映像で知る昭和初期の日本 - 太平洋戦争直前まで

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2012/12/04(火)
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昭和(しょうわ)とは、20世紀に定められた日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間である1926年(昭和元年)12月25日から、1989年(昭和64年)1月7日まで。

昭和は、歴代元号の中で最長であり、外国の元号を含めても最も長いが、元年と64年が共に「7日」なので、実際は62年と14日である。なお60年以上続いた元号は日本の昭和(64年)、清の康熙(61年)および乾隆(60年)しかない。第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)を境にして近代と現代に区切ることがある。

出典

「昭和」の由来は、四書五経の一つ書経尭典の「百姓昭明、協和萬邦」による。漢学者・吉田増蔵の考案。なお、江戸時代にまったく同じ出典で、明和の元号が制定されている(「百姓昭明、協和萬邦」)。国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味である。

当時枢密院議長だった倉富勇三郎の日記によれば、宮内省作成の元号案として「神化」「元化」「昭和」「同和」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」があったが、数回の勘申の結果、「昭和」を候補とし、「元化」「同和」を参考とする最終案が決定した。

第一次大戦後

急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。日本は国内的には立憲君主制の体裁をとり、当初の藩閥政治を脱して、1920年代には政党が内閣を構成するようになった。

しかし、政党政治がその一面で見せた腐敗は、相次ぐ不況下で困窮する国民の不信と怒りを買い、大陸侵略による事態の打開と国家改造を志向する勢力の台頭を招く。1920年代末から独立性を強めた軍部は、1930年(昭和5年)以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事クーデターにより、ついには政党政治を葬り去った。

金融恐慌

第一次世界大戦では、まれに見る好景気で日本経済は大きく急成長を遂げた。しかし大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後恐慌となった。

さらに1927年(昭和2年)には、関東大震災の手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする銀行への取りつけ騒動が1927年(昭和2年)3月15日から生じて、4月20日前後には最高潮に達して、昭和金融恐慌となった。若槻内閣は鈴木商店の不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対にあい、総辞職した。

あとを受けた田中義一内閣は、高橋是清蔵相の下で三週間のモラトリアム(支払い猶予令)を発して全国の銀行の一斉休業と日本銀行から9億円もの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。また、台湾銀行の救済策も出された。この後、銀行の整理統合が進み、五大銀行(三井銀行・三菱銀行・住友銀行・安田銀行・第一銀行)への預金が集中した。

一方、中国では1925年(大正14年)に死んだ孫文の後を蒋介石が継ぎ、1926年(大正15年)7月国民政府軍は蒋介石を総司令として北伐(中国革命で中国北部の軍閥勢力を平定すること)を開始して、10月武漢を占領して、ここに政府を移して、翌年の1927年(昭和2年)3月には上海を占領して、ついで南京も手中に収めた。

田中内閣と山東出兵

田中内閣は、張作霖を動かして満蒙での諸懸案の解決を図ろうとして3回に及ぶ山東出兵を行い、東京で外交・軍部関係者を集めて東方会議を開き、満蒙の利権を死守することを確認した。これに基づいて政府は満州の実力者張作霖と交渉して、満洲の権益の拡大を図ったが、張は応じず、関東軍は張の乗る列車を1928年(昭和3年)6月4日に爆破して暗殺した(満州某重大事件)。

関東軍は当初この事件を中国国民政府軍の仕業だと公表したが、実際は関東軍参謀河本大作の仕業であった。このため国内の野党から「満州某重大事件」として追及され、田中は昭和天皇に上奏しようとしたが、天皇から説明を聞きたくないと不快感を表明され、田中義一内閣はこのため1929年(昭和4年)7月2日に総辞職した。世上では首相の名前(義一)を下から読んで、「一つもよしことなかった」と揶揄された。

