南北朝鮮38度線の悲劇

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2012/01/10(火)
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朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、1950年6 月25日 - 1953年7 月27日停戦)は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡って、北朝鮮が軍事境界線を越えて南侵したことによって勃発した国際戦争。全土が戦場となり荒廃した朝鮮半島は開戦前と同様に南北二国に分断された状態のままとなった。停戦状態が続いているものの、随時、北朝鮮側による領空、領海侵犯を原因とした武力衝突が発生するなどしており、今日においても軍事的緊張状態が続いている。

概説

第二次世界大戦末期、ソ連軍は満洲に侵攻した。アメリカは、朝鮮半島全体がソ連の手に落ちることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案した。ソ連のヨシフ・スターリンはこの提案を受け入れ、朝鮮半島は38度線を境に分割占領されることとなった。 北朝鮮の侵攻を受けた韓国側にはアメリカ合衆国軍を中心に、イギリスやオーストラリア、ベルギーやタイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が、北朝鮮側には中国人民義勇軍(または「志願軍」。実際は中国人民解放軍)が加わり、ソビエト連邦が武器調達や訓練などの形で援助した。

なお、日本では朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)もしくは朝鮮動乱(ちょうせんどうらん)と呼んでいるが、韓国では韓国戦争や韓国動乱あるいは開戦日にちなみ6・25(ユギオ)、北朝鮮では祖国解放戦争、韓国を支援し国連軍として戦ったアメリカやイギリスではKorean War (朝鮮戦争)、北朝鮮を支援した中華人民共和国では抗美援朝戦争(「美」は中国語表記でアメリカの略)と呼ばれている。また、戦況が一進一退を繰り返したことから「アコーディオン戦争」とも呼ばれる。

* 本項では、朝鮮半島の南北分断の境界線以南(韓国政府統治区域)を「南半部」、同以北(北朝鮮政府統治区域)を「北半部」と地域的に表記する。また、韓国および北朝鮮という政府(国家)そのものについて言及する場合は「韓国」「北朝鮮」を用いる。これは、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが、両国家とも建国以来現在に至るまで、「国境線を敷いて隣接しあった国家」の関係ではなく、あくまで「ともに同じ一つの領土を持ち、その中に存在する二つの政権(国家)」の関係にあるためである。

背景

米ソの半島分割占領

1945 年8月14日に日本がポツダム宣言を受諾、連合国に降伏し第二次世界大戦が終結すると、日本は朝鮮半島の統治権をポツダム宣言に則り放棄することとなった。朝鮮半島は朝鮮総督府の下、独立準備委員を設立し、朝鮮半島の速やかな独立を計ったが、その後進駐してきたアメリカやソ連、イギリスを中心とする連合国軍により、その行動はポツダム宣言に違反するとされ、独立準備委員会は解散させられた。

日本の敗戦による「解放」は「与えられた解放」であった。独立を目指す諸潮流のいずれも主導権を得るということもなく、自らの運動が解放に直結したという実感もなかった。朝鮮人が自ら独立を勝ち取ることができなかったこと、独立運動の諸派が解放後の、それも数年間に激しく対立しつづけたことは南北分断にも少なからず影響し、その後の朝鮮の運命を決定づけた。

朝鮮半島内では、独立運動を志向する諸潮流があったものの、それらを統一的に導ける組織は存在していなかった。朝鮮の独立を目指す組織は朝鮮半島内よりもむしろ国外にあり、亡命先での活動が主だった。大きく分けると上海の大韓民国臨時政府、中国共産党指導下にあった満洲の東北抗日聯軍(抗日パルチザン)、アメリカ国内における活動などが挙げられる。朝鮮国内では1930年代までに多くの民族主義派が支配体制に組み込まれていった。最大の民族資本・湖南財閥は東亜日報紙面を通して抵抗姿勢を見せつつ恭順姿勢もとった。共産主義者は独立派としての立場を鮮明にし続けたが弾圧された。

国内では、呂運亨らによって建国準備委員会が結成され、超党派による建国準備を目指した。これに釈放された政治犯たちが加入した。政治犯の多くは共産主義者であり朝鮮共産党の中核を担うメンバーも含まれていたため、建国準備委員会は左傾化していった。これに対抗する右派のなかでは宋鎮禹が湖南財閥をバックに代表的な存在になった。成立期間が短く、諸外国から一切承認されていないため、影響力は限定的であったが、建国準備委員会は当時の朝鮮において最も広く組織された団体だった。

