空中戦の果てに・・・ ガダルカナル 坂井三郎

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2009/12/21(月)
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坂井 三郎(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26日 - 2000年(平成12年)9月22日)は、大日本帝国海軍の戦闘機搭乗員(パイロット)。太平洋戦争終戦時は海軍少尉、最終階級は海軍中尉。太平洋戦争時における日本のエース・パイロットとして知られる。坂井は空中戦での必勝戦術は『敵よりも早く敵を発見し、有利な態勢から先制攻撃をしかけること』であり、これには視力が最も重要であることを繰り返し述べている。彼の視力の良さを象徴する言葉に「昼間に星が見えた]」という。また空戦空域に入った際の見張り方を「前を2、後ろを9」の割合で敵索するとも言う。(坂井は水平線より上を、同じく零戦エースの西沢広義は水平線より下の索敵を得意としていたらしい)。

また、「100mを全力疾走しながら針の穴に糸を通すようなもの」と評したドッグファイト(巴戦)より一撃離脱の方が戦果が挙がるとしつつも、窮地に陥った時でも逆転できる「左捻り込み」の様な巴戦の技を持つことは、敵に対して精神的優位を保てると言う意味で重要であると述べている(そのような技を必要とする不利な状況に陥らないようにすることが更に重要とも述べているが)。また、零戦の「長大な航続力」を遠隔地の敵を攻撃でき、また燃料切れを気にせず空中戦に集中できる事から高く評価(その点で、後に教官として搭乗した紫電改を低く評価)している。

加えて、「左捻り込み」をただの一度も実戦では使うことはなかった 、という点でも坂井の空戦哲学の一部が垣間見える。戦後、P-40戦闘機を駆って一撃離脱に徹し零戦を撃墜した経験を持つアメリカ軍のエースが、(スコアでは坂井に及ばない事から)恥ずかしそうに彼に接したときには、機体性能のハンデを克服しその特性を最大限に生かして零戦に打ち勝った点を評価、最大の賞賛をもってアメリカ軍エースを称えたという。

飛行機を上手に操縦することが誇りであった彼の自慢は「ただの一度も飛行機を壊したことがないこと」、「僚機を殺したことがないこと」であり、撃墜スコアではないことは彼の著作に何度も書き記されている。また低燃費航行にも長けており、最小燃費の最高記録保持者を自負していた。(そのため、一番燃料を喰うと悪評の戦闘機を割り当てられ、フェリーさせられる羽目になった。しかしその悪評は、それまでの搭乗者の技量に原因があったもので、坂井はその機体で他の機体と変わらない立派な低燃費航行をして見せた)

この坂井の撃墜技術は上記の技術や視力以前に「どんな手段であろうと敵機を撃破し、且つ生還し、また飛ぶ」と明快なもので「(空戦では)撃墜したら勝ちで、撃墜されたら負け」「挽回しようにも死んだら次が無い」といった当然の持論が撃墜王を撃墜王たらしめる所以と見られる。また搭乗機の特性や性能、能力を限界まで把握し(1000馬力は1000馬力しか出ない)、その範囲内で最大限戦うという至極当たり前の方法だった。

零戦の最大の武器は20mm機銃という一説があるが、坂井は「20mmは初速が遅く、ションベン弾」と低評価しており命中率が悪い上に携行弾数も 7.7mmより少なく弾倉に被弾したら機が四散するほどの誘爆を起す危険を指摘している。しかし「敵機の翼付け根に一発でも命中すれば、翼が真っ二つになった」ともいい、その威力に関しては評価もしている。自身のスコアのほとんどは機首の7.7mm機銃でのものだったと語っている。(坂井の著作・『零戦の真実』『大空のサムライ』より) 空戦に関しては「前縁いっぱいに一三ミリ砲の火を噴くアメリカ軍の戦闘機を羨ましく思った」と語る。なお、特攻作戦については愚かな作戦と批判しており、「特攻で士気があがったと大本営は発表したが大嘘。『絶対死ぬ』作戦で士気があがるわけがなく、士気は大きく下がった」とインタビューに答えている

