アフガニスタン (Afghanistan、افغانستان) - アフガニスタンの現在を知る

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2012/09/21(金)
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アフガニスタンの光と影 (1) 9年ぶりのカブール 投稿者 LunaticEclipseAfghanistan


アフガニスタンの光と影 (2) 鼻を削がれた女性 投稿者 LunaticEclipseAfghanistan


アフガニスタンの光と影 (3) こどもたちの傷 投稿者 LunaticEclipseAfghanistan


アフガニスタンの光と影 (4) 消えない「反米感情」 投稿者 LunaticEclipseAfghanistan


アフガニスタンの光と影 (5) 怒りと鎮圧 投稿者 LunaticEclipseAfghanistan

アフガニスタン・イスラム共和国(アフガニスタン・イスラムきょうわこく)、通称アフガニスタンは、中東・南アジアに位置する共和制国家。内陸国であり、分離したパキスタンが南及び東に、西にイラン、北にタジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンで、国の東端(ワハーン回廊)は中華人民共和国に接する。

首都はカーブル。国民の平均寿命が48歳であり、世界で二番目に短い国である(2011年現在、最下位はマラウイの47歳)。パシュトゥーン人、タジク人、ハザラ人、ウズベク人、トルクメン人などの数多くの民族が住む多民族国家である。

歴史

先史時代

紀元前10万年、旧石器の文化があった。

紀元前7000年、新石器の文化があった。

紀元前3000年~紀元前2000年は、四大文明が起こり、都市文化が生まれつつあった。その背景には農耕文化の発展があった。

紀元前2000年~紀元前1800年、青銅器時代。ムンディガク遺跡、デー・モラシ・グンダイ遺跡が見つかっている。また、バクトリア地方から出土した数体の石製女性像が見つかっている。

アフガニスタンは、先史時代からイラン高原やメソポタミアの諸文化と早くからつながりがあり、また、インダス文明とも交流があった。

紀元前12世紀、リグ・ヴェーダによれば、十王戦争が勃発し、バルフからパンジャブへ侵攻した。

ペルシャとアレクサンドロス大王の支配

紀元前6世紀、イラン人が建てたアケメネス朝ペルシャ帝国に編入され、アレイヴァ(ヘラート)、アラコシア(カンダハール, ラシュカルガー, クエッタ)、バクトリア(バルフ), サッタギディア(ガズニー), ガンダーラ(カーブル, ジャラーラーバード, ペシャーワル)の地方名で呼ばれた。カンダハルの旧市シャル・イ・コナの発掘によって、紀元前6世紀にはこの町が、すでにアフガニスタン南方の首邑になっていたことが明らかになった。

紀元前4世紀、アレクサンドロス大王はこの地を征服し、アレクサンドリアオクシアナ(Alexandria on the Oxus)と呼ばれる都市を建設した。

南方のマウリア朝と北方のグレコ・パクトリア王国

紀元前3世紀中頃、アフガニスタン北部からタジキスタン南部にかけてはギリシャ人の建てたグレコ・バクトリア王国が支配。

紀元前2世紀後半、匈奴に追われた遊牧民の月氏が侵入しグレコ・バクトリア王国は滅びた。

1世紀以降、先の大月氏の立てたクシャーナ朝がこの地に栄える。この頃ギリシア文化は影響力を失い代わって南方のマウリヤ朝から流入したインド文化や仏教の影響が強く見られるようになり、4世紀頃までバクト商人がシルクロード交易を掌握する。

3世紀末、クシャーナ朝に代わりサーサーン朝の支配がこの地に及ぶ。

5世紀前半、エフタルが起りアフガニスタン・パキスタンの地を支配する。

6世紀後半、アルタイ方面から南下してきた突厥による支配を受ける。

イスラーム化の進展

8世紀初頭、イスラム教徒軍が侵攻、土着のアフリーグ朝は滅亡しイスラム帝国・アッバース朝の支配下へ入る。751年のタラス河畔の戦いによりイスラム商人がシルクロード交易を掌握する。ゾロアスター教や仏教、ヒンズー教の影響は、イスラム教が伝わった後も10世紀頃まで残存した。

