一式戦闘機 キ43 "隼" 「はやぶさ」 (Nakajima Ki-43、"Hayabusa"、Oscar)

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2012/05/13(日)
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一式戦闘機(いっしきせんとうき、いちしきせんとうき)は第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。試作名称(機体計画番号。キ番号)はキ43。愛称は、呼称・略称は一式戦。連合軍のコードネームはOscar(オスカー)。

開発・製造は中島飛行機。総生産機数は5,700機以上で、旧日本軍の戦闘機としては海軍の零戦に次いで二番目に多く、陸軍機としては第一位。

最高速度・上昇力

ハ25(離昇950馬力)を搭載した一型(キ43-I)の最高速度は495km/h/4,000mにとどまった。ハ25は二一型以前の零戦に搭載された「栄一二型」とほぼ同じものであるが、燃料が統一される開戦直前まで、陸軍では海軍より低オクタンの燃料を使用していたことや2翅プロペラが零戦との最高速度の違いとなって現れたと考えられる。

エンジンをより高出力のハ115(離昇1,150馬力。海軍の栄二一型とほぼ同じ)に換装し3翅プロペラを装備した二型試作型の最高速度は515km/h/6,000mに向上、主翼を短縮し増速効果のある推力式単排気管を装備した二型(キ43-II)の後期生産型ではこれより30km/h以上高速だったとされる。

更に高出力なハ115-IIに換装した三型(キ43-III)では、最高速度が560km/h/5,850mに向上しているが、機体重量が増したことから上昇力は一型と同程度に留まっている。

このような改良にも関わらず、最高速度は米英の新鋭戦闘機と比較すると劣速であった。また連合軍は戦訓から、一式戦の得意とする格闘戦を避け、一撃離脱戦法を駆使するようになった。

大戦中期以降、物量に勝る連合軍と、工業能力の弱さにより必要な戦力をそろえられなかった日本軍との戦力差は開く一方であり、日本軍が空戦に投入できる機数は多くの場合、寡勢を強いられた。

これらから、二型でニューギニアの戦いに従事し「ニューギニアは南郷でもつ」とまで謳われたエース・パイロット、飛行第59戦隊第2飛行隊隊長の南郷茂男大尉(戦死後、陸軍中佐。南郷茂章海軍少佐の弟)は、戦死の数週間前の1943年(昭和18年)末に「P-38に翻弄され、もはや一式戦の時代に非ず」と日誌で嘆いている。

加速性能

最高速度では米英の戦闘機に見劣りしていた一式戦だが、機体が軽いために加速性能に優れていた。その加速性能はP-47サンダーボルトやP-51ムスタングといった米英の新鋭機にも劣らず、低空においてP-47が急加速した一式戦に引き離された、という事例も報告されている。ただし、その軽さと脆弱性が災いし、急降下時の加速に対する機体剛性に劣り、これが大きな弱点ともなっていた(零戦も同様)。

運動性能

一式戦は1,000馬力級エンジン装備戦闘機としては非常に軽快な運動性を持っていた。しかし、試作機の最高速度が九七戦とさほど差がなかったことから、その代替として九七戦と同等以上の旋回性能の確保が要求されたため、キ44(二式単戦「鍾馗」)用に開発された蝶型フラップ(空力班として、これらの研究開発に携わっていたのが糸川技師)が装備された。

このフラップは空戦フラップとしても使用することが可能で、旋回半径を小さくするのに効果的であったと言われるが、扱いが難しいため、熟練者でなければ実戦で上手く活用することは難しかったと思われる。なお、九七戦との比較については、後に空戦フラップを使用しなくとも、上昇力と速度を生かした垂直方向の格闘戦に持ち込む事で圧倒可能と判断されている。

武装

一式戦は「運用目的を対戦闘機戦闘に絞ることで、武装の限定等の軽量化を可能とし、低出力エンジンでも一定の性能を確保する」という思想の元で開発されたため、当初はドイツのMG17 7.92mm機関銃の国産型が予定され、実際に試作1~3号機に2挺ずつ搭載されていた。

