ヒトラー生誕50周年記念軍事パレード

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2009/12/27(日)
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アドルフ・ヒトラー(独: Adolf Hitler, 1889 年4月20日 - 1945年4 月30日)はドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党党首としてアーリア民族を中心に据えた民族主義と反ユダヤ主義を掲げる。1933年首相となり、1934年にヒンデンブルク大統領死去に伴い、国家元首となる。軍事力による領土拡張を進めた末に1939年のポーランド侵攻によって第二次世界大戦を引き起こした。ドイツ降伏数日前にベルリン市内の総統地下壕内で自殺。合法的な選挙により勢力を拡大したが、後には指導者原理に基づく党と指導者による独裁指導体制を築いたため独裁者の典型とされる。1920年に日本で最初に報道された際には「ヒットレル」と表記され、その後は「ヒットラー」という表記も多く見られた。

権力の掌握

1932年7月の国会議員選挙ではナチ党は37.8%(1930年選挙時18.3%)の得票率を得て230議席(改選前 107議席)を獲得し、改選前第一党だった社会民主党を抜いて国会の第一党となった。

同年11月にはパーペン内閣に不信任案を提出して可決、選挙を迎えた(ドイツ国会1932年選挙 (11月))。この時ベルリンの大管区指導者ゲッベルスはドイツ共産党と共闘して大規模な交通ストライキを行った。しかしこれが財界から危機感をもたれ、ナチ党の得票率は4%ほど落ちて33.1%になり、議席数も196に減少したが、第一党の地位は保持した。危機感を抱いたヒトラーは一転してストライキ取り締まり側に加担し、自派新聞で自らの立場のドイツ共産党との違いについて長広舌を振るい、財界を安心させようとした。

一方で事態を打開することが出来なかったパーペン内閣はクルト・フォン・シュライヒャーの策動により崩壊し、後継内閣はシュライヒャーが組織した。シュライヒャーはナチス左派を取り込もうとしたが失敗。グレゴール・シュトラッサーは除名され国会議員を辞職、引退を余儀なくされた。シュライヒャーに反発したパーペンの協力もあり、ヒトラーはヒンデンブルク大統領や国家人民党の協力を取り付けることに成功し、1933年1 月30日、ついにヒトラー内閣が発足した。

内閣発足の2日後である2月 1日に議会を解散し、国会議員選挙日を3月 5日と決定した。2月27日の深夜、国会議事堂が炎上する事件が発生(ドイツ国会議事堂放火事件)。その直後から共産党員や反ナチ的人物が次々に放火の疑いで逮捕された。翌28日にヒンデンブルク大統領に大統領緊急令である戒厳令を発令させた。戒厳令下の3月5日の選挙ではナチスは議席数で45%の288議席を獲得したが、過半数は獲得できなかった。しかし投票日直前に非合法政党にされた共産党が獲得した81議席は再選挙を行わず議席ごと抹消されたため、ナチス党は結果的に単独過半数を獲得することとなった。さらに社会民主党や諸派の一部議員を逮捕したことにより、議会の主導権は完全にナチス党が掌握することになる。

3月24日には国家人民党と中央党の協力を得て全権委任法を可決させ、議会と大統領の権力は完全に形骸化した。7月14日にはナチ党以外の政党を禁止し、12月 1日にはナチ党と国家が不可分の存在であるとされた。以降ドイツではナチ党を中心とした体制が強化され、党の思想を強く反映した政治が行われるようになった。しかし上層部とは異なった思想を持っていた突撃隊幹部との対立が高まり、1934年6 月30日の「長いナイフの夜」によって突撃隊参謀長エルンスト・レームを初めとする党内外の政敵を非合法的手段で粛清した。

1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領が在任のまま死去した。ヒトラーは直ちに「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を発効させ国家元首である大統領の職務を首相の職務と合体させ、さらに「指導者兼首相(Führer und Reichskanzler)であるアドルフ・ヒトラー」個人に大統領の職能を移した。この措置は8月19日に国民投票を行い、89.93%という支持率を得て国民にも承認された。ただし「故大統領に敬意を表して」、大統領(Reichspräsident)という称号は使用せず、自身のことは従来通り「Führer(指導者)」と呼ぶよう国民に求めた。これ以降、日本の報道でヒトラーの地位を「総統」と呼ぶことが始まった。