田中内閣は、第二次護憲運動で生まれた護憲三派の内閣である加藤内閣とりわけ、外相である幣原喜重郎が行った外交政策である中国内政不干渉政策(幣原外交)を「軟弱外交」として批判して登場した。そのため、田中義一は自ら外相を兼任し、中国での革命の進展に対して強く干渉した。

しかし、中国での武力行使に対する列国の批判をかわすためもあって、1928年(昭和3年)、パリで締結されたいわゆるパリ不戦条約には調印した。ただ、この不戦条約は、第1条で「人民ノ名ニ於テ」戦争を放棄することを謳っており、国体をないがしろにするものとする批判が国内に生じた。

このため、新聞紙上でも喧々諤々の論議が行なわれた末、翌年に至り、「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ」という文言を日本については適用外とする宣言を付して批准された。また、田中内閣は国内で思想取締強化をはかったことでも知られている。

普通選挙

特に1928年(昭和3年)2月20日の普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)実施後、予想外の進出を示した無産政党や共産党に対する弾圧を強め、1928年(昭和3年)に三・一五事件、翌年に四・一六事件を起こして共産党系の活動家と同調者の大量検挙をおこなった。その間、緊急勅令により、治安維持法を改正して最高刑を死刑とした。

一方、文化や社会科学の研究ではマルクス主義が隆盛となり、1932年(昭和7年)には、野呂栄太郎らによる『日本資本主義発達史講座』が岩波書店から発行され、知識層に多大の影響を及ぼした。

その執筆者は「講座派」と呼ばれたが、それに対して批判的な向坂逸郎らは雑誌『労農』により、「労農派」と呼ばれた。両派は以後、活発な論戦を繰り広げたが、国家主義的革新運動の台頭に伴い、弾圧を受け、強制的に収束して行くこととなった。

そのような状況下の1929年(昭和4年)10月24日、ニューヨークのウォール街での株価の大暴落によって世界恐慌が引き起こされた。それは日本にも波及し、翌年、田中内閣の後を受けた濱口雄幸内閣が実行した金解禁を契機として昭和恐慌が引き起こされた。

この恐慌は戦前の恐慌の内で最も深刻なものであった。英国・フランス・米国などが植民地囲い込みによるブロック経済で建て直しを図ったが、第一次世界大戦の敗戦で天文学的賠償金を負っていたドイツや、高収益な植民地を持たない日本などは深刻化な経済不況に陥った。

このことはファシズムの台頭を招き、ドイツではナチスを生み出す結果となり、日本では満洲は日本の生命線であると主張され、軍の中国進出を押し進めてしまう要因の一つとなった。

1930年(昭和5年)、米国や英国が中心となりロンドン海軍軍縮会議が開催された。これは第一に、主力艦を1936年(昭和11年)まで延長する、第二に、補助艦の保有比率を米:英:日=10:10:7とするものであった。全権大使若槻禮次郎はこれを受諾したが、海軍は、統帥権を侵していると内閣に反発した(統帥権干犯問題)。

満州事変

1931年(昭和6年)4月、若槻礼次郎首班の民政党内閣(第二次若槻内閣)が成立した。7月には長春付近で朝鮮移民と中国官憲・農民との衝突事件が起きて、一触即発の情勢が生まれていた。

陸軍は8月に「満州問題解決方針の大綱」を決定していた。9月18日には関東軍の謀略により柳条湖事件を契機に満州事変が勃発した。関東軍は奉天、長春、公主領、四平街などの満州鉄道沿線の首都と主要都市で軍事行動を起こして、戦時体制に入った。以後の14年間は、1945年(昭和20年)の敗戦までにわたる大戦争の第一歩となった。

政府は戦争不拡大の方針をとったが、関東軍はそれを無視する形で発展していった(塘沽協定で日中間は一旦停戦となる)。日本の満洲建国に前後して、国際連盟はリットン調査団を派遣して、その調査結果に基づいて、1933年(昭和8年)、日本の撤退勧告案を42対1で可決した。