9世紀中頃、再び土着イラン人によるターヒル朝・サッファール朝・サーマーン朝が興り統治する。

10世紀以降、テュルク系のガズナ王国、ホラズム王国による支配が続いた。この頃からパシュトゥーン人の存在が確認され始める。

モンゴル時代

14世紀以降、モンゴル系のチャガタイ・ハン国系諸王朝による支配を受ける。

ティムール朝

1370年頃、テュルク系のティムール朝による支配を受ける。

1470年、ティムール朝が分裂し、ヘラート政権に移行。

1507年、ウズベク族のシャイバーン朝に征服される。

ムガル朝とサファヴィー朝の抗争

1510年、イラン人によるサファヴィー朝に征服される。

1526年、パーニーパットの戦い。カーブルのバーブルがインドにムガル朝を建設。

1540年、北インドのスール朝がカンダハール、カーブルを占拠。

1545年、ムガル帝国がカンダハール、カーブルを奪還。

1623年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。

1638年、ムガル帝国がカンダハールを奪還。

1649年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。

1709年、パシュトゥン人ギルザーイー部族のミールワイス・ホタキが反乱を起こし、カンダハールにホタキ朝樹立を成功。

1719年、ミール・マフムードがサファヴィー朝のケルマーンに侵攻。

1722年、ミール・マフムードがサファヴィー朝の首都・イスファハーンを占拠。マフムードがサファヴィー朝を簒奪。
1736年、アフシャール朝が成立。サファヴィー朝が消滅。

アフガンの王家による統治のはじまり

1747年10月、パシュトゥーン人ドゥッラーニー部族によるドゥッラーニー朝が成立。

1761年、第3次パーニーパットの戦いでドゥッラーニー朝とムガル帝国のムスリム同盟軍が、ヒンドゥー教のマラータ帝国に攻め込み勝利。パンジャーブの領土を拡張した。

1823年、ノウシェラの戦いでドゥッラーニー朝がシク教国に敗北し、ペシャーワル一帯の領土を失い、カイバル峠を越えて撤退した。

1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。

1834年、国名をアフガニスタン首長国とする。

1838年~1842年、第一次アフガン戦争でイギリスに勝利。

イギリスの保護国化

1880年に起こった第二次アフガン戦争に敗れイギリスの保護国となる。

アフガンの王家による再独立

1919年、第三次アフガン戦争に勝利しアマーヌッラー・ハーン国王がイギリスからの独立を達成。

1926年、国名をアフガニスタン王国とする。

王政廃止からソ連軍の撤退まで

1973年、旧王族のムハンマド・ダーウードがクーデターを起こして国王を追放し共和制を宣言して大統領に就任。新しい国名はアフガニスタン共和国。アフガニスタン社会の近代化と軍事近代化を目指しソ連に接近しイスラム主義者達を弾圧する。

1978年、アフガニスタン人民民主党主導による軍事クーデター「四月革命」が発生し、ムハンマド・ダーウード大統領一族が処刑される。人民民主党による社会主義政権が樹立し国名をアフガニスタン民主共和国に変更する。初代革命評議会議長兼大統領兼首相はヌール・ムハンマド・タラキー。これに対して全土でムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)が蜂起、アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が始まり政情が不安定化する。

1979年、ヌール・ムハンマド・タラキーが副首相のハーフィズッラー・アミーン一派に殺害され、アミーンが革命評議会議長兼大統領兼首相に。ソ連軍による軍事介入が開始される。ソ連はムジャーヒディーンを抑えられないアミーンをKGBを使って暗殺、バーブラーク・カールマル副議長を革命評議会議長兼大統領兼首相に擁立する。ソ連軍及政府軍とムジャーヒディーンの戦闘が激化する。

1982年、国連総会において外国軍の撤退を要求する国連決議 37/37 が採択される。

1987年、ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。国名をアフガニスタン共和国に戻す。

1988年、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結。ソ連軍の撤退と国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション設置が決定される。

1989年、ソ連軍撤退完了(10万人)。各国からのムジャーヒディーンの多くも国外へ引き上げる。

ソ連軍の撤退からターリバーン政権の統治とそれに対する有志連合の攻撃まで

1989年、ソ連軍が撤退した後国内の支配をめぐってアフガニスタン紛争 (1989年-2001年)が始まる。2月にアフガニスタン国内のムジャーヒディーン各派はシブガトゥッラー・ムジャッディディーを暫定国家元首に指名、ジャラーラーバードの戦いでナジーブッラーが率いる人民民主党政府と戦うも敗北する。

