三島由紀夫 (Yukio Mishima)

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2012/12/12(水)
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三島事件(みしまじけん)とは、1970年(昭和45年)11月25日に、日本の作家、三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島と同じ団体のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件(たてのかいじけん)とも呼ばれる。

経緯

1970年(昭和45年)11月25日の午前10時58分頃、三島由紀夫楯の会のメンバー4名(森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)と共に、東京都新宿区市ヶ谷の自衛隊駐屯地(通称・市ヶ谷駐屯地)、陸上自衛隊東部方面総監部二階の総監室を訪問。名目は「優秀な隊員の表彰紹介」であった。

玄関で沢本三佐に出迎えられた三島らは正面階段を昇り、原一佐に案内され総監室に通された。応接セットにいざなわれた三島は益田兼利東部方面総監(陸将)に、森田ら4名を、一人一人名前を呼んで紹介する。

ソファで益田総監と三島が向かい合って談話中、話題が三島持参の日本刀・“関孫六”になった。総監が、「そのような軍刀をさげて警察に咎められませんか」と尋ねたのに対し三島は、「この軍刀は、関の孫六を軍刀づくりに直したものです。鑑定書をごらんになりませんか」と言って、“関兼元”と記された鑑定書を見せた。そして、刀を抜き、油を拭うためのハンカチを小賀に要求した。

それはあらかじめ決めてあった「小賀、ハンカチ」という行動開始の合図であった。

しかし総監が、「ちり紙ではどうかな」と言いながら執務机の方に向かうという予想外の動きをしたため、一旦保留する。小賀は仕方なくハンカチでなく、日本手拭を三島に渡した。

手ごろな紙が見あたらず、総監はソファの方に戻り、刀を見るため三島の横に座った。三島は日本手拭で刀身を拭き、刀を総監に手渡した。刃文を見た総監は、「いい刀ですね、やはり三本杉ですね」とうなずき、これを三島に返した。この時、午前11時5分頃であった。

三島は使った手拭を小賀に渡し、鍔鳴りを「パチン」と響かせて刀を鞘に納めた。それを合図に、席に戻るふりをしていた小賀はすばやく総監の後ろにまわり、持っていた手拭で総監の口をふさいだ。

つづいて小川、古賀が細引で総監を拘束し、「さるぐつわは呼吸が止まるようにはしません」と断わり、短刀をつきつけた。その間、森田は総監室正面入口と、幕僚長室、幕僚副長室に通ずる出入口に、机や椅子、植木鉢などでバリケードを構築する。

お茶を出すタイミングを見計らっていた沢本三佐が異変に気づいて報告。原一佐が正面ドアを開けようと体当たりする。室内から「来るな、来るな」と叫び声がし、ドア下から要求書が差し出された。原一佐はただちに幕僚らに非常呼集をかけ、沢本三佐の部下が警務隊と警察に通報する。

両側の幕僚長室からバリケードを壊して突入して来る幕僚ら5名に対し三島は、「要求書を読め」と叫び、次々と飛び込んで来た幕僚らを日本刀・“関孫六”で応戦し追い出した。

さらに新たな7名の幕僚、自衛官らが次々と総監室に突入をして来た。古賀は小テーブルを投げ、小川は特殊警棒で応戦する。森田も短刀で応戦するが、逆に短刀をもぎ取られてしまう。

三島はすかさず加勢し、森田を引きずり倒した幕僚2人に斬りつけた。灰皿や地球儀が飛び交う中、「出ろ、出ろ、外に出ないと総監を殺すぞ」と怒鳴りながら、三島は幕僚らに斬りつけ追い出した。

怪我をした自衛官らの中には、右肘と左掌背部に重傷を負わされた幕僚幹部もいた。左手で刀をもぎ取ろうとしたために掌の腱が切れた。

しかし、この重傷を負った総監部三部の防衛班長・中村菫正(のぶまさ)二佐は、「三島さんは私を殺そうと思って斬ったのではないと思います。相手を殺す気ならもっと思い切って斬るはずで、腕をやられた時は手心を感じました」とあとで語り、自衛隊の良き理解者だった三島について「まったく恨みはありません」と断言した。