建国準備委員会が実際に果たした役割については諸説ある。日本が朝鮮統治から撤退した後に行政機構として機能したとする見方もいれば、突然当事者とされたことに対応してできた組織であるとして、実際には朝鮮人民の意思を反映していなかった点を強調する見方もある。

建国準備委員会は9月6日に朝鮮人民共和国の成立を宣言したが、その後、建国準備委員会内部においても意見と足並みの乱れが目立った。アメリカに亡命していた李承晩は反共姿勢を鮮明にして朝鮮人民共和国主席への就任を拒否し、またアメリカ軍政が人民共和国を承認しない意思を早々に明らかにしたことが決定打となって、人民共和国は解消された。

一方、北緯38 度線以北では関東軍の潰滅によってソ連の進駐が予定よりも早く進み、「各地で自発的に生まれた」とされている人民委員会は10月にはソ連軍によって接収された。ソ連の進駐が速過ぎたため、38度線は降伏受諾線ではなく分割占領線となった。北部でも朝鮮人による独立運動の様々な潮流があったとされているが詳細は不明である。

朝鮮国内の足並みが揃っていない状況下、李承晩や、ソ連の支援を受けて重慶に亡命していた金日成をはじめとする満洲抗日パルチザン出身者など、様々な亡命者が帰国した。これが決め手となって占領軍政下・南北朝鮮の政治情勢は大混乱に陥った。左右対立の激化は南北分断の一因にもなり、特にソウルで朝鮮人の意思を糾合することを一層困難にした。

その後、信託統治案を巡る左右対立に、イデオロギーの違いから対立を始めていた米ソの意向が反映され、アメリカ軍占領地域ではアメリカが推す李承晩を中心とした政権と李承晩の権力基盤が作られ、その他の潮流は排除された。ソ連軍政下でもスターリンが選んだ金日成がトップにすえられ、多数を占めていた国内の共産主義者は時間をかけて排除されることになった。

信託統治案

1945 年12月には、ソ連の首都のモスクワでアメリカ、イギリス、ソ連の外相会議が開かれ(モスクワ三国外相会議)、日本の管理問題のほかに、朝鮮半島問題も議題に上った。

戦時中の1943年に行われたテヘラン会談では、イギリスのウィンストン・チャーチルとソ連のヨシフ・スターリン、アメリカのルーズベルトの3者会談でルーズベルト大統領が「半島全域を40年は、新設する国際連合による信託統治するべきだ」と提案し、ヤルタ会談でも「20年から30年は信託統治するべき」と主張していた。

ルーズベルトは第二次世界大戦の終戦前に死去し、後継のトルーマンはモスクワ会談において、米英ソと中華民国による5年間の信託統治を提案して決定された(モスクワ協定)。独立国家の建設を準備するための米ソ共同委員会を設置したが、具体案において米ソの意見が激しく対立したため、やがて信託統治案は頓挫した。

米ソ対立

米ソ両国による冷戦の激化は朝鮮半島にも影響した。北半部では1946年2 月8日に、金日成を中心とした共産勢力が、ソ連の後援を受けた朝鮮臨時人民委員会を設立(翌年2 月21日に朝鮮人民委員会となる)、8月には重要産業国有法を施行し、共産主義国家設立への道を歩みだした。このような北半部での共産国家設立の動きに対して、日本統治時代にアメリカに亡命し独立運動を繰り広げてきた李承晩は、南半部での早期の国家設立をアメリカに迫った。その結果1947年6月には李承晩を中心とした南朝鮮過渡政府が設立され、北半部と南半部は別々の道を歩み始めることとなった。

同年11月に、アメリカは朝鮮半島問題を国際社会に問うため、設立されたばかりの国際連合に提訴したものの、北半部は翌1948年2 月8日に朝鮮人民軍を創設し、2 月26日には北緯38度線以北に金日成を主席とする朝鮮民主人民共和国の成立を宣言、アメリカはこれを非難した。

金日成は、3月には南半部への送電を停止(日本統治時代、山の多い北半部に水豊ダムなどの発電所が建設されており、南半部は電力を北半部に依存していた)して、南北の対立は決定的となった。李承晩は対抗し、朝鮮労働党を参加させない選挙を実施して、正式国家を成立させることを決断したが、済州島では南朝鮮労働党のゲリラが武装蜂起し、その鎮圧の過程で軍部隊の叛乱や島民の虐殺が発生した(済州島四・三事件、麗水・順天事件)。

