戦艦大和と戦艦武蔵のCGと画像

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2009/12/25(金)
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武蔵(むさし)は、第二次世界大戦中に建造された大日本帝国海軍の大和戦艦の二番艦である。当時は武藏と表記された。この名を持つ日本海軍の艦船としては3隻目。

建造過程

三菱重工業長崎造船所建造の戦艦としては、3隻目(土佐を除く)となる。僚艦同様本艦の建造は極秘とされ、船台の周囲には魚網に使う棕櫚(しゅろ)を用いたすだれ状の目隠しが全面に張り巡らされた。膨大な量の棕櫚を買い占めたために市場での著しい欠乏と価格の高騰を招き、付近の漁民らは「ただならぬことが造船所で起きている」と噂し、建造中の船体を指して「オバケ」と呼んでいたという。また、対岸にはアメリカ・イギリスの領事館があったため、目隠しのための遮蔽用倉庫を建造するなど(長崎市営常盤町倉庫)、建造中の艦の様子が窺い知れないような対策を施した。

このような厳重な機密保持のもとではあったが、新人製図工による図面紛失事件や、熟練工でも困難な船台の増設など、建造には常に障害が相次いだ。進水時には船体が外部に露見してしまうため,当日を「防空演習」として付近住民の外出を禁じ、付近一帯に憲兵・警察署員ら600名、佐世保鎮守府海兵団隊員1200名などを配置した。このような厳重な警戒態勢の中で進水式は挙行された。

進水台と樹脂の製造にも骨を折ったといわれる。錨をあらかじめ減速用の重りとして付けながら狭い港内に長崎造船所第二船台から滑り込んだ武蔵の船体は、周辺の海岸に予想外の高波を発生させた。周辺河川では水位が一気に30センチ上昇したところもあり、船台対岸の浪の平地区の民家では床上浸水を生じ、畳を汚損したとの被害報告も確認されている。また、客船についてのノウハウを持つ民間の三菱重工業長崎造船所の艤装技術が盛り込まれ、大和よりも内装は豪華であったともされている。戦艦武蔵は、現在までのところ、日本が建造した最後の戦艦である。

沈没までの経緯

レイテ沖海戦におけるシブヤン海海戦において、米軍機の雷撃20 本、爆弾17発、至近弾20発以上という軍艦史上最多・空前絶後の損害を受けたが、艦前部を主に両舷の浸水がほぼ均等で、当初左右方向への傾斜が僅かまたは復元可能であったこと及び機関部が健在であったことにより、沈没に至る過程において速度は低下したものの回避運動が可能であったため、被弾数に比べて長時間交戦できたものと推測される。ちなみに、米軍はこの戦闘を教訓として昭和20年4月の天一号作戦時の「大和」への攻撃を左舷に集中させたとされる。

防水作業、復旧作業に従事した人物の手記が残っているが、これほどの被害を受けながら火災の方はすぐに鎮火したようである。後部甲板に兵員を集めて、上部士官より説明があった後に重量物の移動や排水作業を開始したが、角材がマッチ棒のように折れて、鉄板がベニヤ板のようにしなる・・・と水圧との戦いの凄まじさが伝えられている。浸水した機械室も排水作業が試みられたが、浸水は減るどころか増える一方だったと記載されている。

昭和19年10月24日午後、速度の低下した武蔵は艦隊から落伍。駆逐艦「清霜」に伴われてコロン湾を目指したが、現地時間19時35分頃、ついに艦尾を高々と上げて沈没した。沈没時には大爆発を起こしたという記載もある。武蔵の沈没に伴う戦死者は猪口敏平艦長以下1021名、生存者は1376名。

生存者の半数以上はフィリピン守備隊に残され、陸戦隊としてマニラ市街戦に参加させられたりしたが、その多くは戦死してしまった。他にも「隼鷹」で日本へ帰還出来た乗組員もいたが、その他の戦線に戦局悪化の口封じに駆り出された兵士も少なくなかった。沈没地点は猪口艦長の遺書を託された副長の加藤大佐が退艦時に記載したものが採用されているが、沈没地点が深海のために船体は確認されていない。

大和」よりも遅れて起工された本艦には、「大和」建造中に判明した不具合の改善や、旗艦設備の充実が追加指示された。しかし、もとよりドック内で建造された「大和」と異なり、船台上で建造された武蔵は、船台から海面に下ろし進水させるという余分なステップを踏まねばならなかった。更に工事の途中で太平洋戦争が勃発した為、工期を大幅に繰り上げるよう厳しく督促された。厳重な機密保持の中、作業に当たった人々は、超人的な努力で事に当たり、見事に成し遂げたのである。これらの経緯は吉村昭の『戦艦武蔵』および牧野茂/古賀繁一監修『戦艦武蔵建造記録』(アテネ書房)に詳しい。

レイテ沖海戦までに高角砲増設工事が間に合わなかった為、「大和」とは兵装が若干異なり、対空噴進砲(対空ロケットランチャー)を積んでいたという説もあるが、その存在を実証する史料は現在のところ発見されていない。 また捷一号作戦発動に際し10月18日に夜間迷彩として木甲板を黒い塗料で塗装した為、最終時の最上甲板は黒色だったと思われるが、塗料の材質は不明(砥の粉で磨かれていたという説や煤を溶剤に溶かしたものだという説がある)。

