの幹部の発言において「行けばたいてい命中す」「練習生が練習機で特攻をやる方法の研究を要す」「『白菊』多数あり。これが戦力化を要す」との意見があった。これを下敷きに、2月中旬には練習航空隊から特攻部隊を編成する案がまとまった。攻撃力の主体を特攻に依存し、さらに練習機を投入すれば、航空戦力として計算できる機数は激増した。2月下旬の段階では、特攻は実施にほぼ決定されていた。

2月下旬、木更津基地において、三航艦司令部は擁する9個航空隊の幹部を招集し研究会を実施した。ただしここでの研究とは名目であり、軍令部による既定の方針を念押しするものに近かった。三航艦は特攻を主体とするという説明に対し、美濃部は、劣速の練習機を投入しても、敵戦闘機の多重の防御陣を突破することは不可能であると反論した。意外な反論を受けた参謀は「必死尽忠の士が空を覆って進撃するとき、何者がこれをさえぎるか!第一線の少壮士官が何を言うか!」と怒鳴りつけた。

これに対し美濃部は、階級差も省みず並みいる人々(この時点で美濃部は成り立ての少佐であり、末席であった)に向かって、「現場の兵士は誰も死を恐れていません。ただ、指揮官には死に場所に相応しい戦果を与える義務があります。練習機で特攻しても十重二十重と待ち受けるグラマンに撃墜され、戦果をあげることが出来ないのは明白です。白菊や練習機による特攻を推進なさるなら、ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦一機で全部、撃ち落として見せます」と言い切った。

美濃部は、続けて夜襲戦法による通常攻撃の継続を提案した。彼のそれ以前とその後の行動からも立証されるが、彼は単に情緒的な見地から特攻に反対したのではなく、夜襲戦法という通常攻撃手段がまだ残されていて、彼の部隊ではそれが可能であり、特攻を否定する事により特攻よりも大きな戦果を出す事が出来ると言う、部隊状況から芙蓉部隊の特攻作戦投入に反対したのであった。これにより芙蓉部隊は特攻を免除される一部の部隊(三四三空、三◯二空、六三四空など)に加えられる事となった。

沖縄戦における芙蓉部隊の夜襲戦法の継続

1945年4月1日、アメリカ軍は沖縄本島に上陸を開始した。これに先立つ3月30日と31日、部隊は鹿児島県鹿屋基地へ進出した。芙蓉部隊は敵機動部隊の索敵につとめた。また4月6日の菊水一号作戦に出撃し、彗星6機と零戦4機が沖縄本島に到達、嘉手納海岸周辺の輸送船と巡洋艦に黎明攻撃を加え、仮称三式一番二八号爆弾(ロケット弾)を命中させたほか、銃撃に成功した。これは日本側全出撃機の通常攻撃(特攻を除外)中で唯一の戦果であった。搭乗員は午前3時に鹿屋を出撃した。作戦行程は往復1,400km以上の飛行(レーダーをごまかすなどの途中変針などを含めれば1,700km程度)が要求され、かつ往路は暗闇であった。未帰還機は出撃15機中2機である。これにより美濃部少佐の夜襲戦法の有効性が実証された。

進撃するアメリカ軍は嘉手納飛行場を奪取した。これを受け、芙蓉部隊は4月12日の菊水二号作戦には飛行場攻撃に出撃、滑走路の爆撃には成功したものの16機出撃して9機を喪失した。これは芙蓉部隊の一度に受けた最も多い損失であった。こののち、芙蓉部隊は索敵攻撃に従事、未明から早朝にかけて敵機動部隊を索敵した。この出撃でレーダー搭載の夜間戦闘機F6F-5N“ヘルキャット”の攻撃を受けた機があったものの、全機が生還を果たした。

4月16日、芙蓉部隊は菊水三号作戦に参加した。目標はアメリカ軍の手に落ちた嘉手納の中飛行場、および読谷村にある北飛行場である。零戦と彗星、出撃10機中6機が到達に成功。午前4時20分早朝、滑走路に銃撃を加え、250kg爆弾の投弾に成功した。未帰還は1機。

