児玉誉士夫 (yoshio kodama)

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2013/06/11(火)
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児玉 誉士夫(こだま よしお、1911年(明治44年)2月18日 - 1984年(昭和59年)1月17日)は、日本の右翼運動家。CIAエージェントであったとも言われる。暴力団・錦政会(後の稲川会。会長は稲川裕芳で、後の稲川聖城)顧問。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。

生い立ち

福島県安達郡本宮町(現本宮市)に生まれた。父酉四郎の旧姓は山田といい、先祖は代々二本松藩の藩士だった。祖父は明治維新後、二本松の副参事になったが、父の代になって、同じ二本松藩の御典医児玉家から望まれて養子となったため、児玉姓にかわった。

朝鮮に住む親戚の家に預けられ、京城商業専門学校を卒業した後、(なお、その後日本大学皇道科を卒業したということになっている)工場の単純労働者として働いた。

様々な右翼団体を転々

最初社会主義に傾倒したが、その後超国家主義に転じ、玄洋社の頭山満に私淑した。1929年には赤尾敏によって創設された急進的な右翼団体「建国会」に加わった。すぐに昭和天皇に直訴しようとして捕まる。この天皇直訴事件で半年投獄された。

その後、津久井龍雄の急進愛国党を経て1931年に大川周明の全日本愛国者共同闘争協議会に参加。そこで国会ビラ撒き事件や井上準之助蔵相脅迫事件を起こし投獄された。

1932年に釈放され、満州に渡り、笠木良明の大雄峯会に参加。同年、帰国すると「独立青年社」を設立。頭山満の三男頭山秀三が主宰する天行会と共に、陸軍特別大演習に随行する斎藤首相や閣僚を暗殺し発電所を破壊して停電を起こすことで皇道派のクーデターを誘発しようと計画(天行会・独立青年者事件)。発覚して、3年半の懲役刑を受けた。その後、笹川良一が結成した右翼団体·国粋大衆党(後の国粋同盟)に参加。

1937年、外務省情報部長河相達夫の知遇を得て、中国各地を視察。1938年、海軍の嘱託となり、1941年から上海で児玉機関を運営し、それをきっかけに黒幕へのし上がっていく。

60年代初期には15万人以上の会員がいた日本最大の右翼団体全日本愛国者団体会議(全愛会議)を支える指導者の一人であった。天野辰夫や橘孝三郎、小沼正、佐郷屋留雄、笹川良一、三浦義一らがいた。全愛会議はスト破りや組合潰しを暴力で行った。顧問には日本国粋会、松葉会、義人党などの親分がいた。

1961年、この全愛会議内に児玉に忠実な活動グループ青年思想研究会(青思研)が誕生した。日乃丸青年隊の高橋正義を議長とし、下部組織には住吉会系の元組長や東声会の町井久之が代表を務める組織があった。

60年代終わりには青思研を全愛会議から脱退させた。新潟県の山中で軍事訓練を行い、児玉は訓練後、「君達各人が一人一殺ではなく一人で百人を殺してくれることを望む」と会員に語った。青思会は日本最大の行動右翼として児玉に反目する者を恐れさせた。

1967年7月、後に統一教会系の反共団体・国際勝共連合の設立につながる、「第一回アジア反共連盟(世界反共連盟の地域団体)結成準備会」が笹川良一の肝煎りで、山梨県本栖湖畔にある全日本モーターボート競走連合会の施設で開催された。この時、市倉徳三郎、統一教会の劉孝之らが集まったが、児玉も自分の代理として白井為雄を参加させた。

1969年、青思研より独立した右翼団体日本青年社(前身は楠皇道隊)が結成。これはヤクザと見分けが付かない任侠右翼の始まりであった。

児玉機関

1938年に日中戦争が始まった。翌1939年、外務省情報部の懇意の笹川良一の紹介で採用され、海軍航空本部の嘱託となった。1941年真珠湾攻撃の直前、海軍航空本部独自の物資調達の為に笹川良一が山縣正郷少将に紹介、その後任者が大西瀧治郎少将(当時)で、後に大西中将が自決する日まで、親しい間柄となる。(大西中将が自決に使った刀は児玉が贈った物といわれる。)それにより上海に「児玉機関」と呼ばれる店を出した。

これは、タングステンやラジウム、コバルト、ニッケルなどの戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約をもらっていた。当初、現地で商事会社東光公司を経営していた水田光義の水田機関を通じて物資を調達していたが、水田機関のピンハネが余りにひどいことに気づき、これを排除。1943年、水田が暗殺される。これは児玉機関の仕業とされる。

