毛沢東の中国:大いなる実験

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2010/01/09(土)
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毛 沢東(もう たくとう、1893年12月26日 - 1976年9 月9日)は、中華人民共和国の政治家、軍人、思想家。字は詠芝、潤芝、潤之、筆名は子任。中国共産党の創立党員であり、中華人民共和国の建国の父とされている。1949年の建国以来、1976年に死去するまで、同国の最高権力者の地位にあった。近代世界史において大きな業績を遺した人物とみなされており、タイム誌の20世紀の重要人物(Time 100: The Most Important People of the Century)の1人に名を連ねている。中国国内での毛は、詩人、哲学者、そして夢想家と見られている。しかしながら、毛は今日に至るまで論争の的となっている。批評家は、毛の引き起こした大躍進政策と文化大革命のような、中華文化、社会、経済、外交に重大な損害をもたらした社会・政治問題について非難するとともに、彼の政策による犠牲者は数千万と推定している。最終的に、主に農業社会に適用した毛沢東のマルクス主義による理想の導入は、失敗に終わった。

生涯

生い立ち

1893年、清国(中国)湖南省湘潭県韶山村の小作農の家庭にて、父・毛貽昌、母・文素勤の5人兄弟の三男として生まれる。ただし、長男と次男は夭逝したため、事実上の長男扱いであった。毛沢東はその才覚で地主までなりあがった厳格な父によって子供のうちから労働に従事させられつつ、勉学にも励んだ。小学校を卒業後、長沙の中学に通う。弱冠14歳で羅一秀と最初の結婚をするも数年で妻は死去した。なお、中学入学の際に明治維新に関心を持っていた毛は、父に幕末の僧月性の詩(將東遊題壁)を贈り、意気込みを示した。その後、従兄から贈られた中国近代化を説く本に刺激を受けて16歳で故郷を離れ、いくつかの学校や地方軍などを転々とし、アダム・スミスやモンテスキューなどの社会科学系の書物に触れる。

1917 年、孫文の同志だったアジア主義者の宮崎滔天を故郷の湖南省の講演に招待し、日本が欧米白人のアジア支配を打破したことを聞いて喜んだ。毛は日露戦争について米国記者エドガー・スノウに、戦争当時の日本の歌詞を紹介し、次のように告白している(なお左記に紹介する詩が、日露戦争時のものかどうかには諸説ある)。「雀は歌い 鶯は踊る 春の緑の野は美しい ざくろの花は紅にそまり 柳は青葉にみち 新しい絵巻になる 当時わたしは日本の美を知り、感じとり、このロシアに対する勝利の歌に日本の誇りと力を感じたのです」。辛亥革命では、湖南の連隊兵士として入隊する。清朝が事実上崩壊したことにより、毛は軍を除隊して学校へ戻った。

教師時代

1918 年に湖南省立第一師範学校を卒業。1919年の五・四運動の間は、教授で恩師の楊昌済(のち、義理の父親となる)とともに中華民国北京政府の首都である北京へ上京する。楊の推薦により、北京大学の図書館にて館長の李大とともに司書補として勤めるかたわら、『新青年』の熱心な寄稿者となる。毛は同大学の聴講生として登録し、陳独秀、胡適、そして钱玄同のような知識人たちと2、3の講義やセミナーに出席した。上海に滞在中の毛は、共産主義理論を取り入れるためにできる限り読書に従事した。

翌1919 年、帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。この頃、新式学校の設立を計画したり陳独秀や李大と会ったりしており、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。同年、楊の娘で学友の楊開慧と結婚し、岸英・岸青・岸龍の男子3人をもうけた。1930年10 月、蒋介石率いる中国国民党は楊開慧と岸英・岸青を捕えた(岸龍はすでに死亡)。楊開慧は殺害され、その後、息子たちは親類に送り返されている。この頃、毛は江西省出身の女性・賀子珍と暮らしていた。

中国共産党創立

1921 年7月23日、毛沢東は第1回中国共産党全国代表大会(党大会)に出席する。2年後、第3回党大会で中央委員会の委員5人のうちの1人に選ばれた。数年後、国民党の湖南支部を組織するようにという共産党中央委員会と国民党中央委員会からの指示を受けた毛は湖南に戻る。1924年の毛は、国民党の最初の全国大会の代表であり、国民党中央委員会の控えの幹部に選ばれていた。同年、毛は国民党上海支部の幹部・省の書記となった。

毛は指導者の地位を生かして労働組合のオルグに力を注ぐ。毛はしばらくの間、共産党が革命の重要な都市として重視した上海に残った。しかしながら、党は労働組合運動を組織し、民族主義の同盟国との関係を築くという大きな難題に遭遇した。党は困窮し、毛は革命に幻滅を感じて韶山に戻ってきた。自宅にいる間の1925年に上海と広州で発生した暴動を聞いたことで、毛の関心は蘇った。毛の政治的野心は蘇り、第2回国民党全国代表大会の議会の準備に参加するため、国民党の本部がある広東へ向かった。1925年、毛は国民党の宣伝主任代行となった。

