コソボ紛争 市街地での銃撃戦

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2009/12/24(木)
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コソボ紛争(コソボふんそう、アルバニア語:Lufta e Kosovës、セルビア語:Рат на Косову и Метохији、英語:Kosovo War)、またはコソボ戦争、コソボ・メトヒヤ戦争は、バルカン半島南部のコソボで同時に発生した2つの武力衝突を示す。

1. 1996年-1999年: ユーゴスラビア軍およびセルビア人勢力と、コソボの独立を求めるアルバニア人のテロリスト組織コソボ解放軍との戦闘
2. 1999年: 1999年の3 月24日から6月10日にかけて行われたNATOによるアライド・フォース作戦、この間、NATOはユーゴスラビア軍や民間の標的に対して攻撃を加え、アルバニア人勢力はユーゴスラビア軍との戦闘を続け、コソボにおいて大規模な人口の流動が起こった。


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1996 年-1998年: 紛争に突入

ルゴヴァの受動的抵抗の方針によって、1990年代前半のスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナで独立戦争があった間、平穏に保たれていた。しかしながら、コソボ解放軍の登場に見られるように、この平穏はアルバニア人たちの間に広がる大きな不満と引き換えのものであった。 1990年代半ば、ルゴヴァは国際連合に対してコソボでの平和維持活動を求めた。1997年、ミロシェヴィッチはユーゴスラビア連邦共和国の大統領に選出された(ユーゴスラビア連邦共和国はセルビア共和国とモンテネグロ共和国によって1992年4 月に発足した新しい連邦である)。

セルビアによる抑圧が続くにつれ、アルバニア人たちの多くが過激化し、その一部は武力闘争のみが状況を打開し得ると考えるようになった。1996年4 月22日、セルビア治安部隊の隊員に対する攻撃が同時多発的にコソボの異なる地域でそれぞれ発生した。コソボ解放軍の性質について、初期の頃は謎に包まれていた。実際には、コソボ解放軍は小規模で、氏族を基盤とし、組織化の十分でない急進的アルバニア人の集団に過ぎず、その多くはコソボ西部のドレニツァ(Drenica)地方の出身であった。この時点でのコソボ解放軍は、地元の農民や追放者、失業者らであったと見られる。

コソボ解放軍は、コソボ国外に離散したアルバニア人ディアスポラから資金援助を受けていたと考えられている。そして、アルバニア人による麻薬取引の拠点はヨーロッパ各地に作られた。1997年初期、アルバニアでは、ねずみ講破綻に伴うアルバニア暴動とサリ・ベリシャの失脚の中、無秩序状態となっていた。軍の武器庫から武器が犯罪集団の手へと渡り、その多くが後にコソボ西部へと持ち込まれ、コソボ解放軍の装備を大幅に強化した。ブヤル・ブコシ(Bujar Bukoshi)はスイスのチューリヒに置かれた亡命政府の大統領で、ブコシはコソボ共和国軍(en、Forcat e Armatosura të Republikës së Kosovës; FARK)と呼ばれる組織を設立した。

多くのアルバニア人たちは、コソボ解放軍を正当な解放闘争者とみていたが、ユーゴスラビア政府からは政府や市民を攻撃するテロリストと呼ばれた。

コソボの危機的状況は1997年12月に上昇した。ボスニア・ヘルツェゴビナ問題を監督する和平履行評議会の会合がボンで開かれた際に各国は、ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表に対して、選挙で選ばれた指導者を退ける権利を含む強大な権限を与えることに同意した。同じ時期に、西側各国の外交官らはコソボについても話し合うことを企図し、ユーゴスラビアおよびセルビアはコソボのアルバニア人の要求に対して責任があるとした。これは、ボスニア・ヘルツェゴビナ問題について話し合うコタンクト・グループ諸国が、ボスニア・ヘルツェゴビナ問題は解決局面に入ったという認識と、セルビアに対するコソボ問題解決の求めに対するものであった。