中村二佐はその後、陸幕広報班長、第三十二連隊長、総監部幕僚副長、幹部候補生学校校長を歴任し、1981年(昭和56年)7月、陸将で定年退官した。なお、このときの総監室の受けた被害額は、金額としては数百万円相当(当時)であったという。後に平岡(三島の本名)の親族が弁償した。

退散した幕僚らは総監室の廊下から窓ごしに三島を説得するが、三島は既にドア下から廊下にすべらせた要求書と同内容の要求書を、破れた窓ガラスから廊下に投げた。午前11時30分過ぎ、幕僚らは要求を受け入れることを決め、吉松副長が三島に対応し、三島は昼12時までに自衛隊員を集めることを求めた。

要求書には、「午前11時30分までに全市ヶ谷駐屯地の自衛官を本館前に集合させること。演説の静聴。檄の散布。楯の会の残余会員に対する三島の訓示。楯の会残余会員(本事件とは無関係)を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること。

自衛隊はこの間、午後1時10分までの2時間、一切の攻撃を行わないこと、当方よりも攻撃しない。条件が遵守されて2時間を経過したときは総監の身柄は安全に本館正面玄関で引き渡す。条件が守られないとき、あるいはその恐れがあるときは、三島はただちに総監を殺害して自決する」などと書かれてあった。午前11時40分頃、集合を呼びかける構内放送により、自衛官約800名が前庭に集合した。

自衛隊内には「暴徒が乱入して、人が斬られた」、「赤軍派が来たんじゃないか」などと情報が錯綜していた。なお、当日、市ヶ谷会館にいた楯の会会員30名は警察の監視下に置かれ、三島の要求通り現場には召集されなかった。午前11時55分頃、鉢巻姿の森田、小川らが、要求項目を書いた垂れ幕を総監室前バルコニー上から垂らし、檄文多数を撒布する。

正午の合図が市ヶ谷駐屯地の空に響いた。“七生報国”(七たび生まれ変わっても、朝敵を滅ぼし、国に報いるの意)と書かれた日の丸の鉢巻をし、日本刀・“関孫六”の抜身を持った三島が、正午きっかりにバルコニーに立った。自衛官達から、「三島だ」、「何だあれは」などと口々に声が上がった。

三島は集合した自衛官たちに向かい、拳を振り上げながら演説を始めた。憲法改正のための決起を促す演説であった。上空には、早くも異変を聞きつけたマスコミのヘリコプターが騒音を出し旋回していた。

自衛官達は、「聞こえねえぞ」、「ばかやろう」などと叫んだ。彼らは“昼食の時間なのに食事ができない”という不満や、“総監を騙し討ちして人質に取った卑劣さ”や“幕僚らに怪我をさせたこと”、さらには、“三島の演説の内容”についての反発も強く、「われわれの仲間を傷つけたのは、どうした訳だ」、「何考えてんだ、バカヤロー!」といった野次が飛んだ。

しかし、その一方、その場にいたK陸曹は、

「バルコニーで絶叫する三島由紀夫の訴えをちゃんと聞いてやりたい気がした。ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に理解した。野次がだんだん増して行った。舌打ちをして振り返った。(中略)無性にせつなくなってきた。

現憲法下に異邦人として国民から長い間白眼視されてきた我々自衛隊員は祖国防衛の任に当たる自衛隊の存在について、大なり小なり、隊員同士で不満はもっているはずなのに。まるで学生のデモの行進が機動隊と対決しているような状況であった。

少なくとも指揮命令をふんでここに集合してきた隊員達である。(中略)部隊別に整列させ、三島の話を聞かせるべきで、たとえ、暴徒によるものであっても、いったん命令で集合をかけた以上正規の手順をふむべきだ。こんなありさまの自衛隊が、日本を守る軍隊であるとはおこがましいと思った」


と後に語っている。三島は「静聴せい!」と再三叫んだが、野次と報道ヘリコプターの騒音で演説がかき消されて、わずか10分ほどで演説を切り上げた。

なお、この日、第三十二普通科連隊は100名ほどの留守部隊を残して、900名の精鋭部隊は東富士演習場に出かけて留守であった。三島は、森田の情報で連隊長だけが留守だと勘違いしていた。バルコニー前に集まっていた800人は通信、資材、補給などのどちらかといえば三島の想定した“武士”ではない隊員達であった。

