ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー (Henry Alfred Kissinger)

航空兵器・陸上兵器・海上兵器・銃器・戦争・紛争・歴史・革命・テロ・事件・軍事動画・ニュース(報道)・社会情勢・政治運動・評論・講演など、軍事関連の情報を公開しています。宗教・思想・経済・政治的なものも少しアリ

広告
--/--/--(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2013/05/10(金)
*





ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー(Henry Alfred Kissinger, 1923年5月27日 - )は、ドイツ出身でアメリカのニクソン政権およびフォード政権期の国家安全保障問題担当大統領補佐官、国務長官。国際政治学者。

人物・来歴

生い立ち

1923年に、ドイツ・ヴァイマル共和国のフュルトに生まれる。本来の姓名はHeinz Alfred Kissinger(ハインツ・アルフレート・キッシンガー)で、苗字はバート・キッシンゲン(Bad Kissingen)に由来。父ルイス・キッシンガーは女子高で歴史と地理を教え、母パウラ(旧姓シュテルン)はアンスバッハ近郊ロイタースハウゼン出身の富裕な家畜業者の娘。両親ともにドイツ系ユダヤ人である。

亡命

ハインツは、1歳下の弟ヴァルターと共に幸福な少年時代を過ごしたが、1933年に、ヒトラー支配のもと反ユダヤ人政策を推し進めるナチスが、多くのドイツ人の支持を受けて選挙の末に政権を掌握したために運命が一変した。
一家は多くのドイツ人が支持した反ユダヤ人政策を嫌って1938年にアメリカへ移住し、第二次世界大戦中の1943年に同国に帰化(ドイツに残った親類はドイツ人に殺害されたとされる。親類が本当に存在したか、殺されたかの詳細は不明)。ただし、当時のドイツにおける反ユダヤ主義についてキッシンジャーは「特に不愉快に感じたと思ったことはない」と告白している。

移住後はジョージ・ワシントン高校に3年半通う。後半2年間は夜間クラスで、昼間は髭そり用ブラシの工場で働き、週約15ドルの賃金が一家のアパート住まいの生活を助けていた。高校卒業後は、工場で働く一方職場近くにあったニューヨーク市立大学シティカレッジ経営・行政管理学部(ニューヨーク市立大学バルーク校の前身)にもパートタイム学生として通った。特に会計学で優秀な成績を修めた。

軍歴

第二次世界大戦中の1943年、大学での学業を中断してアメリカ陸軍に入隊する。陸軍ではドイツ語の能力を生かしヨーロッパ戦線の対諜報部隊軍曹として従軍した。1945年5月のヨーロッパ戦線の終戦後は母国ドイツに駐留し、多くのドイツ軍戦犯の処遇にあたった。これにあたって、多くのユダヤ人のアメリカ陸軍兵士が戦犯への激しい憎悪をむき出しにしていた中でキッシンジャーは「報復しようとは考えなかった。彼らがどうしてこのようなことをしたのかを知りたかった」と発言している。

ハーバード大学教授

1946年に復員し、ハーバード大学に入学。1950年、政治学の学士学位を取得し最優等で同大学を卒業する。引き続き同大学大学院に進学し、ウィリアム・Y・エリオットの指導のもと19世紀のヨーロッパ外交史を研究し、1952年に修士学位を、1954年にはウィーン体制についての研究で博士学位を取得する。

この論文では、その後の100年間 欧州で大きな戦争が防がれた国際秩序がどのようにして作られたかが論じられている。その要因の一つとして、敗れたナポレオンのフランスに対して、メッテルニヒやカスルリーらが、懲罰よりも力の均衡の回復を重視したことを上げている。

1951年には日米学生会議に参加している。大学院生時には指導教授の庇護を受け、世界各国の有望な若手指導者をハーバード大学に集めて国際情勢について講義や議論を行うサマー・セミナーの幹事役となり、国内外にその後のワシントン入りにも繋がる人脈を形成した。日本からの参加者としては、中曽根康弘(元日本国首相。当時衆議院議員・改進党所属・当選4回、1953年参加)などがいる。

博士課程修了後もハーバード大学政治学部で教鞭をとっていたが、外交問題評議会への参加を通じて、同時代の外交政策にも積極的な提言をはじめる。特にキッシンジャーはアイゼンハワー政権の採用した核戦略(「大量報復戦略」)の硬直性を辛辣に批判し、のちのケネディ政権が採用する「柔軟反応戦略」のひな型ともいえる、核兵器・通常兵器の段階的な運用による制限戦争の展開を主張した。1960年代にはケネディ政権の外交政策立案に一時的に関与することとなる。