1927 年の早期に、毛は緊急会議が開催された湖南へ戻り、蒋介石による北伐に続く農民による暴動の調査に基づく報告書を作成した。これは毛の革命理論の応用の成功に対する最初の決定的な段階と考えられている。

コミンテルンの指導に従って国共合作に重要な役割を果たすが、1927年の上海クーデターで国共合作が崩壊すると、毛沢東は江西省で蜂起(秋収起義)するも失敗、配下の農民兵とともに孤立し、家族とも離れて湖南省と江西省の境にある井崗山に立てこもることになった。この根拠地に潜伏中に賀子珍と関係を持ち、1929年には長女が誕生している。同年、毛沢東は井崗山を去り、瑞金に江西ソヴィエトを建設、「中華ソヴィエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となるが、以後4年間、国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。さらに中国共産党の本部が上海から瑞金に移ってきたことにより、毛沢東はソ連留学組中心だった党指導部によって主導権を奪われ、1932年8 月には軍の指導権をも失った。

第 1次国共内戦-日華事変時代

国民党軍の度重なる攻撃によって根拠地を維持できなくなった紅軍は、1934年10月18日、ついに江西ソヴィエトを放棄して敗走、いわゆる「長征」を開始する。この最中の1935年1 月15日に、貴州省遵義で開かれた中国共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で、毛沢東はソ連留学組中心の党指導部を「極左冒険主義」として批判し、指導部から実権を奪って、新設の中央政治局主席に就任する。1936年秋には陝西省延安に根拠を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示。消耗を防ぎながら抵抗活動を続ける。同年12月12日に西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件(西安事件)でコミンテルンの仲介により宿敵である蒋介石と手を結び第二次国共合作を構築。

1937年に始まった日本軍との間で起きた日華事変では抗日戦線を展開、国民党軍とともに、アメリカやソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助を元に日本軍と対峙する。しかし、日中戦争において日本軍と交戦したのは主に国民党軍で、共産党軍は山奥の延安に隠れながら、朱徳率いる八路軍が日本軍へのゲリラ戦を行う以外は傍観し、力を温存した。なお毛がまとめた持久戦論では日本軍の戦略を『包囲は多いが殲滅が少ない』と批判している。

1938 年には長征時代の妻・賀子珍と離婚し、不倫の上で上海の元女優・江青と結婚した。1940 年には『新民主主義論』を著し、のちの「人民中国」の先見の明を示した。

遵義会議において党の実権を掌握した毛沢東だったが、1942年からの整風運動によって党内の反毛沢東派を粛清していき、党内の支配権を確実なものとした。1943年にはソ連留学組だった中央書記処(現在の中央政治局常務委員会)総書記の張聞天を排除し、同年3 月20日、中国共産党主席に就任して党の最終決定権を獲得した。

第2次国共内戦

1945 年8月の中華民国を含む連合国に対する日本の降伏と、満州国を含む中国大陸からの日本軍の撤退後は、蒋介石率いる中国国民党軍との国共内戦となり、中国人民解放軍を率いて戦うこととなる。中国人民解放軍はソ連からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗により、アメリカ政府からの軍事支援を削減された国民党軍に勝利を重ね、徐州を中心とする大規模な准海戦役に勝利し、1949年1 月には北平(北京)に入城する。同年4 月23日には国民党政府の根拠地・首都南京を制圧した。

中華人民共和国建国

1949年10月1日、毛沢東は天安門で中華人民共和国の建国を宣言した。なお、蒋介石率いる国民党政府は台湾島に移った。同年には、建国後も軍事援助を続けていたソビエト連邦を訪れ、ヨシフ・スターリンと会見している。その後に勃発した朝鮮戦争では、ソビエト連邦とともに北朝鮮を支持して中国人民志願軍を派遣。この戦争で、長男の毛岸英を国連軍の一国であるアメリカ空軍の爆撃で失っている。

独裁化

建国後は国家主席として階級を撤廃した共産主義社会の建設に力を注ぐが、1956年の「百花斉放百家争鳴」運動で、多くの知識人から硬直した政策を批判されたため、これを弾圧するために1957年6 月に反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄した。

さらに「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標とし、1958年に大躍進政策を発動。大量の鉄増産のため、農村での人海戦術に頼る「土法高炉」と呼ばれる原始的な製造法による小規模分散生産を採用し、量のみを重視し質は全く度外視したため、使い物にならない鉄くずが大量に生産された。農村では「人民公社」が組織されたが、かえって農民の生産意欲を奪い、結果的に無謀な生産目標に対し実際よりも水増しされた報告書が中央に回るだけの結果になった。こういったことから大躍進は大失敗し、発動されてから数年で2000万人から5000万人以上の餓死者を出した。