コソボ解放軍による攻撃はこの頃から激化し、ドレニツァ渓谷地帯に集中し、アデム・ヤシャリ(Adem Jashari)がその中心的存在となっていた。ロバート・ジェルバードがコソボ解放軍をテロリストと呼んでから数日後、リコシャン / リコシャネ(Likoshan / Likošane)地域でのコソボ解放軍の攻撃に対してセルビア警察が応じ、コソボ解放軍の兵士らをチレズ / ツィレズ(Qirez / Cirez)まで追い、30人のアルバニア人市民と4人のセルビア人警官が死亡した。これが紛争において初の本格的な戦闘であった。

複数の捕虜の即決殺害や市民に対する殺害があったものの、西側諸国のユーゴスラビアに対する非難は、この時点ではあまり大きくならなかった。セルビア警察はヤシャリとその支持者をプレカジ=イ=ポシュテム / ドニェ・プレカゼ(Prekazi-i-Poshtem / Donje Prekaze)へと追撃した。この3月5日の出来事は、西側諸国の政府からの大きな非難を呼んだ。アメリカ合衆国の国務長官マデレーン・オルブライトは、「この危機はユーゴスラビア連邦共和国の国内問題ではない。」と述べた。

3月24日、セルビア軍はドゥカジン(Dukagjin)作戦地帯にあったグロジャン / グロジャネ(Gllogjan / Glođane)の村を包囲し、村にいた反乱分子を攻撃した。セルビア軍は火力の上で優位にたっていたものの、コソボ解放軍の部隊を壊滅させることはできなかった。アルバニア人側には死者や重傷者もあったものの、グロジャン / グロジャネでの反乱を抑えきることはできなかった。この地域は、後に続く紛争では抵抗勢力側の重要な拠点のひとつとなった。

また別のコソボ解放軍の重要な拠点はコソボとの国境に近いアルバニアの北部の、トポロヤを中心とした地域であった。続く1997年のアルバニア暴動によって、アルバニアの一部の地域では政府の統制が及ばなくなった。さらに、アルバニア軍の装備が略奪された。これらの略奪された兵器の多くは、後にアルバニア国境地帯に拠点を構えるコソボ解放軍の手に渡った。ここはコソボ解放軍による攻撃、そして武器をドレニツァ地方へと送り込む拠点であった。メトヒヤ平原には、ジャコヴァ / ジャコヴィツァ(Gjakova / Đakovica)を経由してアルバニアからドレニツァ、そしてクリナを結ぶ道路があり、コソボ解放軍の活動の初期の拠点であった。

コソボ解放軍の最初の目標はドレニツァの拠点とアルバニア本国の拠点を結ぶことであった。そして、戦闘の最初の数箇月でこれは達成された。コソボ解放軍は西側諸国、そしてイスラム世界からの支援を受けており、その中にはムジャーヒディーンたちも含まれる。

セルビア側は交渉の努力も続けており、イブラヒム・ルゴヴァの側の人員と会談もした。何度かに及んだ交渉がすべて失敗に終わった後、セルビア側の代表者ラトコ・マルコヴィッチ(Ratko Marković)はコソボの少数民族のグループを呼び、アルバニア側との交渉を続けた。セルビアの大統領ミラン・ミルティウノヴィッチ(Milan Milutinović)も会談に参加したが、ルゴヴァは参加を拒否している。ルゴヴァとその支持者らはセルビアではなくユーゴスラビア連邦との会談を望んでおり、コソボの独立を目指す立場であった。

この時、セルビアではセルビア社会党とセルビア急進党を中心とした新しい政権が発足した。民族主義者のヴォイスラヴ・シェシェリが副首相となった。これによって、セルビアと西側諸国との軋轢はいっそう激しくなった。4月上旬、セルビアは、コソボ問題に関する外国の干渉問題について、国民投票を実施した。セルビアの有権者らは、この国内問題に対する外国の干渉を明確に拒絶した。

