第2次大戦への道(1939-1940) - イタリア

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2009/12/29(火)
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ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ(It-Benito Mussolini.ogg Benito Amilcare Andrea Mussolini(ヘルプ・ファイル)、1883年7 月29日 - 1945年4 月28日)は、イタリア王国の政治家である。ファシスト党党首であり、ファシズムの創始者でもある。「ローマ帝国の復活」を掲げて、アドルフ・ヒトラーと共に第二次世界大戦を戦うが、敗れて処刑された。

青年時代 - 社会主義者時代

1901 年に師範学校を卒業。臨時教師の職に就くが、狭い地方に閉じこもるのに嫌気が差したらしく、早々に切り上げてスイスへ出稼ぎに行ってしまった。だがスイスでの生活も上手くいかず浮浪者の罪で国外追放にされてしまうが、その後も何度もスイスへ入国している。その際、奇しくもスイスに亡命していたウラジーミル・レーニンやレーニンの秘書アンジェリカ・バラバーノフらと知り合う機会を得て、レーニンからドイツ語やフランス語を学び、さらに知見を広める(この交流を通じて、ムッソリーニはレーニンからは「イタリアで唯一革命を指導できる人物」と政治家としての才能を賞賛され、後年のムッソリーニもレーニンを「優れたオーケストラの指揮者」と高く評価した)。

レーニンから直接教えを受けたムッソリーニは本格的に政治運動へのめり込んでいき、1904年にイタリア社会党に入党する。農民扇動者として度々当局に拘束されながらも活動を続け、やがて党内で頭角を現して行く。1910 年に『階級の闘争』紙La Lotta di Classeで働いた後、1911年 - 1912 年のイタリア・トルコ戦争に対する反戦活動や改良主義者の排除が認められて、党中央の日刊紙『アヴァンティ!』(前進)の編集長に抜擢された。この時期からすでに地域の新聞などで「ドゥーチェ」の渾名で呼ばれた。

ムッソリーニは「我々共通の永遠の教師」としてカール・マルクスの思想に心酔しており、「危機の時代にあっては、中間的諸階級はその利益と思想にもとづいて、基本的階級のどちらか一方に引きつけられる」(1914年)と階級闘争を肯定する主張をしていた。だが次第にムッソリーニの階級論は「階級の破壊」から「民族的な団結が社会に階層を越えた繁栄を齎す」と考えるようになり、民族主義的な社会主義へとその思想が変化し始める。

第一次世界大戦

ムッソリーニは戦争がイタリア人の民族意識を高めると考え、第一次世界大戦が勃発すると当初は党の方針に従って中立論を支持したものの、やがて戦争への参戦を強く主張するようになった。その流れでイタリアへの参戦工作を行っていたフランス政府の資金援助を受け、独自に日刊紙『ポポロ=ディタリア』を発行して協商国側への参戦熱を高めるキャンペーンを展開したため、遂に社会党を追放されてしまう。ムッソリーニを除名した社会党に対しレーニンは「あの男を追放するなんて、君らはバカだ」と呟いたという。

ムッソリーニは社会党を除名された後も、自身の基本的な政治的立場は左翼であるという立場を維持し、「革命的参戦運動ファッショ」「国際主義参戦ファッショ」と革命や国際主義という名を冠した組織で参戦運動を展開(ファッショという言葉は社会主義者時代にも団結の意味合いで使っていた)する。これが戦後の「戦闘者ファッショ」の土台となる。イタリアが秘密協定によって参戦を宣言すると、ムッソリーニも他の参戦論者達の例に習い志願兵として従軍した。彼は自分から望んで最前線に配属され、勇敢な戦いぶりで軍曹まで昇進したが、手榴弾の爆発に巻き込まれ重傷を負い(ムッソリーニはこの怪我の後遺症に一生悩まされる事になった)、戦場を離れた。

ローマ進軍まで

大戦後のイタリア国内の混乱と社会主義運動の高揚に危機感を抱いた。イギリスから権力掌握のための財政支援を受けることによって、復員軍人や旧参戦論者を結集し、1919年3 月23日にミラノで「戦闘者ファッショ」を組織し社会党や共産党と対立し武力をともなった衝突を繰り返した。1920年9 月の革命勢力の退潮に乗じたムッソリーニは「黒シャツ隊」と呼ばれる行動隊を駆使して勢力を伸ばし、1921年までにイタリア北部および中部で勢力を拡大し組織は25万人の規模に膨張し選挙に参加して議会で35議席を獲得するまでになった。

