写真と証言で知る、「長崎市への原子爆弾投下」

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2012/11/30(金)
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長崎市への原子爆弾投下(ながさきしへのげんしばくだんとうか)では、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に、アメリカ軍が日本の長崎県長崎市に対して投下した原子爆弾(以下『原爆』と記す)に関する記述を行う。これは実戦で使われた二発目の核兵器である。

この一発の兵器により当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約14万9千人が死没、建物は約36%が全焼または全半壊した。長崎県、長崎市などを指す「長崎」が「ナガサキ」とカタカナで表記される場合は長崎市への原爆投下を指すことが多い。

長崎原爆の被害

原爆は浦上地区の中央で爆発し、この地区を壊滅させた。なお長崎の中心地は爆心地から3kmと離れていること、金比羅山など多くの山による遮蔽があり、遮蔽の利かなかった湾岸地域を除いて被害は軽微であった。浦上地区の被爆の惨状は広島市と同じく悲惨な物であった。

浦上教会(浦上天主堂)では原爆投下時にゆるしの秘跡(告解)を行っていたが、司祭の西田三郎・玉屋房吉を初め、数十名の信者は爆発に伴う熱線あるいは崩れてきた瓦礫の下敷きになり全員が即死、長崎医科大学でも大勢の入院・通院患者や職員が犠牲となった。

長崎市内には捕虜を収容する施設もあり、連合軍兵士(主に英軍・蘭軍兵士)の死傷者も大勢出たと云われている。特異例として広島で被爆後親戚を頼って長崎へ疎開していた人物が再び長崎で被爆・または出張等で広島を訪れていた人物が被爆し、実家のある長崎で再び被爆したと云う事例(二重被爆)も確認されている。

被爆後の救援

当時、長崎県庁の防空本部は、市内諏訪神社下の山腹に設けられた地下壕にあり、被爆時たまたまここで空襲対策会議中だったこともあって、県知事以下の防空本部機構は健在であった。しかしながら、被爆直後現地とは一時通信が途絶し、また火災が急速に拡大する中で救護活動の立ち上がりは困難を極めた。

現地では、薬品や器材が不足する中、生き残った永井隆を初めとする医師や看護師たちによって救護活動が開始されたが、原爆は事前に定められていた医療救護体制にも大きな打撃を与えたため、負傷者に対して応急処置などを十分に施せるような状態ではなかった。

所轄警察署(稲佐署・長崎署)や警察警備隊からも救護隊が出動したが、道路の途絶や激しい火災が活動の立ち上がりを阻んだ。こうした混乱の中、国鉄の救援列車(市内被爆のため長与駅で抑止されていた下り旅客列車を転用したもの)が、原爆投下から僅か3時間後で炎がまだ燃え盛る爆心地近くまで接近し、多数の負傷者を乗せて沿線の病院などへ搬送した。

夕方には、近郊の病院などの救護隊が、夜には県下の警防団などで組織された救護隊がそれぞれ救護活動を開始し、県警が周辺県警などに救援隊派遣を要請した。救援列車は、夜半頃までの間、最初の列車を含めて4本が運転され、負傷者を諫早、大村、川棚、早岐方面の医療施設へ搬送した。

さらに詳しく → 長崎市への原子爆弾投下




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