重光 葵 (Mamoru Shigemitu)

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2013/04/16(火)
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重光 葵(しげみつ まもる、1887年(明治20年)7月29日 - 1957年(昭和32年)1月26日)は、第二次世界大戦期の、日本の外交官・政治家である。

第二次世界大戦中に外務大臣を務め、終戦時に政府全権として降伏文書に調印した。戦後は東京裁判で有期禁錮の判決を受けたが、赦免されて政界に復帰し、再び外務大臣となって日本の国際連合加盟に尽力した。貴族院勅選議員、衆議院議員(戦後)当選3回。

人物・来歴

生い立ち

大分県大野郡三重町(のち大分県豊後大野市)に士族で大野郡長を務める父・直愿と母・松子の次男として生まれた。しかし母の実家(重光家本家)に子供がなかったため養子となり重光家26代目の当主となった。旧制杵築中学、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業する。

外交官として

文官高等試験外交科合格後の1911年(明治44年)年9月、外務省に入省(第20回、芦田均・堀内謙介・桑島主計らと同期)、在ドイツ・在英国各公使館書記官、在シアトル領事を経て、各国において日本国公使として勤務していたが、1930年(昭和5年)には駐華公使となる。

1931年(昭和6年)9月、日本陸軍の一部が突如中国東北部を制圧しようと満州事変を引き起こし国際問題となる。これに対し重光は「明治以来積み立てられた日本の国際的地位が一朝にして破壊せられ、我が国際的信用が急速に消耗の一途をたどって行くことは外交の局に当たっている者の耐え難いところである」(重光著『昭和の動乱』より)と怒り、外交による協調路線によって収めようと奔走。

1932年(昭和7年)1月、上海事変が起き重光は欧米諸国の協力の元、中国との停戦交渉を行う。何とか停戦協定をまとめ、あとは調印を残すだけとなった同年4月29日、上海虹口公園での天長節祝賀式典において朝鮮独立運動家・尹奉吉の爆弾攻撃に遭い重傷を負う(上海天長節爆弾事件)。

重光は激痛の中「停戦を成立させねば国家の前途は取り返しのつかざる羽目に陥るべし」と語り、事件の7日後の5月5日、右脚切断手術の直前に上海停戦協定の署名を果たす。このとき重光の隣でやはり遭難し片目を失った海軍大将の野村吉三郎ものちに外務大臣、そして駐米大使となり、日米交渉の最前線に立っている。なお、弁当箱状の爆弾が投げつけられた時、逃げなかったことについて「国歌斉唱中だったから」と答えている。

上海事変を中国が国際連盟に提訴したことを引金に、1933年(昭和8年)2月、国際連盟で日本軍の満州での行動を不当とする決議案(リットン報告書)が賛成は42ヵ国対反対1ヵ国(日本)で採択された。これを不服とする日本は国際連盟から脱退を宣言し国際社会から孤立していく。

このころ重光は「欧米の国々は民主主義民族主義を欧州に実現することに努力した。しかしながら彼らの努力はほとんど亜細亜には向けられなかった。欧米は阿弗利加および亜細亜の大部分を植民地とし亜細亜民族の国際的人格を認めないのである」と手記を残し、白人による亜細亜支配であれば許されるのかと怒っている。

その後、駐ソ公使(張鼓峰事件、乾岔子島事件に関与)・駐英大使を歴任。特に日英関係が悪化するなかで関係好転や、蒋介石政権への援助中止要請などに尽力する一方、欧州事情に関して多くの報告を本国に送っており、その情報は非常に正確なものだったといわれた。

だが、欧州戦争において重光は「日本は絶対に介入してはならない」と再三東京に打電したにも関わらず日本政府は聞き入れず、松岡洋右外務大臣が日独伊三国同盟を締結し、結果としてアメリカの対日姿勢をより強硬なものにしてしまった。

1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争が始まる。日本は東南アジアの欧米の植民地を占領。外交官として重光はこれに対し「日本は卑しくも東亜民族を踏み台にしてこれを圧迫し、その利益を侵害してはならない。なぜならば武力的発展は東亜民族の了解を得ることができぬからである」と怒っている。