1921 年11月のローマ大会で国家ファシスタ党にファッショを改組して統領に就任した。ついで1922年10月28日に始まる数万人のファシスト武装隊の「ローマ進軍」、そして国民からの高い人気を背景として、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王はムッソリーニに組閣を命じ、以後イタリア王国は1943年までの約20年にわたるファシスト政権時代に入る。スペインでは失敗した「ファシストによる立憲君主制維持」は、ここイタリアでは成功したのである。

独裁体制

1923 年の選挙法改正で、「選挙で25%以上の得票率を得た第一党が議会の議席の3分の2を獲得する」として権力を集中し強化した。1925年に労働組合の解散・言論出版取締令を制定した。1926年にムッソリーニ暗殺未遂事件が多発したため首相の暗殺には未遂でも死刑を適用するようになった。1927 年には控訴が認められない国家保護特別裁判所を設置し政敵、特に共産党を弾圧した。こうして独裁政治の基礎が固められ、1928年9 月、大評議会が国家の最高機関として認められ、権力がムッソリーニに集中。独裁体制が完成した。

経済政策

最初はアルベルト・デ・ステファニに経済政策が任され、民間企業をほとんど国有化することなく、一時過剰であったストライキが衰退し、景気は回復して失業者も減少し、生産力も増した(但し、インフレーションが同時にあった)。治安も改善して、特にマフィアをはじめとする犯罪組織は徹底的な取り締まりを受け、その殆どが壊滅状態に追い込まれたために犯罪件数は減少した。

所有形態を維持しながら一連の成果を挙げたため、イギリスやアメリカなどの民主主義国家の指導者や評論家の中にも「ムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者」と称える動きがあり、辛口な論評で知られたイギリスのウィンストン・チャーチルも「偉大な指導者の一人」と高く評価していた。しかし、1929年の世界恐慌の影響で失業者が100万人以上に膨れ上がり、次第に財政支出を増やし始め、第二次世界大戦が開戦する1939年までイタリアはソビエト連邦の次に国有企業が最も多い国となった。ドイツに比べイタリアは軍事費より公共事業費が多かった。

教皇庁との関係改善

1870 年のイタリア王国成立後、イタリア政府とローマ教皇庁の関係は断絶していたが、長く続いた緊張関係を改善することで自らの国際的地位を高めることを狙ったムッソリーニは、1926年にバチカンに歩み寄る姿勢を示した。これを受けてバチカンはイタリア政府との交渉を開始、3年の交渉を経て1929 年に「ラテラノ条約」と呼ばれる政教条約が結ばれる運びとなった。

ラテラノ条約ではまず教皇庁のあるバチカン一帯が「バチカン市国」としてイタリア政府から政治的に独立した区域となることが認められた。イタリア政府はローマ教皇庁に対し、対外的に永世中立であることとイタリア国内の政党間の争いにおいて特定の政党に与しないことを求めたほか、1870 年の教皇領の没収への補償として教皇庁への資金調達を行い、教皇庁はこれを承諾し、長きに渡る両者の関係はここに修復に至った。

エチオピア戦争

ムッソリーニはつとにヴェルサイユ体制の打破を唱えた。また、古代ローマ帝国の復興を掲げたが、現実味の片鱗も無い話であり、これは単なる士気向上が主目的だった。経済危機を打開するために、膨張主義政策に着手し1935年10 月3日にエチオピアへ侵攻した(第二次エチオピア戦争)。しかし、予想以上の苦戦を強いられたイタリア軍は当時でも禁止されていた毒ガス兵器を使用。このことを国際連盟で追及されると、イタリアは「エチオピア人は文明人と認められない」という無茶な理論で返した。但し、この頃米英独を始め生物化学兵器自体は広く一般的に保有されているものであった。

ドイツとの友好

ドイツのナチス党党首で、その後同国の総統となるアドルフ・ヒトラー総統との関係では、1934年7 月25日のドルフース首相暗殺事件を契機とするドイツのオーストリア併合危機の高まりに対して、ムッソリーニはブレンナー峠にイタリア軍を集結して反対意志を示した(ムッソリーニはドルフースとは盟友関係にあり、当時はドルフースを擁するオーストリア独立派を支援していた)ことや、当時ドイツの指導者となってまだ間もないヒトラーと会見した際に「あんな奴は嫌いだ」と述懐していることで明らかなように、最初は決して友好的とはいえなかった。

