ニコラエ・チャウシェスクの軍事裁判と処刑シーン(Death of Nicolae Ceauşescu)

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2009/12/27(日)
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ニコラエ・チャウシェスク(ルーマニア語: Nicolae Ceauşescu、1918年1月26日 - 1989年12月25日)は、ルーマニアの政治家、ルーマニア社会主義共和国初代大統領(1974年~1989年)、国家評議会議長(1967年~1989年)、ルーマニア共産党書記長(1965年~1989年)。

社会主義国時代のルーマニアの指導者および独裁者として知られる。1958年にソビエト連邦の軍隊をルーマニアから撤退させたゲオルゲ・ゲオルギュ=デジの後任として政権を確立した。

北朝鮮の政治体制とチュチェ思想に影響され、のちにヨシフ・スターリンを凌ぐ徹底した秘密警察による国民生活の監視・盗聴と、チャウシェスク自身への常軌を逸した個人崇拝、国家主義によって、西側主要国ならびにソ連との関係が悪化したことが特徴付けられた。妻のエレナ・チャウシェスクとともに縁故主義による独裁政治を敷き、「王朝」と呼ばれるほど権勢をほしいままにし、誇大妄想的な社会建設計画によってルーマニア国民の福祉と人権は無視された。

1970年代に発生したエネルギー危機ではソ連の石油に頼らざるをえなくなり、工業政策によって累積された対外債務は膨れ上がり、債務返済のために飢餓輸出政策を強行。債務は10年間で返済したが、国民の生活は飢餓と凍えによって東ヨーロッパでも最低のレベルに転落した。

1989年12月にティミショアラで勃発した反政府デモに対しては政治執行委員会にて武力弾圧を議決、多数の死者を出した。その後まもなく勃発したルーマニア革命によって政権は倒され、テレビ放送もされた2時間の裁判を経て、最期は妻・エレナとともに処刑された。

死刑執行人の1人は、のちに以下のように述べた。「あれは裁判ではなく、革命の最中の政治的暗殺であった」。

生い立ちから権力の掌握まで

1918年、ルーマニア王国・オルト県スコルニチェシュティ村にて、農民の息子として生まれる(チャウシェスクの家族についてはen:Ceauşescu familyを参照)。11歳のとき、工場で働くために首都のブカレストに移住する。1932年初期は非合法の存在であったルーマニア共産党に入党し、1933年に最初の逮捕を経験する。

1934年、鉄道職員試験に嘆願抗議する署名の収集および2度以上の同様の活動をした理由で再び逮捕された。警察によるチャウシェスクの逮捕記録には「危険な共産主義の扇動者」「共産主義の配布者」「反ファシストのプロパガンダ」という記述がある。

チャウシェスクは地下に潜伏するが、「反ファシスト」活動により、1936年にドフタナ刑務所に投獄された。獄中にいる間の1940年、エレナ・ペトレスクと出会い、1946年に結婚。チャウシェスクは彼女を終生の伴侶とし、以後、彼女はチャウシェスクの政治生命において長きに亘って役割を果たす。

1940年、チャウシェスクは再び逮捕され、投獄される。1943年、トゥルグ・ジウの強制収容所に移された。収容所の独房にいたゲオルゲ・ゲオルギュ=デジと出会ったチャウシェスクはデジと独房を共有する。

第二次世界大戦後、ルーマニアがソビエト連邦の影響を受け始めたころ、チャウシェスクは共産主義青年同盟(en:Union of Communist Youth)の秘書を務めていた(1944年~1945年)。1947年、ルーマニア共産党が権力を握ると、チャウシェスクは農業省の大臣を、そしてゲオルグ・ゲオルギュ=デジのもとで国防副大臣を務める。

1952年、アナ・パウケル(en:Ana Pauker)によるモスクワ派共産主義者が追放されると、チャウシェスクは中央委員会の委員となった。1954年、チャウシェスクは正式に政治局の一員となり、党内の序列では2番目に高い地位を占有するまでに昇り詰めた。

