戦争・紛争による、犠牲者数ランキング

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2012/01/28(土)
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第二次スーダン内戦(だいにじスーダンないせん)は、1983年、当時のヌメイリ政権が国政にイスラム法を導入したことに、南部の非アラブ系住民(大半がアニミズム、一部キリスト教徒)が反発し勃発したスーダンの内戦。ほぼ1955年から1972年の第一次スーダン内戦の続きである。約190万人が死亡し、400万人以上が家を逐われた。第二次世界大戦以降で最も死者の多い戦争の一つである。

背景

この戦争は通常、北のアラブ系に支配された政府に対する南の非アラブ系住民の戦いであるとされる。ナイル川沿岸に基盤を置いた王国や列強が数世紀の間スーダンの内陸の人々と戦ってきた。遅くとも17世紀以降、中央政府は南と内陸のスーダンの支配と搾取を試みた。

イギリスはムハンマド・アリー朝に代わってスーダンを制圧すると、南北に分断して支配した。南部はケニア・タンガニーカ・ウガンダなどの他の東アフリカの植民地と同様に支配され、北部はエジプトとの共同統治でアラビア語を共通語とした。北部の者が南部での地位を得ることも、南北の通商も妨げられた。

北部の圧力を受け、1946年にイギリスは南北の統合を決め、南部でもアラビア語が公用語とされ、北部の者が権限を得るようになった。英語の学業を修めた南部のエリートは政権に入れず、変化に憤慨した。脱植民地化でハルツームの北部エリートがほぼ全ての権力を握り、南部では不満が高まった。

北のムスリムのアラブ系による支配への南の不満が、エカトリア地方での南部の部隊による反抗となって、1955年に現れた。連邦制を構築するとのイギリスにした約束を、ハルツーム政府が反古にしたことへの、これらの部隊の動揺であった。以降17年間、南部地方の住民は内戦に巻き込まれ、様々な南部の指導者が地域の自治あるいは完全な分離に賛成する世論を喚起した。

第二次内戦のもう1つの要因は、スーダンの天然資源にあった。特に南部には重要な油田がある。石油収入はスーダンの輸出所得の約70%を占める。ナイル川の多くの賜物と南部スーダンの降水量により、南部は水が利用しやすく、ずっと肥沃である。北部はサハラ砂漠の端にある。これらの資源を支配したい北部の願望と、北部の影響力を排除したい南部の願望も、戦争に繋がった。ディンカとヌアーの戦争も平行して起こっていた。

勃発

1972年に、内部の問題に関して南部スーダンに大幅な自治を与えるアディスアベバ合意の署名により、北部政府に対する慢性的な反乱は一旦終了した。1983年に、ヌメイリ政権のイスラーム化運動の一環として、スーダンをムスリム・アラブ国家にする意向が示された。南部は3つの地域に分割され、シャリーアが導入された。これにはムスリム集団の間でも議論となった。ヌメイリ政権のスーダン社会のイスラーム化の信頼性に疑問を示した、マフディー派指導者のサディク・アル=マフディは、自宅軟禁下に置かれた。

4月23日、ヌメイリは非常事態を宣言し、シャリーアの適用を拡大した。憲法上で最も保障された権利が停止され、「明白な治安裁判所」と分かる、刑事事件に対する大まかな司法権を持つ非常時法廷が、後に北部で設置された。窃盗に対する切断やアルコール所持に対する公開鞭打ちは、非常事態の間、一般的であった。北に住んでいる南部人と他の非イスラム教徒も、これらの罰を受けさせられた。これらの出来事と、他の長年の不満も、内戦再開の元になった。

1983年、非アラブ系黒人主体で「新スーダン」建設を掲げる反政府組織スーダン人民解放軍/運動 (SPLA/M) が、ジョン・ガランの指導の元に組織された。1984年9月、ヌメイリは非常事態の終了を宣言し、非常時裁判所を閉鎖したが、すぐに非常時裁判所の業務の多くを引継ぐ新たな刑法を施行した。非イスラム教徒の権利が尊重されるとのヌメイリの公式の保証に拘らず、南部人と他の非イスラム教徒は深い疑問を持ち続けた。

政権交代と和平交渉

1985年初め、ハルツームは燃料とパンの深刻な不足に見舞われ、南部では戦闘が拡大し、旱魃と飢饉の中、難民が増えていった。ヌメイリが不在の4月の初めに、最初はパンと他の主要製品の値上げによって引き起こされた、大規模なデモがハルツームで起きた。