芙蓉部隊は半月でパイロットの1/3を失うも、夜間攻撃を継続し続けて多大な損害を与えた。ここに来てようやく部隊の有効性に気づいた上層部は積極的に部隊を支援した。第二陣として彗星12機と零戦4機が補充され、さらに熟練整備員10名が追加された。これにより芙蓉部隊の彗星稼働率が上昇していく。4月20日から26日にかけて延べ38機を索敵に出撃させているが、うち故障で引き返した機体は2機にとどまった。さらに芙蓉部隊は第三陣として15 機を補充し、菊水四号作戦に臨んだ。

4月27日から実施された菊水四号作戦では、芙蓉部隊は主力を務めた。この作戦初日において、芙蓉部隊は27日夜から28日早朝にかけ、第一次から第六次までの波状攻撃を行った。出撃機数は35機である。午後7時34分に第一次攻撃隊が出撃、3機中2機の彗星が到達に成功した。彗星は猛烈な対空砲火を抜け、全速で突入。北飛行場に250kg爆弾を投下し全機生還した。第二次攻撃隊の零戦2機は艦船を銃撃、1機未帰還。第三次攻撃隊は4機中3機が引き返した。単騎攻撃を続行した彗星は中飛行場の爆撃に成功、被弾して鹿児島湾に不時着し乗員は生還した。第四次攻撃隊は午後10時から8機出撃、敵夜戦の警戒を突破した5機がそれぞれ中・北飛行場に投弾。伊江島飛行場にも爆撃を加えた。1機が未帰還となった。

第五次攻撃隊の零戦6機が午前0時25分に出撃、 1機が引き返した。慶良間列島で舟艇を銃撃。さらに係留されていた飛行艇を撃破した。未帰還は1機。第六次攻撃隊は彗星12機が参加して10機到達、数分間隔で飛行場に光電管爆弾と250kg爆弾を叩き込んだ。2機が未帰還となった。4月28日夜にも三次にわたり17機が参加。うち彗星4機が不調により引き返した。一次攻撃隊は爆撃に成功して全機生還、第二次攻撃隊の零戦は4機出撃して2機が未帰還。第三次攻撃隊の彗星は1機が被弾して不時着した。4月 29日~30日の夜襲においては、敵夜戦をおびき出した後、燃料切れになったころを狙って飛行場を襲撃した。14機が作戦に参加。欺瞞紙を撒いたのち、9 機が突入した。折悪しく沖縄上空には煙霧が漂い、攻撃の効果は薄かったものの投弾。彗星1機が北飛行場に爆撃したほか、零戦が敵空母を襲撃した。

菊水五号作戦では5月3日から出撃を開始。三次に分けて18機出撃したものの連日の作戦による酷使、被弾損傷がたたり、発進中止と引き返しが多発した。沖縄本島に到達した8機は銃爆撃に成功し、1機が未帰還となった。5月5日零時の出撃は悪天候に阻まれ、14機中10機が引き返した。4機の彗星が突入、北飛行場と伊江島飛行場に爆撃を加えた。この攻撃で1機が未帰還となった。7日未明には7機が出撃、北飛行場への25番三号爆弾の投下に成功し全機生還した。

5月8日からの菊水六号作戦では悪天候のため出撃を中止。5月10日には損害なく2機の彗星が北飛行場滑走路へ投弾に成功した。5月11日、天候不良をついて3機の彗星が飛行場を攻撃し1発命中。5月12日は種子島、屋久島の南に配置されたレーダーピケット艦の索敵攻撃を実施。彗星が駆逐艦のかわりに敵潜水艦を発見して爆撃した。搭乗員は多量の油が浮くのを確認、おおむね撃沈確実と報告している。さらに敵夜戦が出現し、空母が接近していると考えられたため、11機を索敵と攻撃に出撃させた。しかし、F6F夜戦の迎撃により彗星1機が未帰還、さらに1機が墜落事故を起こして大破した。芙蓉部隊は翌日にも空母攻撃を企図して索敵を行うが、夜戦に阻まれ1機が撃墜された。

その後も攻撃は継続するが、アメリカ軍が夜襲部隊への対策としてF6F夜戦を配備したため攻撃の継続は困難になり、部隊は5月末に鹿児島県の岩川基地に移動した。さらに零戦6機と彗星15機が補充された。岩川基地は滑走路に昼間のあいだ牛を放牧したり移動式の小屋を設置して牧場に見せかける等の徹底したカモフラージュをしていた為に一度も空襲を受けず、芙蓉部隊は敵機の攻撃による機材の消耗を免れることができた。さらに機体は着陸後ガソリンを抜き、林の中に引き込んだ上、樹枝で偽装を施した。