分断の固定化と対立

南北の分離独立

1948年8月15日に、今度は李承晩が大韓民国の成立を宣言した。金日成はこれに対抗して自らも9月 9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。この結果、北緯38 度線は単なる境界線ではなく、事実上の「国境」となった。

その後、金日成は李承晩を倒して統一政府を樹立するために、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めていたが、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から軍事顧問団を残し撤退した。1949年6月には、アメリカ軍も軍政を解き、司令部は軍事顧問団を残し撤収した。それを受けて北朝鮮は「祖国統一民主主義戦線」を結成した。その後大韓民国では8 月12日にジュネーブ条約に調印し、11月に国家保安法が成立するなど、国家としての基盤作りが進んでいた。1949年12月24日に韓国軍は聞慶虐殺事件を引き起こし共産匪賊の仕業とした。

同じ頃、地続きの中国大陸では国共内戦の末、ソ連からの支援を受けて戦っていた毛沢東率いる中国共産党が勝利し、10 月1日に中華人民共和国が成立した。敗北した蒋介石率いる中華民国政府は台湾島に亡命し、その後も中華人民共和国との対立を進めた。なおアメリカは、蒋介石率いる中華民国の国民党政府を抗日戦争から国共内戦に至るまで熱心に支援していたが、内戦の後期になると勝機が見えないと踏んだ上、政府内の共産主義シンパやスパイの影響を受けて援助を縮小していた。

アメリカの誤算

1950 年1月12日、アメリカのトルーマン政権のディーン・アチソン国務長官が、「アメリカが責任をもつ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任をもたない」と発言し(「アチソンライン」)、韓国のみを含めなかった。これは、アメリカの国防政策において太平洋の制海権だけは絶対に渡さないという意味であったが、朝鮮半島は地政学上、大陸と海の境界線に位置している関係もあって、判断が難しい地域でもある。金日成はこれを「アメリカによる西側陣営の南半部(韓国)放棄」と受け取った。

アメリカは同月、韓国との間で米韓軍事協定を結んだが、これは李承晩の強い反日感情(李は上海臨時政府時代に日本の憲兵隊に逮捕され、その際拷問を受けたが、後に釈放され渡米している)に由来する、日本に対する報復および敵視政策(竹島領有宣言など)、国家統一を目的とした「北進」の主張を押さえ込むものであり、「韓国の軍事力の大部分はアメリカが請け負い、韓国軍が重装備して北朝鮮に攻め込むことを防ぐに僅かな兵力しか許さない」という内容であった。アメリカは韓国による日本に対する報復や、北朝鮮に対する攻撃を警戒していたが、北朝鮮の南進については楽観的で、在韓アメリカ軍は規模、質ともに不十分であった。

さらに、極東地域のアメリカ軍を統括し、連合国軍総司令官として日本の占領業務にあたっていたダグラス・マッカーサーは、1945年8月にこの地域に到着して以降、朝鮮半島に足を運んだのは1回のみであり、その興味は占領下に置いた日本の統治に注がれていた。このアメリカの李承晩懐柔政策は、5ヵ月後に間違いであったことに気付かされる。

スターリンによる侵攻容認

これらの状態の変化を受け、同年3月にソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と朴憲永に対し、金日成の働きかけ(内容としては、電報の内容を故意に解釈し、「毛沢東が南進に積極的である」とスターリンに示したり、また逆に「スターリンが積極的である」と毛沢東に示したりしたというもの)もあり、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認し、同時にソ連軍の軍事顧問団が南侵計画である「先制打撃計画」を立案した。

これを受けて、同年5月に中華人民共和国を訪問した金日成は、「北朝鮮による南半部への侵攻を中華人民共和国が援助する」という約束を取り付けた。しかし中華人民共和国が北朝鮮を当初から積極的に支援したという見解があるが、実際はソ連の軍事支援が予想より小規模な事がわかったことにより、中華人民共和国内では侵攻支援への消極的意見が主流だったという。また、直前になってから侵攻計画を知らされた事に不満の声もあった。

戦争の経過

北朝鮮の奇襲攻撃

1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。宣戦布告は行われなかった。30分後には朝鮮人民軍が「暴風」(ポップン)の暗号と同時に38度線を越境、約10万の兵力が38度線を突破した。また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断していた。

このことを予測していなかった李承晩とアメリカを始めとする西側諸国は衝撃を受けた。ただし北朝鮮側は、当時から現在に至るまで、「韓国側が先制攻撃してきたものに反撃したのが開戦の理由」だと主張し続けているが、この主張はソ連崩壊後のロシア政府にさえ公式に否定されている。