この時三島はマイクを用意しておらず、この悲痛な光景をテレビで見た作家の野上弥生子は、後に、「三島さんに、マイクを差し上げたかった」と述懐している(堤堯談)。また水木しげるは、『コミック昭和史』(講談社)最終巻で、当時の自衛官が演説を聴かなかったのは「戦後育ちばかりで、個人主義・享楽主義になっていたから」だとしている。

現場に居合わせたテレビ関係者などは、演説はほとんど聞こえなかったと証言しており、残されている録音でも、野次にかき消されて聞こえない部分が多い。しかし三島から呼ばれ、現場に居合わせたサンデー毎日記者の徳岡孝夫は、「自分たち記者らには演説の声は比較的よく聞こえており、テレビ関係者とは聴く耳が違うのだろう」と語っている。

また徳岡は、演説を聞き取れる範囲で書き残し、三島からの手紙・写真共に、銀行の貸金庫に現在保管しているという。なお、この演説の全て録音することに成功したのは文化放送だけである。マイクを木の枝に括り付けて、飛び交う罵声や現場上空の報道ヘリコプターの騒音の中、三島の演説全てを録音することに成功しスクープとした。

演説を終えた三島は、側らにいた森田と共に「天皇陛下万歳」を三唱したのち、総監室に戻った。三島は、「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいた。そして、「益田総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と総監に話しかけた。

その後、恩賜煙草を吸い、上半身裸になり、バルコニーに向かうように正座して短刀を両手に持ち、背後の森田を見上げ、「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとした。

また、割腹した血で“武”と指で色紙に書くことになっていたので、小賀が三島に色紙を差し出すと、「もう、いいよ」と言って淋しく笑い、右腕につけていた腕時計を、「小賀、これをお前にやるよ」と渡した。そして、「うーん」という気合いを入れ、「ヤアッ」と叫び、自身の左脇腹に短刀を突き立てた。総監が、「やめなさい」、「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだ。

介錯人の森田は自身の切腹を控えていたためか、この時、介錯を三度失敗し(刀先がS字型に曲がってしまったのは、この時の衝撃ともいわれる)、剣道有段者の古賀浩靖が代わって、一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って切断する。最後に小賀が短刀で首の皮を胴体から切り離した。

続いて森田も切腹し、古賀が一太刀で介錯した。そして、小賀、小川、古賀の3名は、三島、森田の両遺体を仰向けに直して制服をかけ、両名の首を並べて合掌し、総監の拘束を解いた。

3名の涙を見て総監は、「もっと思いきり泣け…」と言い、「私にも冥福を祈らせてくれ」と正座して瞑目合掌した。午後0時20分過ぎ、3名は総監室正面入口から総監を連れ出て、日本刀を自衛官に渡し、警察に逮捕された。

慶応義塾大学病院法医学解剖室・斎藤教授の解剖所見によると、三島は臍下4センチほどの場所に刀を突き立て、左から右に向かって真一文字に約14センチ、深さ約4センチにわたって切り裂いたため、腸が傷口から外に飛び出していたことが検死報告されている。

また、舌を噛み切ろうとしていた形跡もあったという。警察の検分によると、介錯に使われた日本刀・“関孫六”は、介錯の衝撃で真中より先がS字型に曲がっていた。また、刀身が抜けないように目釘の両端を潰してあるのを、“関孫六”の贈り主である渋谷の大盛堂書店社長・舩橋弘が牛込署で確認している。

現場の押収品の中に、辞世の句が書かれた短冊が6枚あった。三島が2句、森田が1句、残りのメンバーも1句ずつあった。三島由紀夫、本名・平岡公威は享年45。森田必勝は享年25。自分の名を「まさかつ」でなく、「ひっしょう」と呼ぶことを好んだという。

決起に至った理由

自衛隊員たちへ撒いた檄文には、戦後民主主義と日本国憲法の批判、そして日米安保体制化での自衛隊の存在意義を問うて、決起および憲法改正による自衛隊の国軍化を促す内容が書かれていた。三島はこれらの檄文と遺書を事件直前に、楯の会の会員を通じ、NHK記者の伊達宗克とサンデー毎日記者の徳岡孝夫に託していた。