芙蓉部隊は菊水七号作戦に参加、5月25日の未明に出撃し、機動部隊の索敵と攻撃に当たった。270キロ~560キロの索敵線を設定したうえで夜間進出したものの、この出撃では敵を発見できず、全機が生還した。5月27日未明には対潜掃討を実施。零戦が敵潜水艦を発見し銃撃した。機位を失ったらしき彗星1機が未帰還となった。

菊水八号作戦は5月27日から開始された。28日、悪天候を押して芙蓉部隊の彗星2機が沖縄に到達、1機が三十一号光電管爆弾を北飛行場に投下。全機生還した。5月31日、芙蓉部隊は後方の藤枝基地から彗星9機と零戦2機の補充を受け、戦力は彗星37機、零戦16機となった。まさしく彗星を主用し、使いこなした部隊であった。

6月以降は沖縄が梅雨に入り、悪天候のため菊水九号作戦は6月7日まで延期された。6月8日未明、芙蓉部隊は彗星10機で伊江島飛行場を爆撃、悪天候をついて4機が突入し250kg爆弾を投下。三か所に火の手が上がり、燃料集積所に命中したと推定されるほど激しく炎上した。6月9日には彗星10機中 6機が到達、敵夜戦の追及をかわして光電管爆弾を投下した。誘爆を確認したものの、彗星2機が未帰還となった。6月10日夜、芙蓉部隊所属の彗星夜戦(一二戊型)は同じ夜間戦闘機であるアメリカ軍のP-61“ブラックウィドー”を斜銃で撃墜するという、変わった戦果を挙げた。夜間制空に7機が出撃、うち1機の彗星が敵夜戦を発見。反航戦で撃ちあった後に離脱し、同航戦に持ち込んだのち、斜め銃で撃墜した。この出撃では1機大破、1機が未帰還となった。

6月21日、菊水十号作戦が発動され、芙蓉部隊は16機を出撃させた。沖縄上空は一面雲が張り詰める悪天候であり、雲上からの爆撃を余儀なくされた。この攻撃では1機が不時着し、2機が未帰還となった。6月22日、菊水作戦は終了した。23日には第32軍司令官牛島満中将が自決、沖縄戦は終了した。しかし芙蓉部隊の沖縄に対する夜間爆撃は続行された。

6月25日、白菊と零式観測機が行う夜間特攻の援護のため芙蓉部隊は出撃。14機が敵夜戦哨戒、各飛行場の陽動攻撃に従事した。このうち5機の彗星が光電管爆弾と60kg爆弾を飛行場に投下し、夜戦の追尾を振り切って全機生還した。

芙蓉部隊は天候の悪化が一段落した7月3日午前1時、彗星14機で対夜戦哨戒と伊江島飛行場爆撃を実施した。しかしこの攻撃は敵夜戦に阻まれ、2機が未帰還となった。7月4日と5日に対夜戦攻撃を実施、会敵するも戦果を得なかった。また撃墜される機が少なかったのは、高速で蛇行、急降下する日本機を追うにはP61は大柄すぎて機動力に欠け、F6Fは1人の操縦手がレーダー操作と操縦と照準を兼ねて飛行するには負担が多すぎたためである。

7月15日夜に悪天候を冒して6機が出撃したが会敵せず、18日に10機が出撃するも、夜戦と故障、悪天候に阻まれ、3機のみが沖縄に到達した。うち北飛行場へ光電管爆弾を投下した彗星は、2か所が炎上するのを確認した。この攻撃では彗星2機が未帰還となった。23日と25日に潜水艦攻撃を実施。出撃した零戦が潜水艦を発見、銃撃を加えて小破させた。7月28日、芙蓉部隊は29機を投入し、北飛行場と伊江島飛行場爆撃、敵夜戦哨戒、潜水艦攻撃を実施した。爆撃任務14機のうち、敵夜戦の哨戒をすり抜けた彗星4機が投弾に成功、光電管爆弾を滑走路に命中させて4か所を炎上させた。さらに全機が生還した。翌7月29日には14機で索敵と伊江島攻撃を実施。この出撃では1機が洋上に不時着し、1機が着陸時に大破した。