戦時中の外相

東條内閣・小磯内閣において外務大臣を務める。東條内閣にあっては大東亜省設置に反対、東條首相のブレーンとして自らの主張を現実にするため、1943年(昭和18年)11月の大東亜会議を開くために奔走。人種差別をなくし亜細亜の国々が互いに自主独立を尊重し対等な立場での協力を宣言した。

敗戦国の全権

重光は敗戦直後に組閣された東久邇宮内閣で外相に再任され、敗戦国の全権として降伏文書に署名するという役目を引き受ける。

1945年(昭和20年)9月2日、東京湾上に停泊した米国の戦艦・ミズーリ甲板上で行われた連合国への降伏文書調印式において、参謀総長の梅津美治郎と共に日本政府全権として署名を行った。重光はこれを「不名誉の終着点ではなく、再生の出発点である」ととらえ、その時の心境を「願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを」と詠んでいる。

外相辞任後は、極東国際軍事裁判における外務省関係容疑者の弁護の準備を進めていたが、1946年(昭和21年)4月13日に来日したソ連代表検事のS・A・ゴルンスキーがジョセフ・キーナン首席検事に対して、強硬に重光をA級戦犯として起訴するよう要求してきた。

当初、GHQは重光を戦犯として起訴する意思は皆無で、キーナンをはじめとするアメリカ側検事団も強く反対した。しかし、当時の民主党政権は「要求を受け入れられないのなら、裁判に参加しない」というソ連側の揺さぶりに屈する形となり、マッカーサーも要求を容認さぜるを得なくなった。結局、4月29日の起訴当日に逮捕起訴され、1948年(昭和23年)11月12日に有罪判決を受けた。

裁判においては、高柳賢三・ジョージ・ファーネス両弁護人の尽力などもあって、その判決は禁固7年というA級戦犯の中では最も軽いものとなったが、日本だけではなく当時の欧米のメディアも重光の無罪は間違いないと予想していただけに、有罪判決はGHQによるソ連を満足させるための政治的妥協によるものだと評する声も多かった。

事実、当時の巣鴨プリズンで憲兵を務めていたブルーム大尉は「驚いた。貴下の無罪は何人も疑わぬところであった」と憤りを表し、ケンワージー中佐などは「判決は絶対に覆るはずだ」とまで述べていたという。4年7ヵ月の服役の後、1950年(昭和25年)11月には仮釈放されている。

戦後

重光は公職追放解除後、改進党総裁・日本民主党副総裁を務めた。改進党総裁であった1952年(昭和27年)に野党首班として総理大臣の座を吉田茂と争い2位。続く1953年(昭和28年)の総選挙後、少数与党となった吉田の日本自由党からの連立の呼びかけを拒否する。

野党の首班候補として重光の総理大臣指名が現実のものとなりかけたが野党の足並みが乱れ、左右社会党の支持を得られず決選投票で敗北。吉田との会談により閣外協力を受け入れた。その後、鳩山一郎派と合同して日本民主党を結党させる。1955年(昭和30年)の保守合同で自由民主党結党に参加。

1954年(昭和29年)12月以降、第1~3次鳩山内閣では外務大臣を務める。1955年(昭和30年)4月、インドネシアでアジア・アフリカの29カ国が集まるアジア・アフリカ会議(バンドン会議)が開かれ、アジア・アフリカの国々が第三勢力として協力し合う方針を打ち出した。日本はこの会議でアジアの一員として国連加盟の支持を得た。

9月1日、重光は国連本部を訪れレセプションを開催し、経済復興した日本が国際社会に貢献できると国連加盟をアピールしたが12月、国連安全保障理事会ではソ連の反対により否決。

国連加盟を果たすため鳩山内閣は国交がなかったソ連との関係改善を目指し1956年(昭和31年)7月、重光はモスクワで日ソ国交回復交渉に入るが、北方領土問題が難航し交渉を妥結できなかった。このことから重光は、歯舞・色丹の2島のみを返還するというソ連案を受け入れるしかない、という旨の電文を東京に打電した。