その間、コソボ解放軍はデチャニ(Deçan / Dečani)周辺の大半の地域を制圧し、グロジャン / グロジャネ (Gllogjan / Glođane)の村の周辺を進攻した。1998年5 月31日、ユーゴスラビア軍とセルビア内務省の警察は、コソボ解放軍との前線を突破するための作戦に入った。この作戦は数日後に終わり、その中では捕虜の即決殺害や市民の殺害があったとされている。これによって西側諸国からの空爆を招くことになった。

この間、ユーゴスラビアの大統領スロボダン・ミロシェヴィッチはロシアのボリス・イェリツィンとの間で、NATOによる攻撃的行動を中止させ、セルビアではなくユーゴスラビアとの話し合いを望むアルバニア人側と交渉を持つことで合意に達した。実際には、ミロシェヴィッチとイブラヒム・ルゴヴァとの間で行われた会談は、5 月15日にベオグラードでのたった1回のみであった。リチャード・ホルブルック(Richard Holbrooke)は、交渉が行われるだろうと発表した2日後のことである。1箇月後、ホルブルックはベオグラードを訪れてミロシェヴィッチに対して「要求に従わなければ、あなたの国に残された全てが破壊されるだろう」と脅迫した後、5月から6月にかけての作戦行動の跡を見に国境地帯を訪れた。その場所で、ホルブルックがコソボ解放軍とともに写真に写っている。これらの写真の公表は、コソボ解放軍とその支持者、共鳴者らに対して、あるいは広く一般の人々の目に、アメリカ合衆国がコソボ解放軍を支持していることを示す明確なシグナルとなった。

イェリツィンとの合意では、ミロシェヴィッチは国際的な代表者らにコソボ・メトヒヤでの活動を容認することになっていた。これはコソボ外交監視団(Kosovo Diplomatic Observer Mission)と呼ばれ、7月初旬から活動を開始した。アメリカ合衆国の政府はこの合意の一部を歓迎したものの、双方への停戦の呼びかけを批判した。むしろ、アメリカ合衆国はセルビア、ユーゴスラビア側が「テロリスト活動の中止とは関係なく、無条件で停戦すべき」であるとした。

6月から7月にかけて、コソボ解放軍はその優位を保ち続けた。コソボ解放軍はペヤ / ペーチ、ジャコヴァ / ジャコヴィツァを包囲し、ラホヴェツィ / オラホヴァツの北のマリシェヴァ / マリシェヴォ(Malisheva / Mališevo)の町にて臨時首都を設立した。コソボ解放軍はバラツェヴェツ(Belacevec)炭鉱を攻撃して6月末に占領し、地域のエネルギー供給を脅かすことに成功した。

7月中旬にコソボ解放軍がラホヴェツィ / オラホヴァツを制圧すると、情勢は一転した。1998年7 月17日、ラホヴェツィ / オラホヴァツに近接した2つの村レティムリェ(Retimlije)とオプテルシャ(Opteruša)にて、全てのセルビア人男性が拉致され、後に遺体で発見された。これらほど組織化されてはいないものの、同様の事例はラホヴェツィ / オラホヴァツや、より大きなセルビア人の村ホチャ・エ・マヅェ / ヴェリカ・ホチャ(Hoça e Madhe / Velika hoča)でも発生した。ラホヴェツィ / オラホヴァツから5キロメートルにあるゾツィステ(Zociste)の正教会の修道院は、聖人コスマスとダミアノス(Kosmas and Damianos)のレリーフが有名であったが、この修道院も地元のアルバニア人によって襲撃され、略奪され、修道士らはコソボ解放軍の収容所に送られ、無人となった間に、修道院の聖堂をはじめすべての建物は爆破され、消失した。これがきっかけとなり、セルビア人とユーゴスラビアによる攻撃が始まり、8月初旬まで続いた。

