ルーマニア革命は仕組まれたのか

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2010/01/09(土)
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ルーマニア革命(ルーマニアかくめい、ルーマニア語: Revoluţia română)は1989年にルーマニアで発生した革命である。ルーマニア民主革命、ルーマニア政変とも言われる。

概要

1989年、東ヨーロッパ各国の共産党政権が相次いで崩壊した東欧革命において唯一、武力により共産党政権の転覆が行われた。きっかけは大統領のニコラエ・チャウシェスクが命じた民主化デモの武力鎮圧に反対した国防相のワシーリ・ミリャが突然死去(銃撃による死亡)したことから、国軍がチャウシェスクに反旗を翻して民主化勢力を援護し、治安部隊との武力衝突に陥った。革命勢力は1週間で全土を制圧しチャウシェスクを拘束、処刑し非共産党政権を樹立した。

前史

ルーマニアは第二次世界大戦後、ルーマニア共産党による共産主義政権を樹立するも他の東欧諸国とは一線を画し、ソ連とも一定の距離を維持する独自外交を行っていた。これはルーマニアが産油国であり、ソ連に依存しなくても独自に外貨獲得やエネルギー資源の確保が可能だったためである。ソ連や近隣諸国の影響力を排除した結果、国内におけるチャウシェスクの求心力は高まり、「チャウシェスク王朝」とも言われた個人独裁体制を確立した。

しかしながら1980年代に入ると経済政策に失敗し、国内経済の疲弊が始まった。経済の落ち込みは国民の生活にも反映され、独裁政権に対しての不満が日増しに強くなった。こうした状況の中でベルリンの壁が崩壊し、東ヨーロッパ各国の共産党政権が次々と倒れたとの情報がルーマニアにも入ってくると、次第に民主化を求める機運が高くなっていった。これに対してチャウシェスクは情報統制と反政府勢力の弾圧強化を図り、民主化運動への一切の妥協を拒否すると共に政権の維持に固執した。

革命の推移

発端

* 1989年12月16日 - ルーマニア西部の都市・ティミショアラで民衆によるデモが発生。治安警察(セクリタテア)がデモ隊に発砲、多数の死傷者が出る(しかし、後になって近所の病院の死体置き場から盗まれた遺体が現場に転がされていたと言う噂が広まった)。

o このデモは人権活動家でハンガリー改革派教会の牧師テケーシュ・ラースロー(ラースロー・テケーシュ)への国外退去処分に対するマジャル人(ハンガリー人)による抗議デモであった。

o ティミショアラを含むルーマニア西部(バナート地方)はハンガリー国境に近く、1919 年のオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊するまでハンガリー王国の領域であった。ルーマニアに留まったハンガリー系住民に対する政府の扱いはあまり良いとは言えず、マジャル人であるラースローの国外退去処分への抗議とともに待遇改善を求めてデモを起こしたのであった。

勃発

* 12月21日 - 首都・ブカレストで官製集会の最中に爆発事件が発生する。

o ルーマニア共産党本部庁舎前の広場(旧王宮広場)で約10万人を動員したチャウシェスクを称賛する集会が開催された。チャウシェスクの演説が始まって間もなく、ティミショアラ事件に抗議するルーマニア人参加者が爆弾を 2つ爆発させた(実行犯は警察により射殺。 10代の若者2人が爆竹を爆発させたと言う説もあるが詳細は不明なところが多い)。広場はパニック状態に陥り、集会は強制的に解散させられた。なお、この集会は国営ルーマニア放送で生中継されていたがチャウシェスクの演説が始まった直後、群集がパニック状態になっている姿を見てたじろぐ姿が映しだされているところで放送が中止された(その後、放送は再開された)。

o 集会の参加者の一部に大学生・市民の一部が合流しチャウシェスク独裁の抗議集会へと発展した。しかしこの政治集会に対しても治安部隊が発砲、多数の死傷者を出す事態となった。軍隊も動員されたが市民の政権に対する不満は頂点に達した。

o この状態に危機感を抱いたチャウシェスクは国防大臣ワシーリ・ミリャに対し軍隊による群集への発砲を指示した。しかしミリャはこの命令を拒否、チャウシェスクの逆鱗に触れその後ミリャは自室で死体となって発見された。翌日、国営ルーマニア放送は「国防大臣が自殺した」と報じたものの市民には「処刑された」との噂が知れ渡った。軍首脳の中にも国防相処刑説が広がり、大統領に反旗を翻すきっかけとなった。同日夜には軍隊が広場に集まる市民の側に立ち、政府機関(ルーマニア共産党本部等)の占拠が始まった。