この機関銃は口径こそ従来の7.7mm機関銃と大差ないが、より発射速度と弾丸威力の大きい新型で、九八式固定機関銃の名で仮制式となった。ところが、使用するバネの国産化が上手くいかずプロペラ同調に狂いが生じたため、4号機以降の増加試作機や初期の量産型である一型甲には従来の八九式固定機関銃(7.7mm)が機首に2挺装備された。

1939 年、陸軍はより威力の大きい口径12.7mm機関砲の搭載を模索し、ホ101、ホ102、ホ103の三種類の試作が始まった。ホ102は輸入したフィアットBR.20爆撃機に付いていたイタリア製12.7mmブレダSAFATの国産型で、増加試作機の7号機と10号機に搭載して試験が行われた。

ホ 103は、ブローニングM2のバリエーションであるMG53Aをデッドコピーし、ブレダの弾薬(もともとはイギリスのヴィッカース系12.7x81SR。M2は12.7x99)を組み合わせたものである。

M2より一回り小型軽量で、原型にはない炸裂弾マ103も使用可能であり、発射速度でも勝るという長所がある一方で、軽量弱装弾のため威力や有効射程が劣るという短所もあった。また初期は炸裂弾の信管に不具合があり、弾丸が銃身内で破裂して機体を破損するケース(腔内破裂)が多発し、これらの事故によって損傷した機体がかなりの数に上ったと言われる。

このため、初期には機関砲の砲身に鉄板を巻くことで腔内破裂時の被害を少しでも軽減する措置がとられ、性能が安定した中後期でも、炸裂弾の代わりに曳光弾で代用されることも多かったという。曳光弾は射撃するとトレースのための発光炎を曳いて飛ぶからである。ホ103は一式12.7粍固定機関砲の名で制式となった。

一式戦は開発中だったホ103の生産に目処がついたことから、一型に対しては、機首左側の八九式固定機関銃をホ103・一式12.7粍固定機関砲へ換装することになった。これは順次施され一型乙と呼称された。太平洋戦争開戦時までには全ての第一線機が機首右側に7.7mmの八九式固定機関銃を1挺、左側に12.7mmのホ103を1門装備となり、後の一型丙からは機首2門ともホ103を装備となった。

「空の狙撃兵」と呼ばれた九七戦譲りの高い射撃安定性を持つ一式戦は、搭載機銃数の割には命中率がよかったと言われる。とは言え、ラバウルやニューギニア、ビルマでB-17やB-24の迎撃にあたっては苦戦を強いられた。これらの重爆は、機体要所への装甲等による防弾装備の質が高く、ハリネズミと形容されるように旋回機銃の数が多かった。

さらに設計時に想定していない大型爆撃機迎撃に用いるには火力不足であった。「加藤隼戦闘隊」として有名な飛行第64戦隊戦隊長であった加藤建夫中佐が撃墜されたのも、火力不足を補うために爆撃機(英空軍の双発爆撃機ブリストル ブレニム)に接近しすぎたことが原因の一つだったとされている。

米英機との火力差を埋めようにも、主翼が機関銃/機関砲搭載に向かない三桁構造であったため、搭載するには主翼構造自体を変えせざるを得ず、新たな生産ラインを作る手間と時間が必要だった。

しかし、同じ中島飛行機においては、より高速で翼内機関砲を持つ二式単戦や、後続機となる四式戦闘機「疾風」(キ84)の開発・配備が進んでいた為か、一式戦への翼銃・翼砲の装備は見送られた。

手っ取り早い武装強化として、主翼下へのガンポット装備も検討されたが、飛行性能が低下することからこれも見送られている。大戦末期にホ103の拡大型であり四式戦他に装備されていたホ5・二式20粍固定機関砲を搭載した三型乙も試作されたが、重量過大による性能低下により採用には至らなかった。