4月6日、アブデル・ラーマン・スワル・アッ=ダハブ将軍率いる軍の上級将校が、クーデターを起こした。新政権の最初の行為は、1983年の憲法の停止と、スーダンをイスラーム国家にする意向を宣言した命令の取消し、ヌメイリのスーダン社会主義連合の解散だった。しかし、シャリーアの導入を決めた「9月法」と呼ばれる法律は停止されなかった。15人の暫定軍事評議会メンバーが指名され、ダハブが議長となった。「集会」として知られる政党と労働組合と職業組織の非公式の会議との協議により、評議会はアル=ジャズーリ・ダファラー博士を首相とする臨時の文民内閣を指名した。

1986年4月に選挙が行われ、軍事評議会は公約通り民政移管した。ウンマ党のサディク・アル=マフディを首相とし、民主統一党 (DUP)、民族イスラム戦線(NIF, ハッサン・アル=トゥラビ)と、いくつかの南部の政党が連立した。この連立は、数年にわたって数回解散と改造を繰返したが、マフディとウンマ党が常に中心となった。

5月、マフディ政権は SPLA と和平交渉を始めた。その年、SPLA と他の政党のメンバーはエチオピアで会合し、シャリーアの廃止を求めるコカダム宣言に合意していた。1988年 SPLA と DUP は、エジプトとリビアとの軍の協定の廃止、シャリーアの凍結、非常事態の終了、停戦を求める和平案に合意した。憲法議会の招集も予定された。

この期間中、内戦の死者が増加し、経済は悪化し続けた。必需品が1988年に値上げされ暴動が起こり、値上げが取消された。マフディは11月 SPLA と DUP の和平案を拒否し、DUP は政権を離脱した。新政権はウンマ党とイスラム原理主義の NIF で構成された。

1989年2月に、軍はサディクに最後通告を示した。彼は和平を進めるか、追い出されることになった。彼は DUP と新政府をつくり、SPLA/DUP合意を承認した。憲法議会は1989年9月に仮計画された。しかし6月30日オマル・アル=バシール大佐らが NIF の扇動と支持の元、救国革命指導評議会を政権に置換えた。15人の将校(1991年に12人に減員)からなる軍事政権で、文民内閣がこれを支えた。アル=バシール将軍は大統領と首相、最高司令官を兼任した。
バシール政権は労働組合や政党その他「非宗教」組織を禁止し、78,000人の軍人、警察官、文民行政官が体制変革のために追放された。1989年後半から SPLA と、アラブ系イスラム主義者のオマル・アル=バシール政権、双方の衝突が南部で激化した。

1991年には、切断と石打ちを含む残酷な刑を全国的に導入する新刑法が施行された。南部の州は、これらのイスラームの禁令や罰から公式には除外されたが、1991年の法は、南部でのシャリーアの将来的な適用の可能性をもたらした。1993年、政府は南部の非ムスリムの裁判官を北部へ転任させ、全てムスリムに置換えた。治安警察の導入で、北部に住む南部人や非ムスリムへのシャリーアによる逮捕、取り調べが推し進められた。

1995年3月に、米国のカーター元大統領の仲介で一時停戦が実現したが、1996年に、SPLAとエリトリアに拠点を置いた多党派連合国民民主同盟 (NDA) が、政府に対する共闘を開始し、内戦が拡大した。

和平

1997年4月、SPLAを除く反政府勢力4派と政府が和平協定に調印し、1998年5月4日、政府とSPLAの代表がケニアのナイロビで約半年ぶりに和平交渉を再開したが、一方で、東南部では戦闘が継続していた。その後、エジプトとリビアによる仲介工作、スーダンと隣国6ヶ国でつくる政府間開発機構 (IGAD) による仲介に加え、スーダンの石油資源に関心を示す米国が2002年1月に特使を派遣し、積極的な調停に乗り出した。

この結果、7月20日、政府とSPLAは、SPLAが実行支配する南部の帰属をめぐる住民投票を2008年に実施することなどを柱とする和平の枠組みに合意し、27日に、バシール大統領とSPLAのジョン・ガラン最高司令官がウガンダのカンパラで初会談をもった。これを受け、8月12日からケニアのマチャコスで包括的和平合意を目指した交渉が再開されたが、SPLAが南部の要衝トリトを武力制圧したことなどを受け中断した。

その後、2003年1月に交渉を再開することで両者は合意。曲折を経た和平交渉はようやく翌々年の2004年5月26日になって、21年続いた内戦を終結させるスーダン政府とSPLAの包括和平協定(CPA)調印に至った。CPAは、6年の間の北部と南部の合体による暫定統一政権、南部に自治政府の設置、5年後の暫定統一政権の首長選挙、6年後の南部の独立の是非を問う住民投票が骨子となっている。CPAの実施が遅れた為、2011年南部スーダン独立住民投票は、2011年1月9日から15日に実施された。

さらに詳しく → 第二次スーダン内戦


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