日本は2月20日の閣議で、満州撤退勧告案が可決された場合、脱退することを決めていたので松岡洋右代表は退場(2月24日)して、3月27日には国際連盟脱退を通告した。

このことにより日本は国際的に決定的に孤立の道を歩んでいったと同時に、政府は孤立化による国民感情の悪化を懸念したが、予想に反してこの決断は日本の意思を貫いた行為として賞賛された。

また、1932年(昭和7年)2月9日、第18回衆議院議員総選挙戦中に、民政党の井上準之助(前蔵相)が選挙応援中に射殺されて、3月5日には団琢磨(三井合名理事長)が三井銀行本店の入り口で射殺された。いわゆる血盟団事件である。

つづいて5月には海軍将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件が起こり犬養内閣が総辞職し、5月26日に斉藤実内閣が成立したが、帝人事件の贈収賄容疑が閣内に波及したため1934年(昭和9年)7月3日に総辞職をして、7月8日に岡田啓介内閣が成立した。

軍部急進派や右翼団体を中心に、明治維新の精神の復興、天皇親政を求める国家革新の昭和維新をスローガンとする右翼思想が唱えられて、この思想の影響で1936年(昭和11年)には皇道派の青年将校が斎藤実内大臣や高橋蔵相らを射殺した二・二六事件が起こって軍部の暴走も顕著となり1936年(昭和11年)2月28日に岡田内閣は総辞職して、政党内閣は終焉にいたった。

その後、3月9日に成立した広田弘毅内閣では事件に伴って予備役とされた将軍達の影響を排除するために過去に廃止となった軍部大臣現役武官制を復活させた。一方で、現役軍人しか陸海軍大臣には就くことができず、軍の協力なしに内閣を組閣することができなくなり、軍部が内閣の活殺を握ることであり、議会はその役割を事実上停止する。

同内閣成立早々、閣議で「重要国策」を審議決定することになったが、一旦決定された国策は、その後、日本の将来の道に決定的影響を及ぼした。

8月7日、首相・外相・蔵相・陸相・海相の五相会議が開かれ、対外問題を中心にする重要国策(国策の基準)を決定した。内容は公表されなかったが、戦争政策の見取図・計画書であった。

また、同月五相会議は「第二次北支処理要綱」を決定した。「国の基準」にもとづいて、軍備大拡張計画が立てられた。陸軍は国防充実12か年計画、海軍は第二次補充計画を立てた。このため1937年度予算は、陸海軍両省合計で14億円に達した。11月末の予算閣議で30億円を超える巨額の予算案が短時間で決定された。前年度に比べ8億円を一挙に増額した。

この膨大な歳出をまかなうため、4億2千万円の増税と8億3千万円の公債発行が行われた。この予算案が発表されると諸物価が高騰しはじめ、国民の生活に大きな影響を与えるものとなった。。このように軍備拡張と戦時体制への整備が急速に推進された。 同内閣は1936年(昭和11年)11月にドイツの首都であるベルリンで日独防共協定を調印した。

1937年(昭和12年)1月29日に閣内不統一で総辞職して、2月2日に林銑十郎内閣成立するが5月31日には総辞職となり、6月4日に第一次近衛文麿内閣が成立する。 中国では西安事件で拉致された蒋介石と周恩来の間で国共合作が成立して、抗日闘争が進められた(第二次国共合作)。

日中戦争へ

1937年(昭和12年)には、盧溝橋で日中両軍が衝突し(盧溝橋事件)、停戦協定後も通州事件、第二次上海事変などが続き、日中戦争(支那事変)が始まった。

戦線の拡大に従って廣田内閣・林内閣で盛んであった国防の観点から思想統制と国民生活向上を図って戦時体制への強力を国民に求めると言う「広義国防」論に代わって、国民・国力の全てを戦争遂行のために投入して総力戦を行おうとする総動員政策が台頭し、その結果国家総動員法が成立した。

