赤尾敏 (Bin Akao)

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2012/04/08(日)
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赤尾 敏(あかお びん、1899年1月15日 - 1990年2月6日)は、日本の保守政治家、衆議院議員、大日本愛国党総裁。東京都銀座数寄屋橋などでの辻説法による過激な街頭演説で有名だった。

略歴

1899年 愛知県名古屋市東区生まれ。
建国会会長
1942年 第21回衆議院議員総選挙で東京6区から出馬し当選。
終戦後、公職追放を受ける。
1951年 大日本愛国党を結成
1990年 心不全のため死去

社会主義者からの転向

少年時代は空想好きで、高等小学校に入学した時に教師から「太閤秀吉はぞうり取りから天下を取った」と言われ「俺だって勉強すれば総理大臣になれる」との夢を抱いたという。

旧制愛知第三中学(現在の愛知県立津島高等学校)に進学後、結核を患う。療養のため親元を離れ三宅島に移る。そこで小説家・武者小路実篤が唱えていた新しき村運動(原始共産制の実現を目指した社会運動)の実践を志し、実業家であった父から三宅島の牧場の経営を委ねられたという。貧困の中にあった島の孤児らを引き取って共同農場を運営した。

農場では階級の別なく平等に作物が分配されるなどユートピア的な制度が用いられ、「新しき村」運動に賛意を示していた小説家・幸田露伴は赤尾の理想に共感して彼と面談している。またこの時に三宅村神着地区の旧名主浅沼家とも知り合い、後に日本社会党委員長となる浅沼稲次郎や大日本愛国党参与となる浅沼美智雄(稲次郎とは遠縁になる)らとの交流が始まった。

赤尾は仲間らと共に理想的社会主義社会を建設する事を夢見たが、農場は島の有力者らに騙し取られる。

苦い経験をしつつも社会主義への展望を棄てず、東京の左翼運動に参加する。大杉栄や後の日本共産党書記長徳田球一らの支援を受け熱心に活動する。軍事教練の最中に天皇制への批判演説を行い身柄を拘束されたほか、地元財界の有力者に活動資金のカンパを要求したことが恐喝未遂とされて逮捕された。その際、それまで同志だと思っていた「愛知通信」の記者から手のひらを返した様に批判されたことで、左翼運動に深く失望した赤尾は獄中で転向を決断する。

国会議員当選

赤尾は獄中で仏教、儒教、キリスト教などの書物を読む。またメーデーに対抗するために「建国祭」を企画。「建国祭」は荒木貞夫や平沼騏一郎らの賛同を受け、全国で12万人を集め成功に終わる。赤尾は建国祭の常設機関として建国会を結成、書記長に就任する。

1942年の第21回衆議院議員総選挙では東京6区から出馬し、大政翼賛会の推薦を受けない「非推薦候補」ながら当選を果たす。トップ当選であり、得票数は都内で2位、全国で4位だった。鳩山一郎、斎藤隆夫、中野正剛、笹川良一など他の非推薦議員と同様に翼賛政治会(翼政)に加入はしたが、1943年の第81通常議会では戦時刑事特別法改正案に抗議し委員を辞職(3月8日)。

また続く第82臨時議会では施政方針演説に臨もうとした東條英機首相に対し議場退場処分(同年6月16日)、翼政を除名され、議会からも譴責の懲罰を下されるなど、右翼ながら筋を通した反体制派議員としての行動が目立った。

なお、戦後国会内でのビラ撒きにより元国会議員待遇を剥奪されている(当選無効ではないので、国会議員であった事実が取り消されたわけではない。選挙報道などでは、その後も「元議員」として扱われている)。

戦後

第二次世界大戦後にGHQによって公職追放され、追放解除後の1951年、大日本愛国党を結成し、総裁に就任。1952年の総選挙に出馬するが落選。以後、親米反共の立場からの右翼活動に関わる一方で、各種選挙に立候補し、参議院全国区では最高で122532票(第6回参院選)を獲得した。

もっとも、選挙のたびに立候補したのは、選挙期間中も街頭での辻説法を行うことが主な理由だったという。参議院不要論を唱え、参院選のたびに自分へも投票せず棄権するよう訴え続けた。

配下の党員であった山口二矢(事件当時は離党)が起こした浅沼稲次郎暗殺事件では取調べを受け、嶋中事件では殺人教唆で逮捕されている(証拠不十分で釈放)。沢木耕太郎『テロルの決算』によると、山口は浅沼の「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」発言に殺意を抱いたという(このことは本人の「斬奸状」にも触れられている)。