前線の韓国軍では、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていたのみであり、農繁期だったこともあって、大部分の部隊は警戒態勢を解除していた。また、首都ソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴会があり、軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱していた。このため李承晩への報告は、奇襲後6時間経ってからであった。さらに、韓国軍には対戦車装備がなく、ソ連から貸与されたT-34戦車を中核にした北朝鮮軍の攻撃により、各所で韓国軍は敗退した。ただしその一方、開戦の翌々日には、春川市を攻撃していた北朝鮮軍がその半数の兵力しかない韓国軍の反撃によって潰滅状態になるなど、韓国軍の応戦体制も整いつつあった。

連合国軍総司令官のマッカーサーが日本で奇襲攻撃を知ったのは25日午前5時数分過ぎで、ミズーリ州にいたトルーマン大統領も24日午後10時に報告を受け、国連安全保障理事会の開会措置をとるように命じてワシントンD.C.に帰還した。しかしトルーマン大統領の関心は、専ら冷戦の最前線とみなされていたヨーロッパへ向いており、マッカーサーも日本の占領統治に集中していた為、朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかった。トルーマン大統領はアメリカ人の韓国からの退去と、マッカーサーに韓国軍への武器弾薬の補給命令、海軍第七艦隊の中華民国への出動を命じたが、即座の軍事介入には踏み切らなかった。

国連の弾劾決議

6月27日に開催された安保理は、北朝鮮を侵略者と認定、“その行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める”「北朝鮮弾劾決議」を賛成9:反対0の全会一致で採択した。拒否権を持ち北朝鮮を擁護する立場にあったソ連は、この年の1月から中華人民共和国の中国共産党政府の国際連合による認証問題に抗議し、理事会を欠席していた。

決議の後、ソ連代表のヤコフ・マリクは国連事務総長のトリグブ・リーに出席を促されたが、スターリンからボイコットを命じられているマリクは拒否した。スターリンは70歳を超えており、すでに正常な判断ができなくなっていると周囲は気付いていたが、粛清を恐れて誰も彼に逆らえなかったという。これを教訓に、11月に「平和のための結集決議」(国連総会決議377号)が制定された。

南北の軍事バランス

開戦直前の南北の軍事バランスは、北が有利であった。韓国軍は歩兵師団8個を基幹として総兵力10万6千を有していたが、部内に多数潜入していたスパイの粛清、また独立以来頻発していた北朝鮮によるゲリラ攻撃の討伐に労力を割かれ、訓練は不足気味であった。また、米韓軍事協定によって重装備が全く施されておらず、戦車なし、砲91門、迫撃砲960門、航空機22機(それも練習機)を有するのみであった。

これに対し、朝鮮人民軍は完全編成の歩兵師団8 個、未充足の歩兵師団2個、戦車旅団1個および独立戦車連隊1 個の正規部隊と警備旅団5個を含み総兵力19万8千、さらにソ連製を中心とした戦車240輌、砲552門、迫撃砲1728門、イリューシンIl-10やアントノフAn-2などのソ連製を中心とした航空機211機を有していた。また、1949年夏より、中国人民解放軍で実戦経験(国共内戦)を積んだ朝鮮系中国人部隊が編入されはじめており、これによって優れた練度が維持されていた。

また、戦闘単位当たりの火力にも差があり、韓国軍師団と北朝鮮軍師団が1分間に投射できる弾量比については、1:10で北朝鮮軍師団の圧倒的優位であった上に、双方の主力砲の射程に関しても、北朝鮮砲兵の11,710m(ソ連製122mm榴弾砲M1938)に対して韓国軍砲兵は6,525m(アメリカ製105mm榴弾砲M3)と劣っていた。

韓国軍の敗退

この様に南北の軍事バランスに差がある中で、北朝鮮軍の奇襲攻撃を受けた韓国軍は絶望的な戦いを続けていたが、ついに韓国政府はソウルを放棄し、水原に遷都、ソウルは北朝鮮の攻撃により市民に多くの犠牲者を出した末に6 月28日に陥落した。この時、命令系統が混乱した韓国軍は漢江にかかる橋を避難民ごと爆破した。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力で脱出する事になる。また、この失敗により韓国軍の士気も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況になった。