実戦

太平洋戦争開戦前の日中戦争(支那事変)中、1941年6月から8月にかけて一式戦に全期機種改編した第59戦隊所属の9機が、漢口から明楽武世大尉に率いられ重慶までの長距離進攻に参加、これが一式戦の初陣となる。同進攻戦では迎撃機が現れず空中戦は起こらなかったが一式戦の長距離航続性能を実証した。

同年8月末から日本内地の福生飛行場にて機種改編を開始した第64戦隊は、12月3日に旧駐屯地の広東から35機全機を加藤建夫戦隊長が率い、1機の落伍もなしに2千数百kmを一気に飛翔し仏印のフコク島ズォンドンに進出。

7日夕刻からマレー半島コタバル上陸のため、海上を航行中の第25軍(司令官・山下奉文中将)部隊を乗せた輸送船団の上空掩護を夜間かつ荒天の悪条件のなか成し遂げ、8日の太平洋戦争開戦を迎える(マレー作戦)。

以降、一式戦は南方戦線(マレー航空撃滅戦・シンガポール航空撃滅戦・パレンバン航空撃滅戦・ジャワ航空撃滅戦 ・ビルマ航空撃滅戦など)で大いに活躍する。

特に蘭印作戦中の1942年2月14日には、パレンバンに落下傘降下する陸軍第1挺進団挺進第2連隊(空の神兵)の挺進兵を乗せた一〇〇式輸送機(キ57)やロ式輸送機を、加藤建夫少佐の統一指揮のもと第59と第64の両戦隊が空中掩護、15機のハリケーンと飛行場の高射砲と応戦したものの輸送機と一式戦に損害はなく、第64戦隊機がハリケーン2機(マクナマラ少尉機・マッカロック少尉機)を撃墜した。結果、空挺作戦は成功し太平洋戦争の戦略的最重要攻略目標であるパレンバン油田・製油所および飛行場を占領確保した(パレンバン空挺作戦)。

カタログスペックから見て太平洋戦争後半には完全に旧式化したと思われる一式戦だが、1945年(昭和20年)まで生産が続けられた。そのような機体を大戦末期まで生産・使用したことを陸軍の不手際と評価する記事もあるが、後続となる二式単戦は重戦タイプで、運動性能に優れた機体に慣れたベテラン操縦者(あるいは適応力のない操縦者)の中には使いにくいと評価する者がいた。

ほかの戦闘機を見るならば、三式戦闘機「飛燕」(キ61)はエンジンの信頼性に問題があり全体的に稼働率が低く、1944年より「大東亜決戦機」たる主力戦闘機として重点的に生産・配備された四式戦は、そのバランスの取れた高性能と実戦での活躍により、アメリカ軍から「日本最優秀戦闘機」と評されたものの、末期にはハ45の質の低下や、潤滑油や高オクタン価燃料の不足などによりこちらも信頼性に難があった。

一式戦は全生産期間を通じて比較的安定した性能を維持しており信頼性も高く、また新人操縦者にも扱いやすかったため使用は継続された。

また、開戦初中期の航空戦に限らず、ビルマ戦線や中国戦線では大戦末期の1944年後半においても、P-40やハリケーンのような同時期に登場した戦闘機のみならず、P-38・P-47・P-51・スピットファイアといった連合軍の新鋭戦闘機との戦闘で互角の結果を残している。

中でもP-38・P-47・P-51はビルマ戦線において一式戦との初交戦で一方的に撃墜されているなど、一方的な勝利を収めたことも少なからずある。これらは日本軍と連合軍側の戦果・損失記録の比較により裏付けも取れている記録である。

例として1943年11月27日の迎撃戦では、88機のP-38・P-51・B-24・B-25戦爆連合88機に対し第64戦隊の黒江保彦大尉は一式戦8機・二式単戦1機を率い迎撃、のちに遅れて第21戦隊の二式複戦「屠龍」(キ 45改)8機が迎撃に参戦するが、戦闘はほとんど第64戦隊の9機によって行われ、むしろ遅れてやってきた二式複戦がP-51に追い立てられて一式戦に助けられるなど戦力になっていなかった。