1992年、ナジーブッラー政権崩壊。ムジャーヒディーンのイスラム協会主導によるアフガニスタン・イスラム国が成立。

1993年、イスラム協会のブルハーヌッディーン・ラッバーニー指導評議会議長が大統領に就任。

1994年、内戦が全土に広がる。ターリバーン、パキスタンの北西辺境州から勢力を拡大。

1996年、ターリバーンがカーブルを占領し、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言する。アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致、北部同盟となる。

同年、米国の指示によりスーダン政府はウサーマ・ビン=ラーディンの国外追放を実行、ビン=ラーディンの率いるアル・カーイダがアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近する。

1997年、第一次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが敗北

1998年、第二次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが勝利、ドスタム派を駆逐してアフガン全土の9割を掌握するが、イラン領事館員殺害事件が発生。イランとターリバーンの双方が国境付近に兵を集結させ、一触即発の危機を招いたが、ラフダル・ブラヒミ国連特使の仲介により危機が回避された。

またケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件にともなうアル・カーイダ引き渡し要求をターリバーンが拒否したためにアメリカとの関係が緊張化する。

1999年、ターリバーン支配地域に対する経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1267が採択される。

2000年、ターリバーン支配地域に対する追加経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333が採択される。

2001年3月6日、ターリバーンがバーミヤンの石仏を爆破する。

9月10日、北部同盟のアフマド・シャー・マスード司令官が、自称アルジェリア人ジャーナリスト二名の自爆テロで死亡した。

9月16日、マスードの遺体が故郷パンジンシールで埋葬された。ターリバーン情報省が全土要塞化を宣言し、徹底抗戦姿勢を示す。

9月25日、サウジアラビア、ターリバーンとの断交を決定。

9月26日、閉鎖されたままのアメリカ大使館が、カーブル市民によって襲撃される。

有志連合のターリバーン政権に対する攻撃から暫定政権の樹立まで

2001年10月2日、アメリカ同時多発テロ事件を受けてNATOがアルカーイダを匿うターリバーン政権に対して自衛権の発動を宣言。

10月7日、アメリカ軍が不朽の自由作戦の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。北部同盟も地上における攻撃を開始。これよりアフガニスタン紛争 (2001年-)が開始される。

11月13日、北部同盟は、無血入城でカーブルを奪還した。年末にターリバーン政権崩壊。

11月22日、パキスタン政府、ターリバーンとの断交を決定し、イスラマバード大使館を閉鎖した。

11月27日、空爆が続くなか、国連は新政権樹立に向けた会議をドイツのボン郊外で開催した。会議には北部同盟、国王支持派のローマ・グループ、キプロス・グループ、そしてペシャワールからのグループが参加した

11月29日、行政府に相当する暫定行政機構の設立案について合意した。

12月5日、暫定行政機構人事で各派間の確執があったが、国連の調整で、議長にパシュトゥン人のハミード・カルザイを据え、暫定政権協定の調印が実現した。ボン合意。アフガニスタン主要4勢力、暫定政権発足とその後の和平プロセスで合意。

国際連合安全保障理事会決議1386にもとづき国際治安支援部隊 (ISAF) 創設、カーブルの治安維持にあたる。また国際連合安全保障理事会決議1401により、国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)がスタート。アフガニスタン暫定行政機構が成立し、ハーミド・カルザイが議長となる。

暫定政権樹立からアフガニスタン・イスラム共和国成立まで

2001年12月22日、カーブルで暫定政権発足の記念式典が挙行された。約3000人が出席し、ラバニ大統領からカルザイ暫定行政機構議長に政権が委譲される形で執り行われ、カルザイが暫定政権の首相となった。カルザイは国民に平和と法をもたらすことを誓い言論と信教の自由、女性の権利の尊重、教育の復興、テロとの戦いなど13項目の施政方針を発表した。暫定政権の閣僚は29名で構成され、うち北部同盟が19ポスト、元国王支持派が8ポスト、ペシャワル派が2ポスト占めた。

