キューバ・ミサイルの危機

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2009/12/22(火)
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キューバ危機(キューバきき、The Cuban missile crisis)は、アメリカのすぐ南に位置するキューバにおいて、1962年10月15日から13日間続いた、米ソ間の冷戦が頂点に達して核戦争の危機を招いた国際緊張の事である。

1959 年1月のキューバ革命で親米のフルヘンシオ・バティスタ政権を打倒し、その後アメリカを訪問し、経済援助要請を申し入れたキューバのフィデル・カストロ首相は、公式会談に欠席したドワイト・D・アイゼンハワー大統領(アイゼンハワーが欠席した理由はゴルフとも言われる)に代わって会談したリチャード・ニクソン副大統領に、「共産主義者」であるとの報告をされる。

カストロはアイゼンハワーの非礼とその報告に憤慨し、その上にアメリカがカストロをあからさまに敵視し始めたことから、アメリカと冷戦下で対峙していたソ連との接触を開始することとなる。それに反発したアメリカは、1961年1 月にアイゼンハワーを継いで就任したジョン・F・ケネディ大統領のもとで、ピッグス湾事件などを起こし軍事力でカストロ政権打倒をはかるも失敗した。

そのような状況下で、キューバとソ連の関係は一層親密化し、カストロはアメリカ侵攻に備えてソ連に武器の供与を要求しはじめた。しかしソ連は表立った武器の供与はアメリカを刺激し過ぎると考え、1962年には、ソ連は兵器の提供の代わりに核ミサイルをキューバ国内に配備する『アナディル作戦』を可決し、キューバ側のカストロもこれを了承すると、ソ連製核ミサイルがキューバに配備されはじめた。

1962年7月から8月にかけて、ソ連の貨物船が集中的にキューバの港に出入りするようになったため、アメリカ軍はキューバ近海を行き来する船舶や、キューバ国内に対する偵察飛行を強化していた。同年10月14日にアメリカ空軍のロッキードU-2偵察機が、アメリカ本土を射程内とするソ連製準中距離弾道ミサイル (MRBM) の存在を発見、さらにその後3つの中距離弾道ミサイル (IRBM) を発見した。

これに対してアメリカ政府は激烈な反応を示し、ケネディ大統領はエクスコム(国家安全保障会議執行委員会)を設置し、ミサイル基地への空爆を主張する国防総省やCIAの強硬論を抑えて、第1段階としてキューバ周辺の公海上の海上封鎖及びソ連船への臨検を行うことでソ連船の入港を阻止しようとし、これに対してソ連船は海上封鎖を突破することはせず、また臨検を受けることをよしとせず引き返した。そしてNATOや米州機構の指導者たちに状況を説明し、彼らの支持を得た。

またケネディは10月18日にアンドレイ・グロムイコ駐米ソ連特命全権大使をホワイトハウスに呼びつけ懸念を表明し、ソ連政府の対応を迫ると同時に、10月22日にテレビ演説で国民にキューバにミサイルが持ち込まれた事実を発表し、ソ連を非難した。

さらにその後アメリカ軍部隊へのデフコン2(準戦時体制)を発令、ソ連との全面戦争に備えアメリカ国内のアトラスやタイタン、ソー、ジュピターといった核弾頭搭載の弾道ミサイルを発射準備態勢に置いた他、日本やトルコ、イギリスなどに駐留する基地を臨戦態勢に置いた。また、ソ連も国内のR-7やキューバのR-12を発射準備に入れた。

また、デフコン2の発令を受けて「全面核戦争」の可能性をアメリカ中のマスコミが報じたことを受け、アメリカ国民の多くがスーパーマーケットなどで水や食料などを買い占める事態が起きた。

その一方でアメリカはソ連へのミサイル撤去の交渉を開始する。その際10月25日の緊急国連安全保障会議でのアメリカ国連大使のアドレー・スティーブンソンが、キューバのミサイル基地を撮影した写真を示し、核ミサイルの存在を認めるよう迫ったが、ソ連国連大使のヴァレリアン・ゾーリンにはぐらかされる有名なやり取りは、当時の米ソ間の緊迫感を示している。

10月26日にソ連からアメリカへ妥協案が示される。その内容は、アメリカがキューバに対する軍事行動をしないなら、キューバの核ミサイルを撤退させるというものだった。しかし、10月27日に内容が変更され、トルコに配備されているジュピターミサイルの撤退を要求する。これは、アメリカにとって受け入れがたいものだった。

さらにキューバ上空を偵察飛行していたアメリカ空軍のロッキードU-2偵察機が、ソ連軍の地対空ミサイルで撃墜されたこの日は「暗黒の土曜日」と呼ばれ、誰もが第三次世界大戦の勃発を現実のものとして受け入れた。

しかし、ワシントン時間10月28日午前9時、ニキータ・フルシチョフ首相はモスクワ放送でミサイル撤去の決定を発表した。フルシチョフはケネディの条件を受け入れ、キューバに建設中だったミサイル基地やミサイルを解体し、ケネディもキューバへの武力侵攻はしないことを約束、その後1963年4 月トルコにあるNATO軍のジュピター・ミサイルの撤去を完了した。

キューバのカストロ議長は、この措置に激怒した。キューバが国家を挙げて対アメリカ戦に備えていたのにも関わらず、キューバの頭上で政治的な妥協を、米ソで決定してしまったからである。一方、後のフルシチョフ首相の回想によれば、アメリカの度重なる偵察と海上封鎖に興奮したカストロはフルシチョフにアメリカを核攻撃するように迫ったとされ、ソ連の方も、核戦争をもいとわない小国の若手革命家と次第に距離を置くようになっていった。

その後キューバに対するアメリカの介入も減少し、冷戦体制は平和共存へと向かっていくことになる(デタント)。この事件を教訓とし、首脳同士が直接対話するためのホットラインが両国間に引かれた。一方、カストロは、米ソの頭越しの妥協に不快感を示し、ソ連への不信感をも募らせていくことになる(チェコ事件で和解)。
フルシチョフ(左)とケネディ

冷戦後わかったことは、キューバ危機の時点ですでにキューバに核ミサイル(R12、R14、戦術短距離核ミサイル「ルナ」)を9月中に42基配備済みであり、アメリカによる臨検はほとんど効果がなかったことである。カーチス・ルメイ空軍参謀総長をはじめとするアメリカ軍はその危険性に気付かず、圧倒的な兵力でソ連を屈服させることが可能であると思っていた。

もしフルシチョフの譲歩がなく、ルメイの主張通りミサイル基地を空爆していたら、残りの数十基のミサイルが発射され、世界は第三次世界大戦に突入していた可能性が高い。しかし実はこの時点でアメリカ軍もソ連軍も相手を壊滅させるほどの核兵器がなかった。そのため中距離ミサイルをアメリカ軍はトルコに、ソ連はキューバに配備した。

この時点では世界中のほとんどの人間は、米ソによる全面核戦争勃発の可能性について『有り得ない事』と楽観視していた。しかしキューバ危機はその悪夢的な幻想が現実になる可能性があり、いまだ世界は危機的な状況にあるのだと再確認させる印象的な事件であった。この2年後にフルシチョフは失脚することになるが、フルシチョフが更迭された中央委員会総会では、キューバ危機におけるアメリカへの「譲歩」が非難されることになる。また、このキューバ危機を教訓として2つの国の政府首脳間を結ぶ緊急連絡用の直通電話ホットラインがロシアとアメリカ間に初めて設置された。

さらに詳しく → キューバ危機  ジョン・F・ケネディ  フィデル・カストロ  ニキータ・フルシチョフ



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