サイパン玉砕

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2009/12/22(火)
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サイパンの戦い(―のたたかい、Battle of Saipan)とは大東亜戦争太平洋戦争)中、1944年6 月15日から7月9日に行われたアメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島における戦い。ホランド・スミス中将指揮のアメリカ軍第2海兵師団、第4海兵師団、第27歩兵師団が斎藤義次中将が指揮する日本軍第43師団を潰滅させ、サイパン島を占領した。

戦闘経過

1944年5月30日、ナウル基地を飛び立った海軍の偵察機彩雲が、マジュロ環礁に停泊するアメリカ軍の大艦隊を確認した。

6月5日、ふたたび彩雲がマジュロ環礁を偵察。アメリカ軍が出撃準備を急いでいることを確認した。大本営は、アメリカ軍はサイパンを襲わずパラオを襲うと予想し、パラオ方面の防衛力を増強した。9日にも彩雲がマジュロ環礁を偵察したが、すでにアメリカ軍は6 日にサイパンに向け出撃しており、その姿はマジュロ環礁から消えていた。

6月11日、アメリカ軍艦載機1,100機によるサイパン島に対する奇襲的な空襲が行われ、13日からは戦艦8隻、巡洋艦11隻含む上陸船団を伴った艦隊がサイパン島に接近、砲弾合計18万発もの艦砲射撃が開始された。これにより日本の陣地は半壊し、サイパン基地の航空機150機のすべてを失った。

このサイパン島への侵攻は日本軍を驚かせた。なぜなら、日本軍側はアメリカ軍が5 月27日にもっと南の西部ニューギニア、ビアク島に侵攻してきたことからパラオ諸島に攻撃が行われると予期していたからである。事実、第31軍司令官の小畑中将は、5月28日からパラオへ作戦指導のため出張しており、戦略的奇襲を受けた形になった。小畑軍司令官は急いでサイパンの軍司令部へ帰還しようとしたが、既にサイパン島周辺はアメリカ軍の手に落ちており、小畑軍司令官はグアム島から指揮を執ることになった。軍司令官不在の第31軍司令部は、井桁参謀長が責任者となって作戦指導を行ったが、少将である井桁参謀長が中将である斎藤第43師団長を指揮するという変則的な形となった。一方、救援の為に派遣された日本機動部隊は6月15日、「あ号作戦」を発動。米機動部隊を迎撃する為マリアナ諸島へ向かった。

15日7時、アメリカ軍は上陸を開始した。9時ごろまでに300以上のLVT(Landing Vehicle Tracked、上陸用装軌車)で海兵隊8000名がサイパン島の西の海岸に上陸。日本軍は伝統の水際防衛作戦をとり反撃を開始した。ところがサイパン島の海岸は見晴らしが良い為水際防衛は大して意味をもたず、更に空と海からの猛烈な砲爆撃に晒され守備隊は著しく消耗した。結果は米軍2000人あまりを負傷させたものの独混47旅団、戦車第4中隊などが全滅した。日没までにはアメリカ軍は幅10km、奥行き1kmの橋頭堡を確保し19時までに海兵隊2万名以上の上陸が完了した。

上陸日当日の陸軍省・参謀本部では、いたるところで「31軍は腰抜け」「井桁のぼやすけが」と敵上陸を許した井桁参謀長に対する非難と罵声があふれていたという。また井桁参謀を解任し、長勇と交代させるべきだとの声も起こった。

上陸日の夜、日本は水際作戦のため主力を海岸に結集し一斉に反撃を開始した。しかし昼間の攻勢で部隊間の連絡は困難に陥り、戦力の掌握は不可能となっており、照明弾により夜襲の利点は無力化され、米軍の優勢な火力により2個大隊と横須賀第1陸戦隊はほぼ全滅し島の北部へ退却した。

翌16日、第27歩兵師団の部隊が上陸しアスリート飛行場に向け進撃した。しかし飛行場までの間に広がるサトウキビ畑中に日本兵が潜んでおり、そこから奇襲攻撃が加えられた。そのため上陸米軍は、火炎放射器で畑を焼き払い、日本兵が出てきた所を攻撃する作戦に出た。作戦は成功し、第27歩兵師団は夜半までに飛行場に到達した。16日の夜から17日にかけて、日本軍は戦車第9連隊(44輌)含む約8000名が総攻撃を開始したが、1時間に野戦砲800発、機銃1万発という米軍の圧倒的火力によりほぼ全滅した。18日、斎藤中将は飛行場を完全に放棄。そのため南部に残された日本軍は完全に孤立した。

上陸3日間の攻勢の失敗に加え、水際防衛作戦の為に日本軍の陣地は海岸付近に集中しており、敵の艦砲射撃や空襲のよい的となった。このため守備隊は早々に壊滅し、水際作戦を指示した大本営の晴気誠陸軍参謀は責任を感じ、サイパンへの派遣を志願したが却下された。彼は1945年の8月17日に自決した。この戦訓は後の硫黄島の戦いや沖縄戦で生かされる事となる。

19日、「あ号作戦」で出撃した日本機動部隊はマリアナ沖海戦で大敗を喫した。2日間で艦載機400機を失い、帝国海軍航空部隊は無力化された。これによりマリアナ諸島の日本軍は救援の望みを絶たれた。組織的な反撃が不可能な程戦力が減少した為、斎藤中将は防御に適した島の中部の山岳地帯にあるタポチョ山に防御線を敷き洞窟を利用し抵抗した。

24日、大本営はマリアナ沖海戦の敗北の為サイパン島の放棄を決定した。この時点で斎藤の指揮する第43師団が4000名、残りは2000名程度まで減少していた。重装備は戦車が僅かに3両で野砲は全損。食料、水、医薬品が欠乏し、負傷者は自決する他なかった。それでも日本軍は断固として抵抗を続けた為、20日以来米軍の進撃は遅々として進まず、第27師団長ラルフ・スミス少将が更迭された。

25日、日本軍主力が防衛する島中央部において戦闘が開始された。この頃になるとアスリート飛行場が運用可能になり、偵察機や爆撃機の使用が開始された。空からの援護もありアメリカ軍は防衛線を突破、占領地は島の70%に達した。しかし、この日占領した住居地域では、倒壊した住居跡に残るトタンの下に日本軍が隠れており、掃討にかなりの時間を要した。

27日、日本軍第317大隊600名はアスリート飛行場奪回の為夜襲をかけたが、米軍に包囲され全滅した。

7月7日、日本軍は完全に追い詰められた。斎藤中将は残存部隊約3000名に総攻撃を命じ、陸海軍によるバンザイ突撃が行われた。米軍は日本兵の捕虜からこの攻撃の情報を得ており、陣地を築いて待ち構えていた。この戦闘で米軍に死傷者658名の損害を与えたが、日本軍はほぼ全滅した。翌日戦場は「死の谷」と呼ばれるほど、両軍の死体が累累と積み重なっていた。南雲中部太平洋方面艦隊司令長官を始め指揮官など残りは自決し、少数は降伏したため、事実上サイパン島の日本軍は全滅した。7月9日にターナー中将はサイパン島の占領を宣言した。

さらに詳しく → サイパンの戦い  太平洋戦争


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