ベトナムに平和を!市民連合 (beheiren、ベ平連)

航空兵器・陸上兵器・海上兵器・銃器・戦争・紛争・歴史・革命・テロ・事件・軍事動画・ニュース(報道)・社会情勢・政治運動・評論・講演など、軍事関連の情報を公開しています。宗教・思想・経済・政治的なものも少しアリ

広告
--/--/--(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2012/02/21(火)
*

ベトナムに平和を!市民連合(ベトナムにへいわを!しみんれんごう、略称「ベ平連(ベへいれん)」)は、日本における代表的なベトナム戦争反戦平和運動団体。なお「運動団体」といっても規約も会員名簿もなく、何らかの形で平和運動に参加した人や団体を「ベ平連」と呼んだ。

概要

発足へのいきさつ

アメリカによるベトナムにおける有事への本格軍事介入自体は、ジョン・F・ケネディ大統領によって「南ベトナム軍への軍事顧問団の派遣」という形で1960年代初頭から相当な規模で行われ、さらに、北ベトナム政府の指揮下にあった南ベトナム解放民族戦線による南ベトナム市民に対するテロが頻発し、多くの犠牲者も出ていた。

しかし、この頃は日本のマスコミによるベトナム情勢の報道があまり行われておらず、日本国内においてベトナム情勢は大きな話題になっていなかったため、ベ平連の発起者をはじめとするその後の「反戦運動家」達はこれを問題視せず、他にも大きな反戦運動は行われていなかった。

しかし、トンキン湾事件以後アメリカの軍事行動が拡大し、1965年(昭和40年)2月7日に開始されたアメリカ軍による北ベトナムへのいわゆる「北爆」で一般市民の犠牲者が増えたことがマスコミで報道されると、ようやく「反戦運動」が始まった。

なお、これと時を同じくして、当初南ベトナム解放戦線を「ベトコン」と表記し、南ベトナム政府に対する反政府テロ組織として報道していた日本のマスコミも、アメリカ軍による「北爆」が開始されて以降は急激に北ベトナム政府と南ベトナム解放戦線に同情的となり、「北ベトナムや解放戦線による市民へのテロ」といった立場の報道がほとんどなされなくなった。

発足

これらのベトナム情勢の変化と、それに対する上記のようなマスコミの報道の増加を受けて、60年安保で「声なき声の会」を組織した哲学者の鶴見俊輔や政治学者の高畠通敏が、「声なき声の会」を母体に作家の小田実を代表に担ぎ出して1965年(昭和40年)4月24日に「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」の名で発足させたのが始まりである。同年、久保圭之介に代わり吉川勇一が事務局長になる。

「反米」であるものの、既存政党とは一線を画した無党派の反戦運動であり、基本的に「来る者は拒まず・去る者は追わず」の自由意思による参加が原則で、その「いいかげん」とも評された程の自由な雰囲気により、労働組合や学生団体などの様々な左翼団体のみならず、右翼の玄洋社や学生、社会人、主婦など、職業や社会的地位、保革などの政治的主張を問わず、多くの参加者を呼び寄せる事になった。

拡大と縮小

その後1966年(昭和41年)10月16日に名称を「ベトナムに平和を!市民連合」に変更し、全国に活動が広がって行ったが、新左翼諸派との活動との関係が強くなりイデオロギー色が濃くなっていった。特に共労党からのメンバーが多く、ベ平連と共労党を兼ねたメンバーにいいだももや吉川勇一、栗原幸夫、武藤一羊、花崎皋平らがいる。又、日本赤軍の主要メンバーとなる丸岡修のようなテロリストが入りこんだり、下記のような違法活動の実施やアメリカと対立するソビエト連邦政府からの援助を受けるに至り、開高健をはじめとしてこれらの左傾化を嫌い運動から離脱していくものが増加した。

解散

1973年(昭和48年)1月27日に南ベトナムと北ベトナム、アメリカなどの間でパリ協定が調印され、アメリカ軍がベトナムから全面撤退したことを受け1974年(昭和49年)1月に解散した。

しかしその後も、北ベトナム軍は停戦協定を破って南ベトナムへ侵攻を続け、ベトナム各地で戦闘が続いた。また南北統一後の1978年(昭和53年)には、ベトナム軍はカンボジアに侵攻した。しかし解散されたベ平連が復活する事は無く、これら戦闘に対する元ベ平連関係者による活動は行われることはなかった。

主な活動

デモと「反戦広告」

発足直後の1965年(昭和40年)4月に東京の駐日アメリカ合衆国大使館へのデモ行進を行ったのを始まりに、アメリカ政府や軍、日本政府を断罪する多くのデモを行ったほか、同年11月には作家の開高健の発案でアメリカの有力紙の1つである『ニューヨーク・タイムズ』への全面での「反戦広告」を掲載、1967年(昭和42年)4月には画家の岡本太郎・筆の「殺すな」と大書された文字の下に英文のメッセージをデザインした反戦広告を『ワシントン・ポスト』に掲載するなど、その活動規模も運営資金も既成の「市民運動」の枠を大きく超えたものであった。

アメリカ国内の反戦運動団体とも連帯を形作った。上記の「反戦広告」に対しては、アメリカの読者や反戦運動団体から、新聞に全面広告を出せるほどの膨大な資金を一反戦運動が運営していることへの驚きが持たれたといわれる。