第1次空襲で外周の駆逐艦、巡洋艦の砲火をくぐりぬけた米軍機は武蔵に殺到。(殺到の原因については当然武蔵が巨大だった事が最大の要因だがリンガ泊地に於いて武蔵だけが塗装を塗り直した為、一番目立っていたのも要因とされる)爆弾1発が命中したが、厚い装甲が跳ね返し、空中で爆発(船体に被害なし)。その後の攻撃でも度々主砲塔には爆弾が命中したとされるが、全て装甲で弾き返し被害はなかったとされる。この攻撃では3本の魚雷が武蔵に向かって放たれたが2本は船底の下を通り抜けた。しかし1本が命中。この衝撃で艦橋トップの照準装置の台座が歪んで旋回不能となり、全砲塔の統一射撃が不可能となった。その後はそれぞれの主砲塔に設置してある照準システム及び後部艦橋の予備システムで射撃を続行した。(ただし、被弾ではなく主砲斉射の衝撃で方位盤が故障した、と証言する乗員も居る)。艦は5°傾斜したが、注水し復元。

第二次空襲で主砲は上記理由のために個別射撃のみ。主砲三式弾9発発射。事前ブザーがなかったために多くの甲板員が爆風を受ける(異説あり)。魚雷3発と爆弾2発が命中。水平装甲板上で炸裂した爆弾による爆風が通気孔を通じてタービン室に突入し、蒸気管が破損したために内側の1つの機械室内が高温となって使用不能となり3軸運転、最大速力は22ノットに落ちた。また1番2番主砲塔は魚雷命中による弾薬庫の直接の被害は無かったが、庫内温度が上昇し、弾薬庫に注水作業をしたため使用不能となる。

最終的に武蔵は爆弾10発以上、魚雷20本以上が命中して大火災を起こし、艦の前部に著しい浸水を見た本艦は前後の傾斜差が8メートルを超え前部主砲の一番低い箇所は波に洗われるほどになったため必死の浸水防止の対策が採られた。栗田長官から撤退命令を受けたあと、復旧作業をしながらフィリピンのコロン湾を目指した。傾斜復旧のための注水作業(注排水区画が満水のため缶室、機械室、居住区に注水)が行われ、沈没の直前には右舷の缶室(ボイラー室)6個のうち、外側の3つについて注水作業の命令があり、満水になるまでかなりの時間が必要なので、どの程度の効果があったか不明であるが、少なくとも1つについては実際に艦底のバルブが開かれて注水が行われた。浸水は拡大する一方で、最後の機械室にもついに浸水が及び停止してしまう。

また、左舷への傾斜が10°を超えたため、傾斜復旧作業の一環として機銃の残骸や接舷用の器具(防舷材)、負傷者や遺体を右舷に移す作業も行われたが、これらは後ほど傾斜が酷くなったときに、一斉に甲板上を右舷から左舷に滑落し、巻き込まれ死亡した乗員が少なからずいたといわれる。

19時15分頃航行不能に陥り左傾斜十二度となったため、猪口艦長より"総員上甲板"が発令され、軍艦旗降下後間もなくの19時30分頃急速に傾斜を増したため総員退去命令が発せられ、ついに19時35分頃左舷に転覆し沈没した。
沈没時には煙突等艦内に流入する海水により大渦が出来、完全に艦体が海没後、船体が大爆発を起こしたことが目撃されている。(この爆発は缶室のボイラーが水蒸気爆発を起こした、主砲弾薬庫の弾薬が転覆による衝撃で誘爆した等諸説ある。)

戦闘時の混乱で、正確な被雷爆数は現在でも不明だとされる。戦闘終了後数時間以上に渡って浮き続け、微速ながら前進を止めなかったのは本艦の驚異的防御力を示したものの、ついには航空攻撃の前に不沈艦たり得なかった。猪口敏平艦長は、「敵の攻撃は執拗で巧妙、この艦を失うことは、誠に申し訳ない。25ミリ機関砲はもっと威力を高める必要がある。命中しても敵機はなかなか墜落しない。」という言葉を残しているが、同時に「武蔵は航空機の攻撃には無力だった」という事を逆説的に象徴している。尚、沈没までの対空戦闘で前日潜水艦の雷撃により沈没し、救助されて武蔵に移乗していた「摩耶」の乗員も多数犠牲になっている。

駆逐艦「清霜」は、復旧作業中に武蔵に横付けされ、負傷者や摩耶の一部生存者などが移乗した。こういった様々な要素等が日本の艦船においては比較的高い生存率を示すことになった。しかしまた武蔵が沈没すると判断されておらず、殆どのものが武蔵に残って復旧作業を行ったが、武蔵の傾斜が更に酷くなって再度、駆逐艦「清霜」に接近するように武蔵から発光信号が送られたものの、沈没の巻き添えを回避するために、それは叶わなかった。

海に飛び込んだ乗組員は武蔵沈没時の大渦に巻き込まれたり、武蔵の爆発により圧死したりした者もいたといわれるが、随伴していた駆逐艦「清霜」、「浜風」に約1350名が救助された。救助作業は約7時間に渡ったといわれる。沈没直前の艦前方が半ば海面下に没した写真は、武蔵最期の姿として有名である。

さらに詳しく → 大和  武蔵



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