野村秋介 (syuusuke nomura)

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2013/05/02(木)
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野村 秋介(のむら しゅうすけ、1935年2月14日 - 1993年10月20日)は、日本の右翼活動家・運動家。戦後新右翼の代表的な論客として知られた。

来歴・人物

東京生まれ、横浜育ち。神奈川工業高校中退後、愚連隊に入り、若年の頃は、出口辰夫(通称:モロッコの辰。後に暴力団稲川会四天王の一人となった)の舎弟だった。網走刑務所で服役中、五・一五事件の三上卓の門下生と出会ったことを機に民族主義者となり、自らも三上の弟子となる。

1961年に憂国道志会を結成し、大悲会会長に就任した( 「大悲」とは、仏・菩薩が、万物に灌ぐ宇宙的な悲しみ(慈悲)のこと)。

1963年7月15日、憂国道志会会員・松野卓夫とともに、神奈川県平塚市にあった自民党の政治家・河野一郎(当時は建設大臣)の私邸に侵入し、家人を家の外に出した後に河野邸を放火した(河野一郎邸焼き討ち事件)。この事件で、同年8月8日に起訴され、懲役12年の実刑判決を受けた。

出所後の1977年3月3日、元楯の会の実動部隊班長・伊藤好雄、元大東塾森田忠明、元楯の会西尾俊一とともに、散弾銃や拳銃あるいは日本刀を持って、東京都千代田区大手町の経団連会館を襲撃し、職員12人を人質にとって籠城した。

早い段階で人質を8人を解放し、人質は4人となった。警察側の十何時間という長い説得や、三島由紀夫未亡人・瑤子による説得の中で、野村らが「人質に危害を加えない。そして警察方に投降する。現行犯逮捕される。ただし、自分達には手錠をかけない」との形で合意した。

同年3月4日、野村らは警察に経団連会館の中で逮捕された。この際、手錠はかけられなかった。野村は懲役6年の実刑判決を受け、再び服役した(経団連会館襲撃事件)。

「ヤルタ・ポツダム体制打倒」と「日米安保条約破棄」を軸に、反権力の右翼としての思想を強く主張した。その批判対象は政界・財界からマスコミにも向けられた。

1983年、第37回衆議院議員総選挙東京都第2区から新井将敬が出馬したが、同選挙区石原慎太郎候補の秘書により、『北朝鮮から帰化』という中傷シールが選挙ポスターに貼られた(黒シール事件)。その際、石原事務所に猛抗議を行った。

1985年3月から、静岡県浜松市で、一力一家組事務所撤去活動が起ると、「一力一家問題を考える会」を立ち上げ、暴力団・四代目山口組(組長代行は中西一男)一力一家(組長は青野哲也)を擁護した。

1986年、フィリピンでモロ民族解放戦線に拉致されたカメラマンの石川重弘を、遠藤誠弁護士、黒沢明らと協力して救出。この件で野村は、マニラの日本大使館の対応に「無名のカメラマンという理由で見捨てた」と激しく批判した。

1992年、第16回参議院議員通常選挙に際して、日本青年社等が組織した「たたかう国民連合・風の会」から横山やすしらと共に比例区で立候補した。その際、『週刊朝日』誌に「ブラック・アングル」という風刺イラストを連載していたイラストレーターの山藤章二が、これを「虱の党」と揶揄した作品を発表した。マスコミの中で特に朝日新聞にこだわっていた野村は抗議の姿勢をより強めた。

選挙後、藤本敏夫らとともに、少数派・諸派の立候補者を排除するマスコミの選挙報道を公職選挙法違反として刑事告訴した。民事裁判も起こしたがいずれも認められなかった。

翌年の1993年10月20日、東京・築地の朝日新聞東京本社に中江利忠社長の謝罪を受けるために訪れ、社長ら首脳と話し合いの後「天皇弥栄(すめらみこと いやさか)」と三度言い残し、拳銃で自決した。58歳没。

一周忌である1994年10月20日から、野村の命日は『群青忌』(ぐんじょうき)と呼ばれており、命日には毎年、有志らによる追悼集会や講演会などが行われている。

逸話

韓国統監府初代統監伊藤博文の暗殺者安重根を「憂国の志士」と称えていた。

河野一郎邸焼き討ち事件で千葉刑務所に入獄していた際に、寡黙で朴訥、勤勉な「獄中左翼」の朴判岩(在日韓国人)が無事故、無欠勤で勤勉に働いていたが、それにも関わらず看守に虐待されているのを見かねて、野村が横田秀雄管理部長に朴の勤勉さ、良識ある行動を報告した。すると1ヶ月もしないうちに、朴に仮釈放面接が下った。

朴判岩は野村にお礼を言ったが、野村は「僕の力ではない。君自身の生きざまというか姿勢が、僕を感動させて、管理部長も感動させたんだ」と、答えた。

昭和維新運動の先輩であり、戦後民族運動の重鎮である葦津珍彦、中村武彦に私淑し師事していた。また、この二人も風変わりな野村をとても可愛がり、高齢をおして野村の主催する集会等へ出かけた。一面識もなかった大東塾塾長の影山正治も獄中の野村に手紙を書いている。

しかし、野村が出獄して手紙を見たときには、影山は元号法制化実現を願い割腹自決を遂げた後であった。野村は直ちに、東京青梅の大東農場内にある影山塾長の墓所に詣でている。

マスコミは、野村のことを「新右翼」と呼んだが、平成に入って以降当人はこれを好まず「新浪漫派」(文学運動の新浪漫派とは異なる)と自ら名乗り、独自の運動を展開しようとした。

一水会に所属した見沢知廉とは獄の外での面識はなかったが、見沢が千葉刑務所へ入所した後に見沢の母から相談を受けたこともあり、度々励ましの手紙を送った。見沢の母に対しても度々相談に乗るなど献身的な支援を行ったという。見沢は自書「母と息子の囚人狂時代」(新潮文庫)にて感謝の意を評している。

筑紫哲也と生前交流があった。筑紫が亡くなった後、週刊文春の特集で阿川佐和子が述べている。思想的立場は両極に位置していたが、尊敬しあっていた。

俳優菅原文太と晩年交流があり、下記のドキュメント・ビデオでも証言している。

黒シール事件で石原慎太郎事務所に怒鳴り込んだ一件により「石原慎太郎を平伏させた男」として知れ渡った。

朝日新聞社で自決した際、同行した当時18歳だった息子に「いままではお母さんがお前を守った。これからはお前がお母さんを守れ」と言い残し、家族思いの父親としての一面を見せた。

自決の動機とも言われる揶揄イラストを書いた山藤章二はそのショックから1993年11月5日号での執筆を停止。結果当該号での「ブラック・アングル」は白紙掲載という異常事態となった。ちなみに、同連載の1993年ダイジェストには、その分は掲載されていない。

自決した翌日、テレビ朝日の徹子の部屋のゲストは新聞のTV欄では山藤章二であったが、実際の放送では小錦に急遽変更されている。山藤出演回は事件から約1ヶ月後に放送した。

さらに詳しく → 野村秋介




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