ニクソン政権

1968年の大統領選挙では共和党の大統領候補指名選に立候補したネルソン・ロックフェラーの外交顧問を務めていた。しかしロックフェラーの敗北後に、アイゼンハワー政権の副大統領であったリチャード・ニクソンから直々のスカウトを受け、政権誕生とともに国家安全保障問題担当大統領補佐官として政権中枢に入り、ニクソン外交を取り仕切る。キッシンジャーの大統領補佐官指名は、国務長官、国防長官の指名の前になされた。ここにニクソンのキッシンジャーへの期待を読み取る論者も少なくない。

ジョンソン政権までの外交政策は、国務長官が決定権を握り、国家安全保障問題担当大統領補佐官は調整役とされてきた。しかしニクソンとキッシンジャーは国家安全保障会議(NSC)が外交政策の決定権を握るべきだと考えていた。ニクソンの命を受けたキッシンジャーは国家安全保障会議(NSC)の特別補佐官ポストに若手の外交官、軍将校、国際政治学者をスカウトし、国家安全保障会議(NSC)を組織した。

キッシンジャーは、国務省などと激しい権力闘争を行い、ニクソンおよびフォード政権では、国家安全保障会議(NSC)が外交政策の決定権を独占することとなる。とくにニクソン政権時代は、ウィリアム・ロジャース国務長官を重要な外交政策から排除してしまった。キッシンジャーは、国家安全保障会議(NSC)特別補佐官のほかに、大使、駐在武官、CIA支局長などを外交の手段として用いていたともされる。

後述する1971年の極秘訪中の際も、キッシンジャーはロジャース国務長官と国務省に一切知らせずに、フランス、ルーマニア、パキスタンなどに勤務している駐在武官やCIA支局長を利用して秘密裏に北京に到着した。北京では、中国側の英語通訳に依存して交渉が行われた。

冷戦政策の再構築を意図したニクソン政権期の外交の中で、キッシンジャーは重要な位置を役割を果たした。1971年にはニクソンの「密使」として、当時ソ連との関係悪化が進んでいた中華人民共和国を極秘に二度訪問、周恩来と直接会談を行い、米中和解への道筋をつける。一方で、この中華人民共和国との和解を交渉カードとして、ベトナム戦争終結に向けた北ベトナムとの秘密停戦交渉や、ソ連とも第一次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策を推進した。

またこのような大国間関係の動きと連動して、ニクソンとキッシンジャーは1960年代から1970年代初頭のアメリカにとって最大の外交問題であったベトナム戦争の終結にも成果を納めた。アメリカが中ソと関係改善を行い、その結果、ベトナム戦争において中ソ両国の支援を受けてアメリカと対峙していた北ベトナムを国際的に孤立させたことで、アメリカはジョンソン政権末期の1968年5月よりパリで行われていた和平交渉妥結に成功した。

1973年にはパリ協定が調印され、ベトナム戦争終結への道筋をつけることとなった(事実上は単なるアメリカ軍のベトナム戦争からの撤退であり、その後も南ベトナム軍と北ベトナム軍の戦闘は継続されたため、ベトナム戦争自体は1975年4月まで続いた)。これを功績としてアメリカ交渉団の代表であったキッシンジャーはノーベル平和賞を受賞することとなる(北ベトナム側の代表であるレ・ドゥク・トは受賞を辞退した)。

フォード政権

これら種々の成果を得たキッシンジャーは、1973年には大統領補佐官に留任したまま国務長官に就任し、フォード政権の退陣まで外交政策の全般を掌握することとなった(翌1974年、ジェラルド・R・フォード政権の成立に伴い、補佐官は退任する)。

フォード政権でも外交政策に明るくない大統領を尻目に、補佐官時代の部下であった国家安全保障問題担当大統領補佐官のブレント・スコウクロフトや、国務省参事官ヘルムート・ゾンネンフェルトら側近を活用しながらデタント政策をリードした。一方でより厳しい対ソ連認識を抱き、デタント政策に批判的なドナルド・ラムズフェルド(大統領首席補佐官・国防長官を歴任)などとは閣内で対立していた。

ニクソンとキッシンジャーの外交

キッシンジャーがニクソン政権で推進した外交の特徴はその現実主義にあった。これはアメリカの国益を外交の中心に据え、世界的なバランス・オブ・パワーに配慮しつつ、国際秩序をアメリカにとって受け入れられる形の安定へと導くことを目的としていた。このような国際秩序像の背景にはかつてキッシンジャーが研究し、その安定性を高く評価していたウィーン体制が一つのモデルとして存在していたことが、多くの研究で指摘されている。

キッシンジャーらの発想は冷戦と、そしてそれが熱い形で具体化されたベトナム戦争という構図の中で、従来アメリカが基本的国策としていた孤立主義と理想主義という外交姿勢がもはや機能しなくなったことを端的に表すものだった。

キッシンジャーの推進したデタント政策は、ベトナム戦争からの脱出という短期的な意味と、米ソ二超大国間の対立という約20年間継続されてきた従来の冷戦構造に、ソ連との関係悪化と時を同じくして台頭してきた中華人民共和国を新たな同次元のプレイヤーに組み入れること(「米中ソ三角関係」などとも評される)、ソ連が核戦力の面でアメリカと対等な立場にあることを明示的に認めることによって、大国間の勢力バランスを現状に即したものへと安定的に再編成するという、長期的な意味を持った戦略の組み合わせだった。