しかし、ヒトラーがムッソリーニを自らの手本として尊敬の念を持っていたこともあり、ヒトラーは熱心にムッソリーニとの友好関係締結に動き、エチオピア戦争を契機として、親英派の反対を退けて対ドイツ接近政策に転換。1936年7 月18日に発生したスペイン内乱にも介入した。さらに1939 年5月22日には、ムッソリーニは娘婿のチャーノ外相の反対を無視して「鋼鉄協約」と呼ばれる独伊軍事同盟を締結し、ドイツとの「従属的」ともいえる友好関係を深めた。この為ムッソリーニは、ミュンヘンのドイツ人から「イタリア大管区長(ガウライター)」と皮肉られることになる。

人種差別政策

ドイツとの関係を深めていく中で、ドイツと同じくユダヤ人に対する人種差別的政策も行われた。といっても社会主義時代からファシスト時代までムッソリーニと肉体的関係を持ちながらサポートをしてきたユダヤ系のマルゲリータ・サラファッティが「ファシズムの母」とされ、「ユダヤ人問題はイタリアには存在しない」とムッソリーニも言うように当初から反ユダヤ主義だったわけで無く、専らこれもドイツからの影響によるものである。さらにイタリアにおける反ユダヤ的感情の弱さや、イタリアの国民性を反映したのか、当時のドイツに比べればその差別はずいぶん緩いものであった。

第二次世界大戦

ドイツによる侵攻を受けたフランスの敗北が決定的になった1940年6 月10日、イタリアはイギリス、フランスと開戦、同年9 月27日に日独伊三国同盟を調印してドイツ・日本との密接な関係を確認した。その後の1941 年12月には日本とアメリカが戦争状態に入ったことを受けてアメリカにも宣戦布告するなど、日本・ドイツと並ぶ枢軸国の一国として本格的に参戦した。

戦いは地理的な要因から概ねイギリスとその衛星国及び植民地を相手にしたものであったが、工業力に乏しい上に、かねてから軍備に力を入れていなかったイタリア王国の軍勢は装備や物資面でイギリス軍に大きく差を付けられていた。イタリアは伝統的に海軍に力を入れていたため、イタリア海軍は世界第4位の戦艦数を誇っていたが、石油などの燃料をほぼイギリスとアメリカに依存していたため、1943 年には燃料が枯渇して大型軍艦の行動がほぼ不可能となってしまい、満足な作戦が行えなくなった。

ソマリランドの占領や遣露部隊の活躍など部分的な成果はあったものの、イギリス領ケニア、英・エジプト共同領スーダンヘの侵攻、ギリシャへの侵攻などは不調に終わった。またドイツの要請に応じて行ったエジプト遠征もイギリス軍に敗北するなど、ムッソリーニの戦争指導は思うように進まなかった。日増しに拡大する戦局を前にイタリアは他の枢軸国同様、ドイツへの従属を深めていく。振るわない戦局はムッソリーニの威信を失わせていった。そして1943年7月に行われた、連合国軍のシチリア上陸を契機として支配層内部のムッソリーニ批判が顕在化し、ムッソリーニは軍部のみでなく、ファシストの指導者の中でも孤立していることが明白になった。

失脚

これに対応して、ドイツとの同盟に反対したムッソリーニの娘婿のチャーノ外相同様、ドイツとの同盟と対イギリス戦争に反対する有力者で、ムッソリーニと血縁関係にある古参ファシストの一人で王党派でもある元駐英大使のディーノ・グランディ伯爵が、ムッソリーニの責任を追及した上でムッソリーニ解任の動議を出し、これを受けた大評議会は7 月25日にグランディの動議を可決しムッソリーニは失脚、同日逮捕された。ファシスト政権は崩壊し、ムッソリーニの後任として、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王が任命したピエトロ・バドリオ元帥が首班を務めることとなり、新政府は1943年9 月8日に連合国に無条件降伏した。

救出作戦

その後アペニン山脈の「グラン・サッソホテル」に幽閉されたムッソリーニは、同月12日にムッソリーニへの友情を持ち続けていたヒトラーの命を受けたナチス親衛隊のオットー・スコルツェニー中佐に救出されローマへと連れ出され、その後ヴォルフスシャンツェでヒトラーと落ち合うこととなる。なお、失脚前にソ連との単独講和交渉を行ったものの失敗に終わったことや、胃潰瘍による体調不良に悩んでおり意気消沈していたムッソリーニは、このまま政界からの引退を望んだが、ムッソリーニへの友情を感じていただけでなく、ドイツが支配下に置いた北イタリア地域においてムッソリーニの利用価値があると感じていたヒトラーは、ドイツの支援を受けた政権の首班への就任を説得した。

