ソマリア バーレ政権時代軍事パレード

航空兵器・陸上兵器・海上兵器・銃器・戦争・紛争・歴史・革命・テロ・事件・軍事動画・ニュース(報道)・社会情勢・政治運動・評論・講演など、軍事関連の情報を公開しています。宗教・思想・経済・政治的なものも少しアリ

広告
--/--/--(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2009/12/27(日)
* 

モハメド・シアド・バーレ(ソマリ語: Maxamed Siyaad Barre、 1919年? - 1995 年1月2日)は、ソマリアの政治家・軍人で第3代大統領。1969年にクーデターでシェルマルケ第2代大統領を打倒し大統領に就任したが、1991年に反政府勢力連合統一ソマリア会議 (USC)に政権を打倒され、ナイジェリアのラゴスに亡命。1995年に死去。氏族主義の追放のために社会主義を掲げたが、次第に乖離が目立つようになり、オガデン戦争を契機に独裁色を強めた。

クーデター

1960 年に独立し、ソマリア共和国となってからのソマリアは、これまでの歴史の中で唯一民主主義的な政治体制をとっていた。しかし、ソマリアでは政党政治の中に氏族関係が色濃く反映されることになり、その結果として支族や血族集団にまで細分化された60を超える少数政党乱立の状況が続いていた。しかも、政府内でも氏族関係を色濃く反映した人事登用や汚職が後を絶たず、国民の間には政権への不満が渦巻いていた。

こうした状況の中、1969年10月15日に第二代大統領アブディラシッド・アリー・シェルマルケが暗殺されると、少将となっていたシアド・バーレはこの機を逃さずにクーデターを決行する。1969年10月21日に軍がモガディシュを制圧し、11月1日には彼自身を議長とする最高革命評議会 (Supreme Revolutionary Council: SRC) が設立される。そして、SRCは憲法を停止し、実権を掌握。科学的社会主義 (scientificsocialism) 路線への転換を発表して、国名をソマリア民主共和国と改めた。SRCは文民政権期における混乱を招くことになった氏族主義、汚職、縁故主義等の撲滅を訴えて国民の一応の支持を取り付けることに成功した。なお、シェルマルケ大統領を暗殺した犯人は側近の警備員であり、当時冷遇されていた氏族の出身者であった。その背後にシアド・バーレがいたのではないかという説は今なお根強い。

改革者から暴君へ

クーデター直後のシアド・バーレは、意欲にみちた改革者であった。彼は科学的社会主義の名のもとに、銀行の国有化・農業(牧畜)の重視・ソマリ語のラテン表記の導入・男女平等の推進と女性の組織化などの国の近代化と中央集権化を強力に押し進めた。しかし、あまりにも急進的で部族社会の伝統や地域事情を考慮しないそれらの改革は、大半が失敗し、ソマリアの社会に混乱を招くだけの結果に終わる。

数年間の間に何度かのクーデターや暗殺未遂事件もあったこともあり、思い通りにいかない改革にいらだったシアド・バーレはしだいしだいに猜疑心を肥大させ、権力欲のみの暴君へと変貌を遂げてゆく。治安局や治安裁判所を設立して、法律の訓練を受けていない軍人による司法活動を正当化すると、1975年に新民法の導入に反対する抗議行動を起こしたイスラム教の指導者10名を処刑。1976年にソマリ社会主義革命党(SRSP)を設立し、自ら議長に収まって一党独裁体制を築きあげるなど、その強権ぶりはエスカレートしていった。根絶を誓ったはずの縁故主義も復活し、政治・経済・軍の重要ポストをM.O.D(マレハン族・オガデン族・ダルバハンテ族)が独占する。こうした露骨な優遇政策は当然、他氏族の反発を招き、シアド・バーレに対する不信とソマリア国内の各氏族間の不和が醸成されてゆくことになった。