ナチス・ドイツの政策

ヒトラーは党と政治機構の一体化を進めるとともに、航空省の設置などヴェルサイユ条約で禁止されていた再軍備を推し進めた。このため1933年には600万人を数えていた失業者も1934年には300万人に減少している。一方で新聞の統制化も行い、1934年には三百紙の新聞が廃刊となった。営業不振となった新聞社・雑誌社はナチス党の出版社フランツ・エーア・フェルラーグに買収され、情報の一元化が進んでいった。 1935年3月16日にはドイツ再軍備宣言を発し、公然と軍備拡張を行った。

1936 年には国の威信をかけたベルリンオリンピック大会を行った。ヒトラーはレニ・リーフェンシュタールに対して、「自分はユダヤ人が牛耳るオリンピックには関心がない」と漏らしていたが、 1933年3月にはベルリン大会支持の声明を出している。またこれまで都市主催であったオリンピックに国家が積極的に介入することで、ベルリンオリンピックはかつて無い大規模なものとなった。また、リーフェンシュタールが撮影した記録映画「オリンピア」は世界で高い評価を得た。ベルリンオリンピック開催前後には諸外国からの批判を受け、一時的にユダヤ人迫害政策を緩和したが、その後は国力の増強とともに、ドイツ国民の圧倒的な支持の基「ゲルマン民族の優越」と「反ユダヤ主義」を掲げ、ユダヤ人に対する人種差別をもとにした迫害を強化していく。

「生存圏の拡大」

1936年にはスペイン内戦へ介入しフランシスコ・フランコの反乱軍を支援し、1937年4月26日にはドイツ空軍「コンドル軍団」によるゲルニカ空爆が行われた。1936年3月にはヴェルサイユ条約とロカルノ条約に反して非武装地帯と定められていたラインラントへの進駐を実行した。フランス軍からの攻撃はなかった。ヒトラーは「ラインラントへ兵を進めた後の48時間は私の人生で最も不安なときであった。 もし、フランス軍がラインラントに進軍してきたら、貧弱な軍備のドイツ軍部隊は、反撃できずに、尻尾を巻いて逃げ出さなければいけなかった。」と後に述べている。この成功はヒトラーに対外進出への自信をつけさせた。

1931 年に発生した満州事変以降、ソ連やイギリス、アメリカとの間の関係悪化が鮮明化していた日本との関係が親密化を増し、1936年 11月には、駐独日本国特命全権大使の武者小路公共とドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップの間で日独防共協定が結ばれ、ヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦への対抗を目指した(なお同協定は翌1937年11 月6日にイタリアも入り日独伊防共協定となった)。

ヒトラーは着々とナチズムに基づくドイツを作り上げていった。その最終目的は『我が闘争』に示されたように東方における「生存圏」の獲得であった。その目的のため、この計画に批判的であったブロンベルク国防相らを陰謀によって追放し、独立傾向があった軍を完全に掌握した(ブロンベルク罷免事件)。

1938 年3月には武力による威嚇でオーストリアの首相にアルトゥル・ザイス=インクヴァルトを付けさせ、オーストリア併合にこぎつけた。3月12日にはヒトラー自身がオーストリアに入り、ウィーンや生まれ故郷リンツに戻った。ヒトラーは故郷リンツでこのように演説した。「もし神がドイツ国家の指導者たるべく私をこの町に召したのだとすれば、それは私に一つの任務を授けるためである。その任務とはわが愛する故国をドイツ国家に還付することである。私はその任務を信じた。私はそのために生き、そのために戦ってきた。そして今その任務を果たしたと信じる」。

オーストリアを支配下に入れたヒトラーは続いてチェコスロバキアを狙い、まずドイツ系住民がほとんどを占めるズデーテン地方を併合しようとした。1938年9月29日にはイギリス首相ネヴィル・チェンバレン、フランス首相エドゥアール・ダラディエ、イタリア首相ムッソリーニを招いてミュンヘン会談をおこない、ズデーテンをドイツに譲ることが確定した。イギリスとフランスからも屈服を要求されたチェコスロバキアはズデーテンを差し出すしかなかった。

さらにこの後チェコで民族運動が激化し、混乱に乗じてハンガリーがチェコスロバキア侵略をほのめかすようになった。チェコスロバキアはドイツ軍に応援を依頼するしかなくなり、さらにドイツから武力による威圧も受けてエミール・ハーハ大統領は1939年3月に併合文書に署名した(チェコスロバキア併合)。ヒトラーの指示によりスロバキアは独立し、チェコはドイツの一部「ベーメン・メーレン保護領」となった。この直後の1939年3月23日にはリトアニア政府にメーメルを割譲させることにも成功している。これらのドイツの拡張政策に対してイギリスやフランス、アメリカなどは懸念を表明したものの、直接的な軍事対立を避けるために事実上黙認していた。