このことで「世界三大大量殺戮者」として、ドイツのヒトラーやソ連のスターリンと共に揶揄されることとなった。この失敗以降毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない独裁的な傾向が強くなっていく。

中ソ対立

スターリン批判や対米政策をめぐり、ソ連共産党第一書記のニキータ・フルシチョフとも不仲となった。1950年代中旬からは中ソ対立が深刻化し、1960年には中華人民共和国に派遣されていたソ連の技術者全員が引き上げたほか、キューバ危機におけるソビエト政府の対応を公式に非難するなど、かつて蜜月であった中ソ関係は一気に冷え込むこととなった。

文化大革命

こうした大躍進の失敗は主席である毛沢東の権威を傷つけ、1959年に国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなり、さらには1962年1月に開催された七千人大会において大躍進政策に対する自己批判をせざるを得ない状況にまで追い込まれた。この大会を機に政治の実権は劉少奇-小平ラインに移ることとなり、毛沢東の実権は大きく低下した。しかし大衆に対する毛沢東への神格化は着実に進められ、毛沢東は密かに奪権の機会をうかがっていた。

1965 年11月、北京市副市長でもあった呉の『海瑞罷官』を「大毒草」であるとした姚文元の「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」の論文が上海の新聞『文匯報(ぶんわいほう)』に掲載、これが端緒となり、1966年5月北京大学に反革命批判の壁新聞が貼り出され、事実上文化大革命が始まった。毛沢東は過激派青年たちの暴力行為に対し「造反有理(謀反には理由がある)」として積極的に支持、自ら天安門広場に赴き、100万名の紅衛兵を煽動し「四旧打破」のスローガンを打ち立て、運動は全国の学生ら、青年層に拡大した。

これらにより、江青や林彪らを中心とし、実権派(経済政策の柔軟化を唱える党員は「走資派」という蔑称のレッテルを貼られた)・修正主義者(「スターリン批判」をきっかけに個人崇拝を厳しく戒め始めた当時のソ連共産党・フルシチョフ路線に倣い、毛沢東個人崇拝見直しと代替権力として党官僚強化を唱えた党員をこう呼称した)として糾弾する広汎な暴力的大衆運動である「プロレタリア文化大革命(文革)」への流れが決定付けられた。この頃個人崇拝の対象に祭り上げられた毛は「偉大的導師、偉大的領袖、偉大的統帥、偉大的舵手、万歳、万歳、万万歳」と称えられていた。

文化大革命では、紅衛兵による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇(1968年に失脚)ら中央指導部にまでおよび、教師ら「知識人」や、中国国民党と少しでも関わりのあった者を徹底的に迫害、文化財を破壊する等の極端な「左」傾偏向主義運動に発展し、その犠牲者の合計数は数百万数千万とも言われている。この流れの中、毛沢東の奪権目標であった劉少奇・小平らの「実権派」は次々と打倒されたが、紅衛兵組織は互いに抗争を始め、毛沢東ですら統制不可能な状況に陥った。これを受け1968年毛沢東は学生たちの農村への下放を指示した。1971年の林彪事件以後、人材難から小平らかつて失脚した者を政権内に呼び戻しポストを与えた。

米中接近と日中国交締結

毛沢東が世界に注目された最後の事件は1972年2 月18日、北京における毛沢東=ニクソン会談である。この日、すでに椅子から立つのにも苦労するほど健康状態が悪化していたにもかかわらず、毛沢東はニクソン大統領と握手し、同盟各国の頭越しに首脳会談による関係改善を成し遂げた。これに先立つニクソンの訪中予告は全世界の驚愕を呼び起こし、金ドル交換停止とともにニクソン・ショックとも呼ばれる。ただし、米中が国交を樹立するのは毛沢東の死後、1979年になってからである。

なお、この米中接近は冷戦下でソ連を牽制する必要があるアメリカと、同じく1960年代以降ソ連との関係が珍宝島事件(ダマンスキー島事件)などで悪化していた中華人民共和国双方の思惑が一致したものであった。「将来的に、資本主義国のアメリカは衰退し、社会主義体制によって発展するソ連こそが最大の脅威となるであろう」と毛沢東は予測していた。

その後、1972年アメリカの同盟国である日本の首相(当時)の田中角栄もニクソンのあとを追うように訪中して首脳会談を行い、国交を樹立(「正常化」)する。毛沢東が田中と面会したのはわずかな時間であったが、毛沢東は単に訪中しただけでなく、一気に国交を結ぶまでに進めた田中の決断力を「ニクソン以上のもの」と評価していたといわれる。なお中華人民共和国も中華民国も二重承認を認めないため、日本はこれまで国交を結んでいた中華民国との国交を断絶した。

