スハルト(Soeharto)と東ティモール (East Timor) - 虐殺と西側諸国の罪

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2012/06/17(日)
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東ティモール民主共和国(ひがしティモールみんしゅきょうわこく)、通称東ティモールは、アジア(東南アジア)地域に位置する共和制国家。1999年8月30日、国連主導の住民投票によりインドネシアの占領から解放され、2002年5月20日独立した。国際法上はポルトガルから独立したことになる。21世紀最初の独立国。ポルトガル語諸国共同体加盟国。

島国であり、小スンダ列島にあるティモール島の東半分とアタウロ島、ジャコ島、飛地オエクシで構成されている。南方には、ティモール海を挟んでオーストラリアがあり、それ以外はインドネシア領である。

歴史

なりたち

ポルトガルの植民地になるはるか昔、紀元前2000年ごろパプア系語族が島の東部へ移住してき、ずっと時代が下って紀元10世紀ごろオーストロネシア語族が流入してきた、と伝えられている。さらに紀元前3000年ごろと同2000年頃の二度に渡って、インド=マレー系エスニックグループ移住してきたとの説もある。

ポルトガル植民地

ティモール島は16世紀にポルトガルによって植民地化された。その後オランダが進出し、一時はポルトガルがこれを撃退したが、1859年に西ティモールをオランダ領として割譲し、ティモール島は東西に分割された(リスボン条約)。1904年ポルトガル=オランダ条約(1908年批准)で国境を直線的分断し、確定した。

1911年から翌年にかけて収奪の厳しさに耐えかけてリウライ(マヌファヒ小国王)のドン・ドンボアベントゥラが反乱を起こした。戦死者3424人、負傷者1万2567人を出した。さらに、1959年にピケケ県知事誘拐・蜂起事件が亡命インドネシア人と東シティモール人らによって引き起こされた。150人の死者が出たとの説もある。

ポルトガルが中立を守った第二次世界大戦時には、当初はオランダ軍とオーストラリア軍が保護占領し、その後オランダ領東インド地域と合わせて日本軍が占領したが、日本の敗戦によりオーストラリア軍の進駐を経てポルトガル総督府の支配が復活し、1949年にインドネシアの一部として西ティモールの独立が確定した後もポルトガルによる支配が継続した。

これに対し、人口の中で圧倒的多数を占める地元住民は独立志向を強めたが、アントニオ・サラザール首相などの「エスタド・ノヴォ体制」により抑圧された。

1974年にポルトガルで左派を中心としたカーネーション革命が起こり、植民地の維持を強く主張した従来の保守独裁体制が崩壊すると、東ティモールでも独立への動きが加速し、反植民地主義のティモール社会民主協会(ASDT、9月に東ティモール独立革命戦線FRETILINと改称)即時完全独立を要求、ポルトガルとの関係維持のティモール民主同盟(UDT)、インドネシアとの統合を主張するアポデディの三つが政党として旗揚げした。

この動きは、東ティモールの領有権を主張し、反共主義を国是とするインドネシアスハルト政権にとっては容認できず、反フレティリンの右派勢力を通じた介入を強化した。

インドネシア占領

1975年、右派勢力と連携したインドネシア軍が西ティモールから侵攻を開始する中、11月28日にフレティリンが首都ディリで東ティモール民主共和国の独立宣言を行った。

しかし、直後にインドネシアが東ティモール全土を制圧し、1976年に27番目の州として併合宣言を行った。国連総会ではこの侵攻と占領を非難する決議が直ちに採択されたが、日・欧・米・豪など西側の有力諸国は反共の立場をとるインドネシアとの関係を重視し、併合を事実上黙認した。

スハルト政権は東ティモールの抵抗に対し激しい弾圧を加えたため、特に占領直後から1980年代までに多くの人々が殺戮や飢餓により命を落とした。インドネシア占領下で命を失った東ティモール人は20万人にのぼると言われている。

1991年、平和的なデモ隊にインドネシア軍が無差別発砲し、400人近くを殺したサンタクルス事件は、住民の大量殺戮事件として世界的に知られることになった。また、官吏や教員などを派遣して徹底した「インドネシア化」も推進した。フレティリンの軍事部門であるファリンテルは民族抵抗革命評議会 (CRRN) の主要メンバーとなり、シャナナ・グスマンが議長になったが、インドネシア政府はグスマンを逮捕し、抵抗運動を抑え込んだ。

その一方で、1996年にはノーベル平和賞が現地カトリック教会のベロ司教及び独立運動家のジョゼ・ラモス=オルタに贈られた。

1998年にインドネシアでの民主化運動でスハルト政権が崩壊すると、後任のハビビ大統領は東ティモールに関し特別自治権の付与を問う住民投票を実施する事で旧宗主国のポルトガルと同意した。