元首

外交

1965年3月のゲオルゲ・ゲオルギュ=デジの死を受けて、チャウシェスクはルーマニア労働者党の第一書記に就任する。1967年には国家評議会議長および同国の元首となる。1974年に大統領制が導入されると、初代大統領に就任した。チャウシェスクの最初の仕事は、政党名をルーマニア共産党へ変更することと、「ルーマニア人民共和国」から「ルーマニア社会主義共和国」への転換宣言であった。

1967年、チャウシェスクは国務院の議長となり、自身の権力を強化した。政権を獲得してからしばらくのあいだ、チャウシェスクの外交政策は東欧の中でもソ連とは距離を置く親西欧路線を取り、チャウシェスクは、ルーマニア国内および西側諸国で人気を得た。

1960年代、(ルーマニアは正式に加盟していたが)ワルシャワ条約機構へのルーマニアの積極的な参加に関わった。1968年のワルシャワ条約機構によるチェコ事件に対しては、自国の軍隊のチェコへの派遣を拒否してソ連を公然と非難した。ソ連は、共産主義ブロック内で独自路線をゆくルーマニアのモスクワからの独立(チャウシェスクの反抗)を「うわべだけのもの」と大目に見ていた。

チャウシェスクは、アメリカ合衆国および西側諸国から包括予定保険契約の推進を持ちかけられた。ルーマニアは、西ドイツが承認した最初の共産主義国であり、IMF(国際通貨基金)に加盟し、アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンも真っ先に迎え入れた。1971年、ルーマニアはGATT(関税および貿易に関する一般協定)に加盟した。ルーマニアとユーゴスラビアは、東ヨーロッパでは共産主義ブロック崩壊前の欧州経済共同体で貿易協定を結ぶ唯一の国であった。

アメリカ、フランス、イギリス、スペインを含む西側諸国へのチャウシェスクによる公式訪問は、改革された共産主義者を見せるという形の助けとなった。チャウシェスクは、東側諸国内で独立した外交政策を追求し続けた。また、チャウシェスクは自身を「見識ある国際的な政治家(国際紛争を仲裁してルーマニアに対する高い評価を得られるようにする)」とみなされたがっていた。

アメリカとの関係を開いたように、1969年には中国(中華人民共和国)を、1977年にはエジプトの大統領アンワル・アッ=サーダートをイスラエルに訪問し、国際情勢で協議を行った。ルーマニアは、イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)双方の正常な外交関係を維持させた唯一の国であった。

モスクワオリンピックの西側諸国による大量ボイコットの返礼として、東側諸国が軒並みボイコットした1984年のロサンゼルスオリンピックに参加した。こうした姿勢は西側諸国からは賞賛されたものの、ソ連や東ドイツなどの東側諸国からは不快感を持たれた。

堕胎と離婚の禁止

1966年、チャウシェスク政権は国の人口を引き上げようと試み、妊娠中絶を法律で禁止し、非常に低い出生率を反転させるため、別の政策を導入した。問題の妊娠中絶は、42歳以上の女性、もしくはすでに4人(のちに5人に)の子持ちの母親であった場合のみで、許された。

ルーマニア社会主義共和国内では、少なくとも5人の子持ちの女性は重要な利益を得る権利を与えられ、10人の子持ちの女性は「英雄の母」と宣された。しかしながら、ほとんどの女性はこの地位を求めようとはせず、むしろ2~3人の子供がいるのが、ルーマニアの平均的な家庭であった(ルーマニアの人口統計(en:Demographics of Romania)を参照)。そのうえ、女性の多くは、死んだか、秘密裏に妊娠中絶をさせられた挙句、不具となった。チャウシェスク政権は上昇する離婚率にも目を付け、離婚を困難にした。婚約が解消されるのは例外的な事例のみ、と法令が定められた。