三島は最初の単身自衛隊体験入隊後の1967年(昭和42年)5月に、

「私は、私の考えが軍国主義でもなければ、ファシズムでもないと信じています。私が望んでいるのは、国軍を国軍たる正しい地位に置くことだけです。国軍と国民のあいだの正しいバランスを設定することなんですよ」、「政府がなすべきもっとも重要なことは、単なる安保体制の堅持、安保条約の自然延長などではない。集団保障体制下におけるアメリカの防衛力と、日本の自衛権の独立的な価値を、はっきりわけてPRすることである。

たとえば安保条約下においても、どういうときには集団保障体制のなかにはいる、どういうときには自衛隊が日本を民族と国民の自力で守りぬくかという“限界”をはっきりさせることです」


さらに、

「いまの制度がそうさせるのか、陛下のお気持がそうさせるのか知らないが、外国使臣を羽田で迎えるときに陛下がわきに立って自衛隊の儀仗を避けられるということを聞いたとき、私は、なんともいえない気持がしました」

と述べている。

日本国憲法第9条第2項がある限り、自衛隊は「違憲の存在」でしかないと見ていた三島は、檄文や問題提起のなかで自民党の第9条第2項に対する解釈や、共産党や社会党の日米安保破棄を標榜しつつも第9条護憲堅持の矛盾姿勢を、「日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなすもっとも悪質の欺瞞」と断じ、両者の、国体をないがしろにする姿勢を批判していた。

演説の中で、三島は自衛官らに、

「諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」と絶叫した。そして、ばらまいた檄文のなかで「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ」

と訴えた。

三島の自決の決心に決定的に影響を与えたのは三島の自決の前年の建国記念の日に、国会議事堂前で「覚醒書」なる遺書を残して世を警め同胞の覚醒を促すべく焼身自殺した青年、江藤小三郎の自決であった。三島は『若きサムラヒのための精神講話』において、

「私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である」

と記し、ここからは江藤青年の至誠と壮絶な自決が三島の出処進退に多大な影響を受けたことが読み取れる。

自殺の原因には諸説が挙げられるが、更にその一つとして考えられるのが、自身の「老い」への恐怖である。月刊誌「中央公論」の編集長であった粕谷一希によると、三島は、「自分が荷風みたいな老人になるところを想像できるか?」と言ったという(なお、三島と荷風とは、系図上では遠戚関係にある)。

また、その一方、「作家はどんなに自己犠牲をやっても世の中の人は自己表現だと思うからな」とも言ったという。新潮社の担当編集者だった小島千加子に対しては、「年をとることは滑稽だね、許せない」、「自分が年をとることを、絶対に許せない」と語っていたという。

しかし、その一方、

「自分の顔と折合いをつけながら、だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。六十か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう」とエッセイで述べていた。また、「室生犀星氏の晩年は立派で、実に艶に美しかつたが、その点では日本に生れて日本人たることは倖せである。

老いの美学を発見したのは、おそらく中世の日本人だけではないだろうか。(中略)スポーツでも、五十歳の野球選手といふものは考へらないが、七十歳の剣道八段は、ちやんと現役の実力を持つてゐる」


とも述べていた。

そして更に一つの理由として挙げられるのは、ヒロイズムつまり英雄的自己犠牲に対するマゾヒスティックな憧れである。三島は、1967年(昭和42年)元旦に『年頭の迷い』と題して、読売新聞に発表した文章のなかで、

「西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行つて神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霽堅が、私と同年で死んだといふ発見であつた。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ」

と述べている。

また、『行動学入門』のなかで、

「法はあくまで近代社会の約束であり、人間性は近代社会や法を越えてさらに深く、さらに広い。かつて太陽を浴びてゐたものが日蔭に追ひやられ、かつて英雄の行為として人々の称賛を博したものが、いまや近代ヒューマニズムの見地から裁かれるやうになつた」、「会社の社長室で一日に百二十本も電話をかけながら、ほかの商社と競争してゐる男がどうして行動的であらうか? 後進国へ行つて後進国の住民たちをだまし歩き、会社の収益を上げてほめられる男がどうして行動的であらうか? 現代、行動的と言はれる人間には、たいていそのやうな俗社会のかすがついてゐる。