2002年1月21日、東京でアフガニスタン復興支援会議が開催された。約60各国と22の国際機関の代表が出席した。これに先立ちNGO59団体による会議も開かれた。日本は2年で5億ドル、アメリカは1年で2億9600万ドル、サウジアラビアは3年で2億2000万ドル、欧州連合は1年で5億ドル、ドイツは5年で3億5000万ドル、イギリスは5年で3億7200万ドルの拠出を決定し、世界銀行とアジア開発銀行はそれぞれ2年半で5億ドルの拠出を決定した。

また、周辺各国は、イランが1年で1億2000ドル、パキスタンは5年で1億ドル、インドも1年で1億ドルの支援を発表した。各国の支援総額は30億ドルを超えた。さらに支援は、行政能力の向上や教育、保健衛生、インフラ、経済システム、農業及び地方開発、地雷撤去などの作業を実施し、定期的に復興運営会議をカーブルで開催することなどを決定した。

2002年2月14日、アブドゥール・ラフマン航空観光大臣がカーブル空港で自国民に撲殺される。

2002年6月10日~19日、緊急ロヤ・ジルガ(国民大会議)開催される。1500人以上の代表参加。

6月13日、国家元首(大統領)を決める選挙が緊急ロヤ・ジルガで行われ、ハーミド・カルザイが圧倒的多数の票を獲得し、当選した。

6月15日、今後2年間の国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」に決定する。

6月19日、新暫定政府主要14閣僚と最高裁判所長官の名簿公表。副大統領にファヒーム国防相・アブドゥッラー外相・アシュラフ・アリー財務相(カルザイ顧問兼任)らが兼任。ザーヒル・シャーの閉会宣言でローヤ・ジルガ閉会する。

7月1日、米軍が南部ウルズガン州で誤爆、市民48人死亡、117人が負傷する。

2003年12月14日~2004年1月4日、憲法制定ロヤ・ジルガが開催され、新憲法を採択。

アフガニスタン・イスラム共和国成立以降

2004年10月9日、初の大統領選挙。カルザイが当選、大統領に就任。アフガニスタン・イスラム共和国発足。選挙を前にターリバーンの活動が活発化、南部を実効統治。

2005年、総選挙・州議会選挙実施。

2006年、ISAFの指揮権がNATOに移譲される。5月、ターリバーンの攻勢強まる。7月、ISAF南部展開。10月、ISAF東部展開、計13000人がアフガニスタンに駐留。

2009年8月、大統領選挙。カルザイが過半数の票を得るが、国連の調査で不正が発見される。二位のアブドラ前外相が決選投票をボイコットしたため、11月に行われた決選投票でカルザイの再選が決定。

2010年1月16日、下院は、カルザイ大統領が9日に再提示した第2次政権の閣僚候補17人について信任投票を行った。そのうち7人が信任され、10人が不信任となり、大統領は三度目の名簿提出を余儀なくされた。全閣僚中、外務、内務、国防、財務の四主要閣僚を含む14人は確定した。

9月18日、下院議会選挙。97か所の投票所を含む多数のターリバーンによるテロ攻撃があったと発表。

2011年7月12日、カンダハール州議会議長アフメド・ワリ・カルザイ(大統領の弟)が暗殺される。

2011年7月15日、アメリカ軍のアフガニスタンからの撤退開始。

2011年9月20日、ターリバーンとの和解交渉を担当する高等和平評議会の議長ブルハーヌッディーン・ラッバーニーが自宅への自爆攻撃により死去。カルザイ大統領はターリバーンとの和平交渉打ち切りを指示した。

2011年12月6日、首都カーブルや北部バルフ州の州都マザーリシャリーフ、南部カンダハル州などで、イスラム教シーア派の廟やその周辺で自爆・仕掛け爆弾による爆発があり、多数の死者や負傷者が出ている。警察はテロの可能性を指摘している。

政治

アフガニスタンは共和制・大統領制を採用する立憲国家である。現行憲法は2004年1月16日に公布されたもの。国家元首である大統領は国民による直接選挙で選出され、任期は5年。3選禁止。大統領は強力な指導権を憲法により保障されている。副大統領職あり。イスラーム教徒以外大統領にはなれない。そのほかにもクルアーンやシャリーアを法の源泉とする規定があり、アフガニスタンはイスラム国家の色彩が強い。