右翼団体・大化会の村岡健次(後の暴力団北星会会長・岡村吾一)らが児玉機関で働いていた。中国人や満州人を銃で脅し、恐ろしく安い値で物資を獲得したため略奪と呼ばれた。他の部下には副機関長となった吉田彦太郎や岩田幸雄、藤吉男、許斐氏利ら右翼の無法者がそろった。

この商社のような仕事はすでに三井、三菱などの大企業が入っていたが即決主義で集めたため現地では重宝された。よく、児玉はこの仕事でダイヤモンドやプラチナなど1億7500万ドル相当の資金を有するにいたったと言われている。アメリカ陸軍情報局の報告では、児玉機関は鉄と塩およびモリブデン鉱山を管轄下におさめ、農場や養魚場、秘密兵器工場も運営。ヘロインの取引の仲介もやっていたという。

この類の「○○機関」は当時大陸において非常に多く、前述の表の仕事と比して裏の仕事として中国側へのスパイ活動、抗日スパイの検挙や殲滅等を請け負っていた。一説には児玉が大陸で獲得したとされる膨大な資金はこれらの非合法な取締り(直接的には強盗殺害)によるものとされている。

児玉の行動について憲兵の監視はあったが、大西瀧治郎のような大物が庇護しているため逮捕してもすぐに釈放されるという結果となった。この間、1942年4月30日に行われた第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)に5人当選区の東京5区から立候補をして8位落選をしている。

第二次世界大戦後

「逆コース」

終戦後、児玉は児玉機関が管理してきた旧海軍の在留資産をもって上海から引き上げた。この海軍の秘密資金を米内光政海相の了承を得て掌中にしていた。講和内閣の首班として東久邇宮稔彦王が組閣した時には東久邇宮自身は児玉を知らなかったが内閣参与となっていた。

1946年初頭、A級戦犯の疑いで占領軍に逮捕され、巣鴨拘置所に送られた。その間、アメリカは民主化のために右翼を処刑・追放する方針を180度変え、アメリカに協力的な戦犯は反共のために生かして利用する「逆コース」と言われる政治的変換を行った。

「1948年末、釈放された児玉は中央情報局(CIA)に協力するようになった」と後にアメリカでも報道された。2007年3月12日にアメリカの公文書館保管のCIA対日工作機密文書が機密解除されて公開されたが、それによると、児玉のことを「プロのうそつきで悪党、ペテン師、大どろぼうである。情報工作できるような能力は全くなく金儲け以外に関心がない」と評している。

「フィクサー」へ

第二次世界大戦の終結後に上海から持ち帰った資金(現在の時価にして3750億円)を海軍に返還しようとしたというが、この資金は、調べられれば、汚れた金であることがわかってしまう。それで、戦時犯罪の疑いをかけられたくなかった海軍は、児玉に処分を依頼。旧海軍の資産のためアメリカも没収せずに、宙に浮いた。児玉は、巣鴨拘置所に共にいた右翼でヤクザの親分でもある辻嘉六に勧められて、この資金の一部を鳩山ブランドの日本民主党(鳩山民主党)の結党資金として提供した。

1950年、北炭夕張炭鉱の労組弾圧のため明楽組を組織して送り込んだ。G2(アメリカ諜報担当・参謀第2部)と多くの暴力団の中心的仲介者としての地位を築き、十数年後には児玉は来たるべき闘争に備えて右翼の結集を目論んだ。暴力団との仲介には児玉機関にいた村岡健次が大きな役割を果たすことになる。

1954年には、河野を総理大臣にする画策に力を貸した。1955年には自由党(緒方自由党)と合併して自由民主党になった後も緊密な関係を保ち、長らく最も大きな影響力を行使できるフィクサー(黒幕)として君臨した。岸信介が首相になる際にもその力を行使した。

日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸信介は1959年1月16日、次期総理大臣を党人派の大野伴睦に譲り渡す誓約をすることになる。その立会人が児玉であり、河野一郎や佐藤栄作も署名した誓約書が残されている。
1960年、生前葬を行う。河野一郎や大野伴睦といった大物政治家や、力道山といった大スターが児玉のための葬儀に集まり、焼香した。

アイゼンハワー訪日と右翼・ヤクザ連合

1960年の日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約改正に前後したアメリカのアイゼンハワー大統領の訪日反対の大規模な反対運動(安保闘争)を阻止するため岸信介首相の命令により自民党の木村篤太郎らは、安保闘争の拡大を阻もうと、ヤクザ・右翼を使って運動を阻止した。児玉はその世話役として行動している。

新安保条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)の強行採決をきっかけにして起こった国内における岸政権に対する反発は政府が予想した以上に大きく、安保闘争が激化したため、日本政府はアイゼンハワーへ訪日を中止するよう要請した。

