ゾルゲ事件 (Sorge affair、Зорге дело) - 関係者の証言で知るゾルゲ事件の経緯

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2012/12/16(日)
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ゾルゲ事件(ゾルゲじけん)は、リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして、1941年9月から1942年4月にかけてその構成員が逮捕された事件。この組織の中には、近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実もいた。

経緯

ゾルゲらの諜報活動

ゾルゲらの諜報活動についてはリヒャルト・ゾルゲ、マックス・クラウゼン、尾崎秀実ゾルゲ諜報団を参照のこと。

逮捕

太平洋戦争開戦直前の1941年9月から1942年4月にかけて、ドイツのフランクフルター・ツアイトゥング紙の記者として東京に在住していたゾルゲや尾崎らのグループはスパイ容疑で警視庁特高部特高第1課と同外事課によって逮捕された。軍事情報のスパイは陸軍の憲兵隊の管轄であるが、コミンテルンのスパイとして特別高等警察が取り扱った。

特別高等警察はアメリカ共産党党員である宮城与徳やその周辺に内偵をかけていた。宮城や、同じアメリカ共産党員で1939年に帰国した北林トモなどがその対象であった。

満州国の憲兵隊からソ連が押収してロシア国内で保管されていた内務省警保局の「特高捜査員褒賞上申書』には、ゾルゲ事件の捜査開始は「1940年6月27日」であったと記されている。1941年9月27日の北林を皮切りに事件関係者が順次拘束・逮捕された。

10月10日に宮城が逮捕され、この際に行われた家宅捜査では数多くの証拠品が見つかり、事件の重要性が認識された。宮城宅を視察することによって10月13日には九津見房子、秋山幸治が逮捕された。宮城は取調べの際に自殺を図るが失敗、以後は陳述を始め、尾崎秀実リヒャルト・ゾルゲなどがスパイであることが判明した。

このとき、在日ロシア人のアレクサンドル・モギレフスキー(ヴァイオリニスト)、同じくレオ・シロタ(ピアニスト)、その娘ベアテ・シロタ・ゴードン(のちの日本国憲法の起草者の一人)、クラウス・プリングスハイム(指揮者)の次男クラウス・フーベルト・プリングスハイム、関屋敏子(声楽家)などの音楽関係者もスパイ容疑をかけられた。

捜査対象に外国人がいることが判明した時点で、警視庁特高部では特高第1課に加え外事課が捜査に投入された。尾崎とゾルゲらの外国人容疑者を同時に検挙しなければ外国人容疑者の国外逃亡や大使館への避難、あるいは自殺などが予想されるため、警視庁は一斉検挙の承認を検事に求めた。

しかし、大審院検事局が日独の外交関係を考慮し、まず尾崎の検挙により確信を得てから外国人容疑者を検挙すべきである、と警視庁の主張を認めなかった。このため、10月14日に尾崎の検挙が先行して行われ、10月18日外事課は検挙班を分けてゾルゲ、マックス・クラウゼン、ブランコ・ド・ヴーケリッチの3外国人容疑者を同時に検挙した。この際、クラウゼン宅からは証拠として無線機が発見されている。

また、翌1942年(昭和17年)には尾崎の同僚であった朝日新聞東京本社政治経済部長田中慎次郎(3月15日)、同部員磯野清(4月28日)が検挙された。

グループの逮捕後、尾崎の友人で衆議院議員かつ汪兆銘・南京国民政府の顧問も勤める犬養健、同じく友人で近衛文麿内閣嘱託であった西園寺公一、ゾルゲの記者仲間でヴーケリッチのアヴァス通信社の同僚であったフランス人特派員のロベール・ギランなど、数百人の関係者も参考人として取調べを受けたが、ゾルゲが当時の同盟国であるドイツ人であり、しかもオイゲン・オット大使と親しいことや、前年にイギリスのスパイの疑惑で逮捕されたイギリスのロイター通信社の特派員のM・J・コックスが、特高による取調べ中に飛び降り自殺したこともあり、特に外国人に対する取調べは慎重に行われたという。

ゾルゲの個人的な友人であり、ゾルゲにドイツ大使館付の私設情報官という地位まで与えていたオット大使は、ゾルゲが逮捕された直後から、友邦国民に対する不当逮捕だとして様々な外交ルートを使ってゾルゲを釈放するよう日本政府に対して強く求めていた。しかし、間もなく特別面会を許されたオットは、ゾルゲ本人からソ連のスパイであることを聞き知る。

これを受けてオット大使はヨアヒム・フォン・リッベントロップ外務大臣に辞表を提出したが拒否された。さらにその後1941年12月に日本がイギリスやアメリカなどの連合国と開戦し、ドイツもアメリカとの間に開戦したこともあり、繁忙の中で大使職に留まり続け、ようやく1942年11月になりフォン・リッベントロップ外務大臣より駐日大使を解任された、その後南京国民政府の北京へと家族とともに向かい、そこで終戦までの間を暮らした。

裁判

ゾルゲらは1942年に国防保安法、軍機保護法、軍用資源秘密保護法、治安維持法違反などにより起訴された。1審は1943年9月から翌44年3月にかけて東京刑事地方裁判所第九部で行われ(裁判長判事 - 高田正、判事 - 樋口勝・満田文彦)、以下の判決が下された。ゾルゲ・尾崎ら被告の大部分は大審院へ上告したが、全て棄却され刑が確定した。

リヒャルト・ゾルゲ 死刑(1944年11月7日執行)
ブランコ・ド・ヴーケリッチ 無期懲役(1945年1月13日獄死)
マックス・クラウゼン 無期懲役(1945年10月9日釈放)
アンナ・クラウゼン 懲役3年(1945年10月7日釈放)
尾崎秀実 死刑(1944年11月7日執行)
宮城与徳 未決拘留中、1943年8月2日獄死
小代好信 懲役15年(1945年10月8日釈放)
田口右源太 懲役13年(1945年10月6日釈放)
水野成 懲役13年(1945年3月22日獄死)
山名正実 懲役12年(1945年10月7日釈放)
船越寿雄 懲役10年(1945年2月27日獄死)
川合貞吉 懲役10年(1945年10月10日釈放)
河村好雄 未決拘留中、1942年12月15日獄死
九津見房子 懲役8年(1945年10月8日釈放)
秋山幸治 懲役7年(1945年10月10日釈放)
北林トモ 懲役5年(1945年1月服役中危篤となり、仮釈放後の2月9日病死)
菊池八郎 懲役2年(釈放日不明)
安田徳太郎 懲役2年(執行猶予5年)
西園寺公一 懲役1年6月(執行猶予2年)
犬養健 無罪

処刑

刑が確定したゾルゲらは、巣鴨拘置所に拘留された。日本、ドイツ両国の敗色が濃厚となってきた1944年11月7日のロシア革命記念日に、ゾルゲ・尾崎の死刑が執行された。

死刑執行直前のゾルゲの最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」であったと言われている。翌1945年1月にはヴーケリッチも北海道の網走刑務所で獄死したが、マックス・クラウゼンは戦後夫婦ともども連合軍によって釈放され、生きて故郷の東ドイツに戻ることができた。

その後

宮城には1965年1月19日、当時のソ連政府から大祖国戦争第二等勲章が授与される事が決定した(尾崎も同様に叙勲されている)が、当の宮城が1943年に獄死。遺族の消息も不明で、2010年1月にようやく姪の所在が確認されロシアから伝達された。

さらに詳しく → ゾルゲ事件




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タグ : ゾルゲ事件 リヒャルト・ゾルゲ 尾崎秀実 スパイ ゾルゲ諜報団 共産主義

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