その後もドイツの軍備拡張への対応が遅れていたイギリスは、チェンバレン政権下においてはミュンヘン会談に代表される宥和政策を取り続け、事実上ヒトラーの軍事恫喝による国土拡張政策(旧ドイツ帝国領の回復)を黙認していた。軍備を整える時間稼ぎのためとも、反共の防波堤として、対ソビエト連邦抑止力としてドイツを利用しようとしたためともいわれる。このためヒトラーはチェコの実質的な併合などの領土拡張政策を推し進めることになる。

第二次世界大戦開戦

ヒトラーは更にポーランドに対して、ダンツィヒ自由市及び東プロイセンとの間の回廊地帯を要求したが、ポーランドは英仏の保証を受けて抵抗した。こうした中、1939年8 月23日にヒトラーは宿敵であるはずのソ連との間に独ソ不可侵条約を結んで世界を驚かせ、直後の9月 1日にソ連との秘密協定を元にポーランド侵攻を開始した。同9月 3日にはこれに対してイギリスとフランスがドイツへの宣戦布告を行い、これによって第二次世界大戦が開始された。

ドイツ軍は空軍の支援の下機甲部隊を主力とした電撃戦によって、旧退化した兵器と戦略しか持たないポーランドをたちまち占領した。1940年に入ると、北ヨーロッパのデンマークとノルウェーを相次いで占領し、更に西部ではベネルクス三国の制圧に続いてフランスを打倒し、5月に行われたダンケルクの戦いでイギリス軍やフランス軍からなる連合国軍をヨーロッパ大陸からたたき出した。しかしこの際にイギリス軍を徹底的にたたかなかったことも影響し、イギリス侵攻はその後のバトル・オブ・ブリテンでの敗北により果たせなかった。

6月21日にフィリップ・ペタンを首班とするフランス政府はドイツに休戦を申し込み、ヒトラー自ら第一次世界大戦の降伏文書の調印場である、因縁のコンピエーニュの森でのフランス代表との降伏調印式に臨み、その後パリ市内の視察を行った。なお7月31日には国防軍最高司令官に就任し、作戦面でも戦争の最高指導者となる。

9月27日には、1937年に締結されていた日独伊防共協定の強化を画策していた日本とイタリアとの3国の間で「日独伊三国条約」を結び、更なる関係の強化を図った。大戦初期に結ばれたこの日独伊三国の軍事同盟は、第二次世界大戦における枢軸国の原型となった。

1941 年にはイギリス軍が抵抗を続けていたユーゴスラビアとギリシアを占領してバルカン半島を制圧し、北アフリカではイギリス軍の前に敗退を続けていたイタリア軍を援けて攻勢に転じた。

独ソ戦開戦

同年6月22日には、わずか2年弱前に不可侵条約を結んだばかりのソ連に侵攻を開始した(バルバロッサ作戦)。この突然のソ連への侵攻においては12月にはモスクワまであとわずかのところまでに迫る勢いであったものの、補給難と冬の到来によってドイツ軍の戦力は限界に達し、後退を余儀なくされた。ヒトラーは陸軍総司令官のヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥を解任して自ら陸軍総司令官を兼任し、東部戦線のドイツ軍に後退を厳禁して、何とか戦線の全面崩壊は免れた。

対ソ戦におけるドイツ軍の最初の後退が行われた直後の12 月7日に行われた、日本軍によるイギリス領マレー半島進攻と、それに続くアメリカ、ハワイの真珠湾攻撃の直後の1941年12月11日の演説では「我々は戦争に負けるはずがない。我々には三千年間一度も負けたことのない味方が出来たのだ」と日本を賞賛し、日本に続いてアメリカに宣戦を布告した。その後は遣日潜水艦作戦を展開するなど様々な形で共同作戦を行うよう指示を行った。

ヒトラーとホロコースト

1940年、ヒトラーはドイツ国内のユダヤ人をマダガスカルに移送させる計画(マダガスカル計画)を検討させた。これはドイツの影響下からユダヤ勢力を排除するための作戦であり絶滅作戦ではなかったが、戦局の悪化により移送は不可能になった。1941年12月には閣僚の提案によってユダヤ人滅亡作戦を指示した。1942年1月にはドイツ国内や占領地区におけるユダヤ人の強制収容所への移送や強制収容所内での大量虐殺などの、いわゆるホロコーストの方針を決定づけるヴァンゼー会議が行われた。

