さらっとわかる 「新選組 (Shinsengumi)」

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2011/12/28(水)
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3分でわかる新選組 投稿者 retudou

新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期に、京都において反幕府勢力取り締まりのための警察活動に従事したのち、旧幕府軍に従軍して戊辰戦争を戦った治安部隊・軍事組織である。なお、「選」の字は「撰」とも表記されることが多く、実際「新撰組」と表記された史料も多くある。局長の近藤勇自身、表記には両方の字を用いている。

概要

幕末、京都は政治の中心地となり、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の過激派志士が集まり、治安が悪化した。従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、最高治安機関として京都守護職を新設し、会津藩主の松平容保を就任させた。その配下で治安維持にあたった臨時警察部隊が新選組である。同様の組織に京都見廻組があった。ただし、新選組は浪士(町人、農民身分を含む)で構成された「会津藩預かり」という非正規部隊であり、京都見廻組は幕臣で構成された正規部隊であった。

隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の全盛時には200名を超えた。任務は、京都で活動する不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備、反乱の鎮圧などであった。その一方で、商家から強引に資金を提供させたり、隊規(局中法度)違反者を次々に粛清するなど凄惨な内部抗争を繰り返した。
慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられ、翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従軍して戦い、敗戦に伴い散り散りになり、解散した。

明治政府が新選組と敵対していた倒幕派たちによって樹立された経緯もあり、近年まで史学的に研究されることがほとんどなく、現在における人気は明治時代からの講談や、後述する数々の小説・映画・ドラマなどフィクション作品の影響が大きい。漫画やアニメ、ゲームにもなり、老若男女から高い注目を集め、隊士の墓参りをするファンも多い。

歴史

結成

文久2年(1862年)、江戸幕府は庄内藩郷士・清河八郎の建策を受け入れ、将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集。

翌文久3年(1863年)2月27日、集まった200名余りの浪士たちは将軍上洛に先がけ「浪士組」として一団を成し、中山道を西上する。浪士取締役には、松平上総介、鵜殿鳩翁、窪田鎮勝、山岡鉄太郎、松岡万、中条金之助、佐々木只三郎らが任じられた。京都に到着後、清河が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が発覚する。浪士取締役の協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。これに対し近藤勇土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張。

鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄と家里次郎に残留者を募るよう指示。これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、根岸友山一派などが京都の壬生村に残ったが、根岸派は直後に脱退。殿内・家里は排斥され、同年3月、公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することを目的とし、新選組の前身である「壬生浪士組」(精忠浪士組)を結成。一方、江戸に戻ったメンバーは新徴組を結成した。

壬生浪士組は壬生村の八木邸や前川邸などを屯所とし、第一次の隊士募集を行う。その結果36名余の集団となり、京都守護職の松平容保より、主に不逞浪士の取り締まりと市中警備を任される。

4月、大坂の両替商平野屋五兵衛に100両を提供させ、これを元手に隊服、隊旗を揃え、隊規の制定にとりかかる。
6月、大坂相撲の力士と乱闘になり殺傷する。壬生浪士組にも負傷者が出た。奉行所は力士側に非があると判断。力士側は壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れる。

8月、芹沢鴨ら約30名の隊士が、京都の生糸問屋大和屋庄兵衛に金策を謝絶されたことに腹を立て放火。刀を抜いて火消を寄せ付けず、一晩かけて焼き尽くす。この事件に松平容保は憤り、近藤らを呼び出し処置を命じるとするが、これは現在否定されている。

同月、壬生浪士組は八月十八日の政変の警備に出動し、その働きを評価される。そして、新たな隊名「新選組」を拝命する。なお、隊名は武家伝奏[2]から賜ったという説と、松平容保から賜ったという2つの説がある。後者の説は、会津藩主本陣の警備部隊名を容保からもらったという意味である。

9月、近藤・土方ら試衛館派が八木邸で芹沢鴨、平山五郎を暗殺。平間重助は脱走、野口健司は12月に切腹。水戸派は一掃され、試衛館派が組を掌握し近藤を頂点とする組織を整備した。

発展

元治元年(1864年)6月5日、池田屋事件で尊王攘夷派志士を斬殺・捕縛。新選組の名は天下に轟いた。8月、禁門の変の鎮圧に参加。

池田屋事件と禁門の変の働きで朝廷・幕府・会津藩より感状と200両余りの恩賞を下賜されると、同年9月に第二次の隊士募集を行い、更に近藤が江戸へ帰郷した際に伊東甲子太郎らの一派を入隊させる。新選組は200人を超す集団へと成長し、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転する。

長州征伐の参加に備え、戦場での指揮命令が明確になる小隊制(一番組~八番組及び小荷駄雑具)に改組。「軍中法度」も制定した。しかし新選組に出動の命令はなかった。

慶応3年(1867年)3月、伊東らの一派が思想の違いなどから御陵衛士を結成して脱退。同年6月、新選組は幕臣に取り立てられる。同年11月、御陵衛士を襲撃し(油小路事件)、伊東らを暗殺する(新選組最後の内部抗争)。

解散

慶応3年(1867年)10月に将軍・徳川慶喜が大政奉還を行った。以降、新選組は旧幕府軍に従軍し戊辰戦争に参戦するが、初戦の鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗北。その後、榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へ撤退。
新選組は幕府から、新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改め甲州勝沼の戦いに出動するが敗戦。その後、再び江戸に戻ったが、方針の違いから永倉新八、原田左之助らが離隊して靖兵隊を結成。近藤、土方らは再起をかけ、流山へ移動するが、近藤が新政府軍に捕われ処刑され、沖田総司も持病だった肺結核の悪化により江戸にて死亡。

その後、新選組は宇都宮城の戦い、会津戦争などに参戦するが、会津では斎藤一らが離隊。残る隊士たちは蝦夷地に向かった榎本らに合流し、二股口の戦い等で活躍する(蝦夷共和国も参照)。新政府軍が箱館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた隊士たちを助けようと土方ら数名が助けに向かうが、土方が銃弾に当たり戦死し、食料や水も尽きてきたため、新選組は降伏した。旧幕府軍は箱館の五稜郭において新政府軍に降伏した(箱館戦争)。
明治政府は、隊士の遺族らに遺品の所有を禁じた。

評価の変遷

明治維新後、新選組と敵対していた薩長関係者が一転して政治の実権を握ったこと、また皇国史観の影響により、賊軍となった新選組を否定する風潮が強かった。このため史学的な研究も遅れた。大正時代に大佛次郎が発表した小説『鞍馬天狗』でも、新選組は悪役として描かれている。ただし、講談などの影響で庶民からは一定の人気があり、『鞍馬天狗』の中でも近藤勇だけは他の隊士と違って人格者の豪傑として描かれていた。

昭和3年(1928年)に『新選組始末記』(子母澤寛)、『新撰組史録』(平尾道雄)が出版されると、新選組は再評価され始めた。昭和8年(1933年)、相次ぐテロに対処するため警視庁に創設された特別警備隊(現在の警視庁機動隊)は、市民から信頼や親しみを込めて「昭和の新選組」と呼ばれた。また、太平洋戦争中に防空のため陸軍飛行戦隊で編成された飛行第47戦隊は、「空の新選組」と通称された。また同じく大戦末期に海軍で編成された第343海軍航空隊戦闘301飛行隊も「新選組」と呼称されている。

第二次世界大戦後には、映画やドラマで新選組が主役に扱われることも多くなり、各隊士にもスポットが当てられるようになった。近年では、新選組をモチーフにしたアニメやゲーム、パロディ作品も数多く生まれており、幅広い世代から愛好されている。

さらに詳しく → 新選組




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