そして、この世俗の垢にまみれた中で、人々は英雄類型が衰へ、死に、むざんな腐臭を放つていくのを見るのである。青年たちは、自分らがかつて少年雑誌の劇画から学んだ英雄類型が、やがて自分が置かれるべき未来の社会の中でむざんな敗北と腐敗にさらされていくのを、焦燥を持つて見守らなければならない。そして、英雄類型を滅ぼす社会全体に向かつて否定を叫び、彼ら自身の小さな神を必死に守らうとするのである」


と述べている。

そして更にもう一つの理由として挙げられるのは、「切腹という行為」そのものに対する官能的なフェティシズムがある。そのことは1960年(昭和35年)に榊山保名義でゲイ雑誌に発表した小説『愛の処刑』からも明瞭に看取される。

三島は、1970年(昭和45年)7月7日付のサンケイ新聞夕刊の戦後25周年企画「私の中の25年」に、『果たし得てゐない約束』の題名で寄稿している。その中で、

「私の中の二十五年間を考へると、その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど『生きた』とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。

生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へてゐた私はずいぶん甘かつた。

おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら」と語り、「それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷になつてゐる」


と告白する。また、

「なるほど私は小説を書きつづけてきた。戯曲もたくさん書いた。しかし作品をいくら積み重ねても、作者にとつては、排泄物を積み重ねたのと同じことである。その結果賢明になることは断じてない。さうかと云つて、美しいほど愚かになれるわけではない」

とまで言い切る。

そして、文章の最後で、

「二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。

日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである」


と日本の将来への絶望を吐露している。この文章は、実質的な『遺書』の一つとして、以降の三島研究や三島事件論において多く引用されている。

三島が決起に急いでいたことは檄文に、元来は「昭和四十四年十月二十一日」(国際反戦デーにおける新左翼の暴動が(自衛隊ではなく)機動隊によって鎮圧された日)と書くべき箇所を、「昭和四十五年十月二十一日」と誤記していることなどからも伺える。

また、検事冒頭陳述書によると、三島は古賀浩靖に向かって生前、「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」と語っていたということから、自決が諫死(自ら死ぬことによって目上の者をいさめること)の意味合いがあったことが伺える。

また、さらに挙げられる理由としては、三島の少年期における文学の師であり、精神的支柱の一人であった蓮田善明が、敗戦に際し、国体護持を念じてピストル自決をとげたことの影響がある。

1945年(昭和20年)8月19日、戦地のジョホールバルで蓮田は、中条豊馬大佐の、軍旗の決別式での天皇を愚弄した発言(敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた)に憤怒し、大佐を射殺し自身も自害した。三島は翌年11月17日に成城学園素心寮で行われた「蓮田善明を偲ぶ会」で、哀悼の詩を献じた。

三島と同じ戦中世代であり知人であった吉田満によると、

「三島は、終戦の時、満二十歳であった。(中略)彼が生涯をかけて取り組もうとした課題の基本にあるものが、“戦争に死に遅れた”事実に胚胎していることは、彼自身の言葉からも明らかである。出陣する先輩や日本浪漫派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征ったはずである。

後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。(中略)われわれ戦中派世代は、青春の頂点において、『いかに死ぬか』という難問との対決を通してしか、『いかに生きるか』の課題の追求が許されなかった世代である。

そしてその試練に、馬鹿正直にとりくんだ世代である。(中略)戦争が終ると、自分を一方的な戦争の被害者に仕立てて戦争と縁を切り、いそいそと古巣に帰ってゆく、そうした保身の術を身につけていない世代である。三島自身、律義で生真面目で、妥協を許せない人であった」


と述べている。

事件後

自決と聞いて、幕僚T三佐は、「まさか、死ぬとは。すごいショックだ。自分もずっと演説を聞いていたが、若い隊員の野次でほとんど聞き取れなかった。死を賭けた言葉なら静かに聞いてやればよかった」という談話を述べた。K陸曹も、「割腹自決と聞いて、その場に1時間ほど我を忘れて立ち尽くした」と言葉少なに語った。