中華人民共和国の中国共産党政府との和解を進めたことにより、同国と対立する中華民国の中国国民党政府との関係悪化を招くが、その後の中華人民共和国との国交樹立後も中華民国と事実上の軍事同盟を結び続けるなど、ここでも勢力バランスを重視した外交政策を取ることとなる。

「外交の達人」の虚実

キッシンジャーは、国家安全保障担当補佐官時代から国務長官(1973年8月23日指名)時代に至るまで、その独特な風貌やドイツ風のアクセント、さまざまなパーティで有名女優を同伴して登場するなどの派手なパフォーマンス、日本で「忍者外交」などと形容された神出鬼没の外交スタイル、さらにベトナム戦争終結への貢献によるノーベル平和賞受賞などといったさまざまな理由から、歴代の前任者たちとは比較にならないほど目立つ存在だった。今日では「ドクター・キッシンジャー」は20世紀後半を代表する外政家とする認識が一般的である。

しかし、このような「外交の達人」という一般的な評価は、キッシンジャーが国務長官退任後繰り返し発表してきた著書や回想録に拠るところが大きい。近年ではニクソン外交の実態について、公開された文書史料をもとに「外交政策の構想者・決定者は、外交通だった大統領・ニクソンであり、キッシンジャーはそのメッセンジャー・ボーイに過ぎなかった」などとし、ニクソンの比重をより重く見る研究も現れている。

ニクソンとキッシンジャーは「厚い信頼で結ばれていた」とされるが、個人的には決して親しい友人ではなかった。ドイツ系のニクソンが他の側近の前でキッシンジャーのことをその出自(ユダヤ系ドイツ人でアメリカに帰化)を背景に侮蔑的に呼んだことが数回確認されており、キッシンジャー自身も「一度として二人きりで食事を取ったことはなかった」と語っている。

退任後

1977年、キッシンジャーはフォード政権の退陣と共に国務長官を退任した。コロンビア大学から教授就任の誘いを受けたが、学生の激しい反対に会い、就任を断念する。その後ジョージタウン大学戦略国際問題研究所(CSIS)に招かれ、在職中次々と政権時代の回想録を発表し、話題を呼ぶこととなった。

1982年、国際コンサルティング会社「キッシンジャー・アソシエーツ」を設立し、社長に就任。同社にはジョージ・ブッシュ(父)政権で国務副長官を務めたローレンス・イーグルバーガー(後に国務長官)や、国家安全保障担当大統領補佐官を務めたブレント・スコウクロフトなどが参加している。また、バラク・オバマ政権で財務長官に就任したティモシー・ガイトナーも、一時同社に籍を置いていた。

現在は「現代外交の生き字引的存在」として多くの著書を持つほか、世界各国で講演活動を行っている。また、ニクソン以降のアメリカの歴代大統領をはじめとする世界各国の指導層と親交を持っており、国務長官退任から30年以上たった現在でもその国際的影響力は「最大級」と評価されている。

最近では、ジョージ・W・ブッシュ政権において指南役として活躍した。ブッシュはキッシンジャーとは定期的に会談の機会を設けており、政権外で最も信頼する外交アドバイザーであった。キッシンジャーはブッシュ政権下で行われているイラク戦争も基本的に支持していた。

また、2007年1月4日にはジョージ・シュルツ、ウィリアム・ペリー、サム・ナンらと連名で「核兵器のない世界に(A World Free of Nuclear Weapon)」と題した論文を『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙上に発表した。同論文はイラン・北朝鮮などが核開発を試み、また国際テロリスト・グループによる核保有の可能性すら存在する現代において、核兵器に過去のような抑止効果は存在しないとして核兵器廃絶をアメリカが唱道すべきことを訴えており、注目を集めている。

2009年4月20日、岡山大学にて特別講演会を実施。この模様は後日岡山放送でも放映された。2011年11月11日夜には、首相官邸を訪問、野田佳彦首相と会談し圧力を掛け、「TPP交渉参加方針を歓迎する」と述べた。

さらに詳しく → ヘンリー・キッシンジャー




キッシンジャー回想録 中国(上)キッシンジャー回想録 中国(上)
(2012/03/29)
ヘンリー・A.キッシンジャー

商品詳細を見る
関連記事

タグ : キッシンジャー ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー ヘンリー・キッシンジャー

この記事へのコメント
URL:
Comment:
Pass:   
この記事のトラックバックURL
http://gunjimania.blog108.fc2.com/tb.php/2540-aa43556c
 この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック

 | Copyright © 軍事マニアクス - Military Maniacs All rights reserved. | 

 / Template by 家族 ペット 自分史 ブログ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。