しかし、鳩山首相は重光の提案を拒否し、重光をスエズ会議に送ったうえで、自ら交渉に臨んだ。そして、領土問題を棚上げすることで10月19日、ソ連との国交を回復し日ソ共同宣言が行われ、国連加盟に反対しないとの内諾を得る。

同年12月18日、国連総会は全会一致で日本の国連加盟を承認した。重光は日本全権として加盟受諾演説を行い、「日本は東西の架け橋になりうる」という名句を残した。その直後に国連本部前庭に自らの手で日章旗を高々と掲げた重光は、その時の心境を「霧は晴れ 国連の塔は輝きて 高くかかげし 日の丸の旗」と詠んでいる。

帰国前の12月23日、日本では第3次鳩山内閣が総辞職して石橋内閣が成立したため外務大臣の職を離れる。日本への帰途、同行した加瀬俊一に対して笑顔で「もう思い残すことはない」と語った。

それから一月後の1957年(昭和32年)1月26日、重光は狭心症の発作により神奈川県湯河原町の別荘で急逝した。69歳だった。

人となり

重光を知る者は「欠点がないことが欠点だ」と彼を評することが多かった。重光は駐華公使のとき第一次上海事変終結後の天長節式典で爆弾テロによって右脚を失い、以降公式の場においては重さ10kgの義足をつけるようになった。

義足をつけた状態での歩行は大変な困難を伴うものだったのにもかかわらず、彼自身はその事を気にする素振りはなかった。後年ミズーリ号甲板上に重光を吊り上げるために四苦八苦するアメリカの水兵たちを尻目に、重光はまったく臆することなくただ悠然と構えていたという(もっとも、松葉杖を落とすなど署名にかなりもたつき、これを見苦しい引き延ばしと解釈したハルゼーに一喝されたという逸話も伝えられる)。

その後、公務に復帰した際に時の外務大臣・広田弘毅は重光の体を気遣って、当時外交懸案の少なかった駐ソ大使に任命して、本来駐ソ大使に予定していた東郷茂徳を駐独大使とした。だが、張鼓峰事件の処理などを巡って重光とソ連外務省が対立、さらにはソ連のマスコミによって「無能な外交官」と批判された(松岡洋右がこの話を聞いて重光に同情し、後に松岡外務大臣のもとで行われた主要国大使の一斉解任の際にも、重光駐英大使だけは対象から外されたという)。

また、極東国際軍事裁判において重光の起訴を最も強硬に要求したのはソ連政府だったといわれている。他方、東郷もナチス・ドイツに嫌われた挙句に駐独大使を追われ、極東国際軍事裁判では「親独派」の疑いをかけられる事となり、結果としては広田の配慮が裏目に出る事となってしまった。

戦後、進駐軍が厚木飛行場に到着した際は、横浜市に対して「米軍を絶対に首都には入れないこと、直接軍政はさせないこと、軍票は使用させないこと」を厳命した。

巣鴨プリズンに収監されている頃に、障害者ながら社会福祉事業家として活躍していたヘレン・ケラーのニュースが耳に入ってきた際、元将官たちが「あれは盲目を売り物にして居るんだよ」とこき下ろたことに関して、重光は「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや。日本人為めに悲しむべし」と彼らを痛烈に批判すると同時に、見解の偏狭さを嘆いている。

近衞文麿とは親交があったが、敗戦後、近衞が戦争に関する自分の責任を回避すべく、天皇や軍部に全責任を転嫁するかのような言動に終始したことについては「戦争責任容疑者の態度はいずれも醜悪である。近衞公の如きは格別であるが…」と述べ、近衞を厳しく批判している。

戦後、鳩山内閣で外務大臣を務めた際、鳩山は「官僚政治家ではなく、党人政治家による政権運営を行いたい」と発言したため外交官出身の重光は鳩山との関係が悪化した。また鳩山内閣は日ソ国交回復を最優先課題に掲げていたのに対し、重光は対ソ強硬論者であった。

さらに詳しく → 重光葵




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