オガデン戦争の失敗・内戦

そしてオガデン戦争である。1979年からエチオピアとの間で十年にわたって行なわれたこの戦争でソマリアは敗北する。エチオピア領内の多数のソマリ族難民がソマリアに流入し、国内に大混乱を引き起こした。この敗戦でシアド・バーレの権威は失墜する。反対派を自身の能力で従わせることが難しくなった彼は、偶然の交通事故(1986年)による健康の悪化も手伝い、ますます軍に頼った力ずくの統治を進めるようになっていった。

また、ソマリアはこの戦争でエチオピア側に付いたソ連との関係を断絶、アメリカとの関係強化を推進する。1980年にはアメリカにベルベラ港とベルベラ空軍基地の使用を許可し、その見返りとして5300万ドルの経済援助と4000万ドルの軍事援助を取り付けた。己の権力維持のためなら右も左もお構いなしの無節操ぶりである。この時点で彼はもはや改革者ではなく、単なる権力亡者と成り果てていた。

オガデン戦争の敗北と前後して、ソマリア国内ではシアド・バーレの打倒を目指す機運が高まった。冷遇されてきたマジャーティーン族やイサック族が中心となって、エチオピア領内などでソマリ救世民主戦線 (Somali Salvation Defense Force: SSDF) やソマリ国民運動 (Somali National Movement: SNM) などの組織が次々と結成される。シアド・バーレはこれらの運動に対して容赦ない攻撃を加える。反政府組織側からの抵抗も激しく、1988年にはイサック族の拠点都市であるハルゲイサとブラオをソマリア軍が攻撃するなど事態は内戦化していった。

亡命

内戦や疫病により家畜の輸出が滞り、インフレが進行した。経済危機の進行などにより、ソマリア国内ではシアド・バーレ体制の打倒が叫ばれるようになっていった。シアド・バーレは民主化を再三にわたって約束するものの実行せず、自身の権力維持にこだわり続けた。しかし国民はすでに彼を見放していた。

1989 年7月には首都モガディシュで2000人の反政府活動家を逮捕したが、それに伴う人権侵害を理由として1990年には海外からの援助が停止され、結果的にはこれが致命傷となった。財源を失ったシアド・バーレは地方への影響力を喪失し、「モガディシュ市長」と揶揄されたように、もはや一地方勢力の首領でしかなかった。1990年3月には、そのモガディシュにも反政府勢力の攻撃が始まり、5月には首都全域に戒厳令が発動される。そして、12月にはついにアイディード将軍率いる統一ソマリア会議 (United Somali Congress: USC) が激しい戦闘の末首都を制圧。シアド・バーレを追放した。彼はなおも2回ほど首都奪回を企てたが失敗に終わり、結局ケニアに国外逃亡し、その後ナイジェリアに亡命した。

死とその後

シアド・バーレは1995年1月2日にナイジェリアのラゴスで心臓発作によって死亡する。遺体はソマリア南西部のゲド州に葬られた。彼の失脚後、ソマリアは未だに内戦状態が続いており、統一政府を作り出そうという試みは全て失敗に終わっている。1991年6月にはシアド・バーレが敵視したイサック氏族の本拠である北部地域がソマリアからの独立を一方的に宣言し、ソマリランドを建国した。

さらに詳しく → ソマリア  モハメド・シアド・バーレ


大きな地図で見る



もう、服従しない イスラムに背いて、私は人生を自分の手に取り戻したもう、服従しない イスラムに背いて、私は人生を自分の手に取り戻した
(2008/09/30)
アヤーン・ヒルシ・アリ

商品詳細を見る
関連記事

タグ : 軍事パレード ソマリア モハメド・シアド・バーレ

この記事へのコメント
URL:
Comment:
Pass:   
この記事のトラックバックURL
http://gunjimania.blog108.fc2.com/tb.php/541-809590ca
 この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック

 | Copyright © 軍事マニアクス - Military Maniacs All rights reserved. | 

 / Template by 家族 ペット 自分史 ブログ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。