映画 南京の真実 記録映画編と証言編

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2010/01/08(金)
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南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)は、日中戦争(支那事変)初期の1937年(昭和12 年)に日中間で行われた南京攻略戦後、日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間 - 2ヶ月にわたって中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件。なお、この問題は事実存否や規模、殺害人数などを巡って現在でも議論が続けられている。

名称

東京裁判で初めて名称が登場した際には「南京暴行事件」と呼称され、その派生名として「南京虐殺事件」という呼称もなされた。「南京大虐殺」という名称は本多勝一が「中国の旅」の中で使用したのが最初とされ以降広まった。今日の歴史教科書では単に「南京事件」と表記されることが多い。「南京虐殺」という表記も多い。

中華人民共和国では南京大屠殺と呼び、欧米ではNanking AtrocitiesあるいはRape of Nankingと呼ぶ。南京事件という呼び方は、不法殺害の他に暴行・略奪・放火の意味も含めて事件全体を広く論じる場合によく使われる。この事件を「南京大虐殺」と呼ぶことは日本では大虐殺説との混同によって議論の混乱をまねいていることが多い。

事件の概要

南京攻略戦

1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に破れた中国軍は撤退を始め、当時、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地)を構築し、抗戦する構えを見せた。日本軍は、撤退する中国軍に対し追及を始めたが、兵站が整わない、多分に無理のある進撃であった。日本軍は、中国軍の複郭陣地を次々と突破し、12 月9日、南京城を包囲し、翌日正午を期限とする投降勧告を行った。中国軍がこの投降勧告に応じなかったため、12月10日より日本軍の総攻撃が始り、12月13日、南京は陥落した。

残虐行為について

日本軍入城以前の南京は、日本軍の南京接近にともなって南京市民が恐慌状態となり、親日派の中国人、日本人留学生などを「漢奸狩り」と称して中国人が虐殺する事件が相次いでいた。日本軍は、南京への進撃中から諸種の残虐行為を行ったと言われ、南京周辺の町村において、被害の報告が挙げられている。また、1937年12月13 日の南京陥落の翌日から約6週間にわたって行われた南京城の城内・城外の掃討でも、大規模な残虐行為が行われたと言われている(城内は主に第16師団(師団長:中島今朝吾)が掃討を行った)。

市民への虐殺

市民への虐殺については、そのことを直接指示する命令書は確認できない。ただ、戦闘に参加した日本軍将兵の一部が後に、女性、子供を含めた市民を無差別に殺害するような指示があったと証言をしている。中国人側からも、理由もなく暴行を受けたり、家族や周辺の人々が殺害されたと証言が出ている。

当時南京に残留して南京国際安全区委員長を務めていたジョン・ラーベは、安全区の警護のために残されていた中国軍や発電所の技術者が、日本軍によって大量殺害されたことを記録に書き残している。ただし、ドイツ大使館やイギリス大使館など、報告する大使館によって被害者数が6万人から50人以下まで報告の内容がころころ変わっている上、全て伝聞の情報を元にした数字であって本人は一度も虐殺とされるものを目撃していないことから、信憑性を疑う説もある。

捕虜・投降兵の虐殺

第16師団長である中島今朝吾中将は、日記において、「捕虜ハセヌ方針」、即ち捕虜を取らない方針であることを書いている。この方針に基づいて、南京城内外での掃討で、中国軍の中の多くの捕虜や投降兵が殺害されたのではないかと見られている。南京の北方に位置する幕府山では、山田支隊(第65連隊基幹、長・山田栴二少将)が捕虜約14,000名を殺害したと言われている。山田少将は上部組織からの命令があったことを日記に書いているが、最終的な虐殺と数字については疑問視されている。南京北部の下関では、捕虜が収容された後に殺害され長江に捨てられたことが、日本側、中国側、そして残留外国人の記録や証言に示されている。第114師団第66連隊第1大隊の戦闘詳報では、旅団命令によって捕虜を殺害したことが記録されている。