国内の文化・思想に関しては、戦時体制が強化されるにともなって治安維持法による思想弾圧が目立ち、1937年(昭和12年)には、加藤勘十・鈴木茂三郎らの労農派の関係者が人民戦線の結成を企図したとして検挙される人民戦線事件が起こった。この時期には、合法的な反戦活動は殆ど不可能になっていった。

近衛内閣の後を受けて1939年(昭和14年)1月5日平沼騏一郎内閣が誕生する。平沼は内務・司法官僚の大御所で、枢密院議長でもあった。この職には首相を辞職したばかりの近衛がつくといった具合で、首相の選任も一部の宮廷勢力が軍部の意向に逆らわないような形で行われていた。

2月には軍部は南支那海の中国領海南島を占領し、3月にはフィリピン西方海上の無人諸島の領有を宣言して新南群島となづけた。この軍事行動は英米を大きく刺激した。

また6月には天津の英仏租界を封鎖した。天津事件という。東京では、有田八郎外相とクレーギー英大使との会談が開かれた。7月になるとアメリカが日米通商航海条約を破棄したのでイギリスの対応もかわり日英会談は決裂した。

満洲では日本とソ連は1939年(昭和14年)5月12日ノモンハン事件などで衝突した。8月には第23師団を中軸とする第6軍を新編成して、満州から集められるだけの飛行機と戦車を投入したが、一万数千人の死者が出た。第23師団は全滅に近い壊滅状態であった。それは機械化装備や火力、輸送力に格段の差を見せつけられ、敗北した。

この事件後、陸軍当局は「精神力と並んで物力も顧慮しなければならぬ」と異例の談話を発表した。9月16日にノモンハン事件の停戦協定が結ばれた。

時にヨーロッパでは、一触即発の危機に陥り、情勢はめまぐるしく変転し、8月には独ソ不可侵条約が締結された。三国同盟問題を解決できなかった平沼内閣はここに至って混乱の極に達して、1939年(昭和14年)8月28日に平沼内閣総辞職をした。

その理由を「今回締結せられた独ソ不可侵条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので、我が方はこれに鑑み、従来準備し来った政策はこれを打ち切り、更に別途の政策樹立を必要とするに至った」と説明している。この説明は、日本の支配層が国際情勢に順応しきれず外交政策をたてることができなくなっていたことを吐露したものと考えられる。

この後には8月30日に阿部信行内閣が誕生した。この後すぐに第二次大戦が始まった。内閣は9月4日に「今次欧州戦争勃発に際しては帝国はこれに介入せず、もっぱら支那事変の解決に邁進せんとす」との声明を出した。

ドイツとソ連ではイデオロギーが相容れず手を結ぶことはないと考えていた日本支配層は、国際情勢に戸惑いを感じ、外交方針の見直しに迫られた。「防共」とか「東亜新秩序」のイデオロギーに縛られていた従来の外交方針を見直すよい機会となった。11月4日からは野村外相はグル-アメリカ大使と会談を始めた。また、決裂状態にあった日英会談再開の気運が生まれた。

しかし、日米交渉は進まず、1940年(昭和15年)1月には日米通商航海条約は失効してしまった。1月第75議会で276人(衆議院定員の過半数)の衆議員が阿部内閣の退陣を決議した。日中戦争が始まっていらい3年、国民の不安と厭戦気分が広がり、また、官僚統制への不満が自然に広がっていった。

閣内には解散論が渦増しだした。しかし、軍部は反軍的気運の生まれることを恐れて政府不支持の態度をとったので、1940年(昭和15年)1月4日に阿部内閣は退陣した。

つづく内閣には海軍大将米内光政を首班とする米内内閣が1月16日に成立した。この内閣には民政党・政友党から2名ずつ、財界からは藤原銀治郎が商相として入閣した。

1940年(昭和15年)11月10日~11月14日に紀元二千六百年式典(提灯行列、旗行列、音楽行進など)が全国で行われる。

さらに詳しく → 昭和




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