川崎 キ100 五式戦闘機 (Kawasaki Ki-100 Type 5 Fighter)

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2012/03/01(木)
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五式戦闘機(ごしきせんとうき)は第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍最後の制式戦闘機。キ番号(試作名称)はキ100。略称・呼称は五式戦。非公式な愛称・通称としては「飛燕改」など。本機固有の連合軍のコードネームは存在しない。開発・製造は川崎航空機。設計主務者は土井武夫

大戦末期に登場したため活躍は少ないものの、エンジンと機体のバランスが良く同時期の連合軍戦闘機と比べても遜色のない機体であったと評される。

開発経緯

三式戦闘機「飛燕」(キ61)は、当初から大馬力エンジンへの換装が考慮されていたため機体構造が頑丈で、主翼形状も高高度戦闘に向いたものであったことから、来襲が予想されていたB-29に対する高高度迎撃機として期待され、液冷倒立V12気筒エンジンハ40の出力向上型であるハ140(離昇出力1,450馬力)を搭載したキ61-IIの開発が進められていた。1944年(昭和19年)8月には審査が完了し、直ちに三式戦二型(キ61-II改)として生産が開始された。

しかしながら、ドイツのダイムラー・ベンツ製DB 601を川崎重工業がライセンス生産したハ40は、当時の日本の技術では製造と部品の供給が難しく、更に熟練工の不足などから製品精度が落ち始め、制式採用直後に生産が滞る事態となっていた。まして新型でより複雑なハ140の生産遅滞の状況は深刻で、エンジン未装備の「首無し」状態の三式戦二型が、ピーク時の1945年(昭和20年)1月には230機ほども工場内外に並ぶという異常事態となった。

こうした事態はすでに前年からある程度予測されており、1944年4月には陸軍より川崎に対して、三式戦二型の液冷エンジンを空冷エンジンに換装する予備研究が提案された。自社製の液冷エンジンを捨てることに抵抗感を示していた川崎側だったが、現実に首無し滞留機が出現し始めた1944年10月、軍需省より三式戦二型の首無し機に三菱重工業製ハ112-II(離昇出力1,500馬力)を装着すべく換装命令が出され、陸軍はこれにキ100のキ番号を付与し、1945年(皇紀2605年)に制式採用したため五式戦闘機と呼称された。

なお、大戦末期登場のために「飛燕」や「疾風」といった陸軍新鋭戦闘機につく愛称は連合軍のコードネームと共に存在しない。また、三式戦の首無し機体を流用した操縦席の天蓋がファストバック型を「五式戦一型甲」、最初から五式戦として生産された水滴型を「五式戦一型乙」とする区別も存在するが、これは戦後に作られたもので公式名称ではない。

ちなみに五式戦が開発された当時、「大東亜決戦機」として期待された四式戦闘機「疾風」(キ84)も、小型軽量高出力を目指して開発されたハ45エンジンの不調に悩まされており、稼働率の高い陸軍戦闘機は開戦以来の一式戦闘機「隼」(キ43)のみという窮地に陥っていた。

設計・特徴

正面面積の小さい液冷エンジン装備を前提に設計されたスマートな胴体に、直径の大きな空冷エンジンを取り付けることは大きな困難が伴った。そこでドイツより輸入され陸軍航空審査部にて試験機として、Bf109や鹵獲連合軍機と共にテストされていたFw 190A-5の排気まわりの空力処理を参考にし、太くなった機首部分と細い胴体の段差に単排気管を並べ、段差で発生する乱流を排気ガスのジェット効果で吹き飛ばすようにした。埋めきれない段差は、最小限のフィレットを取り付けることで解決している。こうした開発陣の努力により、開発開始から僅か3ヶ月後の1945年2月には初飛行に漕ぎ着けた。

武装は三式戦二型と同じく20mm機関砲(ホ5・二式二十粍固定機関砲)を機首に2門、12.7mm機関砲(ホ103・一式十二・七粍固定機関砲)を主翼に2門装備している。高高度性能を向上させるため、12.7mm機関砲を降ろした部隊もあったとされる。