コソボ解放軍による新しい攻撃は8月中旬に、ユーゴスラビア軍によるコソボ・メトヒヤ南西部のプリシュティナ=ペヤ道路の南で行われた攻撃に反応して始められた。この攻撃によってクレツカ(Klecka)は8月23日にコソボ解放軍に制圧された。この場所はコソボ解放軍による死体焼却場として使われ、その犠牲者らが見つかった。9月1日には、コソボ解放軍はプリズレン周辺で攻勢をかけ、ユーゴスラビア軍はその対処にあたった。ペヤ / ペーチ周辺のメトヒヤ地域において行われた別の攻撃は大きな非難を呼び、各国の政府や国際的な機関は、追放された人々の大規模な一行が攻撃を受けた可能性を危惧した。これに引き続いてドニイ・ラティス(Donji Ratis)が陥落した。同地では、コソボ解放軍が集団死体遺棄現場を築いており、この場所からは行方不明になっていたセルビア人やそのほかのコソボの市民ら60人の遺体が発見されている。

9月中旬のはじめごろ、コソボ解放軍による戦闘がはじめてコソボ北部のベシアナ / ポドゥイェヴォ(Besiana / Podujevo)で報じられた。最終的に9月の末には、コソボ解放軍をコソボ北部、中部、そしてドレニツァ渓谷そのものから一掃するための作戦が行われた。この間、西側諸国からセルビアに対してさまざまな脅迫がなされたものの、それらはボスニア・ヘルツェゴビナで実施される選挙のために中断された。西側諸国はセルビア急進党やセルビア民主党が選挙で勝利することを嫌い、セルビアへの圧力を弱めたのである。しかしながら、ボスニア・ヘルツェゴビナでの選挙が終わると、再びセルビアに対する脅迫を強化させた。しかし、それらは決定的とはならなかった。9 月28日、コソボ外交監視団が、アブリ・エ・エペルメ / ゴルニェ・オブリニェ(Abri e Epërme / Gornje Obrinje)の村の外で、ある家族の切断された遺体を発見した。そこから見つかった血まみれの人形は衝撃的な映像として発信され、参戦への大きな理由となった。

このほかにも、参戦の有力な動機となった事実として、推計250,000人のアルバニア人が家を追われ、30,000人は森の中に隠れており、寒さから身を守る十分な服も住む場所もなく、季節は冬へと向かっていた。

この間、マケドニア共和国に駐在するアメリカ合衆国の大使、クリストファー・ヒルは、ルゴヴァ率いるアルバニア人側の代表者と、セルビア、ユーゴスラビアの当局との間でシャトル外交を展開していた。このときの交渉こそが、NATOがコソボ占領の計画を策定している間に、和平合意に盛り込まれるべき内容を形作ることとなった。

この2週間の間、セルビアに対する圧力はさらに強められ、NATOにはついに戦時編成命令が出されるに至った。空爆のためのあらゆる準備が整えられ、リチャート・ホルブルックはベオグラードへ行き、NATOによる圧力を背景としてミロシェヴィッチとの間での合意を模索した。ホルブルックに同行したマイケル・ショートは、ベオグラードを破壊すると脅した。長く辛い交渉の末に、1998年10月12日にはコソボ査察合意が結ばれた。

公式には、国際社会は戦闘の終結を求めていた。国際社会は特に、セルビア側に対してコソボ解放軍への攻撃を中止するよう求めていた(コソボ解放軍による攻撃には特に触れられることはなかった)。また、コソボ解放軍に対しては、その独立要求を取り下げるように求めた。さらに、ミロシェヴィッチに対しては、コソボ全域でのNATOによる平和維持部隊の活動を認めるように要求していた。彼らによる交渉の中で、クリストファー・ヒルに対して、和平プロセスを進め、和平合意を受諾することを認めた。1998年10月25日、停戦が取り付けられた。合意ではコソボ査察使節団の設置が認められたコソボ査察使節団は欧州安全保障協力機構(OSCE)による非武装の和平監視団であった。しかしながら、彼らは確実に、初期のころから不十分なものであった。そのため、彼らは"clockwork orange"と通称された。それは、鮮やかに色付けされた自動車に由来する(英語では"clockwork orange"とは無価値なものという意味である)。1998年12月にコソボ解放軍が、戦略的に重要なプリシュティナ=ポドゥイェヴォ幹線道路を見渡すバンカーを占領したことにより、停戦は数週間のうちに破棄され、戦闘が再開された。これは、コソボ解放軍がペヤ / ペーチのカフェを襲撃したパンダ・バー虐殺(Panda Bar Massacre)から程なくしてのことであった。虐殺の2日後、コソボ解放軍はフシェ・コソヴァ / コソヴォ・ポリェ(Fushë Kosova / Kosovo Polje)の市長を暗殺した。