事件翌日の総監室の前には、誰がたむけたのか菊の花束がそっと置かれていたという。しかし、ものの1時間とたたぬうちに幹部の手によって片づけられた。

また、事件後に、東京および近郊に在隊する陸上自衛隊内で行われたアンケート(無差別抽出1000名)によると、大部分の隊員が、「檄の考え方に共鳴する」という答であった。一部にではあるが、「大いに共鳴した」という答もあり、防衛庁をあわてさせたという。

その一方、釈放された益田総監が自衛官達の前に姿を現し、「ご迷惑かけたが私はこの通り元気だ。心配しないでほしい」と左手を高く振って挨拶すると、自衛官達から、「いーぞ、いーぞ」、「よーし、がんばった」などの声援が上がり、拍手が湧いたという。

その場で取材していた東京新聞の記者は、その光景になんともがまんできなかったという。その記者はコラムに、

「三島の自決に対する追悼ではもちろんない。民主主義に挑戦した三島らの行動を非難し、平和国家の軍隊に徹するという決意の拍手でもない。いってみれば、暴漢の監禁から脱出してきた“社長”へのねぎらいであり、サラリーマンの団結心といったところだろうか。残された隊員へ、マイクで指示が出た。『みなさんは勤務に服してください。どうぞ、そうしてください』と哀願調、隊員はいっこうに立ち去りそうもない。(中略)はからずも露呈した自衛隊のサラリーマン的結束と無秩序状態」

などと書いた。

ノーベル文学賞候補として報道され、多方面で活躍中だった著名作家のクーデター呼びかけと割腹自決のニュースは、日本国内だけでなく世界各国に配信され注目を集めた。その波紋は論議を起こし、今日まで回想を含め、様々な出版物が刊行されている。

事件翌日の1970年(昭和45年)11月26日、慶応義塾大学病院で首と胴体をきれいに縫合された遺体は棺に納められ、森田の遺体は兄・治に引き渡され、渋谷区代々木の火葬場で荼毘に付された。三島の遺体は弟・千之に引き渡され、パトカーの先導で三島の自宅へ運ばれ、密葬が行われた。

父・梓は息子がどんな変わり果てた姿になっているだろうと恐れ、棺を覗いたが、遺体の顔は生きているようで、楯の会の制服が着せられ刀が胸のあたりでしっかり握りしめられて添えられていた。これは警察官達が、「自分たちが普段から蔭ながら尊敬している先生の御遺体だから、特別の気持で丹念に化粧しました」と施したものだった。原稿用紙と万年筆も棺に納められ、三島の遺体は品川区の桐ヶ谷斎場で午後6時10分に荼毘に付された。

森田の通夜も午後6時過ぎに、楯の会会員によって代々木の聖徳山諦聴寺で営まれた。三重県四日市市の実家での通夜は、翌日の11月27日、葬儀は11月28日に、カトリック信者の兄・治の希望により海の星カトリック教会で営まれ、納骨された。小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3名は、嘱託殺人、不法監禁、傷害、暴力行為、建造物侵入、銃刀法違反の6つの容疑で送検される。

1970年(昭和45年)11月30日、三島の自宅で初七日の法要が営まれた。三島は、「自分の葬式は必ず神式で、ただし平岡家としての式は仏式でもよい」と遺言していた。戒名は「彰武院文鑑公威居士」。三島の遺言では「“文”の字は不要である」とあったが、遺族の思いから“武”の字の下に“文”の字も入れることとなった。

同年12月11日、「三島由紀夫氏追悼の夕べ」が、林房雄を発起人総代とした実行委員会により、池袋の豊島公会堂で行われた。これが後に「憂国忌」となる。司会は川内康範と藤島泰輔、実行委員は民族派学生で、集まった人々は3000人以上となる。会場に入りきれず、近くの中池袋公園に集まったという。

1970年(昭和45年)12月17日、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖が、嘱託殺人、傷害、監禁致傷、暴力行為、職務強要の5つの罪で起訴された。

翌年の1971年(昭和46年)1月14日、府中市多磨霊園の平岡家墓地に遺骨が埋葬された。この日は三島の誕生日でもある。同年1月24日、午後1時から築地本願寺で葬儀、告別式が営まれた。喪主は妻・平岡瑤子、葬儀委員長は川端康成で、三島の親族約100名、森田の遺族、楯の会会員とその家族、三島の知人などと、一般参列者のうち先着180名が列席した。