外国メディアによる報道

この事件は主に軍人や外国の情報に触れる事の多かった外交官などに南京の欧米人から報告がなされている。(前者の代表的な例としては陸軍中将 岡村寧次関係の記録が、後者の代表的な例としては外務省欧亜局長 石井猪太郎の日記が、それぞれ挙げられる)軍人が戦地から内地に宛てた手紙がもとで日本国内でも流言になっていたという説もある。また、日本の外へ目を向けてみると、アメリカでは『シカゴ・デイリーニューズ』や『ニューヨークタイムズ』、中国では『大公報』などのマスコミによって“Nanking Massacre Story”,“The Rape of Nanking”,“Nanking Atrocities”として報道されていた。南京に在留していたジャーナリストは日本軍の南京占領後しばらくして脱出したため、事件の全容が報じられたわけではないが、事件初期における日本軍が行ったとされる殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為がほぼリアルタイムで伝えられていた。無線が日本軍によって管理されていたため、彼らは南京を脱出して日本軍の占領後に行なわれたとされる略奪や殺人を船舶の無線を使って報道した。

ただしこれらの報道にも反論があり、まず外交官への報告であるが唯一確認できる報告がイギリス人外交官の外電でありその内容は「頻発する殺人」と伝えているが当時南京の欧米人が目撃した殺人事件は存在せず全て中国人からの伝聞によるものであるため虚偽報告の可能性が指摘されている。虚偽報告を伝えた要因として当時の中国政府から大量の献金を受け取りそれにより買収され反日的報道をした可能性が東中野らの研究で明らかになっている。

渡部昇一の主張によれば欧米人は便衣兵や攪乱兵の存在を知らずそれらの掃討を市民の殺害と誤認した可能性があると指摘されている。また当時『ニューヨークタイムズ』に掲載された「南京虐殺の証拠写真」とされる写真も虚偽写真の可能性が指摘されている。無線を通じた報道も全て中国人からの伝聞をもとにして報道していたためその正確性には問題があるという主張もある。また内地への手紙も手紙自体は確認できるもののその正確性や信憑性に疑問が呈されている。(例えば虐殺行為を内地へ手紙で送ったとしても検閲で落とされるため。)

また上海から南京まで追撃される中国軍に従軍していたニューヨークタイムズのティルマン・ダーディン通信員は、1989年10月号の「文藝春秋」においてインタビューに答え、「(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)なかった」と断言し、「私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません」と述べていることが伝えられている。

被害者数と事実在否について

犠牲者数などについては中国側の主張である30万人説から日本国内の10数万人説、数万人説、数千人説、そして否定説が存在する。論争については、南京大虐殺論争を参照のこと。

事件の背景について

事件の背景として、南京の前にも、日本軍は移動中に上海、蘇州、無錫、嘉興、杭州、紹興、常州のような場所でも捕虜や市民への虐殺・略奪を続けていたとされ、日本軍兵士・将校の従軍日記や回想録から、進軍中にそれらが常態化していたのではないかと疑われている。ただし、「中国軍が民間人を巻き込むため国際法で禁止されている便衣戦術(ゲリラ戦術)を採っていたため」(南京大虐殺論争#虐殺の範囲を参照)という理由や、中国軍が後退する中で後に来る日本軍に陣地構築の資材や建物など、利用できるものを何も与えない為に、中国人自身による民間人の虐殺、民家焼却を行う空室清野戦術によると見る向きもある。また兵士の日記についても通常一兵卒が所持する事が出来ないはずの万年筆で毎日の様に記録されていることから、従軍中にそのような余裕はなく捏造ないしは誇張されたものであるとする指摘もある。

さらに詳しく → 南京大虐殺



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(2008/11)
水島 総映画『南京の真実』製作委員会

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タグ : 戦争 第二次世界大戦 南京大虐殺

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