また、赤尾が個人的に交流のあった浅沼を「善人だから始末に悪い」と評したこともきっかけとなったのではないかとする。事件後赤尾は浅沼の妻享子や三木睦子と電話で連絡を取り合ったというエピソードもある。

また、アメリカンアセンブリーと国際親善日本委員会が主催していた第二回下田会議の初日、長髪をなびかせ数人を引き連れてロビーに押し込もうとしたことがある。日の丸の旗を振りながらホテルに上がってきた赤尾は「共産主義の脅威と戦うために再軍備すべきだ」と主張したが、駆け付けた警察に逮捕された。

銀座数寄屋橋での辻説法は当地の名物であった。街頭宣伝車を導入した右翼のはしりとも言われる。街宣車には日の丸や旭日旗とともに星条旗とユニオンジャックを掲げ、徹底して親米・親英をアピールし続けた。

また右翼としては珍しく昭和天皇の戦争責任を認め(しかし1989年の参院選政見放送では土井たか子が天皇に戦争責任があると発言したことに対し批判をしている)、日米安保に肯定的であった。

韓国にも好意的であり、「北朝鮮打倒のために日韓は協力すべき。領土問題がそれを阻むと言うなら、竹島など爆破して沈めてしまえ!」と主張した。天皇ですら国民のためにあると主張し、尊皇主義者からは嫌われている。

昭和天皇の大喪の礼に続く、1989年の第15回参議院議員通常選挙に東京都選挙区から満90歳で出馬、政見放送では意気軒昂に演説した。国政選挙の高齢立候補者としては、94歳で立候補した1953年の第26回衆議院議員総選挙での尾崎行雄に次ぐ高齢であった。

1990年2月6日午前9時26分、東京都立大塚病院で心不全のため死去、91歳没。

人物

困窮の中でも参議院選挙への立候補・落選を繰り返した。第二次世界大戦前の左翼活動の中で感じた憤りから徹底して世の中の矛盾を糾弾し、名古屋弁で狂信的とも見える演説は市井では一定の支持者を得た。

また赤尾を取材したカメラマン・宮嶋茂樹によると立会演説会の前に控室で対立候補を罵倒し、演説会が始まる直前に勝手に舞台の前に立って「君が代」の斉唱を促し、あわせて聴衆にまぎれた党員たちが立ち上がり伴奏なしで歌いだすなどの行動を取っていたという。宮嶋は赤尾の行動が立会演説会が廃れた理由となっていると指摘している。

太平洋戦争開戦前から、反共産主義、反ソ連の立場から対アメリカ、対イギリス開戦に反対し、反戦演説会を開くなどした親英米派右翼である。北方領土問題については「南樺太・全千島列島が日本固有の領土である」と主張した。徹底した反共主義であるが、日本共産党の宮本顕治のことを「敵ながら天晴れ」と評価していた。
自身を「泡沫候補」扱いするマスコミに、一貫して異を唱え続けた。

作家の小田実は『朝まで生テレビ!』に出演したとき、赤尾について「私があちこちで演説すると、必ず孤独な演説者が一人いたよ。赤尾敏だ。おれも(横で)やっているわけ。どっちも聞いておらんよ、誰も。それはひとつ変なつきあいだった」と語っていた。

長崎県佐世保港へ空母エンタープライズが入港した時に抗議の演説をすべく昭和40年(1965年)1月31日に佐世保市へ出かけたところ佐世保市内で16歳の少年が脇見運転するバイクに跳ねられるという事故に遭った。しかし赤尾敏はその少年が仕事でバイクに乗っていた事を知ると「16年の若さで仕事をしているとは感心だ」として訴える事などしなかった。

没後「敵」であった公安警察の一部から「過激ではあったが至誠の人」という評価を得る反面、味方のはずの右翼の一部からは「金にケチだった」、「自分一人が目立ちたがった」などの理由であまり好意を持たれていない。
赤尾は最期まで部屋に明治天皇、釈迦牟尼尊、イエス・キリストの大きな肖像画を飾っていたという。

戦後から昭和末期にかけて活躍した右翼泡沫候補(深作清次郎、福田拓泉など)の代表的な存在であり、昭和右翼の墓碑銘的存在である。

さらに詳しく → 赤尾敏  大日本愛国党




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