ヨシフ・スターリン (Joseph Stalin、Иосиф Виссарионович Сталин) - その人物像と政治活動

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2012/10/29(月)
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ヨシフ・スターリン(ロシア語: Иосиф Сталин, ラテン文字表記の例:Joseph Stalin, 1878年12月18日 - 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家で、同国の第2代最高指導者。

本名は、ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(ロシア語: Иосиф Виссарионович Джугашвили, グルジア語: იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილი, ラテン文字表記の例:Iosif Vissarionovich Jughashvili)。

人民委員会議議長(首相に相当)や国防大臣などの役職を歴任したほか、1922年から死去する1953年までソビエト連邦共産党中央委員会書記長を務めた。

概要

グルジア系ロシア人としてロシア帝国領ゴリ市に生まれ、キリスト教の神学者として教育を受ける。しかし後に棄教、無神論に転向してマルクス主義に基いた革命運動に参加する。

ウラジーミル・レーニンによるロシア社会民主労働党ボリシェビキ派(ロシア共産党)による十月革命に加わり、ソヴィエト連邦政府及びソヴィエト連邦共産党の成立に深く関与する。

1924年、レーニン死後に起きたレフ・トロツキーとの後継者争いを制すると、自身が務めていたソビエト連邦共産党中央委員会書記長に権限を集中させる事で後継者としての地位を確立した。党内ではトロツキー派の世界革命論(永久革命)を否定して、一国社会主義論による国内体制の維持を優先する路線を示した。この理論対立はトロツキー派粛清の大義名分としても用いられた。

以降、人民委員会議議長及び同職を改組したソビエト連邦閣僚評議会議長を1941年から1953年に死没するまで務めた他、前述のソビエト連邦共産党中央委員会書記長などの要職を兼任、国家指導者としての立場を維持した。

1928年、干渉戦争に対応して行われた戦時共産主義体制による経済疲弊から一時的に導入されていた新経済政策(ネップ)を切り上げさせ、第一次五ヶ年計画を実行に移した。同計画では政府主導の農業事業の集団化(コルホーズ)を進めて合理化と統制を進め、脆弱な工業力を強化すべく工業重点化政策を推進した。

結果として帝政時代からの課題であった農業国から工業国への転身を果たし、第二次世界大戦後にソヴィエト連邦政府が世界第2位の経済を有する基盤を作り出した。

一方で急速な経済構造の改革は飢饉などの形で国民に犠牲を強いる事になり、反対派に対する厳しい弾圧も合わさって多数の犠牲者を出す事になった。前者については農業政策の混乱によって深刻な食糧不足が発生し、1932年から1933年の飢饉へと繋がった。

後者に関してはグラーグ(収容所)に収監された者だけで100万名以上、これを免れた数百万人もシベリアなどの僻地に追放処分を受けた。強権支配は大粛清と呼ばれる大規模な反対派摘発で頂点に達し、軍内の将官を含めて数十万名が処刑或いは追放された。

1939年、ナチス・ドイツの台頭などによって国際情勢が不安定化する中、予定していた仏英ソ同盟の締結が不調に終った事もあり、反共主義・反スラブ主義を掲げていたナチス政権と独ソ不可侵条約を締結した。

世界を驚嘆させたこの協定は政治的イデオロギーを別とすれば、ソ連政府によって有利に働いた。ポーランド分割、バルト三国併合、東カレリア併合などの軍事行動における背景になっただけでなく、外交交渉においてもそうであった。

第一次世界大戦における再三の鞍替え行為の末、ロシア革命後の混乱に乗じてベッサラビアを領有していたルーマニアに対し、ドイツと共同で外交圧力を掛けてベッサラビアと北ブコビナを返還させている。

1941年、第二次世界大戦においても中立を維持していたソヴィエト政府は英国本土上陸の失敗で手詰まりとなったナチス政権による侵略を受け、独ソ戦が始まった。同時にイギリスを中心とする連合国陣営にも参加、アメリカの連合国参戦後はレンドリースによる援助対象とされている。

自身の大粛清による影響もあって大きな苦戦を強いられ、多数の犠牲者や反乱に苦しんだものの、従来通りの強権支配を維持して軍と政府の統制を維持し続けた。やがて戦争が長期化する中で体制を建て直し、最後には反攻に転じてベルリンを攻め落としてナチス総統アドルフ・ヒトラーを自害に追い込んだ。

連合国陣営内でソ連が果たした役割は非常に大きく、アメリカと並ぶ超大国として戦後秩序に影響を与えた。ヤルタ会談とポツダム会議では大戦後の欧州情勢についての協議を行い、ファシズム打倒後の共産主義と資本主義の対立においては西欧諸国と北大西洋条約機構を結成したアメリカに対し、東欧諸国とワルシャワ条約機構を設立して対峙した。アジア情勢を巡っては中華人民共和国と朝鮮民主主義人民共和国を軸とした共産圏に影響力を行使した。

1953年の死没まで国家指導者としての立場は続き、ソ連内の戦後復興でも主導的な役割にあった事はスターリン様式の建設物が今日でも多く残っている事からも理解できる。

また、科学技術や工業力の重点化政策も引き続き維持され、核武装や宇宙開発などに予算や費用が投じられており、後に実現している。最後に関わった国家指導は大規模な農業・環境政策である自然改造計画であった。1953年にスターリンは寝室で倒れ、病没した。

死後から程なくしてスターリン後の権力闘争が行われたが、その過程でニキータ・フルシチョフらによるスターリン派に対する批判が展開され始めた。

1956年、ソ連共産党第20回大会でフルシチョフは有名なスターリン批判を行い、一転してスターリンは偉大な国家指導者という評価から、恐るべき独裁者という評価へと変化した。

後にフルシチョフも失脚し、新たな国家指導者が現れる毎にスターリンの評価は変遷を続け、現在でも彼の客観的評価を難しくしている。この流れはソ連の後裔国家の一つであるロシア連邦においても踏襲され、彼を暴君とする意見と、英雄と見なす意見とが混在する状態にある。

さらに詳しく → ヨシフ・スターリン



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