砂漠の狐ロンメル戦車隊

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2010/01/10(日)
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エル・アラメインの戦いとは第二次世界大戦時にエジプト国境に迫った枢軸国軍と連合国軍の戦いである。第一次会戦は1942年7 月1日から31日。第二次会戦は同年10月23日から11 月3日に行われた。

戦いの背景

ガザラの戦いでトブルク前面の陣地線(ガザラライン)を突破したドイツ軍は、1942年6月18日にはトブルク要塞を包囲した。次に控えるエジプト侵攻を考えると、戦車部隊での突破は難しかった。そこで航空戦力の支援の元、歩兵と砲兵による攻撃を主体とした。十分な安全が確保された後、戦車隊を突入させた。英軍に反撃の余力は無く、20日朝に始まった戦闘は21日朝には終結した。

これが英軍に与えた打撃は大きく、英軍はエジプト領内奥部のエル・アラメインに最終決戦陣地を敷いた。エル・アラメインを占領されると北アフリカの主要な軍港は全て陥落した事となり、これにより輸送船による増援が不可能となるだけでなく、その先にあるエジプトまでもが征服されると、中東の産油地帯はドイツ軍に蹂躙され、同時期にソ連南部コーカサス地方を攻撃していたドイツ軍A軍集団に挟撃され、ソ連の油田まで占領されてしまう恐れがあった。

こうした状況の中でアメリカ軍の本格的な参戦が決定し、レンドリース法(武器貸与法)によってイギリス軍は米国から300輌以上のM4中戦車と大量の航空機の増援を受けた。対するロンメル装甲師団は連戦連勝を収めていたものの、補給の途絶えた中で初期とは見る影もなく消耗しており、戦車はドイツ製のものが90輌[1]、イタリア製の旧式戦車が130輌で残りは鹵獲戦車であった。

ロンメルはせめて弾薬と燃料の欠乏を解決する為に、イタリア軍総司令部と空軍司令アルベルト・ケッセルリンクに戦争継続に必要な物資と1万5000トン以上の燃料を輸送するよう約束させたが、輸送船の到着するベンガジ港から前線まで約900km、最寄のトブルク港からでも約450kmと離れており補給線が延びた為に時間がかかった。トブルク港への輸送は連合軍に制空権を握られている為に輸送船は途中で撃沈され、東部戦線ではスターリングラード攻防戦が起きドイツはほぼ全軍を投じた為、北アフリカ戦線は二の次三の次とされ補給は一向に届かなかった。こうした状態で連合軍の大反攻が開始された。

前哨戦、アラム・ハルファの戦い

アメリカ軍の戦車を大量に陸揚げし、物量に勝る英軍は植民地徴収兵(オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ・インドなど)に、エル・アラメイン前面から南へ向けて堅固なボックス陣地(Cf.ガザラの戦い)を敷かせた。それに対し、ドイツアフリカ軍団ほかドイツ・イタリア枢軸軍の司令官エルヴィン・ロンメルは、英軍陣地ラインはイタリア軍と歩兵に任せ主力の第15、21装甲師団をはるか南から長躯迂回させ地中海側から英軍を包囲しようと8月31日進撃を開始する。

しかし、英第7機甲師団の前衛の突破に手間取る間に、北から英第8機甲師団の一部が、東からは第7機甲師団の主力が圧迫してきた。そこでロンメルは当初の計画をあきらめ、第21装甲師団が防御しつつ第15装甲師団には、さらに迂回してアラム・ハルファ高地に陣取る英軍本陣を突こうとした。しかし補給不足の中、必死に進軍する第15装甲師団の前に現れたのは敵本陣ではなかった。英第22戦車旅団が立ち塞がり、ドイツ装甲師団は敗走した。しかし、この戦いで英軍は枢軸軍を多少押し戻しただけで、決定的な勝利とは言えなかった。

第二次エル・アラメイン会戦

英軍はM4中戦車300両を陸揚げするなど、兵員数・戦車数で枢軸軍の二倍以上の数を集めたが、勝利を確実にするため大規模なカモフラージュ作戦を行った。南方から攻めるように見せかけて実際には北側から攻めることを秘匿するためと、攻撃開始時期が差し迫っていないと思わせるために、偽補給品集積所をはるか南方後方に設置。戦車・大砲は張りぼてを置く一方、本物はトラックに偽装。偽水道パイプラインを南方に延伸した。

10月23日、騙されたドイツ軍はロンメルが持病の治療のために帰国したままで奇襲を受け、代理指揮官のシュツンメ将軍が戦死する。ロンメルは急いで北アフリカに戻ったが、あらかじめ敷いてあった地雷原や構築した陣地も英軍指揮官バーナード・モントゴメリーの巧みな戦術で突破された。物量的に勝利の不可能な戦いでロンメルは善戦したが、戦車不足と敵の物量に追い詰められていった。唯一対抗できるのは88mm高射砲だったが、それも度重なる戦いで24門を残すのみとなった。

皮肉なことに、ロンメル不在の10月23日から11月1日にかけて、連合軍の反攻を効果的に阻害したのは、ドイツ軍がお荷物扱いをしていたイタリア陸軍であった。南部地区を守るフォルゴーレ空挺師団は兵力比1:13、戦車比1:70、歩兵用の対戦車装備は火炎瓶と地雷だけという絶望的な状況にもかかわらず、大胆な肉薄攻撃によって連合軍の戦車部隊に損害を強要し、本格的な攻勢を2度に渡って退けている。イタリア軍部隊の思わぬ抵抗とそれによる損害を知ったチャーチルは「彼らは獅子の如く戦った」と賞賛したと言う。ただし同師団の損害も著しく、DAKと共にイタリア軍がこの地を撤退したときには壊滅状態であった。

11月2日、ロンメルは更なる敵の大攻勢を知り、撤退を決意した。連合軍の猛爆を掻い潜り、主力をフカの防衛線まで撤退させる事に成功した。3日、ロンメルはアドルフ・ヒトラーからの命令を受け取った。内容は「現在地を死守し不退転の決意で戦うべし」というものだった。

最前線にいた将校はロンメルにいかに状況が絶望的であるかを報告した。どの師団も消耗が激しく、兵員は1000を数えれば良い方であった。高級将校すら車輌の不足で徒歩で司令部に向かう有様だった。こうしている間にも連合軍は米国から底なしの増援を受けていた。11月4日にロンメルは総退却命令を出した。連戦連勝を誇ったドイツアフリカ軍団にとって初めての大敗北となった。

以後枢軸軍は次々と防衛線を突破され、アルジェリア、モロッコへの連合軍の上陸作戦(トーチ作戦)の成功により翌年にはチュニジアに追い詰められ、北アフリカから姿を消す。大勝利の知らせを聞いたイギリス首相チャーチルは、「これは終わりではない、終わりの始まりですらない、が、おそらく、始まりの終わりであろう。」と語った。後に「エル・アラメインの前に勝利無く、エル・アラメインの後に敗北無し」と言われる、歴史の転換点となった。

さらに詳しく → 第二次世界大戦  エルヴィン・ロンメル  エル・アラメインの戦い



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