「JATEC」

小田ら運動の中核となった少数の幹部はアメリカ軍の「良心的脱走兵」の逃走支援も行い、これらの活動はベ平連とは別に「JATEC(Japan Technical Committee to Aid Anti War GIs―反戦脱走米兵援助日本技術委員会)」として運営された。

1967年(昭和42年)に、アメリカ海軍の航空母艦「イントレビット」からの4人の脱走兵をソ連の支援を受け、横浜港でソ連極東部のウラジオストックへ向かうソ連の定期船に違法に乗船させ、モスクワ経由でスウェーデンに入国させたことから、「イントレビット4人の会」が結成され、さらに脱走を援助する組織として「JATEC」が武藤一羊により命名された。栗原幸夫が指令役になり、吉岡忍、山口文憲、阿奈井文彦などの若手メンバーが実動役を請け負った。

だが、1968年(昭和43年)にアメリカの情報機関のスパイであるラッシュ・ジョンソンが脱走兵のふりをして侵入したことにより、同行して釧路に飛んだ脱走兵のジェラルド・メイヤーズが、11月5日に日本の警察に逮捕され、アメリカ海軍に引き渡された。メイヤーズの乗ったレンタカーを運転していた山口文憲は、モデルガンを所持していてメイヤーズにそれを見せていたため、翌1969年(昭和44年)2月15日、「銃刀法違反」で逮捕された。また、メイヤーズが隠れていた高橋武智宅も家宅捜索をうけた。

JATECは、正規の出国手続きを踏まない形での国外逃亡の幇助などの、非合法活動も含むあらゆる手段を用いて日本から脱走兵を秘密裏に出国させたものの、その数は数人に留まり、多くの脱走兵はアメリカ軍へ帰還した。なお、1968年(昭和43年)2月15日の「山口逮捕、高橋宅捜査」以降、JATECは方針を変更し、高橋武智をリーダーとして「脱走兵の国内潜行援助」、パンフレット『脱走兵通信』『ジャテック通信』による宣伝活動、そして在日アメリカ軍基地周辺での「反戦GI運動支援」活動を行った。

ソ連からの支援

違法活動に対する支援

小田や高橋らを中心としたベ平連の幹部、並びにJATECの構成員はソ連国家保安委員会(KGB)などの支援を受け、定期便やレポ船(ソ連のスパイ活動を行う日本の漁船)などを使い、少数の脱走兵を複数回、日本からスウェーデンなどの中立国に脱出させたものである。

これは他国に対する内政干渉であるばかりか、レポ船を経由した脱出幇助は、正規の出国手続きを経ない出国という明らかな違法行為である上、結果的にソ連からの金銭的、物資的援助を必要とする行為であったために、「単なる反戦運動」という一線を越えた違法活動として議論を呼んだだけでなく、外国人の違法出国の幇助という活動内容から日本の警察からの捜査を受けた上に、最終的にアメリカとソ連両国のスパイまでもが運動に食い込むようになってしまった。

そのような経緯から、ソ連の支援で脱走兵を北方領土へ違法出国させてスウェーデンなどの中立国へ出国させる手法は使えなくなった。そのため、高橋武智が単身でヨーロッパへ新たな密出国ルートの開拓に行ったものの、パスポート偽造などの違法手段で出国させることに成功した脱走兵は数人に留まる。

その後は、アメリカでの反戦運動と連携する道を模索し、脱走兵をアメリカ軍へ帰還させて、軍隊内で医療的・心理的認定を受けて、「最前線での任務が果たせない」との診断を得て、除隊へ至るという方法が取られることとなった。

KGBからの援助

そして1991年(平成3年)のソビエト連邦の崩壊によって、KGBがベ平連に資金的・物理的援助を与えていたというソ連共産党の機密文書が公開された。

公開されたソ連共産党機密文書(英訳版)によれば、ベ平連のKGBとの結び付きは、吉川勇一がKGBの日本における代表者に協力を依頼したことに始まる。

当時のユーリ・アンドロポフKGB議長がソ連共産党中央委員会に提出した報告書には小田と吉川が名指しで登場しており、アンドロポフ議長は党中央委員会に、秘密裏にベ平連指導者ら(leaders, leadership)と接触し、反米プロパガンダ活動の拡大と脱走アメリカ兵を助ける為に必要となれば物質的サポートなどをすることを勧告した。 さらにアンドロポフ議長は、この報告書を、KGBはベ平連にソ連に有利な影響を与えるべく、ベ平連指導部との極秘の接触を維持するための非公式手段を準備している、と締めくくった。

現在では、当時在日ソ連大使館との折衝を担当した吉川勇一本人も、共同通信記者の春名幹男の取材に対して、「(ソ連大使館の)参事官や一等書記官と会ったが、恐らく、全員がKGB要員だった」「脱走兵の日本脱出に事実上の援助を与えてくれるところなら、KGBだろうがスパイだろうが手を借りたいという気持ちだった」とソ連政府との接触と援助の授与を認めている。

さらに詳しく → ベトナムに平和を!市民連合  小田実




「ベ平連」・回顧録でない回顧「ベ平連」・回顧録でない回顧
(1994/12)
小田 実

商品詳細を見る
関連記事

タグ : ベトナムに平和を!市民連合 ベ平連 ベトナム戦争 小田実

この記事へのコメント
URL:
Comment:
Pass:   
この記事のトラックバックURL
http://gunjimania.blog108.fc2.com/tb.php/2328-58dbadbe
 この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック

 | Copyright © 軍事マニアクス - Military Maniacs All rights reserved. | 

 / Template by 家族 ペット 自分史 ブログ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。