1999 年の1月から3月にかけての紛争の進行によって、都市部での危険度は増し、爆破や殺人などが多発した。ランブイエ(Rambouillet)交渉が2月に行われている間も攻撃は続けられ、コソボ査察合意はは3月には破綻した。道路上での殺害は増加し、軍事衝突が頻発した。他の地域に加え、2月にはヴシュトリ / ヴチトルン(Vushtrri / Vučitrn)で、3月にはこれまで衝突のなかったカチャニク(Kaçanik / Kačanik)でも衝突が起こった。

ラチャク虐殺

コソボ解放軍による攻撃とセルビア側の反撃は1998年から1999 年にかけての冬の間中つづけられ、1999年1 月15日にはラチャクの虐殺(en)が引き起こされた。事件は直ちに(調査が始められるより前に)虐殺事件として西側諸国や国際連合安全保障理事会から非難された。このことは、ミロシェヴィッチと彼の政権の首脳らを戦争犯罪者とみなす基礎となった。テレビカメラは、殺害されたアルバニア人たちの遺体のそばを歩くアメリカ合衆国の外交官ウィリアム・ウォーカー(William Walker)を映し出した。ウォーカーが記者会見を開き、一般市民に対するセルビアの戦争犯罪行為について明らかにしたと述べた。この虐殺が、戦争の大きな転換点となった。NATOは、NATOの支援の下で平和維持のための武力を投入することのみが、問題を解決する唯一の手段であると断じた。

連絡調整グループは、「交渉不可能な要素」をまとめあげた。これは"Status Quo Plus"として知られ、コソボをセルビアの枠内で1990年以前の自治水準に戻し、さらに民主主義と国際組織による監督を導入するというものであった。連絡調整グループはまた、1999年2 月にも和平交渉を開き、パリ郊外のランブイエ城(Château de Rambouillet)にて交渉が持たれた。

1999 年1月-3月:ランブイエ和平交渉

ランブイエ交渉は2月6日にはじめられ、NATO事務総長のハビエル・ソラナが両サイドと仲介交渉をおこなった。彼らは2月19日に交渉をまとめる意向であった。セルビア側の代表者はセルビア大統領ミラン・ミルティノヴィッチであり、ミロシェヴィッチ自身はベオグラードに留まった。これは、ミロシェヴィッチ自身が直接交渉に臨んでの、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を終結させたデイトン合意のときとは対照的であった。このときは、ミロシェヴィッチ自らが交渉に望んだ。ミロシェヴィッチの不在は、交渉に関わらず実際の決定はミロシェヴィッチがベオグラードで行っていることを示すものとみなされ、セルビア国内、国際社会双方からの非難を受けた。コソボのセルビア正教会の主教アルテニイェ(Artemije)は自らランブイエへ出向き、交渉は代表者を欠いていると抗議した。

歴史的根拠に関する交渉の初期段階には成功した。具体的には、連絡調整グループの共同議長による1999年2 月23日の声明では、交渉では「民主的な共同体による自由で公正な選挙、公平な法体系を含む、コソボの自治に関して合意が得られた」としている。さらに、「政治的枠組みは定められた」とし、「合意文書の内容を定める」ことを終えるための更なる作業が残されており、残されたものの中には「コソボにおいて招致された国際的な文民と軍のプレゼンス」が含まれていた。しかし翌月の間、アメリカの外交官ルービン(Rubin)とオルブライトの影響を受けた NATOによって、軍のプレセンスは「招致された」ものではなく「強制する」べきであるとした。NATOのコソボ解放軍への傾倒は、BBCテレビの番組「Moral Combat: NATO at War」にて特集された。実際には、NATOの軍事委員会の議長である将軍クラウス・ノイマンの発言では、「ウォーカー大使は North Atlantic Councilにて、停戦の破棄の大部分はコソボ解放軍によるものであるとしている」とされた。