国連の暫定統治と独立後の平和構築活動

1999年6月に国際連合東ティモール・ミッション(UNAMET)が派遣され、その監督下で8月30日に独立に関する住民投票が行われた。その結果、特別自治権提案が拒否された事で独立が事実上決定したが、これに反発するインドネシア治安当局は、インドネシア併合維持派の武装勢力(民兵)を使って破壊と虐殺を行い、それがほぼ終了した段階で、オーストラリア軍を主力とする多国籍軍(東ティモール国際軍,INTERFET)が派遣された(東ティモール紛争)。

その結果、暴力行為は収拾したが、多くの難民が西ティモールに逃れ、あるいは強制的に連れ去られたりした。1999年10月には、国際連合東ティモール暫定行政機構 (UNTAET) が設立、2002年まで独立を率いた。

その後の制憲議会選挙ではフレティリンが圧勝し、大統領にはシャナナ・グスマン、首相にはマリ・アルカティリが選出され、2002年5月20日に独立式典を行った。独立後、国連は国際連合東ティモール支援団 (UNMISET) を設立、独立後の国造りの支援を行った。

この中で、日本の自衛隊も国連平和維持活動 (PKO) として派遣され、国連と協力して活動を行った。2005年には、国連の平和構築ミッション、UNOTIL(国連東ティモール事務所)が設立されたが、2006年の暴動を受け、同年8月には国際連合東ティモール統合ミッション (UN Integrated Mission in Timor-Leste:UNMIT) が設立。平和構築ミッションから、再び、平和維持活動へと逆戻りした。

独立後の混乱

2006年4月に西部出身の軍人約600人が昇級や給料で東部出身者との間で差別があるとして待遇改善と差別の廃止を求め抗議し、ストライキを起こしたが、政府はスト参加者全員を解雇した(国軍は2000人ほどしかいない)。これを不服とした参加者側が5月下旬に蜂起、国軍との間で戦闘が勃発した。

ところが、鎮圧に赴いた警察や国軍の一部がスト参加者に同調して反旗を翻し、警察署を襲撃して死者が出たため、怯えた警察官が職務放棄。また若者を中心に暴徒化してディリは混乱した。治安維持が不可能となった政府は5月24日にオーストラリア・マレーシア・ニュージーランド・ポルトガルに治安維持軍の派遣を要請し、翌日には東ティモールへの利権を確保することを意図したオーストラリア軍が早速展開し、その後4カ国による治安維持が行われた。

この背景として東部住民と西部住民の軋轢や、若者の失業率の高さが挙げられている。また、アルカティリ首相の独善的姿勢や国連の活動終了が早すぎた可能性も指摘されている。

オーストラリア軍は反乱軍を指揮する少佐と接触し、少佐の武装解除命令によって6月半ばに蜂起は終結したが、暴徒の方は反政府デモとなり、グスマン大統領の忠告によって、アルカティリ首相は辞任に追い込まれた。ディリは半ば戦場と化し、住民のほとんどは難民となって郊外へ脱出した。治安維持軍によって年内に暴動は鎮圧されたが、オーストラリア政府の支援による警察の再建など、治安の回復には時間がかかると思われる。

2007年1月13日、フランスと共に東南アジア友好協力条約 (TAC) に締結した。この条約は東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟と東アジアサミット参加への条件とされており、締結国間の主権尊重と内政不干渉、紛争の平和的解決を謳うものである。東ティモールは2007年内のASEAN加盟を目指していたが、その後の国内事情の混乱もあって実現しなかった。現在ではASEAN加盟の目標を2012年としている。

2007年8月8日、与党フレティリンが下野し、グスマン連立政権発足の前後より、フレティリンの熱狂的な支持者が暴徒化し、首都ディリなどで民家などへの放火や投石が多発している。また、8月10日には、東部のバウカウ県では、幸い負傷者はなかったが、国連平和維持活動に携わる国連警察の車列が、発砲を受け車両1台が燃やされた。

ビケケ県では子供1人が暴動に巻き込まれ死亡。数日の間に100名以上の逮捕者が出た。バウカウ・ビケケ両県は、フレティリン支持者が多い。8月12日には、国連警察、東ティモール警察、多国籍治安部隊(主に豪軍)、東ティモール国軍により暴動は沈静化した。

2008年2月11日、ラモス=オルタ大統領やグスマン首相が2006年の国軍反乱以降に反政府勢力となったアルフレド・レイナド少佐指揮の武装集団に襲撃された。この際にレイナドは死亡し、ラモス=オルタは重傷を負ったがオーストラリアの病院での治療により一命を取り留めた。

ラモス=オルタ大統領は4月17日に職務に復帰し、襲撃事件に伴う非常事態令も5月8日に解除された。国連によるUNMITは2009年も延長されたが、同年3月には国家警察への権限移譲が開始され、混乱は徐々に収束しつつある。

さらに詳しく → 東ティモール


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増原 綾子

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タグ : スハルト 東ティモール インドネシア 東ティモール紛争 サンタクルス事件

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