1960年代後期までに、ルーマニアの人口は増加し始めたが、今度は幼児放棄によって児童養護施設の人口が増えるという新たな問題が生じた。ヨーロッパの人口のおよそ3%を占めるにもかかわらず、世紀の変わり目であったヨーロッパの小児科のAIDS患者の多くは、血の輸血が未実験であったルーマニアで占められた。

北朝鮮の影響

1971年、中国、北朝鮮、北ベトナムを訪問したチャウシェスクは、それらの国々の強硬な共産主義体制の影響を受けた。チャウシェスクは、北朝鮮の朝鮮労働党、中国の文化大革命のような政治綱領の具現化として全面的な国家的変革に大きな関心を示した。

ルーマニアに帰国後まもなく、チャウシェスクは金日成のチュチェ思想の影響によって北朝鮮の政治体制を模倣し始めた。北朝鮮のチュチェ思想の書物は、ルーマニア語に翻訳され、国中に広く配布された。1971年7月6日、チャウシェスクはルーマニア共産党政治局の執行委員会の前で演説を行った。この擬似毛沢東主義者による演説は「7月の論文」(en:July Theses)と呼ばれ、17の提議が包含されている。

凋落

当初こそ国民からの高い人気を得たものの、チャウシェスクは家族とともに一般国民とはかけ離れた大宮殿に住む優雅な生活をしており、国内の経済については、側近の者から良い報告しか受けておらず、本当の国内事情を把握していなかったと言われる。街頭へ視察へ出ても視察コースの店には一時的に普段は見かけない食品や製品が豊富に並べられていたとされるが、近年では反説も多い。

実際には対外債務の返済のための強引な輸出政策(飢餓輸出)によって市民の食料や冬の暖房用の燃料にも事欠くようになるなど、次第に国民生活は困窮の度を深くしていった。しかし、チャウシェスクはブカレスト市内に「国民の館」と呼ばれる巨大な宮殿を建設し、またチャウシェスクの家族・親族30名以上が党や国家の要職を独占した。こうした一般の人々の生活を省みない政治姿勢に国民は失望し、人気や支持も落ちていった。

のちにソ連にゴルバチョフ政権が誕生してペレストロイカが推進されると、個人独裁の保持に固執するようになる。東西両勢力から欧州統合の障害とみなされ、史上初のKCBの剥奪にまでに至っている(因みにナイトの称号が剥奪された例は2例あり、もう1例はジンバブエの独裁者ロバート・ムガベのナイト爵位である)。

革命と最期

1989年にポーランドに民主的な政権が誕生すると、ルーマニアにもこのような動きが波及するのを恐れたチャウシェスクは、チェコ事件の時とは正反対にワルシャワ条約機構の軍隊による軍事介入を一方的に主張した。しかし、ソ連のゴルバチョフはこの要求を一蹴。事実上、チャウシェスクはソ連に見限られる形となった。

チャウシェスクは無謀にも権力の保持を図ろうとするが、首都ブカレストを含めて全国規模で暴動が勃発した。ソ連の介入がないことが確定となったため、ルーマニアの国軍もチャウシェスク政権に反旗を翻した。同年12月に起きたルーマニア革命でチャウシェスク政権は完全に失脚し、革命軍によって妻エレナとともに12月25日、公開処刑銃殺刑)に処せられた。

革命の経緯

国民の困窮

1989年当時、莫大な対外債務を返済するために食料や灯油といった生活必需品までもを輸出する飢餓輸出政策のため、一般国民の生活水準が低下していた。また秘密警察(セクリタテア)などの監視による言論の統制などで不満分子を抑圧していたが、西側の情報が徐々に入るにつれ、ついに民衆の不満が爆発したと伝えられている。

また、国内のハンガリー系少数民族と西側諸国の協力、自由ヨーロッパ放送のプロパガンダ、ハンガリーとCIA、フランス情報機関の連携も革命の原動力となった。しかし革命の1年前までは国外の反チャウシェスク機運は高まっていたが、国内では、革命の機運はまだなかった。しかし国民の生活は、政府が米国からの借款を断っていたために窮乏を強いられていた。