イギリスのBBC放送局が、三島の葬儀を生中継したいと申し入れて来ていたが、実行委員会はこれを断った。一般弔問客は8200人以上で、私服・制服警察官、機動隊も警備にあたった。一般参列者は会場入り口に置かれた大きな遺影に弔問し、元軍人からOLにいたるまで多彩な三島ファンが押しかけ、中には、「追悼三島由紀夫」ののぼりを立てて名古屋から会社ぐるみでかけつけた団体もあった。

1971年(昭和46年)1月30日、「三島由紀夫・森田必勝烈士顕彰碑」が松江日本大学高等学校(現・立正大学淞南高等学校)の玄関前に建立され、除幕式が行なわれた。

1971年(昭和46年)3月23日、「楯の会事件」第一回公判が東京地方裁判所で開かれた。被告の家族らと平岡梓、瑤子が傍聴する。公判は1972年(昭和47年)4月27日の第18回まで開かれ、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖に懲役4年の実刑判決が下された。

1971年(昭和46年)9月20日、瑤子夫人が墓参の折、墓石の位置の異常に気づく。翌日の9月21日、石材店の人が納骨室を開けたところ、遺骨が壷ごと紛失しているのを発見。府中署に届け出る。盗まれた遺骨は、同年12月5日、平岡家の墓から40メートルほど離れたところに埋められているのが発見された。遺骨は元の状態のままだった。

1971年(昭和46年)11月25日、埼玉県大宮市(現・さいたま市)の宮崎清隆(元陸軍憲兵曹長)宅の庭に「三島由紀夫文学碑」が建つ。揮毫は三島瑤子。生前、三島由紀夫が宮崎清隆に送った一文が「三島由紀夫文学碑の栞」に掲載される。

その他

演説の録音には『去年の十月二十一日にはだ、新宿で、反戦デーのデモが行われて』とあるが、これは1969年(昭和44年)10月21日に新宿で発生した10.21国際反戦デー闘争のことを指す。

事件直後に、現場の総監室には師の川端康成(実際は現場検証中で入室しなかったとされる)や、三島と親しかった佐々淳行(当時・警察庁幹部)が訪れた。三島と親しかったが、(三島が自決の年に、石原の政治姿勢を批判したことで)交流を絶った石原慎太郎(当時参議院議員)も、現場には訪れたが入室はしなかった。

「楯の会」は1971年(昭和46年)2月28日に解散を宣言した。なお事件に参加した一人の古賀浩靖は、服役出所後に生長の家副総裁であった谷口清超(のち総裁)の娘と結婚し、(清超の実家を継ぐため)荒地浩靖と改姓、教団幹部として活動をおこなった。

余談だが1949年(昭和24年)に発生した弘前大学教授夫人殺人事件では、三島事件に影響を受けて1971年(昭和46年)に真犯人が名乗り出た。冤罪で懲役囚になっていた人物は、後に再審が開かれ無罪判決となった。

1984年(昭和59年)に発刊された写真週刊誌「フライデー」創刊号に、三島由紀夫の生首写真が掲載されたことを受け、三島の妻・平岡瑤子が講談社に強硬抗議、出版が差し止められた。

このことにつき平岡瑤子は、同年末に行われた伊達宗克と徳岡孝夫によるインタビューで、「(江戸時代の)さらし首同様の行為です」と言及した。

三島事件の被害者の一人である元幹部自衛官・寺尾克美は、後年の退官後、加害者である三島の行為を「義挙」と総括し、憲法改正を訴える日本会議の活動家となった。

さらに詳しく → 三島事件




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この記事へのコメント
おはようございます。
三島事件のときは、ちょうど高校生のときで、クラスの友人が当時市ヶ谷に住んでいて、クラス中この話題で盛り上がっていたのを思い出します。かなり衝撃的でしたから。確か割腹写真が当時何かの本に掲載されたような記憶があるのですが・・・
いずれにしても随分と時間が経過したのですね。
2012/06/23(土) 05:17 | URL | 薄荷脳70 #-[ 編集]
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