日中国交正常化 (normalization of Japan-China diplomatic relations)

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2012/11/02(金)
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日中国交正常化(にっちゅうこっこうせいじょうか)とは、日本と中国共産党率いる中華人民共和国とが国交を結ぶこととなった出来事である。

1972年9月29日、中華人民共和国の北京で行われた「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式において、田中角栄周恩来両首相が署名したことにより成立した。

なお、日中共同声明に基づき、日本はそれまで国交のあった中華民国に断交を通告した。

解説

日中国交回復とも言われる。1972年以前に中華人民共和国という国家と日本の間に外交関係はなかったので、「国交回復」という表現は不正確であるとする見解もある。

清や中華民国と日本の間に国交が存在した時期もあるが、中華人民共和国はこれらの国家の継承国家では無い(中華民国は台湾で存続)ため、個々の政体ではなく中国に存する主たる政体という枠組みで捉えるなら「国交回復」という意見もある。

中国に対する支配権を失った中華民国を中国を代表する国家として国交を結び、中国本土を支配する中華人民共和国との間に国交がないという状況は正常とは言えないとし、より実態に即した外交関係に構築しなおすということで「正常化」という言い方は日本において広く受け入れられた。

経緯

民間貿易協定

1949年10月1日に中華人民共和国は成立した。当時、日本は台湾島の中華民国政権を『中国を代表する政府』として承認。中華人民共和国とは細々と民間交流が行われるに過ぎなかった。

翌1950年10月1日には日中友好協会が設立したものの、同年勃発した朝鮮戦争の影響もあり日本政府は反社会主義の色彩を強くし、12月6日には対中輸出を全面禁止するなど、中華人民共和国を敵視する政策が執られていった。

そんな中、1952年4月、日中貿易促進会議を設立していた高良とみ、帆足計、宮腰喜助の各国会議員が、政府方針に反してソ連から直接北京を訪問。第一次日中民間貿易協定に調印し、国内に大きな議論を巻き起こした。

さらに1953年7月に朝鮮戦争が休戦すると、衆参両院で、「日中貿易促進に関する決議」が採択。池田正之輔を団長とする日中貿易促進議員連盟代表団が訪中し第二次日中民間貿易協定を結び、民間貿易が活発化した。

さらに1955年4月のバンドン会議で高碕達之助と対談した周恩来総理が、中国は平和共存五原則の基礎の上に日本との国交正常化推進を希望と表明。同年11月に片山哲元総理が訪中するなど、あいかわらず反対論は根強いものの交渉が進みかけたに見えた。

しかし、1957年2月に総理大臣に就任した岸信介は中華人民共和国政府を敵視し日中民間貿易協定を無視したので、中国サイドは態度を硬化。

周恩来が「政治三原則」(中国人民を敵視しない、2つの中国を作らない、両国の関係正常化を妨害しない)を表明し、事態の収拾を図ろうとしたものの、1958年5月2日に長崎国旗事件(長崎で暴徒が中国国旗を引きずり降ろした事件)が起こると日本政府の対応を強く批判。日中貿易が全面中断され、中国歌舞団日本公演も中止となった。

LT貿易とMT貿易

その後日本社会党の訪中や石橋湛山元総理による「政経不可分の原則」の確認、松村謙三、古井喜実、高碕達之助、等の貿易再開への努力ののち、中国から「貿易三原則」を引き出すことに成功すると、1962年10月28日に高碕達之助通産大臣が岡崎嘉平太(全日空社長)などの企業トップとともに訪中し「日中総合貿易に関する覚書」を調印。経済交流が再開された(LT貿易。中国側代表廖承志、日本側代表高碕達之助の頭文字からそのように呼ばれた)。

さらに1964年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助事務所と廖承志事務所が日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた(代表者は、松村謙三と廖承志)。同年9月29日、7人の中国人記者が東京に、9人の日本人記者が北京にそれぞれ派遣され、日中両国の常駐記者の交換が始まった(日中記者交換協定)。