韓国軍の敗因には、経験と装備の不足がある。北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編したものが殆どで練度が高かったのに対し、韓国軍は建国後に新たに編成された師団のみで、将校の多くは日本軍出身者であったが、各部隊毎の訓練が完了していなかった。また、来るべき戦争に備えて訓練、準備を行っていた北朝鮮軍は、装備や戦術がソ連流に統一されていたのに対して、韓国軍は戦術が日本流のものとアメリカ流のものが混在し、装備はアメリカ軍から供給された比較的新しい物が中心であったが、米韓軍事協定の制約により、重火器はわずかしか支給されず、戦車は 1輌も存在しなかった。また、航空機も旧式のアメリカ製戦闘機が少数あるのみだった。その結果、陸軍はまたたく間に潰滅し敗走を続け、貧弱な空軍も緒戦における北朝鮮軍のイリューシンIl-10攻撃機などによる空襲で撃破されていった。

ところが、韓国軍が総崩れのなか、北朝鮮軍は突然南進を停止、3日間の空白の時を作った。この3日間は韓国軍およびアメリカ軍にとって貴重な時間を作ることになったが、現在でもなぜ北朝鮮が3日間も貴重な時間を無為に過ごしたかは謎となっている(北朝鮮軍の大勝を知って南側の住民が武装放棄する事を期待していたという一説もあるが、明確な根拠はない)。

アメリカ軍の出動

マッカーサーは6月29日に東京より専用機のダグラスC-54「バターン号」で水原に入り、自動車で前線を視察したが、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめいていた。マッカーサーは70歳を超えていたが、自ら戦場を歩き回った。マッカーサーは派兵を韓国軍と約束し、その日の午後5時に本拠としていた東京へ戻った。なおマッカーサーはその後も韓国内にその拠点を置くことはなく、東京を拠点に専用機で戦線へ出向き、日帰りでとんぼ帰りするという指揮方式を取り続けた。

マッカーサーは本国の陸軍参謀総長に在日アメリカ軍4個師団の内、2個師団を投入するように進言したが、大統領の承認は得ていなかった。さらにマッカーサーは、本国からの回答が届く前に、ボーイングB-29やB-50大型爆撃機を日本の基地から発進させ、北朝鮮が占領した金浦空港を空襲した。トルーマンはマッカーサーに、1個師団のみ派兵を許可した。

この時、アメリカ陸軍の総兵力は59万2000人だったが、これは第二次世界大戦参戦時の1941年12 月の半分に過ぎなかった。第二次世界大戦に参戦した兵士はほとんど退役し、新たに徴兵された多くの兵士は実戦を経験していなかった。一方の韓国軍は、7月3日に蔡秉徳(日本陸士49期卒・元日本陸軍少佐)が参謀総長を解任され、丁一権(日本陸士55期)が新たに参謀総長となり、混乱した軍の建て直しに当たっていた。しかし、派遣されたアメリカ軍先遣隊は7月5日の烏山の戦いで敗北した。

国連軍の苦戦

6月27日に国連安保理は北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国を防衛するため、必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告し、7月7日にはアメリカ軍25万人を中心としてイギリスやオーストラリアなどのイギリス連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍を結成した。なおこの国連軍に常任理事国のソ連と中華民国は含まれていない(詳しい参戦国は後述)。

なお、朝鮮戦争において国連は、国連軍司令部の設置や国連旗の使用を許可している。しかし、国連憲章第7章に規定された手順とは異なる派兵のため、厳密には「国連軍」ではなく、「多国籍軍」の一つとなっていた。準備不足の国連軍は各地で敗北を続け、アメリカ軍が大田攻防戦で大敗を喫すると、国連軍は最後の砦洛東江円陣にまで追い詰められた。また、この時韓国軍は保導連盟員や共産党関係者の政治犯などを20万人以上殺害したと言われている(保導連盟事件)。

この頃北朝鮮軍は、不足し始めた兵力を現地から徴集した兵で補い人民義勇軍を組織化し(離散家族発生の一因となった)、再三に渡り大攻勢を繰り広げる。金日成は「解放記念日」の8 月15日までに統一するつもりであったが、国連軍は徹底抗戦の構えを崩さず釜山橋頭堡でしぶとく抵抗を続け、北朝鮮軍の進撃は止まった。また、北朝鮮軍と左翼勢力は、忠北清州や全羅北道金堤で大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人数十万人を「右翼活動の経歴がある」などとして虐殺した。また、北朝鮮軍によりアメリカ兵捕虜が虐殺される「303高地の虐殺」が起きた。