イタリア社会共和国首班

その後、ドイツが支配下に置いた北イタリアに、ドイツの支援を受けたイタリア社会共和国(RSI)の樹立を宣言し、その首班に就任した。RSI軍は義勇兵と正規兵・民兵が入り混じる状況下でドイツ軍と共に連合国軍に対して勇敢に戦ったが、政府そのものは事実上ドイツの傀儡政権として扱われ、大病を患い消沈していたムッソリーニもドイツ軍の徹底的な監視下に置かれるなど昔日の勢いはなかった。

RSI軍とドイツ軍によるイタリアでの戦いが終焉すると、勝者となったパルチザンが次々とRSI軍兵士やファシスト党員らを虐殺し始め、ムッソリーニの周囲は彼に政治的亡命を薦めた。事実、かつては同盟関係にあった大日本帝国からも内密に亡命の打診があったがこれを丁重に断っている。ムッソリーニは「好意はありがたいが、余はイタリアで人生を終えたい」と返答したという。

銃殺

1945 年4月、連合国軍の進撃に敗走を続ける枢軸軍とともに中立国のスイスに向かっていた(妻のラケーレと息子たちは、かつての友好国であるスペインに逃がしていた)途中、コモ湖畔の小村でレジスタンス運動のパルチザンに捕縛され、同月28日に銃殺された(または「イタリア国民裁判」で「戦争責任者」として死刑にされた)。その死体は同行していた愛人のクラレッタ・ペタッチの死体とともにミラノのロレート広場に逆さ釣りにして晒された。ムッソリーニは死刑の通知をするレジスタンスに対し、「胸を撃て!」と叫んだとされる。

ムッソリーニの死体が民衆の前で晒し者にされた事を聞いたヒトラーは強い衝撃を受け、自決の際に「彼のようになりたくない」と自身の死体を焼却するよう部下に命じたと言われる。なお、政権期を通じて私腹を肥やすことに興味を持たなかったムッソリーニは、死後に殆ど資産を残さなかったために、戦後遺族は年金以外の収入はなかったと言われている。

ムッソリーニ時代の軍事

独裁権を握ったムッソリーニは軍備の拡張を大いに進めた。空中艦隊構想や新型戦艦や空母の建造など国防上の生命線である海軍力の強化、著しく旧式化していた陸軍装備の更新などがその内容である。当時のイタリア王国軍は第一次世界大戦で勇敢に戦う兵士に対して、骨董品じみた装備や乏しい弾薬物資で戦闘に従事させねばならなかった苦い経験があり、ムッソリーニ自身も従軍経験からその事を深く理解していた。

かくしてイタリアの軍備は目まぐるしい増強が図られたが、そもそもイタリアの装備や物資の不足は工業力の脆弱さを遠因としており(第二次世界大戦後までイタリアは農業国であった。工業の北部と農業の南部という概念は戦後復興後の事である)、経済政策に失敗したムッソリーニにその根本的解決は不可能だった。また経済面で頓挫したムッソリーニは民衆の関心を買う為に乱暴な対外政策を進めたが、これはイタリアを外交的に孤立させ、資源輸入で重要な米英と敵対してしまうという致命的な結果を齎した。

経済・資源・工業力と全ての面で行き詰ったムッソリーニの軍備増強は名前だけのものと化し、軍需大臣ファブグロッサは「早くとも1949年まで大規模な戦争は不可能である」とムッソリーニに通告しており、軍部の上層部も殆どがこの意見に同意していた。しかし当時のムッソリーニに戦争以外の選択肢を取る政治的余裕は無く、結局開戦時の時点で軍備増強は何一つとして成果を挙げられないまま、海軍は旧式戦艦や小型艦艇の運用で急場を凌ぎ、陸軍は師団の半数以上が定員割れを起こした状態で戦地へ向かった。

イタリア軍は装備の旧式化や兵員・物資の不足に加え、人材面でも将軍・参謀の大部分が第一次世界大戦の戦訓を奉じる「古典主義者」と質が悪く、その事実は第二次世界大戦序盤の諸戦闘で示された。事実、エジプト侵攻やギリシャ侵攻では圧倒的多数の兵力にもかかわらずイギリス軍やギリシャ軍に撃退され、ドイツが増援部隊を派遣している(ドイツ軍に関する詳細はドイツアフリカ軍団、ユーゴスラビア侵攻を参照)。その一方で、件のアフリカ戦線を始めとする各地で戦果を挙げた部隊も存在し、またRSI軍は士気旺盛に戦いドイツ軍から信頼を得ていた。

さらに詳しく → ベニート・ムッソリーニ  ガレアッツォ・チャーノ



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