死去

ニクソンとの会見後に毛沢東が筋萎縮性側索硬化症に罹患していることが発見された。医師らが懸命の治療を行ったが、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛の体力を奪っていった。

その後も医師らによる懸命な治療は続けられたものの、1976年9月9日0時10分、北京の自宅で側近と主治医に見守られる中、毛沢東は82歳で死去した。毛沢東の死の直後に腹心の張春橋、江青、姚文元、王洪文の四人組は逮捕・投獄され、文化大革命は事実上終結した。遺体は現在、北京市内の天安門広場にある毛主席紀念堂内に安置され、永久保存、一般公開されている。

死後

毛沢東の死去後、江青ら四人組を逮捕失脚させて党主席に就任した華国鋒は「二つのすべて」(毛沢東の指示は全て守る)の方針を打ち出した。これは文革路線を継続させ、毛沢東の指示によって地位剥奪された人々を復権させないことを意味した。

小平はこれに対して「毛主席の言葉を一言一句墨守することは、毛沢東思想の根幹である“実事求是”に反する」との論法で真っ向から反駁した。党と軍の大勢は小平を支持し、その後小平が党と軍を掌握した。華国鋒は失脚して実権を失い「二つのすべて」は否定され、毛沢東の言葉が絶対化された時代は終わった。また党主席のポストが廃止され、存命指導者への崇敬も抑制され、毛沢東のような絶対的個人指導者を戴くシステムの否定が印象付けられた。

毛沢東思想として知られる彼の共産主義思想は、海外、特にインド以東のアジアとラテンアメリカの共産主義者にも影響を与えた。内政においては、大躍進政策の失敗や文化大革命を引き起こしたことにより数千万とも言われる大多数の死者を出し、国力を低下させたが、「中華人民共和国を建国した貢献は大きい」として、その影響力は未だ根強く残っている。しかし文化大革命で失脚した上に迫害された小平らの旧「実権派」が党と政府を掌握した状況下で、大躍進政策や文化大革命は「功績第一、誤り第二」である毛沢東の失敗とされた。

その後の評価

毛沢東の存命中は、国歌義勇軍進行曲の歌詞が毛沢東の偉大さを讃えるものに改変された時期もあったが、死後間もなく元々の歌詞に回復され、国歌での毛沢東への言及はなくなった。

しかし、毛沢東の尊厳を冒すような行為は許されないというのが、現在の中国国内における一般認識である。たとえば六四天安門事件直前の天安門前広場での民主化デモのさなかに、一参加学生が毛沢東の肖像画に向かってペンキを投げつけたところ、ただちに周囲の民主派学生らに取り押さえられ、「毛主席万歳!」の声が沸き起こったと報道された。

一般に文革を経験した世代は毛沢東を手放しで賞賛することは少ないが、直接文革を経験していない若い世代はそれほど警戒的ではないとされる。六四天安門事件の後、生誕100周年に当たる1993年前後に毛沢東ブームが起こったのをはじめ、関連商品などが何度か流行したこともある。

毛沢東の言葉・思想

日中戦争時代の毛沢東の言葉
「戦争という巨大な力の最深の根元は、人民の中に存在する。日帝がわれわれを迫害し得る大きな原因は、中国人民の側が無秩序・無統制であったからだ。この弱点を解消したならば、日帝侵略者は、われら数億の目覚めた人民群の目前にて、一匹の野牛が火陣の中に放られた如く、われらの恫喝により彼らは飛び上がらん如く脅かされるであろう。この野牛は必ず焼き殺さねばならぬ」

毛沢東は「道は自分で切り開くもの」と過去の歴史の指導者と同じことをしようとは考えてはいなかった。ある時、護衛の者と山登りした際も昇ってきた道を引き返して下りようとはせず、別の道を見つけて下ったという逸話がある。

1964 年7月、日本社会党の佐々木更三率いる訪中団が毛沢東と会見した際に、過去の日本との戦争について謝罪すると、毛沢東は「何も謝ることはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。これのおかげで中国人民は権力を奪取できた。日本軍なしでは不可能だった」と返した。この発言をした1964年は大躍進政策の失敗後であり、文化大革命の前夜であった。毛沢東は、日本人を「日本軍国主義者」と「日本人民」に分けて考え、後者と統一戦線を組み、第三の革命とされた日本人民革命を起こさせようと考えていたという。

読書

毛沢東は大の読書好きで、中南海の邸宅には約70万冊の本が収集されており、とくにお気に入りの本は寝室に置かれていた。主に歴史関係の本を好み、特に中国史(歴代王朝二十四史や三国志)を愛読していた。

さらに詳しく → 毛沢東  中華人民共和国  文化大革命  蒋介石



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(2005/11/18)
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