ヒトラー自身がユダヤ人絶滅自体を命じたという書類は現存していない。このため、ホロコーストの命令に関しては「ヒトラーが包括的・決定的・集中的な一回限りの絶滅命令を口頭で指令した」というジェラルド・フレミング、クリストファー・ブロウニング(en)らの説、「正規の集中的絶滅命令は存在せず、軍政・民政・党・親衛隊の各部局が部分的絶滅政策を行った。ヒトラーはこれらの政策に同意や支持を与えていた。」とし、絶滅政策が一貫したものではなく即興性を持つものであるというミュンヘンの現代史研究所所長マルティン・ブロシャート(en)、ハンス・モムゼン(en)、ラウル・ヒルバーグらの説がある。1941年12月12日に全国指導者や大管区指導者を集めて行われた会議(en)においてヒトラーは「ユダヤ人の絶滅は必然的結果でなければならない。」と演説しており、その演説はゲッベルスの日記に記録されている。

また、ヒトラー・ユーゲント指導者のバルドゥール・フォン・シーラッハの夫人であるヘンリエッテの回想は、ヒトラーがホロコーストに関してそれを指示し、賛同する立場であったことを証明するものとされている。ヘンリエッテは、ドイツ占領下の地に住むユダヤ人が次々と逮捕され、列車に詰め込まれ収容所に送られているていることを知り、ヒトラーに直訴することを考えた。1943年4月7日、パーティの場でヘンリエッテがそのことを告げると、ヒトラーは激怒して「その問題にあなたが口を挟む権限はない」と告げて立ち去った。その後、ヘンリエッテは2度とヒトラーから招待を受けることはなかったという。

いずれにしても、「わが闘争」でユダヤ人を罵り、その後も対ユダヤ人迫害政策を自国の影響圏において行わせてきた国家指導者であるヒトラーが、ユダヤ人を絶滅に追い込む政策の進展を支持、賛同こそせよ反対、中止させなかったことは事実である。

戦局の頽勢

その後、開戦から3年目に入った1942年には、再び東部戦線と北アフリカでドイツ軍は攻勢に転じたが、やがて、東部戦線でのスターリングラード攻防戦やアフリカ戦線でのエル・アラメインの戦いなどでの敗北により、ドイツ軍は守勢に転換せざるを得なくなり、1943年には東部戦線でのドイツ軍の最後の大攻勢であるクルスクの戦いでの攻勢失敗や、枢軸国の一員であったイタリア王国のバドリオ政権が降伏して連合国の側につくなど苦しい立場におかれた。

なお9月12日に、イタリア王国の降伏後に新政権に捕えられ幽閉されたムッソリーニを、オットー・スコルツェニー率いる特殊部隊により救出させ(グラン・サッソ襲撃)、その後、ドイツが支配下に置いた北イタリアに、ドイツの支援を受けたイタリア社会共和国(RSI)の樹立を宣言し、その首班に就任させた。

ヒトラーは大戦末期は総統大本営「狼の巣」と名づけた地下壕にこもって昼夜逆転の生活を送りながら、新兵器の開発による奇跡の大逆転を望む日々を過ごした。1944年には、ノルマンディー上陸作戦の成功による西部での第二戦線の確立と、東部戦線でのソ連の大攻勢(バグラチオン作戦による中央軍集団の壊滅)などにより、ドイツ軍は完全に敗勢に陥った。労働力も不足に陥り、国内の秘密工場で働かせるために、東方の収容所やハンガリーのユダヤ人が移送され、多くの犠牲者が出た。

ヒトラーのお気に入りの軍人は、ドイツが攻勢であった大戦前半は、華々しい攻勢作戦を指揮したロンメル、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン、ハインツ・グデーリアンらであったが、守勢に立たされて以降は、頑強な守備作戦の指揮に定評のあった、ヴァルター・モーデル、フェルディナント・シェルナーらがこれに代わった。また、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥はその旧プロイセン軍人風の威厳が好まれて、何度も解任されてはまた重要なポストに再起用された。