8月中の芙蓉部隊の出撃記録は残されておらず、判然としないものの、悪天候でなければ沖縄飛行場攻撃、対潜掃討、索敵に十数機を出撃させていた。これは最後の夜戦に向けて機数を絞ったためである。この間の戦いでは、鹿児島に進行中の敵重爆4機編隊を発見した彗星が、25番の三号爆弾を投下、重爆3機を撃墜している。芙蓉部隊は出撃を重ね、8月8日に彗星2機が失われた。12日と14日にも沖縄飛行場爆撃が実施された。14日夜の出撃で彗星1機が未帰還となった。芙蓉部隊は終戦まで、延べ630機を出撃させた。損害は零戦12機、彗星35機、未帰還隊員は76柱であった。沖縄決戦で投入された陸海軍特攻機 1900機のうち、突入自爆した隊員たちは、1人たりとも帰ることはできなかった。

終戦降伏と芙蓉部隊の戦後

部隊は戦争最末期まで通常攻撃を継続したが、さすがに米軍による九州上陸が噂されるようになると、「これ以上の通常攻撃は無理」として、部隊に残存する可動機40余機による特攻の演習まで計画されたほどだった(ただし、特攻出撃の際の空中指揮は美濃部自身である)。美濃部は、ヒューマニズムの点から特攻を否定したのでは無く、適切な通常攻撃法を採用できれば、高い士気を維持しつつ、搭乗員を極力生還させることにより実戦での練度を向上させてゆき、そして練度の向上した搭乗員による反復攻撃によって特攻より大きな戦果が可能であるために、合理的見地から特攻を否定したのである。

よってこれ以上の通常攻撃ができなくなれば、最大の戦果を上げる手段として特攻を採用し、最後の出撃を敢行する(そして、その際は美濃部自身が指揮官機に乗って先頭になって死地に赴く)ことは美濃部としては合理的選択であった。8月15日、終戦。部隊は、一時は厚木基地の徹底抗戦の表明に呼応するような動きを見せるも次第に落ち着きを取り戻し、美濃部の説得もあり平穏に終戦を受け入れた。なおも徹底抗戦を唱える部下に対し美濃部は、「詔勅が出た以上、私に部隊の指揮を取る資格はない。納得できなければ私を斬ってから出撃せよ。」と言って説得した。

そして、部下たちには部隊の飛行機を用いて復員することを許可したのだった。この飛行機による復員で、美濃部は後に国際法違反の嫌疑を掛けられたが、「全ての武装を撤去した上での復員であった」と釈明し不問となっている。こののち、美濃部は航空自衛隊に入隊し、空自幹部候補生学校長などを勤め上げ空将にまで登りつめた。徳倉は、彗星の整備や再生で得た経験を基に建設会社を興し財を成した。

同様戦法の航空部隊

第六三四海軍航空隊が、芙蓉部隊と同時期にフィリピン・沖縄で水上偵察機「瑞雲」(実質的には水上戦闘爆撃機)による艦船・飛行場への通常夜襲攻撃を行っており、「秘匿基地から発進した水偵搭乗員によるゲリラ的夜襲」という両者の戦法は極めて類似している。また、当時の日本海軍では、航空機による特攻はコンセンサスを得ていたが、それは機動部隊に対する攻撃法としてであり、特攻の目標を輸送船・小艦艇や飛行場とすることに対しては反対意見が大多数であった(輸送船を空母と誤認、小艦艇を戦艦と誤認して体当たりした例は多数ある)。六三四空以外にも、以下に数例をあげる。

(1)桜花装備の第七二一海軍航空隊ですら、桜花を沖縄の飛行場に突っ込ませると言う作戦案については、猛反対で取り下げられた程である。
(2)潜水艦掃討が本来の目的である第九〇一海軍航空隊は戦争末期に夜間の対艦船攻撃(輸送船・小艦艇などが目標)にも従事したが終戦まで特攻を指示されていない。
(3)昭和20年以降、海軍の主力爆撃機・攻撃機隊であった第七六五海軍航空隊は、主戦法であった沖縄の夜間飛行場攻撃、夜間対船団攻撃には特攻隊を出していない(記録に残っている限りでは、対機動部隊攻撃に2度だけ特攻隊を出した)。

さらに詳しく → 芙蓉部隊  太平洋戦争



特攻とは何だったのか特攻とは何だったのか
(2009/07/18)
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