正面面積が三式戦に比べてやや増大したため、最高速度が飛燕一型(キ61-I)より10km/hほど低下した他、機首が短くなったため縦安定性が悪くなり、離陸直後の低速時の姿勢保持には注意する必要があった。一方、冷却装置などの補機類や尾部のバラストが不要になったことにより330kgもの軽量化と重量バランスの改善を果たすことができ、上昇力、運動性能が格段に向上した。

特に三式戦譲りの頑強な機体は、アメリカ海軍の艦上戦闘機F6Fヘルキャット並みの、800km/h以上の急降下速度に耐えることができた。また、最高速度580km/hは当時の世界水準からは低いが、低高度ではさほど遜色なく、余剰馬力の大きさと良好な縦の運動性は大きな強みであった。

当初の目的である生産性の向上に加え、思わぬ副次効果に陸軍当局は狂喜乱舞した。そのためキ100は制式採用を前提として、直ちに首無し機体の改造と新規機体の製造準備が開始された。しかしながら、ハ112-IIは新型の燃料噴射ポンプに生産上の隘路を抱えており生産立ち上がりに伸び悩み、更には東南海地震により三菱のエンジン生産工場が大打撃を受けたことにより生産は事実上ストップという事態に立ち至った。エンジン換装によるキ61系列生産の増大という目的は果たされることのないまま、キ100は終戦を迎えることになる。

ただし液冷エンジンの三式戦の長所としては、高高度での性能低下が空冷エンジン搭載機よりも小さい事が挙げられる。当然ながら空冷エンジンの五式戦では、軽量化というメリットはあるものの、エンジン自体の性能に起因する高高度性能の低下はやむを得なかった。当然ながら当時切迫していたB-29の迎撃において問題となり、排気タービン過給機付きエンジンを搭載したキ100-IIも試作された。

優れた過給機の搭載の有無のほうが、液冷か空冷かの違いよりも、高高度性能には大きく影響する。キ100-IIでは高度10,000mでも590km/hの速度を発揮できることが分かり、これは三式戦よりも高高度性能は向上している事を示している。このエンジンはその当時既に一〇〇式司令部偵察機四型(キ46-IV)で実用化されており、キ100-IIは日本では初めての実用的な高高度戦闘機となる予定であった。

ただし、一〇〇式司偵で実用化されたと言っても、実際は極少数機が製作されただけであり、排気タービン自体もインタークーラーを省略した簡易型に過ぎず、半ば使い捨て同然の代物である。キ100-IIは1945年9月から量産に入る予定だったが、同年8月の終戦により3機の試作に終わった。総生産機数は計393機であった。

また、ハ112-IIは永年使用されてきた金星系列の発展型として、燃料噴射機構をキャブレター式からインジェクション式に変更し出力を向上していたが、四式戦のハ45に比べると出力や回転数にはやや余裕があり、信頼性が高かった。四式戦がハ45の不調で稼働率が激減していたことから、五式戦の高評価の背景には、三式戦ゆずりの機体そのものの素性の良さはもちろんであるが、エンジンの高い信頼性にも理由があった。

ただし液冷エンジンの三式戦と比較してのことであり、明野教導飛行師団では満足に飛ぶことができず、沖縄航空戦のための移動の際にも故障機が続出するなど信頼性が高いとは一概には言いがたい。ハ112-IIに関しても昭和20年においても初期不良が続き、同エンジンを装備した百式司偵三型も稼働率は芳しくなかった。

しかし、開発開始から間もない1944年末にエンジンを生産する三菱の工場が空襲と東南海地震で壊滅したため、五式戦の量産体制は敷けず、大東亜決戦機たる四式戦の生産を優先する方針が終戦まで維持された。

実戦と評価

配備は主に北九州地区の、飛行第59戦隊、首都圏から九州、中京と転戦した飛行第244戦隊、中京地区の飛行第5戦隊などのいくつかの飛行戦隊に配備されたほか、終戦直前に明野教導飛行師団から抽出されて編成された飛行第111戦隊、同じく常陸教導飛行師団から抽出されて編成された飛行第112戦隊(通称:“天誅戦隊”)などにも配備された。しかし、本土決戦に向けた「戦力温存」と、配備部隊の多くが転換訓練中であったことから大規模な活躍はない。