仁川上陸作戦

マッカーサーは戦線建て直しに全力を注ぎ、数度に渡る牽制の後の9 月15日に、ソウル近郊の仁川に、国連軍の中から選別したアメリカ軍の第1海兵師団および日本に駐留する第7歩兵師団、さらに韓国軍の一部からなる約7万人を上陸させる事に成功した。朝鮮戦争における大きな転換点の1つとなる仁川上陸作戦(クロマイト作戦)である。また、仁川上陸作戦に連動したスレッジハンマー作戦で、アメリカ軍とイギリス軍、韓国軍を中心とした国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変した。

補給部隊が貧弱であった北朝鮮軍は、38度線から300km以上離れた釜山周辺での戦闘で大きく消耗し、さらに補給線が分断していたこともあり敗走を続け、9月28日に国連軍がソウルを奪還し、9 月29日には李承晩ら大韓民国の首脳もソウルに帰還した。

この時敗走した北朝鮮兵は中央山地で再編成され、南部軍と称した。南部軍は中央山地沿いに潜入した北朝鮮政治指導部と、北朝鮮軍敗残兵、麗水・順天事件の韓国軍脱走兵、南朝鮮での共産主義シンパの活動家などから構成されていた。指揮官の李鉉相は済州島「4・3蜂起」の指導者であった。南部軍のゲリラ活動に国連軍は悩まされ、数度の大規模な鎮圧作戦を余儀なくされた。リーダーの李鉉相が戦死してゲリラ活動がほぼ収束したのは朝鮮戦争停戦後の1953年12月であった。

国連軍の38度線越境

10月1日に韓国軍は、「祖国統一の好機」と踏み、国連軍の承認を受けて単独で38度線を突破した。10 月2日に、韓国軍の進撃に対し北朝鮮の朴憲永は中華人民共和国首脳に参戦を要請。中華人民共和国の国務院総理(首相)の周恩来は「国連軍が38度線を越境すれば参戦する」と警告、さらに中華人民共和国の参戦による戦線拡大を恐れていたトルーマン大統領も、マッカーサーに対して中国人民解放軍参戦の可能性を問いただした。しかし、マッカーサーはチャールズ・ウィロビーら部下の将校からの報告を元にこれを即座に否定した。

その後10月9日には、アメリカ軍を中心とした国連軍も38度線を越えて進撃し、10月20日に国連軍は北朝鮮の臨時首都の平壌(北朝鮮は1948年 - 1972年までソウルを首都に定めていた)を制圧した。さらにアメリカ軍を中心とした国連軍も、トルーマン大統領や統合参謀本部の命令を無視し北上を続け、敗走する北朝鮮軍を追い中国人民志願軍の派遣の準備が進んでいたことに気付かずになおも進撃を続け、日本海側にある軍港である元山市にまで迫った。さらに先行していた韓国軍は一時中朝国境の鴨緑江に達し、「統一間近」とまで騒がれた。

中国人民志願軍参戦

毛沢東と数名の最高幹部は参戦を主張したが、残りの多くの幹部は反対だった。反対理由としては次のようなものがあった。

1. .中華人民共和国の所有する武器では、ソ連の援助を得たとしても、アメリカの近代化された武器には勝ち目が無い
2. .長年にわたる国共内戦により国内の財政も逼迫しており、新政権の基盤も確立されていないため、幹部、一般兵士たちの間では戦争回避を願う空気が強い
3. .中華人民共和国建国後も中国国民党政府の支配下のままとなった台湾島への侵攻や、ダライ・ラマ14世の影響力が大きかったチベットの制圧など、「国内問題」の解決を優先するべき

しかしこの様な韓国軍と国連軍の攻勢を受けて、林彪などの一部の中国共産党首脳部の反対もあり、これまで参戦には消極的だった中華人民共和国も、遂に開戦前の北朝鮮との約束に従って中国人民解放軍を「志願兵」として派遣することを決定する。なお、「志願兵」とは名ばかりで、派兵された「中国人民志願軍」は彭徳懐を司令官とし、ソ連から支給された最新鋭の武器のみならず、第二次世界大戦時にソ連やアメリカなどから支給された武器と、戦後に日本軍が放棄していった武器を使用し、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模の大軍だった。

10月24日頃から中朝国境付近に集結した中国人民志願軍が北朝鮮への侵入を開始し、迫撃砲を中心とした攻撃を行った。韓国軍はこれを北朝鮮軍による攻撃ではないと気付き、捕虜を尋問した結果、中国人民志願軍の大部隊が鴨緑江を越えて進撃を始めたことを確認した。