崩壊

* 12月22日 - 革命勢力の攻勢は大統領宮殿にまで及びチャウシェスクはブカレストから脱出し政権は崩壊、反体制派勢力は共産党の反チャウシェスク派とともに暫定政権「救国戦線評議会」を組織しテレビ、ラジオ局を掌握した。これにより「国営ルーマニア放送」から「自由ルーマニア放送」と改称される。

o チャウシェスクは非常事態宣言を出し事態に対応しようと試みるが軍隊が革命勢力に参加したことで頓挫、妻のエレナと共にヘリコプターでの脱出を図った。しかし一連の逃亡劇は反体制側に転じた自由ルーマニア放送他、世界各国のマスメディアで映像が流されるお粗末なものであった。その後、首相のコンスタンティン・ダスカレスクは辞任、内閣も総辞職した。チャウシェスク政権時に政権批判をし投獄されていた政治犯も釈放された。その後、夜になるとブカレスト市内各地で反体制派の軍隊と大統領派の治安警察による激しい銃撃戦(市街戦)が発生。多数の死傷者が出る。

* 12月23日 - 前夜からの市街戦は更に激しくなっていく。大統領派は秘密の地下通路などを利用し国軍、市民への発砲を続ける。救国戦線評議会は発砲してくる大統領派を「テロリスト」と呼び市民に協力を要請、大統領派の掃討に出る。また市民も銃をとり大統領派に応戦する。混乱の為、情報が錯綜する中、ハンガリーから軍の派遣要請の連絡を受けるがこれを拒否。また、ソ連(ソ連軍)が事態の沈静化の為に介入するがこれも拒否する。そして救国戦線(国軍)によりチャウシェスク夫妻が逮捕され18時、自由ルーマニア放送(テレビ)で報道された。

o 以前のソ連であれば、(比較的穏健派のフルシチョフが最高指導者の時代でさえ)こうした反政府クーデターへのソ連軍の介入は「問答無用」であり相手国の受け入れの有無はソ連が後から「あったことにする」のが通例だった(例:プラハの春)。しかし、この当時にソ連の最高指導者であるゴルバチョフは自らの新ベオグラード宣言による対外公約を守り衛星国であった東欧の共産国に対しても強権を振るうことはほとんどなかった。

* 12月24日 - ブカレスト市内の市街戦は依然として続く。また、大統領派の逮捕も相次いでいく。

* 12月25日 - チャウシェスク夫妻は特別軍事法廷で大量虐殺と不正蓄財の罪により死刑判決を受け、即日銃殺刑が執行された。

o チャウシェスク夫妻が拘禁されていた軍事基地で秘密警察によるチャウシェスク奪回作戦が敢行され、激しい銃撃戦が展開された。当初は軍事裁判ではなくブカレストに連行して通常裁判を実施する予定であったが、秘密警察の抵抗でチャウシェスク夫妻の扱いを早急に結論付けなければならなくなった。

o チャウシェスク生存説が流布される事を恐れた救国戦線は、チャウシェスク夫妻の遺体を各国メディアに公開した。

* 12月26日 - 救国戦線評議会、新指導体制を発表。暫定政権樹立。同日、チャウシェスク夫妻の処刑が発表される。これを機に大統領派の抵抗も終息していく。

革命後

チャウシェスクの処刑とルーマニア共産党政権の崩壊を受けて暫定的な革命政権である救国戦線評議会による政権運営が行われた後、1990年5 月にルーマニアで初となる多数政党制による自由選挙が行われ、政党に衣替えした救国戦線が勝利を収めた。また後に国民による投票としては初めての大統領選挙が行われイオン・イリエスクが大統領の座に付いた。

他の東欧諸国では、自由選挙の下で多かれ少なかれ旧共産党が議席を獲得した。しかし、ルーマニアでは革命後に共産党が消滅し非合法化された(後に撤回)。ルーマニア共産党関係者は、救国戦線に参加して政治生命を保った。地下に潜伏中ではあるが、ルーマニア社会主義労働者党を名乗る勢力がチャウシェスク体制の復活を目指している。

1999年12 月、革命10周年に当たって行なわれた世論調査によると6割を超えるルーマニア国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答え、同国政府を驚かせた。[要出典]市場経済の停滞と失業者の増加により生活が悪化し、国民の不満が高まる中で各地の工場や炭坑ではストライキが頻発。その参加者の中には、チャウシェスクの肖像写真とともに「チャウシェスク、私たちはあなたが恋しい」といったプラカードを掲げる人も少なくないという。惨殺されるほど嫌われ恐れられた独裁者が、少なくとも最低限度の生活を保障していたことで死後改めて評価されるという皮肉な展開となった。しかし一方でやはり共産・社会主義体制は過去の物と言う観点もあり、「我々はとりあえず自由を手に入れた。次は幸福を手にする番だ」というスローガンも見受けられるなど評価は定まっていないのが実情である。

現在では、革命は「民衆蜂起を利用したチャウシェスク政権内部の共産党官僚による宮廷クーデターだった」という説をはじめさまざまな陰謀説が存在する。 また、いまだに政府中枢には現在も旧共産党系の人物が残り、1000人もの犠牲者を出した革命時の加害者の追及の不徹底など、国民の間では、まだ革命は終わっていないとの声も多く、旧東欧諸国の中でユーゴスラビアと並び、「革命の後遺症」をかかえている。

さらに詳しく → ルーマニア革命 (1989年)  ニコラエ・チャウシェスク  中央情報局(CIA)



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