1999 年3月18日、アルバニア人、アメリカ合衆国、イギリスの代表者らはランブイエ合意に署名したが、セルビアおよびロシアは署名を拒否した。合意案では、次のことを求めていた。

1. コソボをユーゴスラビア枠内の自治州としてNATOが統治する
2. 3万人のNATOの兵士がコソボの治安維持にあたる
3. NATO兵士によるコソボを含むユーゴスラビア領内への無制限の通行の権利
4. NATOとその人員に対するユーゴスラビア法の適用除外

アメリカ合衆国およびイギリスの代表者らは、この合意案はセルビア側が受け入れることのできないものであると考えていた。これらの後半の要求内容はボスニア・ヘルツェゴビナの平和安定化部隊に対して適用されたものと同様であった。合意案はアルバニア人側の要求を完全には満たしていなかったものの、合意案はセルビア側にとっては十分に過激なものであり、これに対してセルビア側は合意案の大幅な変更を求め、ロシアも合意案は受け入れ不可能であるとした。

ランブイエ合意の失敗以降、事態は急速に進行した。NATOによる空爆が始まる1週間前、西側諸国のほとんどのジャーナリストが滞在しているベオグラードのハイアットホテルに、アルカンことジェリコ・ラジュナトジッチが現れ、セルビアを去るように求めた。

欧州安全保障協力機構(OSCE)の国際監視団は3 月22日、NATOによる空爆が予見され、監視団の安全を保障できないとして、監視団を撤退させた。3月23日、セルビア議会はコソボの自治を認め、ランブイエ合意の非軍事部分を受け入れることを決定した。しかし、ランブイエ合意の軍事部分、より厳密には「NATOによるコソボ占領統治」の様相を呈している条項Bの受け入れには反対した。合意案は全てにおいて「欺瞞」であるとし、その理由として合意案の軍事部分は交渉の最終段階になって初めて議題に上がり、十分に交渉する時間も与えられず、またその交渉相手は「分離主義者のテロリストの代表者」であり、ユーゴスラビア連邦共和国の代表者と直接会わず、直接交渉することを交渉中一貫して拒否していたとして激しく非難した。その翌日の3月24日、NATOはセルビアへの空爆を始めた。

NATOによる空爆

NATOによるセルビア空爆は、1999年の3 月24日から6月11日まで続き、最大で1千機の航空機が、主にイタリアの基地から作戦に参加し、アドリア海などに展開された。巡航ミサイル・トマホークもまた大規模に用いられ、航空機や戦艦、潜水艦などから発射された。NATOの全ての加盟国が作戦に一定の関与をした。10週間にわたる衝突の中で、NATOの航空機による出撃は38,000回を超えた。ドイツ空軍は、第二次世界大戦後で初めて戦闘に参加した。

NATOによって目標と定められたのは、NATOのスポークスマンによると、コソボからセルビア人勢力を一掃し、平和維持軍を置き、難民を帰還させることであった。これは、ユーゴスラビア軍がコソボを去り、国際的な平和維持軍に置き換えられ、そして避難しているアルバニア人がコソボに帰還することを意味していた。作戦は初期の頃には、ユーゴスラビア空軍の防衛力を削ぎ、重要な戦略目標を押さえることにあった。これは、作戦初期においては十分な成功を収めることができなかった。それは、主に悪天候によって、ユーゴスラビア軍が容易に隠れられることによるものであった。NATOは、ミロシェヴィッチによる抵抗の意思を過小評価していた。ブリュッセルでは、大半が作戦は数日のうちに終わると予想していた。初期の爆撃は軽度に留まり、1991年のバグダードへの集中的な攻撃と比べれば、ほぼ誰もいないような場所への攻撃が加えられるのみであった。地上では、セルビア人による民族浄化作戦は激化し、空爆が始まってから1週間の間に300,000人のアルバニア人が隣接するアルバニアやマケドニア共和国に去り、そのほかにも多くがコソボ域内で強制移動された。4月の時点で、国際連合は、アルバニア人を中心に85万人が故郷を離れたと報告している。