しかし、1965年総理大臣に就任した佐藤栄作は中国を「アジアの脅威」と批判。中国側は態度を硬化し、再び交流に齟齬をきたした。

1966年3月には日本共産党の宮本顕治が訪中したが、毛沢東と路線対立し帰国(日中共産党の関係を参照)。この直後、中国では文化大革命が始まる。

文化大革命の当初はその正確な状況が日本に伝えられておらず、官僚制を打破する若者達の運動として好意的な論調を展開するメディアも多数存在したが(文革末期になると日本のメディアはほとんど興味を失っていた)、政府間の関係は冷え切ったままであった。

そのような中でも1968年3月に古井喜実が訪中し、覚書貿易会談コミュニケを調印。覚書貿易(MT貿易)が開始された。彼は以後毎年訪中し、その継続に努めた。

日中国交正常化

1971年7月に突如としてヘンリー・キッシンジャーアメリカ合衆国国務長官が北京を極秘訪問し、米中政府間協議を行った。続いて1971年7月15日には、ニクソン大統領自身が中華人民共和国を訪問することを予告する宣言を発表し、世界を驚かせた(ニクソン訪中宣言、政治面におけるニクソン・ショックとも呼ばれる)。実際に1972年2月にニクソン大統領の中国訪問が為される。

アメリカにとっては中国をパートナーとした新しい東アジア秩序の形成を模索するものであったが、キッシンジャーがその東アジア新秩序構想において日本抜きで事を運ぼうとしていることを察知した日本政府及び田中角栄は、アメリカの先手を取ってでき得る限り早く日中国交正常化を果たすことを決断する。そしてニクソン訪中宣言からわずか1年2ヶ月という異例の早さで日中共同声明(1972年9月29日)に持ち込んだ。

なお、当時の自民党内では中華民国(台湾)を支持する勢力が圧倒的であり(石原慎太郎や浜田幸一なども親台湾派であった)、様々な権益が絡んでいたこともあり、国交正常化交渉にあたった外務官僚も省内ですら隠密行動を余儀なくされていた。

また当然のことながら、中華人民共和国、中華民国の両政府はともに、他国による中国の二重承認を認めないため、日中国交正常化交渉を進めることは中華民国と断交することも意味していた。

時間的な制約があり、かつ国際政治状況から見ても差し迫った政策課題であったため、交渉にはあらゆる手が尽くされた。例えば、佐藤派から福田派に移った保利茂は、田中の意を受けて密かに訪中する日本社会党委員長、成田知巳に田中の親書を毛沢東に渡す様に託し、田中の日中国交回復を真剣に目指している事を中国側に伝えた。

1972年7月7日に内閣総理大臣に就任した田中角栄は、同年9月に自ら中華人民共和国を訪問した。そして9月29日、日本国外務大臣:大平正芳と中華人民共和国外交部部長:姫鵬飛が「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)に署名。

国交正常化が成立した。このとき日本はニクソン訪中宣言の後に対中アクションを起こしたにもかかわらず、アメリカよりも先に中国を承認するという、信じがたいフットワークのよさでことを進めた。政策判断の当否はともかく、アメリカの鼻先でアメリカの外交戦略の先手を取ったというのは日本の戦後政治史において例外的なことである。

なお、当時はまだ戦後30年も経過しておらず、交渉には日中戦争の傷が影を落としていたが、周恩来は「日本人民と中国人民はともに日本の軍国主義の被害者である」として、「日本軍国主義」と「日本人民」を分断するロジックによって「未来志向」のポリティクスを提唱し、共同声明の成立に邁進した。

この論理によれば、抗日民族統一戦線の戦いをどれほど賛美し、日本の軍国主義の侵略をどれほど非難しても、それは日本との外交関係にいささかもネガティヴな影響を及ぼすものではないとされる。この「未来志向」の政治的合意は現在にも引き継がれている。

それから4年後の1978年8月、福田赳夫政権の下で日中平和友好条約が調印された。

さらに詳しく → 日中国交正常化




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田村 重信、小枝 義人 他

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タグ : 日中国交正常化 中華人民共和国 中国共産党 田中角栄 周恩来

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