1944年7月20日に、ドイツ陸軍のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が仕掛けた爆弾による暗殺未遂事件が起こり、数人の側近が死亡し、参席者全員が負傷したがヒトラーは奇跡的に軽傷で済んだ。事件直後に暗殺計画関係者の追及を行い、処罰を行った人数は、死刑となったヴィルヘルム・フランツ・カナリス海軍大将(国防軍情報部長)、エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン元帥、フリードリヒ・フロム上級大将を始め4,000名に及んだ。また、かつては英雄視されたエルヴィン・ロンメル元帥と、ギュンター・フォン・クルーゲ元帥も、かかわりを疑われて自殺を強要された。

敗北

1944年12月からのアルデンヌ攻勢では、連合国軍を一時的に大きく押し戻し、ヒトラーの賭けは一時的には成功したかに見えたが、結局は物量に勝る連合国軍に圧倒され、ドイツ軍最後の予備兵力をいたずらに損耗する結果となった。

その後ライン川を突破されたドイツ軍は、ヒトラーの命により1945年3 月15日よりハンガリーの首都であるブダペストの奪還と、ハンガリー領内の油田の安全確保のため春の目覚め作戦を行うが、圧倒的な連合軍の物量の前に失敗する。この主要戦線から離れた所で行われた、軍事的に無意味な作戦により完全に兵力を失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者となりえなかった。ドイツ国民は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、連合軍の侵攻が近いドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「ネロ指令」)と呼ばれる命令を発するが、軍需大臣のシュペーアは聞き入れず、ほぼ回避された。なお、この頃以降ヒトラーはラジオ放送も止めベルリンの総統官邸の地下にある総統地下壕にとどまり、国民の前から姿を消すことになる。

大戦中を通じてヒトラーは、しばしば政治上の必要性を重視するあまり戦略的に意味のない地域の確保にこだわったり、無謀な拠点死守命令を出したりして敗北の原因を作った。また形勢が不利になると作戦の細部にまで介入するようになり、参謀本部との関係が険悪になった。しかし、自殺前に行われた最後の声明に到っても、戦争に負けた原因を参謀本部にあるとして非難した。この態度にはわけがある。ヒトラーは側近には自分のイエスマンしかおかず、自分より優秀な人間や意見を少しでも言おうものなら即座に更迭をするなどということを繰り返した。そうなると当然意見や正確な状況を伝えるということをしなくなり、ヒトラーの末期の言動を調べてみると、ヒトラーには戦況自体がまるでわかっていないということがわかる。つまりそういった戦況を正しく知らせなかったことを非難しているのである。

1945 年4月16日にソ連軍は、ベルリン占領を目的とするベルリン作戦を発動した。4 月20日に総統誕生日を祝うために、軍とナチス高官が総統官邸に集まった。この日開催された軍事会議で、アメリカ軍とソ連軍がエルベ河で合流した場合に備え、ドイツ北部をカール・デーニッツ元帥が指揮することになったが、南部の指揮権は明示されなかった。、各種政府機関も即時ベルリンを退去することが決まり、ゲーリングら主要な幹部も立ち去っていった。

ソ連軍は圧倒的な物量を持ってベルリンに迫り、首都の死守を命令されたベルリン守備隊との間で激しい市街戦が行われ、多くの軍人や市民が銃弾が飛び交うベルリン市内で命を落とした。ベルリンの戦いで敗北が迫ると、ヒトラーは側近からベルリンからの退避を勧められたものの拒否した上、七年戦争におけるフリードリヒ大王のブランデンブルクの奇跡を引き合いに出して、最後まで勝利を信じて疑わなかったという。

4月23日には、総統地下壕を脱出したカール・コラー空軍参謀総長が、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将の伝言を携えゲーリングのもとを訪れる。ヨードルの伝言は「総統が自決する意志を固め、連合軍との交渉はゲーリングが適任だと言った」という内容だった。ゲーリングは不仲であったマルティン・ボルマンの工作を疑い、総統地下壕に1941年の総統布告に基づく権限委譲の確認を求めた電報を送る。電報を受け取ったボルマンは、「ゲーリングに反逆の意図がある」とヒトラーに告げる。ヒトラーは激怒し、ゲーリングの逮捕とナチス党からの除名、そして別荘への監禁を命じた。

自殺

4月29日に、ハインリヒ・ヒムラーがヒトラーの許可を得ることなく英米に対し降伏を申し出たことが世界中に放送され、ヒトラーに最後の打撃を与えた。終末が近づいたことを悟ったヒトラーは、個人的、政治的遺書の口述を行い、ベルリンの地下壕でエヴァ・ブラウン(エファ・ブラウン)と結婚式を挙げる。その翌日、総統官邸総統地下壕において、愛犬ブロンディを自ら毒殺した後、妻エヴァ・ブラウンと共に自殺した。ヒトラーは遺言によって、自分の後任の大統領兼国防軍最高司令官職にカール・デーニッツ海軍元帥、首相職にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相、ナチ党担当大臣にマルティン・ボルマン党官房長をそれぞれ指名している。