行政府たる内閣は大統領が任命するが、議会の承認が必要。首相職は設置されていない。立法府は二院制の国民議会で、憲法により、国家の最高立法機関と規定されている。国民議会は下院に相当する人民議会(ウォレシ・ジルガ)と、上院に相当する長老議会(メシュラノ・ジルガ)で構成される。

人民議会は249議席以下と規定され、議員は国民の直接選挙で選出される。任期は5年。長老議会は定数102議席で、5年任期議員(大統領の任命)、4年任期議員(各州議会の選出)、3年任期議員(各郡議会の選出)が3分の1ずつを占める。

国民議会とは別に、国家主権、安全保障、憲法改正、反乱の鎮圧、甚大な自然災害への対処など、国家の最重要事項に関しては、議会制度が成立する前からアフガニスタンに存在してきた伝統的な国家意思決定機関である国民大会議(ロヤ・ジルガ)が最高機関として機能する。

非常設であり、国民議会議員、州議会議長、郡議会議長で構成。閣僚と最高裁判所長官及び最高裁判所裁判官は、ロヤ・ジルガに参加できるが、投票権はない。

司法府の最高機関は最高裁判所で、その下に高等裁判所などが存在。三審制。

憲法により複数政党制が認められているが、アメリカやそれに従属するカルザイ政権による制限があり、また政党政治が根付いていないアフガニスタンでは、政党の活動は低調である。それでも比較的有力なものとして、かつてアフマド・シャー・マスードが率い、現在はブルハーヌッディーン・ラッバーニー元大統領の指導するイスラム協会(タジク人中心)、アブドゥラシード・ドスタム率いるウズベク人勢力のイスラム民族運動、ハザラ人主体のイスラム統一党がある。

また、これらの政党は政党連合統一国民戦線(単に国民戦線とも)を結成し、無党派のカルザイ政権に対する野党として活動している。アフガニスタンの主要民族であるパシュトゥーン人による旧政権ターリバーンやヘクマティヤール派等の反政府活動も存在し、南部の一部を実効支配している。

王家の再興を願う声が少なからず存在する。

・アフガニスタン人民民主党 - 社会主義政権時代の執権党
・北部同盟 - 旧ムジャーヒディーンによる反ターリバーン同盟。現在は統一国民戦線に移行。

腐敗問題

BBCやNHKの報道によると、カルザイ政権発足以降政府高官や公務員による汚職が急増している。アフガン政府の腐敗にアフガン国民が失望し、そのためアフガン国民は政府ではなくターリバーンを頼るようになり、ターリバーンが復活する一因となったという。

人権問題

純然たるイスラム国家であったターリバーン政権が崩壊した後、カルザイ政権下でアフガニスタンにおける世俗化は一定程度進んだとされる。しかし現在でもアフガニスタンはイスラーム法およびその強い影響下にある世俗法に基づく統治が行われ、イスラム国家としての色彩が強い。

そのため、信条の自由などが聖職者の定義するところのイスラーム法に反するものとされ、シャリーアに基づく背教罪や冒涜罪によって罪となることがある。

欧州での生活中にキリスト教に改宗した男性が、これを理由に死刑を宣告された。これに対しては西側世界からの批判が起こり、最終的に死刑判決は撤回されたが、男性は亡命を余儀なくされた。

また、女性の権利について、「クルアーンを根拠に女性差別を擁護する人々は預言者ムハンマドの見解を歪曲している」という趣旨の文書を読み、問題提起をしようとした学生に対し、宗教法廷により「冒涜」として死刑が宣告された。

これに対しても西側世界は非難しているが、カルザイ政権も今回はムスリム保守層の国民から圧力を受け態度を硬化させており、上院では死刑判決を支持する決議が採択された。

アフガニスタンの地方では部族の伝統が根強く、例えば、姦通を犯した女性がその家族の手で処刑される、いわゆる、「名誉殺人」も行われているという。

タリバン政権崩壊後に一度は廃止された宗教警察である勧善懲悪省が復活している。

さらに詳しく → アフガニスタン


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