国民への弾圧

チャウシェスク政権は、1989年のティミショアラとブカレストで勃発した一連の暴力的抑圧ののち、崩壊することになる。

1989年11月の第14回ルーマニア共産党大会では、当時71歳のチャウシェスクがルーマニア共産党政治局の指導者として再選され、もう5年間指導者の地位に就くと見られていた。反政府デモは、1989年12月、少数民族であるハンガリーの牧師・ラディスラオ(en:László Tőkés)による政府への糾弾で引き金を引いた。

ハンガリー人の仲間はラディスラオ支持を表明するため、彼のアパートに集まった。ルーマニアの学生たちは自発的にデモに加わり、デモのそもそもの原因との関連のほとんど全ては失われ、より一般的な反政府示威運動となった。同年12月17日、国軍、警察、秘密警察はデモに参加した市民に発砲、反政府集会を武力で弾圧した。

12月18日、チャウシェスクはイラン訪問のために自国を出発、妻のチャウシェスクと自分の部下たちにデモ鎮圧の任務を命じた。12月20日の夕方、チャウシェスクが帰国すると、国の状況はさらなる緊迫状態に置かれた。チャウシェスクは、中央委員会の建物の内側にあるテレビスタジオから演説し、ティミショアラでの出来事について、「ルーマニア国内の外国勢力による内政干渉」「ルーマニアの主権に対する外部からの侵略」と述べた。

国営メディアはティミショアラでの出来事を報道せず、ボイス・オブ・アメリカやラジオ・フリー・ヨーロッパといった西側のラジオ局、そして、口伝えによって国民に知られた。国営メディアは、「チャウシェスクへの支持の自発的運動」と伝えた。ワルシャワ条約機構軍によるチェコスロバキアへの侵攻について話した1968年の会談を模倣した。

逃亡

12月21日に首都ブカレストの党広場で開かれた集会は混沌とした大会となった。デモに愕然としたチャウシェスク夫妻は、大勢の群衆を抑えることができず、翌日まで建物の中に隠れていた。ブカレスト市民は公然と反旗を翻し、大学の前に集まってバリケードで警察や軍隊と対決した。しかし、彼らは武器を持っておらず、軍の装備にはかなわなかった。

真夜中までに通りは一掃され、数百人が逮捕された。「チャウシェスクを支持する大会」と、その後の出来事のテレビ放送は中断されたが、デモに対するチャウシェスクの反応は国の集合記憶として国民の心にすでに刻まれていた。12月22日の朝までに、反政府デモはすべての主要都市に広がり、国民の自由獲得への暴動が全国各地で起こった。

チャウシェスクは国防大臣のワシーリ・ミリャに暴動の武力鎮圧を命じたが、ミリャはこれを拒否した。翌日、ミリャは遺体で発見された。メディアがこのことを発表すると、チャウシェスクは政治執行委員会を取り仕切り、軍の指導者に就いた。ミリャの死を受けて、軍の首脳はチャウシェスクに反旗を翻すことを決め、ルーマニア軍は革命を支援する側に立った。

しかし、なおチャウシェスクに忠誠を誓う秘密警察セクリタテアは市民や国軍に対する激しい反撃を繰り返し、ルーマニア国内は混沌状態に陥った。チャウシェスクは中央委員会の建物の前に集まった群衆に対して必死の演説を試みるも、群衆らによって建物のドアを抉じ開けられたため、無防備状態のままヘリコプターに乗っての逃亡を余儀なくされた。革命の最中、西側の報道機関は、チャウシェスクを支持して反乱を鎮めようとした秘密警察によって殺された人々の数の推計を発表した。

新聞の第1面全体に「犠牲者64000人」という記事が広範に報道されるまで、犠牲者数の点呼は矢継ぎ早に増えていった。ハンガリーの軍隊は、この発表された数字に疑問を抱いており、そのような短期間でそれほど多数の人々の殺害は実行不可能である、と指摘した。