NATO軍の作戦は次第に変化し、地上のユーゴスラビア軍の、戦車や大砲よりも大きいものを直接攻撃すること、並びに戦略爆撃を加えることに重点が置かれるようになった。この活動はしかし、政治によって強く束縛されたものであった。その攻撃対象は、NATOの加盟19箇国が同意できるものでなければならなかったためである。モンテネグロはNATOにより何度か空爆を受けたものの、モンテネグロの政治的指導者で反ミロシェヴィッチ派のミロ・ジュカノヴィッチの政治的不安定な状況を支援するため、まもなくモンテネグロへの攻撃は中止された。セルビアの民間・軍事双方によって用いられている施設は「デュアル=ユース・ターゲット」(dual- use target)と呼ばれ、攻撃対象となった。その中には、ドナウ川にかけられた橋や、工場、電力発電所、通信施設、そして、ミロシェヴィッチの妻・ミリャナ・マルコヴィッチが党首を務めるユーゴスラビア左翼連合(Yugoslav Left)の本部、セルビア国営放送の塔なども含まれていた。これらへの攻撃の一部は、国際法、とくにジュネーヴ条約に違反するのではないかとの見方もされた。NATOはしかし、これらの施設がユーゴスラビアの軍事を利するものであるとし、これらへの攻撃が合法であるとした。

5月のはじめには、NATOの航空機が、ユーゴスラビア軍の輸送車隊と見誤ってアルバニア人難民の輸送車隊を攻撃し、50人ほどの死者を出した。 NATOは5日後に誤りを認めたものの、セルビア人らは難民への攻撃を意図的なものであるとして非難した。5月 7日、NATOはベオグラードの中華人民共和国大使館を空爆し、3人の中国のジャーナリストを殺害した。これによって中国の世論は沸騰した。NATOは、ユーゴスラビアの施設への攻撃であったと主張した。アメリカ合衆国とNATOは後に誤りを認めて謝罪し、CIAによる地図が古かったことによる誤爆であったとした。この見解は、イギリスの新聞「オブザーバー」や、デンマークの新聞「Politiken」から疑問が持たれた。それによるとNATOは、中華人民共和国の大使館が、ユーゴスラビア軍の通信信号の中継に使われているために、意図的に大使館を攻撃したのではないかと主張された。この空爆によって、NATOと中華人民共和国との間で関係が悪化し、北京にある西側諸国の大使館の周辺では攻撃的なデモが起こった。

また、コソボのドゥブラヴァ(Dubrava)収容所では、NATOによる空爆によって85人の死者が出たと言われる。ヒューマン・ライツ・ウォッチのコソボでの調査によると、5 月21日に18人の囚人がNATOの空爆によって死亡し、また3日前の5 月19日には3人の囚人と1人の守衛が死亡したとされた。

4月のはじめの時点において、衝突は終結には程遠いものと見られ、NATO諸国は陸上での作戦、つまりコソボへの進攻を真剣に考えなければならなかった。そして、コソボへの進攻をするならば、早急に準備する必要があった。冬が訪れる前に準備を整えなければならず、その際に予想される、ギリシャやアルバニアの港から、アルバニア北部やマケドニア共和国を経由してコソボに陸路で侵入する経路を確保するためには、するべきことが山積していた。アメリカ合衆国の大統領ビル・クリントンは、米軍によるコソボ進攻を究極の選択と考えていた。代わりにクリントンは、セルビア人の政府機能を弱体化させるため、CIAがコソボ解放軍を訓練することを決定した。同時に、フィンランドとロシアによるミロシェヴィッチ説得交渉が続けられた。ミロシェヴィッチは最終的に、NATOがコソボ紛争の解決に対して本気であり、一方的な解決をも辞さない姿勢であることを理解し、また反NATOの強い言辞を並べるロシアには、現実的にはセルビアを守る力がないことを理解した。微修正を加えた後、ミロシェヴィッチはフィンランド、ロシアの仲介による条件を受け入れ、NATO関与による国際連合主導でのコソボの平和維持軍の駐留に同意した。

