伝説の戦い ガリポリの戦い

航空兵器・陸上兵器・海上兵器・銃器・戦争・紛争・歴史・革命・テロ・事件・軍事動画・ニュース(報道)・社会情勢・政治運動・評論・講演など、軍事関連の情報を公開しています。宗教・思想・経済・政治的なものも少しアリ

広告
--/--/--(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2009/12/23(水)
* 

ガリポリの戦い(英語: Battle of Gallipoli)は、第一次世界大戦中、連合軍が同盟国側のオスマン帝国の首都イスタンブール占領を目指して行ったガリポリ半島への上陸作戦。ガリポリは、ダーダネルス海峡の西側、エーゲ海からマルマラ海への入り口にあたる半島の英語名で、現在トルコ語でゲリボルと呼ばれる。イギリスではこの戦いをダーダネルス作戦と呼ぶ。連合軍は、当時国家として末期症状であったオスマン帝国軍を軽んじて短期決戦を想定して挑んだものの、オスマン側の予想外の頑強な抵抗にあって多大な損害を出して撤退、作戦は失敗に終わった。この戦いは陸・海・空3軍の総力を結集した大規模上陸作戦としては世界初と言える。また連合国軍に参加したオーストラリアとニュージーランドにとっては初の本格的な海外遠征となった。

前哨戦

1915 年2月19日英仏大艦隊による海上からの砲撃が開始されたが、悪天候によって上陸部隊の到着が遅れたこともあり、ダーダネルス海峡の制圧はできなかった。3月18日に艦隊は海峡突破を試みたが、オスマン帝国側が敷設した機雷に接触して動きが取れなくなった戦艦3隻(フランスのブーヴェ、イギリスのオーシャン、イレジスティブル)が両岸の砲台から集中攻撃を受けて撃沈され、3隻が大破した。このため連合軍は海軍力だけでダーダネルス海峡を制圧することを断念せざるを得なかった。

上陸作戦

連合軍の上陸作戦は1915年4月25日に開始された。ところが上陸作戦が開始される頃には、オスマン軍は上陸予想地点に兵力を増強し、堅固な陣地を構築して待ち構えていた。英第29師団はダーダネルス海峡北側のガリポリ半島先端のヘレス岬付近5箇所に上陸したが、オスマン軍の反撃に阻まれて2箇所では撤退し、3箇所の海岸を確保するに止まった。ANZAC軍はガリポリ半島北側のエーゲ海に面した名もない入り江に上陸作戦を敢行、オスマン第19師団の猛攻撃を受けながらも橋頭堡を確保した。この入江は今日ではアンザック入江と呼ばれている。また英国海軍陸戦師団とフランス軍部隊は海峡のアジア側に陽動作戦として上陸を試みた。

戦線膠着

5月から7月にかけて連合軍、オスマン軍ともに何度も攻勢を展開して戦局を打開しようとしたが、どちらも敵側に阻まれ戦線が大きく動く事はなかった。5月には上陸部隊を支援していたイギリス戦艦3隻が魚雷攻撃によって相次いで(中旬にオスマン帝国駆逐艦によりゴライアスが、下旬にドイツ潜水艦 U-21 によりトライアンフ及びマジェスティックが)撃沈されたため、海軍は戦線を離脱した。8月に入ると連合軍新鋭2個師団がアンザック入江北側のスブラ湾に上陸し、攻勢を試みたが、オスマン軍がいち早く高地を占拠したため、ここでも橋頭堡を確保する以上の進展は見られず、塹壕戦となった。アンザック入江とスブラ湾の橋頭堡を連絡させようとする連合軍の最後の8月大攻勢も失敗に終わり、オスマン領内へのさらなる進撃は望めない状態となる。

撤退

10月に入るとイギリス政府はガリポリ作戦の撤退を検討し始め、撤退に反対する司令官のハミルトン将軍を解任、サー・チャールズ・モンロー将軍に交代させた。この月、これまで中立だったブルガリアが同盟国側に参戦することが明らかになったため、ドイツ軍は陸路でオスマン帝国との連絡が可能となり、連合国軍はドイツの超大型大砲でガリポリの橋頭堡が砲撃を受ける危険も出てきた。また10月5日にはギリシャ領サロニカに英軍が上陸して地中海方面で第二戦線が形成されたこともあり、モンロー将軍はついに撤退を決意した。撤退が決定された当時、ガリポリ半島には連合軍14個師団が展開していたが、アンザック入江とスブラ湾では12月7日から順次撤退が行われ、12月 20日順調に撤退を完了した。ヘレス岬は将来の攻撃のため橋頭堡を維持する計画であったが、12月27日にはヘレス岬からの撤退も決定され、1916年1 月9日には最後の英軍部隊がヘレス岬を離れた。

損害

この戦いによる各国軍の戦死・戦傷は次のとおりである。

* オスマン軍     戦死86,692人、戦傷164,617人
* イギリス軍     戦死21,255人、戦傷52,230人
* フランス軍     戦死約10,000人、戦傷約17,000人
* オーストラリア軍  戦死8,709人、戦傷19,441人
* ニュージーランド軍 戦死2,701人、戦傷4,852人
* インド軍      戦死1,358人、戦傷3,421人 
* カナダ軍      戦死49人、戦傷93人

これ以外に、長い塹壕戦のため約140,000人の連合軍兵士が腸チフスや赤痢で病死したと推定されている。イギリスの物理学者でモーズリーの法則を発見したヘンリー・モーズリーも戦死した。

なお、1915年8月21日(あるいは12日、28日)にオスマン帝国のアンザックに近いサル・ベイ丘でイギリス陸軍のノーフォーク連隊の兵士 341名が丘の上に垂れこめた雲の中に行軍したまま行方不明となり、そのまま全員が消失するという奇怪な事件が起きたと言われることがある。しかし、単なる都市伝説であるとも指摘されている。これによると1915年8月12日にロイヤル・ノーフォーク連隊の第1/4大隊所属の266名が、スブラ湾(スブラ・ベイ)付近の霧の中での戦闘中に一時行方不明になったこと、アンザック軍団の兵士の証言があることは事実であるものの、その後に122名の大隊所属員の遺棄死体が確認されている。オスマン軍の待ち伏せで壊滅的な打撃を受けたものと考えられ、大隊長を含む生存者はオスマン軍の捕虜となって、多くは捕虜収容所で死亡したという。

さらに詳しく → ガリポリの戦い  第一次世界大戦  オスマン帝国



漫画版 世界の歴史〈8〉帝国主義と第一次世界大戦 (集英社文庫)漫画版 世界の歴史〈8〉帝国主義と第一次世界大戦 (集英社文庫)
(2009/04/17)
石井 規衛柴 宜弘

商品詳細を見る
関連記事

タグ : 戦争 第一次世界大戦 ガリポリの戦い オスマン帝国

この記事へのコメント
URL:
Comment:
Pass:   
この記事のトラックバックURL
http://gunjimania.blog108.fc2.com/tb.php/399-d0432e0f
 この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック

 | Copyright © 軍事マニアクス - Military Maniacs All rights reserved. | 

 / Template by 家族 ペット 自分史 ブログ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。