少ないながらも幾つかの実戦記録が残されている。1945年6月5日に飛行第111戦隊の13機がB-29爆撃機を攻撃して6機撃墜・5機不確実・搭乗員脱出者23名を主張、五式戦の未帰還機は2機だった。

7月25日、滋賀県八日市市付近上空で、アメリカ海軍の軽空母ベロー・ウッド所属の18機のF6Fに対して、飛行第244戦隊所属機のうち16機で挑み、被撃墜2機と引き替えに、撃墜12機を報じている。この戦闘は日本側の完全な奇襲成功であったが、アメリカ側の資料によればF6Fの損失は2機。空戦参加機数については諸説ある。

また、1945年7月16日には飛行第111戦隊も、「義足のエース」檜與平少佐と、江藤豊喜少佐に率いられた24機の五式戦が、硫黄島を出撃したアメリカ陸軍航空軍第21戦闘機群 (21st FG)、第506戦闘機群 (506th FG) 所属のP-51250機(アメリカ軍側記録では96機)と三重県松阪市上空にて交戦し、撃墜6機、不確実5機(アメリカ軍側記録では撃墜1機)、被撃墜5機(3名戦死、2名生還)の記録が残っている。

この戦闘で檜少佐は15機のP-51に包囲されるも、これを振り切り無事帰還、かつ1機撃墜し「(P-51が相手でも)無理をしない限り五式戦闘機は絶対に墜とされる飛行機ではない」と述べている。ただし多数の米軍機に各個撃破される苦しい戦闘であり、檜の指揮も適切ではなかったとしている。

五式戦に対する操縦者(空中勤務者)の評価は総じて高く、陸軍戦闘機最優秀とする意見も少なくない。また、エンジンの交換によって機体の重量配分が良くなり、運動性能が向上し、改良(重武装化)によって徐々に飛行性能を低下させていった三式戦本来の運動性能を取り戻したと言われる。三式戦から五式戦に機種変更した搭乗員も性能向上を実感したという。

現存機

終戦時、数機の五式戦が米空母に搭載されてアメリカ本土に輸送されたが、その後の消息は不明。本機の世界で唯一の現存機としては、イギリスのイギリス空軍博物館(RAF博物館)ロンドン館に収蔵・展示されている一型がある。本機は陸軍航空輸送部第7飛行隊の手によりシンガポールに向けフェリー中、経由地のカンボジアにて終戦を迎え現地でイギリス軍に接収され持ち帰られた機体である。

エンジン・機体共に極めて良好な状態にまでレストアされており、同博物館では本機(五式戦)は世界の航空史に残るマイルストーン的存在の名機として位置づけられている。なお常にRAF博物館ロンドン館に展示されているわけではなく別の場所にて展示されることもあるため、確実に見学するには事前に確認が必要である。(2011年12月31日現在マイルストーン館に展示されていない)

性能諸元

全幅 12.00m
全長 8.82m
全高 3.75m
翼面積 20m²
翼面荷重 174.75 kg/m²
自重 2,525kg
全備重量 3,495kg
エンジン ハ112-II型(離昇出力1,500馬力)
最大速度 580km/h(高度6,000m)
航続距離 1,400~2,200km
武装 機首20mm機関砲(ホ5)2門、翼内12.7mm機関砲(ホ103)2門
爆装 250kg爆弾 2個
総生産機数 396機

その他

五式戦よりやや早い時期に、DB 601を愛知航空機で海軍向けに国産化・改良した水冷エンジンのアツタ三二型の生産遅延のため、艦上爆撃機「彗星」でも、首なし機体が愛知航空機の工場内外に滞る状態となったことから、エンジンを空冷の金星六二型(ハ112-IIの海軍名)に換装した彗星三三型が生産されることになった。本機と同様に若干の性能低下は見られたが、故障が減り稼働率も高くなったため、第一線部隊の艦爆搭乗員と整備員からは高く評価された。

さらに詳しく → 五式戦闘機




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タグ : 五式戦闘機 大日本帝国陸軍 川崎航空機 土井武夫 太平洋戦争

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