1942 年(昭和17年)8月7日、上陸したアメリカ軍を攻撃するために出撃したガダルカナル島の上空において、坂井はSBDドーントレスの編隊を「油断して直線飛行している」F4Fワイルドキャットの編隊と誤認して不用意に至近距離まで接近したため、坂井機は回避もままならないままSBDの7.62mm後部旋回連装機銃の集中砲火を浴びた。その内の一弾が坂井の頭部に命中、致命傷は免れたが、被弾し右側頭部を挫傷し(そのため左腕が麻痺状態にあった)計器すら満足に見えないという重傷を負った。

坂井は被弾時のショックのため失神したが、海面に向けて急降下していた機体を半分無意識の状態で水平飛行に回復させている。一時は負傷の状態から帰還は無理と思い敵艦に体当たりを考えたが発見できず、帰還を決意した。まず止血を行い多量による意識喪失を繰り返しながらも、約4時間に渡り操縦を続けてラバウルまでたどり着き、奇跡的な生還を果たした。

その後内地に帰還、横須賀海軍病院での長時間に及ぶ麻酔無しの手術により失明は免れたが、右目の視力をほぼ失い左も0.7にまで落ちた。同年10月飛行兵曹長に昇進。右目の視力を失ったことにより、搭乗員を辞めさせられそうになったが、「片目でも若い者よりは使える」と主張して、1943年(昭和18年)2月豊橋航空隊で搭乗員として復帰後教官の任に就く、1943年(昭和18年)4月大村航空隊に異動、1944年(昭和19年)4月13日、横須賀海軍航空隊に配属された。

戦後は印刷会社を経営するかたわら、海軍時代の経験をふまえ、太平洋戦争や人生論に関した本を多数執筆した。代表作となる戦記『大空のサムライ』は各国語に訳され、世界的ベストセラーとなった。当時の欧米では、戦争中のプロパガンダの影響もあって、日本人に対する偏見が根強く、多くの外国人が「日本人パイロットはただ獰猛に敵を攻撃する事しか考えない冷血な戦闘機械である」という認識を持っていた。しかし、『大空のサムライ』により、日本人パイロットも「自分達と同じ感情を有する人間」だったと再認識したと言われる。また、イラク空軍では、この著書のアラビア語翻訳版をパイロットの必携書として義務付けていたという逸話もある。

著書が売れた事により、何度も渡米する機会を得た。P-51ムスタングを操縦する機会を得た時は、その性能に脱帽し、零戦こそ最強という自説を撤回している。70歳を超えた時にもセスナ機を見事に操縦し、宙返りまでやってみせた。これを観た記者や軍人は老いた元零戦パイロットが巧みに操縦したことに舌を巻いたという。ただし当人はかなり無理をしており、歳には勝てないと慨嘆した。なお、『大空のサムライ』は、坂井三郎役を藤岡弘が演じ企画を映画岸壁の母の制作で知られた大観プロダクションが行い、製作・配給を東宝が担当、1976 年(昭和51年)に映画化された(丸山誠治監督作品。特撮監督は川北紘一)。

2000 年(平成12年)9月22日、厚木基地で催されたアメリカ海軍西太平洋艦隊航空司令部50周年記念祝賀夕食会で、来賓として自らの使命感を語り、食事を終えて帰途についた際、体調不良を訴えたため、大事をとっての検査入院中の同日夜に死去。享年84。検査中に主治医に配慮して、「もう眠っても良いか」と尋ねたのが最期の言葉となった。

さらに詳しく → ガダルカナル島の戦い  坂井三郎  零式艦上戦闘機  ナショナルジオグラフィックチャンネル


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坂井三郎「写真 大空のサムライ」坂井三郎「写真 大空のサムライ」
(2008/06)
雑誌「丸」編集部

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タグ : 坂井三郎 ガダルカナル島の戦い ナショナルジオグラフィック 零戦 零式艦上戦闘機 ドッグファイト

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