これらの様子はルーマニア国営テレビを通じ全国に放送された。12月22日は、ルーマニア全土に戒厳令が敷かれた。チャウシェスクは妻エレナとともにヘリで飛行場へ逃走したのち、リビアへの亡命を計画した。22日13時、イオン・イリエスク率いる救国戦線は国営テレビ、ラジオ局を掌握。同17時、救国戦線が政権を掌握した。

処刑

12月23日、チャウシェスク夫妻はトゥルゴヴィシュテにおいて一般市民の車を強奪しようとしたところを、国防次官を主導とする救国戦線により逮捕される。12月25日、救国戦線はチャウシェスク夫妻を、60000人の大量虐殺と10億ドルの不正蓄財などの罪で起訴、形だけの軍事裁判で即刻銃殺刑の判決を下し、その場で処刑した(裁判は夫妻を連行した学校の教室に机を並べて行われた)。

この様子はビデオで撮影され、フランスを含む西側諸国でただちに放送された。日本でも各テレビ局が一斉に放送した。中でもフジテレビは深夜時間帯に報道特別番組「チャウシェスク処刑」を設け、数時間にわたるビデオの映像に翻訳の字幕スーパーをつけて全て放送した。

翌12月26日、ルーマニア国内でも処刑の様子が公表された。裁判の様子から死刑判決が下されおびえる夫妻、そして銃殺から処刑後の死体の様子まで撮影されたのは、非公開処刑だとアドルフ・ヒトラー等のように生存説を唱えられることが懸念されたためである。

なお、死刑執行が直ちに行われた理由の一つとして、死刑執行直前までつけていた時計に現在位置情報を秘密警察に知らせる機能がついていたため、直ちに死刑を執行しないと秘密警察に身柄を奪還される恐れがあったためと報じられた。チャウシェスクの死後、ルーマニア全土の病院は革命の犠牲者数について、「64000人」という数字よりもはるかに低い「1000人未満」という数字を報告した。

処刑後

大量虐殺の形跡や不正蓄財の確定的な証拠は見つからなかった。1990年、自由選挙による国会が開かれると、野党側は与党救国戦線を激しく追及した。これはのちに救国戦線が右派(ペトレ・ロマン)と左派(イオン・イリエスク、後の社会民主党)に分裂する遠因にもなった。

末期のチャウシェスク政権は、他の長期政権にも見られる様にチャウシェスク本人ではなく高級官僚化した党幹部らが実質的な権力を握っていたとされる。当時の党幹部らは革命の際に国外に脱出しており、従って真相は明らかにされていない。革命の際も、集会の現場にルーマニア人のジャーナリストがおらず外国の報道機関しかいなかったこと、革命の際に国軍・大統領親衛隊の能力を超える武力が行使された形跡があることなど、未だ解明されていない不明点が数多く残っている。

1999年12月、革命10周年に当たってルーマニア国内に於いて行なわれた世論調査によると、6割を超える国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」と答え、同国政府を驚かせた。市場経済の停滞と失業者の増加により生活が悪化したことなどから、国民の不満が高まり、各地の工場や炭坑ではストライキが頻発した。

その参加者の中には、チャウシェスクの肖像写真とともに、「チャウシェスク、私たちはあなたが恋しい」といったプラカードを掲げる者もいたとされる。現在負の遺産として残されている国民の館は観光地化され、世界中から多くの人々が訪れている。

日本テレビ系列の番組『知ってるつもり?!』では、市民からの献花が絶えないチャウシェスクの墓の様子と、妻エレナが非難される様子が放送された。2005年には埋葬された遺体がチャウシェスク夫妻本人のものかどうかを鑑定するよう遺族が訴訟を起こし、2010年7月21日になってDNA鑑定を行うために墓から遺体が掘り起こされた。

さらに詳しく → ニコラエ・チャウシェスク  ルーマニア革命 (1989年)  エレナ・チャウシェスク



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