中国人民志願軍は11月に入り国連軍に対して攻勢をかけ、アメリカ軍やイギリス軍を撃破し南下を続けた。国連軍は上記のように中国人民志願軍の早期参戦を予想していなかった上、補給線が延び切って、武器弾薬・防寒具が不足しており、これに即応することができなかった。また、中国人民志願軍は街道ではなく山間部を煙幕を張って進軍したため、国連軍の空からの偵察の目を欺くことに成功した。

11月24日には国連軍も鴨緑江付近より中国人民志願軍に対する攻撃を開始するが、中国人民志願軍は山間部を移動し、神出鬼没な攻撃と人海戦術により国連軍を圧倒、その山間部を進撃していた韓国第二軍が壊滅すると黄海側、日本海側を進む国連軍も包囲され、平壌を放棄し38度線近くまで潰走した。しかしマッカーサーやウィロビーなどの国連軍上層部は東京に留まり、最前線に視察にさえ出ることはなかった。

初のジェット機同士の空中戦

また、ソ連の援助により最新鋭機であるジェット戦闘機のミコヤンMiG-15が投入され、国連軍に編入されたアメリカ空軍の主力ジェット戦闘機のリパブリックF-84やロッキードF-80、イギリス空軍のグロスター ミーティアとの間で史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられた。

MiG-15は当初、国連軍のノースアメリカンP-51やホーカー シーフューリーなどのレシプロ戦闘機を圧倒し、すでに旧式化していたF-84やF-80、ミーティアに対しても有利に戦いを進めていた(俗に言う「ミグ回廊」の形成)他、ボーイングB-29やB-50爆撃機の撃墜率を高めて行った。しかし、すぐさまアメリカ軍も最新鋭ジェット戦闘機であるノースアメリカンF-86Aを投入した。

初期のMiG-15は機体設計に欠陥を抱えていたこともあり、F-86に圧倒されたものの、改良型のMiG-15bisが投入されると再び互角の戦いを見せ始める。それに対しアメリカ軍も改良型のF-86EやF-86Fを次々に投入し最終的には圧倒的な優位に立った。最新鋭機であり、数がそろわなかったF-86の生産はアメリカ国内だけでは賄いきれず、隣国カナダのカナデア社も多数のF-86(セイバーMk.5など)を生産してこれを助けた。

なお、北朝鮮軍の国籍識別標識をつけたMiG-15を操縦していたのは戦争初期にはソ連軍パイロットであったが、後半には中国人民志願軍のパイロットもかなりの人数が参戦するようになり、朝鮮人パイロットもある程度参加したといわれている。貧弱な訓練しか受けられないまま参戦したこれらの北朝鮮軍に対し、十分な訓練を受けたアメリカ空軍のF-86が最終的に北朝鮮軍のMiG-15を圧倒し、最終的にF-86とMiG-15の撃墜率は7対1になった(この撃墜率には諸説あり、アメリカでは以前この倍以上の撃墜率が主張されていた。一方ロシアでは2対1の損失であったとされているが、いずれにしても F-86の圧勝に終わった)。

なお朝鮮戦争は、第二次世界大戦後に実用化されたヘリコプターが、はじめて実戦配備された戦争ともなった。アメリカ陸海軍のシコルスキーR-5(HOS3E)などが配備され、敵の前線背後で撃墜された国連軍の操縦士を救出するためや、前線で負傷した兵員を搬送するために繰り返し呼び寄せられ、後に様々な機種が実戦投入された。

膠着状態に

MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は12 月5日に平壌を奪回し、1951年1 月4日にはソウルを再度奪回した。韓国軍・国連軍の戦線はもはや潰滅し、2月までに忠清道まで退却した。また、この様に激しく動く戦線に追われ、国民防衛軍事件などの横領事件によって食糧が不足して多くの韓国国民が命を落とした。2月 9日には韓国陸軍第11師団によって居昌良民虐殺事件が引き起こされた。

中国人民志願軍は日中戦争や国共内戦における中華民国軍との戦いで経験を積んだ経験値と、人命を度外視した人海戦術、ソ連から支給された最新兵器や日本軍の残して行った残存兵器をもとに、参戦当初は優勢だったが、この頃には度重なる戦闘で高い経験値を持つ古参兵の多くが戦死したことや、補給線が延び切ったことで攻撃が鈍り始めた。

それに対し、アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し3 月14日にはソウルを再奪回したものの、戦況は38度線付近で膠着状態となる。