自殺の際ヒトラーは拳銃を用いたが(しかし銃創は額にあり不自然である)エヴァは毒を仰いだ。遺体が連合軍の手に渡るのを恐れて140リットルのガソリンがかけられ焼却されたため、死亡は側近らの証言によって間接的に確認されただけだった。ひどく損壊した遺体はソ連軍が回収し、検死もソ連軍医師のみによるものだった(この数年後ヒトラーの遺灰はソ連の飛行機によって空中散布された)ため、西側諸国にはヒトラーの死亡に関し疑わしい部分が残り、後にヒトラー生存説が唱えられる原因となった。

また、スターリンも、その死体が本当にヒトラーのものであると確信が持てず、イギリスとアメリカ軍が密かにヒトラーを匿っているのではないのかと疑心暗鬼におちいった。そのため、英米ソ軍とも戦後しばらくヒトラーと容貌が似た人物を手当たり次第逮捕して取り調べている。

なおドイツにとって最大の同盟国の日本は、先に死去したアメリカのフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領の死去に際し、正式に弔意を示す声明を発表したものの、ドイツという最大の同盟国の国家元首の自殺の報を受けても、弔意を示す声明を発することも、半旗の掲揚を行うなどの外交儀礼を行うことはなかった。また、駐日ドイツ大使館は恐らく世界の公的機関として唯一の追悼式を行ってヒトラーの死を悼んだ。しかしヒトラーの死とその後のデーニッツ政権下のドイツの降伏、そして事実上の国交断絶を予想し幻滅した日本政府は、これに対しても外務省の儀典課長を寄こすのみであった。

ヒトラーと反ユダヤ主義

ヒトラー本人の著作や発言等から、ヒトラーは少年時から様々な反ユダヤ主義に影響された「生粋のアーリア人至上主義者」と見なされる傾向が強い。しかし、ヒトラー個人と付き合いがあった人々の証言からは、ヒトラーがいつそのような人種概念を身につけたのか判断するのは難しい。

ヒトラーが幼い頃に母親と通った質屋の主人がユダヤ人であり、その主人がヒトラー親子の品を安値でしか買い取ってくれず、そのためヒトラーはユダヤ人に対して不信感を抱くようになったという俗説もあるが、父の恩給を受給していたヒトラー一家が経済的に困窮していた事実はない。なお、この頃ヒトラーの母親を治療した医師はユダヤ人であった。この医師は後にユダヤ人迫害が開始された後も「名誉アーリア人」として手厚く保護され、その後外国に解放されたという。ヒトラーは自分に対して恩のある人間にはユダヤ人であっても例外的に扱ったのではないかという指摘もある。また、ナチス政権下で、「名誉アーリア人」として航空省次官となったエアハルト・ミルヒの父親はユダヤ人であったという説がある。

ヒトラー自身も言っていたようにウィーン時代に反ユダヤ主義者になったと見られている。しかし、ウィーン時代の友人にユダヤ人がいたとされている。ただ、その友人と金銭トラブルがあったようで、このことは警察にも記録されていることから、このことがヒトラーに大きな影響を与えたという説を唱える者もある。その後、ヒトラーと関係があったユダヤ人には、第一次世界大戦下でヒトラーの叙勲を推薦した上官や、第一次世界大戦後にヒトラーがミュンヘンで住んだアパートの管理人がいる。ヒトラーは管理人が作った食事を食べながら、党幹部と打ち合わせを度々行っていた。しかし党勢の拡大とともにヒトラーはそのアパートを引き払った。

いずれにしろ、入党後の1920年8月23日には『ホフブロイハウス』で「ユダヤ人は寄生動物であり、彼らを殺す以外にはその被害から逃れる方法はない」と演説するほどの確固たる反ユダヤ主義者となっていた。一方スラブ人をも劣等人種として扱っていたが、スラブ人の音楽家であるピョートル・チャイコフスキーやセルゲイ・ラフマニノフ、さらにユダヤ人のブロニスラフ・フーベルマンやアルトゥル・シュナーベルのレコードを所持していた

さらに詳しく → アドルフ・ヒトラー  ホロコースト



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