高森明勅の「大東亜戦争開戦の真実」(H18.12.6)

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2009/12/26(土)
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コミンテルン(ロシア語:Коминтернカミンテールン;ラテン文字転写の例:Komintern;英語:Comintern)は、共産主義の国際組織である。1919年3 月、モスクワで結成された。この組織は 「世界のブルジョアジーを打倒するために、さらに国家の完全な廃止に向けての過渡的段階としての国際的ソビエト共和国の建設のために軍事力を含むあらゆる可能な手段によって」 戦うことを意図していた。ウラジミール・レーニンがツィンマーヴァルト左派を率い、第一次大戦において各国政府を支援した者たちと対決した1915年のツィンマーヴァルト会議、そして1916年の第二インターナショナル解散後、コミンテルンが結成されている。

別名第三インターナショナル、共産主義インターナショナル、国際共産党。「共産主義のインターナショナル」という意味のコムニスチーチェスキイ・インテルナツィオナール(Коммунистический Интернационал;コミュニスト・インターナショナル(Communist International)の略称。

コミンテルンは、1919年3月から最後となった1935年までに7回のコミンテルン大会を開催している。1928年の時点ではソビエトのメンバーを除くと組織には583,105名のメンバーがいたと推定されている。前身の組織として第一インターナショナル、第二インターナショナルが存在する。

概要

第二インターナショナルは、第一次世界大戦の際、加盟する社会民主主義政党がそれぞれ自国の戦争を支持したために瓦解し、これに反対する諸派がスイスのツィンメルワルトで開いた国際会議がコミンテルンの源流。十月革命後の1919年3 月、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)の呼びかけに応じてモスクワに21カ国の代表が集まり、第一回大会を開いた。

当初は世界革命の実現を目指し、ボリシェヴィキが各国の革命運動を支援するための枠組として機能した。しかしレーニン死後にスターリンが一国社会主義論を打ち出したことで役割が変わり、各国の共産党がソ連の外交政策を擁護するのが中心になっていった。ロシア共産党は両手としてソ連政府とコミンテルンを使い分け、各国がコミンテルンの活動に苦しめられてもソ連政府は直接関知しないことを主張した。1920 年代中頃には中国で国民党政権と協調し、共産党が弾圧されても黙認した。

1928 年夏のコミンテルン第六回大会ではファシズムと社会民主主義のつながりが強調され「社会ファシズム論」が台頭したが、1930年代前半よりドイツで台頭するナチスに対し、ドイツ共産党が社会ファシズム論に基づいてドイツ社会民主党との対立にあけくれたことは、ナチスの権力獲得を許す一因となった。1935 年のコミンテルン第七回大会では方針転換をはかり人民戦線の戦術を提唱した。スペインやフランスで人民戦線政府が誕生したが、スペインではフランコによる反乱からの内戦で壊滅した。独ソ不可侵条約の成立と第二次世界大戦初期のポーランド分割の結果、人民戦線戦術は放棄された。第二次世界大戦の勃発に伴って名実ともに存在意義を失い、1943年5 月に解散した。

設立

ロシアの内戦を背景とし、コミンテルンは1919年3月2日から6日までモスクワで催された世界大会の中で結成された。 19の会派と組織がその大会を援助し、34会派からの52人の代表が出席していた。執行委員会は最も重要な部門の代表で組織されること、及びコミンテルンに参加していた他の会派はそれ自身の代表を得ることが決定された。執行委員会がコミンテルンの雑務を処理するために5人で構成される事務局を選出することも大会で決定されていた。しかし、そのような事務局は設置されず、レーニン、トロツキー、及びクリスチャン・ラコフスキーは後にそのコミンテルンの業務を執行委員会の議長としてグリゴリー・ジノヴィエフに委任した。ジノヴィエフはコミンテルンの書記として活動したアンジェリカ・バラバーノフやヴィクトル・セルジュ、Vladmir Ossipovich Mazin[7]に補佐されている。議題はレーニン、トロツキーとアレクサンドラ・コロンタイによって提出された。議論された主な議題は、「ブルジョワの民主主義」と「プロレタリアートの独裁」との違いであった

大粛清とコミンテルン

1930年代のスターリンによる大粛清はソ連国内及び海外にいたコミンテルン活動家に影響を及ぼした。スターリンの指示により見かけ上はコミンテルンとして活動するソ連秘密警察、対外諜報員及び情報提供者がコミンテルンに徹底的に送り込まれた。「ミハイル・アレクサンドロヴィチ・モスクビン」という偽名を使っていたその指揮官の1人であったメール・トリリッセルは実際には後に内務人民委員部(NKVD)となるソビエトOGPUの対外部局長官であった。コミンテルンのスタッフメンバー492人の内133人がスターリンの命令で大粛清の犠牲者になった。ナチスドイツから逃げたり、あるいはソ連に移住するよう説得された数百人のドイツ人の共産主義者と反ファシズム主義者は粛清され、また1000名以上がドイツに送還させられている。

フリッツ・プラッテン(Fritz Platten)は強制労働収容所で死んだ。インド(ヴォレンドラナート・チャットパディア、Virendranath Chattopadhyaya or Chatto)、朝鮮、メキシコ、イラン及びトルコの共産党の指導者が処刑された。11人のモンゴル共産党指導者の内、ホルローギーン・チョイバルサンだけが生き残った。数多くのドイツ人共産主義者がヒトラーに引き渡された。レオポルド・トレッペルは、「全ての国の党活動家がいた宿舎ではだれも朝の3時まで寝なかった。… ちょうど3時に自動車のライトが見え始めた。…我々は窓の傍で、どこにその車が止まったか確かめようと待った」と、この頃を振り返った

さらに詳しく → ハル・ノート  ハリー・ホワイト  コミンテルン  高森明勅  大東亜戦争  日本文化チャンネル桜



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