死傷者の数

NATO の空爆による市民の死者数

紛争によって多くの死傷者がでた。1999年3月の時点ですでに、戦闘による死者と民間人への攻撃をあわせて、戦闘員・民間人あわせて1,500人ないし2,000人の死者が出ていた。最終的な死者数はなお定まっていない。ユーゴスラビアは、NATOの攻撃によって1,200人から5,700人の死者が出たとしている。NATOは、市民の死者数を1,500人とした。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、90回の攻撃で少なくとも488人の市民の死亡を確認している。(うち90-150人はクラスター爆弾による死者である)。コソボでの攻撃はより激しいものであり、攻撃全体の3分の1で、全死者数の半数以上を出したとしている。

ユーゴスラビア軍の行動による市民の死者数

ユーゴスラビア陸軍による死者数については複数の推計がたびたび行われている。紛争後ほぼ1年が経過した2000年6月、国際赤十字は、3,368人の市民(2,500人のアルバニア人、400人のセルビア人、100人のロマ)が依然行方不明であるとした。2000年8月、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)は、2,788体の遺体がコソボで発掘されたが、うちいくつが戦争犯罪の犠牲者であるかは定かではないとした。しかし、KFORの情報筋がAFPに伝えたところによると、2,150体の遺体が1999年7月までに発見され、うち850体は戦争犯罪の犠牲者であると考えられるといわれた。

行方不明になった市民の一部は、セルビア本国の集団墓地で再び焼却された。2001年7月、セルビア当局は、1,000体ちかい遺体が投棄された集団墓地が見つかったと発表した。最大の集団墓地は、ベオグラード郊外のバタイニツァ(Batajnica)にて、セルビアの警察訓練の団体によって発見された。人権団体に報告された4,400人の死者数を大きく上回っているが、ICTYの検察局の専門家らは、死者数は合計で10,000人程度であると推定している。 ICTYの検察局による死者数の推計は、大切な人の死についてICTYに報告しない人々がいることを考慮に入れたものである。10,000人という死者数の推計は、人道上の犯罪をユーゴスラビア攻撃の最大の理由としているアメリカ国務省によっても使用されている。

アトランタのアメリカ疾病予防管理センターによって、2000年に医学ジャーナル誌Lancetに報告された研究調査では、住民全体の死者数のうち、12,000人は紛争によるものとみられるとした。この値は、1197世帯に関しての1998年2月から1999年6月までの調査に基づいており、対象となった世帯でのこの期間の死者数105人のうち67 人が紛争に関連する外傷によるものであり、これに基づいてコソボの住民全体の死者数を推計した結果が12,000人となる。紛争による死亡率がもっとも大きかったのが15歳から49歳の男性で死者数5421人、50歳以上の男性では5176人とされる。15歳に満たない人々の死者数は男性160人、女性 200人とみられる。15歳から49歳の女性の死者数は510人、50歳以上の女性の死者数は541人であった。論文の著者らは、民間と軍人の犠牲者数を正確に区別することは不可能であるとした。

コソボ解放軍による市民の死者数

セルビア政府の報告によると、1998年1月 1日から1999年6 月10日までの間に、コソボ解放軍は998人を殺害し、287人を拉致したとしている。また、NATOによる統治が行われていた1999年6 月10日から2001年11月11日までの期間で、847人が殺害され、1154人が拉致された。この死者数には軍人と民間人の双方が含まれている。1999年6月10日までの期間の死者のうち、335人は民間人、351人は兵士、230人は警官、72人は不明である。民間人の死亡者を民族別に分けると、87人がセルビア人、230人がアルバニア人、18人がその他である。

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