しかし、この時に児玉は自民党に対し大きな貸しを作り、その結果自民党への影響力が表立ったものになるきっかけとなったと右翼陣営は宣伝しているが、官僚派はすでに破防法への道を開いていたため結果としてこれも無駄とされる。

1962年(昭和37年)夏ごろから、児玉誉士夫は、「一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の防波堤となる強固な組織を作る」という構想のもと「東亜同友会」の結成を試み、錦政会・稲川裕芳会長、北星会・岡村吾一会長、東声会・町井久之会長らに根回しを始め、同意を取り付けた。

昭和38年(1963年)には、関東と関西の暴力団の手打ちを進め、三代目山口組・田岡一雄組長と東声会・町井久之会長との兄弟盃(田岡一雄組長を兄とする)を実現させた。(ただ、東亜同友会は結成されることはなかった)

児玉誉士夫は右翼やヤクザ組織、政治家との繋がりによる「力」、様々な表、裏の資金源から得る「金」によって日本で最も影響力のある大物フィクサーにのし上がったとされる。

韓国との癒着

児玉は1965年の日韓国交回復にも積極的な役割を果たした。国交回復が実現し、5億ドルの対日賠償資金が供与されると、韓国には日本企業が進出し、利権が渦巻いていた。児玉誉士夫もこの頃からしばしば訪韓して朴政権要人と会い、日本企業やヤクザのフィクサーとして利益を得た。児玉だけではない。元満州国軍将校、のちに韓国大統領となる朴正煕とは満州人脈が形成され、岸信介、椎名悦三郎らの政治家や元大本営参謀で商社役員の瀬島龍三が日韓協力委員会まで作って、韓国利権に走った。

児玉と韓国人教祖の文鮮明が国際勝共連合を設立するのにつながる働きをしていたことは前節で述べたが、「朝日ジャーナル」によれば、米国では、文鮮明-児玉誉士夫-笹川良一などを通ずる関係が、米下院国際機関小委員会(フレーザー委員会。委員長はドナルド・M・フレーザー民主党議員)での証言で明らかになっている。

統一教会も朴政権の政策に呼応したため、保護を受けたと言われており、岸信介は統一教会に大変賛同的であったことは有名である。安岡正篤も朴政権の国作りに共鳴している。

児玉誉士夫、町井久之ともに芸能界とのつながりも深く、特に三田佳子と親しい。なお、児玉の実姉が韓国に嫁いでいる。

フィクサー

日本国内では児玉は企業間の紛争にもしばしばフィクサー役として登場する。1972年河本敏夫率いる三光汽船はジャパンラインの乗っ取りを計画して同社株の買占めを進めた。三光汽船による株買占めに困惑したジャパンラインの土屋研一は当時銀座4丁目の雑居ビルに事務所を構えていた児玉に事件の解決を依頼した。報酬は現金1億円だった。

しかし、児玉が圧力をかけても、三光汽船の河本敏夫はなかなかいうことを聞かなかった。これではフィクサーの面目がつぶれることから、児玉は結局そごう会長の水島廣雄に調停を依頼する。水島の調停により、三光汽船の河本敏夫は買い占めたジャパンライン株の売却に同意する。児玉は水島に謝礼として1億円相当のダイヤモンドを贈った。

この件が代表するように、児玉が介入した乗っ取り事件は数多い。また野村證券社長の瀬川美能留から莫大な資金提供を受けていたことでも知られる。1973年には粉飾決算に揺れる殖産住宅相互株式会社の株主総会乗り切りに絡んで、同社長の東郷民安から児玉や、配下の岡村吾一に金銭が渡っている。

他にもインドネシアへの政府開発援助では東日貿易秘書としてスカルノ大統領の夜の相手に選ばれたクラブホステス根元七保子(源氏名はデビ、後の通称デヴィ夫人)を送り込んで荒稼ぎをしている。

岸首相の汚職を追及していた社会党の今澄勇を等々力の児玉の私邸に二度も呼び、児玉は岸の追及をやめるように説得した。しかし今澄が聞き入れないため、身上調書を渡した。それには今澄の政治資金の出所、その額、使っている料理屋、付き合っている女が全て書かれていた。児玉は東京スポーツを所有する他に、腹心をいくつもの雑誌社の役員に送り込んでいた。それらに書き立てられることは脅威となった。

悪事を書き立てる正論新聞を黙らせるため、巽産業株式会社代表取締役石井唯博(後の稲川会会長石井進)を送り込んだこともあった。

さらに詳しく → 児玉誉士夫




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