マッカーサー解任

1951 年3月24日にトルーマンは「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備をしていたものの、これを事前に察知したマッカーサーは、「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を発表した後に38度線以北進撃を命令し、国連軍は3月25日に東海岸地域から38度線を突破する。またマッカーサーは中国東北部(日本が一大工業地帯を築いていた)をボーイングB-29とその最新型のB-50からなる戦略空軍で爆撃し、中国人民志願軍の物資補給を絶つために放射性物質の散布まで検討された(原子爆弾を使おうとしたともされる)。

この頃マッカーサーによる中華人民共和国国内への攻撃や、同国と激しく対立していた中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入など、戦闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢と政治的に対立する発言が相次いだことから、戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することによってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にすることをことを恐れたトルーマン大統領は、4 月11日にマッカーサーを解任した。マッカーサーは、4月16日に専用機「バターン号」で日本から帰国し、後任には同じくアメリカ軍の第8軍及び第10軍司令官のマシュー・リッジウェイ大将が着任した。

停戦

この後、1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使が休戦協定の締結を提案したにことよって停戦が模索され、1951年7月10日から開城において休戦会談が断続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航した。1953年に入ると、アメリカでは1月にアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死去し、両陣営の指導者が交代して状況が変化した。

7月27日に、板門店で北朝鮮、中国人民志願軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は一時の終結をし、現在も停戦中である。(調印者:金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク国際連合軍司令部総司令官。なお李承晩はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった)しかし、板門店がソウルと開城の中間であったことから、38度線以南の大都市である開城を奪回できなかったのは国連軍の失敗であった。なお、その後両国間には中立を宣言したスイス、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドの4カ国によって中立国停戦監視委員会が置かれた。中国人民志願軍は停戦後も北朝鮮内に駐留していたが、1958年10月26日に完全撤収した。

犠牲と影響

犠牲

ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、韓国軍は約20万人、アメリカ軍は約14万人、国連軍全体では36万人が死傷した。一方、アメリカの推定では、北朝鮮軍が約52万人と言われている。中国人民志願軍は約15万2千人が「戦死」したと中華人民共和国側は発表している、毛沢東の息子の一人毛岸英も戦死した。

戦線が絶えず移動を続けたことにより、地上戦が数度に渡り行われた都市も多く、最終的な民間人の犠牲者の数は100万人とも200万人とも言われ、一説には全体で400万人~500万人の犠牲者が出た。内訳は北朝鮮側の死者250万人、韓国側は133万人で大多数が一般市民だった。中国人民志願軍の戦死者100万人、アメリカ軍の戦死者は6万3千人で、これは15年間のベトナム戦争でアメリカ軍が出した犠牲者数に匹敵する。

また、現在両国において日本統治時代の建造物が、同じく日本統治であった台湾に比べて極端に少ないのは、後の民族教育の一環で故意に破壊された事もあるが、それよりもめまぐるしく戦線が移動した上に、過酷な地上戦で建造物が破壊された朝鮮戦争の影響が強い。

分断と離散

「夫が兵士として戦っている間に郷里が占領された」、というような離散家族が多数生まれた。マッカーサーはピョンヤンに核爆弾を投下する構えを見せ、そのため大量の人が南側に脱出し、離散家族大量発生の原因となった。両軍の最前線(今日の軍事境界線。厳密には北緯38度線に沿っていないが、38度線と呼ぶ)が事実上の国境線となり、南北間の往来が絶望的となったうえ、その後双方の政権(李承晩、金日成)が独裁政権として安定することとなった。

一度戦火を交えてしまったために両国とも互いの主権を認めず、北朝鮮の地図では韓国が、韓国の地図では北朝鮮地区が自国内として記載されている(行政区分や町名、施設のマークなどは記載されていない)。ここが分断されながらも戦火を交えることがなかったこともあり、相互に主権を確認し、国交樹立、国際連合加盟、そして統一まで至った東西ドイツとの決定的な違いである。

韓国軍慰安婦

韓国軍は慰安婦を制度化して、軍隊が慰安所を直接経営することもあった。また、慰安婦で構成される「特殊慰安隊」と呼称された部隊は固定式慰安所や移動式慰安所に配属されており、女性達のなかには拉致と強姦により慰安婦となることを強制されることもあった。

保導連盟事件

韓国軍や韓国警察によって共産主義者の嫌疑をかけられた20万人から120万人に上る民間人が裁判なしで虐殺された

さらに詳しく → 朝鮮戦争




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