結果としてB-24撃墜3機と損傷4機、P-38撃墜2機(2名戦死)、P-51撃墜4機(3名戦死、1名捕虜)と損傷1機の戦果を挙げ、損害は一式戦被撃墜1機(操縦者生存)と損傷1機、二式単戦被撃墜1機(1名戦死)、二式複戦被撃墜1機(操縦者と同乗者2名戦死)というものだった。

この日、第21戦隊はB-24の撃墜を1機報告しているのみであるから、殆どが一式戦の戦果と思われる。またこの日報告された64 戦隊側の戦果報告はB-24撃墜2機、P-38撃墜2機、P-51撃墜4機としており、5倍や10倍の戦果誤認が多い空中戦にも関わらず実戦果と一致させている。撃墜認定の厳しい64戦隊では 少なからずこのような事態が発生している事も特筆される。

最後期に量産された三型では、同時期の零戦が火力、防御力の無理な増強による重量の増加で相対的に飛行性能を落としていたのに対し、上昇力・運動性が優越した機体になっていた。これは本機が生産当初から防弾対策として、被弾時の着火を防ぐために外装積層ゴム(セルフシーリング)の防漏燃料タンクを、二型の途中から操縦席背面(操縦者の頭部と上半身を保護)に厚さ13mmの防弾装甲板を採用していたのに対し、零戦は計画段階から防弾対策が全く施されておらず、1943年末から1944年にかけて五二型でようやく後付けしたことも大きい。

陸軍はソ連軍を相手としたノモンハン事件の戦訓から航空機の防弾装備の重要性を痛感しており、これら次期主力戦闘機のみならず、九九式襲撃機(キ51)や九七式重爆撃機(キ 21)などでも相応の防弾装備を要求・装備しており、九七戦も太平洋戦争開戦時には防漏タンクに換装されている。また一式戦は陸軍機という性質上、零戦に比べ多くの爆弾(両翼下に最大で250kg爆弾を1発ずつ搭載可能)ないし、落下タンクと爆弾の併用が可能であった。

これは攻撃機の代用がつとまることも必要とされたことであり、主に大戦中後期には通常爆弾やタ弾を搭載し戦闘爆撃機として積極的に利用されている。

一例として、1945年2月11日にラムリー島の戦いにおいてイギリス海軍の艦艇攻撃に出撃した第64戦隊の爆装一式戦12機のうち、池澤軍曹機と僚機の池田軍曹機の2機は2,200t級駆逐艦「パスファインダー」に急降下爆撃、「パスファインダー」は艦尾に2発の直撃弾を受け大破している。 ただし大型爆弾を搭載した場合、飛行性能は大幅に低下し、また脚部の強度が不十分であるため離着陸に注意が必要であった。

操縦者の中には、運動性能が高く信頼性のある三型を「(最初の一撃を喰らわないように見張りさえしっかりしていれば)落とされない戦闘機」として陸軍の最優秀戦闘機として位置づける者も少なくない。

諸元

制式名称 一式戦闘機二型
試作名称 キ43-II
全幅 10.837m
全長 8.92m
全高 3.085m
翼面積 22m²
翼面荷重 117.7 kg/m²
自重 1,975kg
正規全備重量 2,590kg
発動機 ハ115(離昇1,150馬力)
プロペラ 住友ハミルトン可変ピッチ3翅 直径2.80m
最高速度 初期型:515km/h/6,000m
      前期型:536km/h/6,000m
      後期型:548km/h/6,000m
      上昇力 高度5,000mまで4分48秒
降下制限速度 600km/h[9]
航続距離 3,000km(落下タンク有)/1,620km(正規)
武装 機首12.7mm機関砲(ホ103)2門(携行弾数各270発)
爆装 翼下30kg~250kg爆弾2発

さらに詳しく → 一式戦闘機



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