【討論】 大東亜戦争開戦70周年記念大討論

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2011/12/27(火)
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大東亜戦争(だいとうあせんそう、旧字体: 大東亞戰爭、Greater East Asia War)は、日本(大日本帝国)がアメリカ合衆国やイギリス、中華民国などの連合国と行った戦争。本項では「大東亜戦争」という呼称に関する議論について述べる。

概要

1941年(昭和16年)12月8日のマレー作戦及び真珠湾攻撃後、同12月12日の東條内閣での閣議決定により、「大東亜戦争」の名称と定義が定められた。日本政府の宣戦布告は当初米英2国に対して行われたが、閣議決定では、「情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争」を「支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称」するとなっているため、支那事変(日中戦争)、対蘭戦、対ソ連戦も「大東亜戦争」に含む。なお、瀬島龍三によれば「大東亜」とは「おおむね、南はビルマ以東、北はバイカル湖以東の東アジアの大陸、並びに、おおむね東経一八〇度以西すなわちマーシャル群島以西の西太平洋の海域を指し、インド、豪州はふくまれない」地理的区分である。

一方で、大東亜戦争は太平洋戦争と同義であると認識されることも多い。これは、閣議決定にある「支那事変ヲモ含メ」という文言をいかに解釈するかという問題で、大東亜戦争の中に、1937年(昭和12年)7月7日からの支那事変の全期間を含むと考えるのか、1941年(昭和16年)12月8日以降の中国大陸における戦闘のみを含むと考えるかの違いによって生起している。

戦時中の呼称

日本の呼称

戦時中の日本では、対米英並びに対蘭及び対中戦争を「大東亜戦争」と呼称していた。この呼称は1941年(昭和16年)12月10日の大本営政府連絡会議によって決定され、同12月12日に閣議決定された。閣議決定「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」は、その第1項で「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と明記し、「大東亜戦争」の呼称と定義を正式に決定した。

同日情報局より、「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す。大東亜戦争と呼称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を主として大東亜のみに限定する意味にあらず」と発表され、この戦争はアジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指すものであると規定した。この方針は1943年(昭和18年)11月の大東亜会議で「再確認」がなされている。

「大東亜戦争」の呼称はもともとは陸軍案として1941年(昭和16年)12月10日の大本営政府連絡会議に提出されたものである。海軍は呼称を決定する大本営政府連絡会議の席上で「太平洋戦争あるいは対米英戦争等」の呼称案を提出したが採用されなかった。「太平洋戦争」が採用されなかった理由は、陸軍側が「太平洋戦争では支那事変を含むと理解しにくい」と主張したためであった。しかし海軍内部では戦争中も「太平洋戦争」の呼称が用いられたといわれている。これは海軍が支那事変(日中戦争)にはさほど関与しておらず、海軍にとっての戦争は真珠湾攻撃以降であるという認識に起因するものと考えられる。

対米英宣戦布告前から、日本の中央部では将来発生する可能性の高い戦争を「対米英蘭蒋戦争」、「対米英蘭戦争」、「対英米蘭戦争」などと呼んでいた。ただし、対オランダに関しては、1941年(昭和16年)12月1日の御前会議で開戦を決定したものの、同12月8日の「米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告」では宣戦布告の対象から除かれており、1942年(昭和17年)1月11日の対蘭戦の開始および翌日の宣戦布告までは正式には「対米英蘭戦争」とは呼んでいない。

連合国における呼称

米英などの連合国においては、戦時中から「第二次世界大戦太平洋戦線」と呼称されていた。

戦後の呼称

GHQによる「大東亜戦争」使用の禁止

1945年(昭和20年)8月の日本進駐後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)が中心となり、軍国主義、全体主義、極端な国家主義などを日本から排除する政策を行った。その一つが1945年(昭和20年)12月15日付けの日本政府に対する覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(「神道指令」)である。これにより、「大東亜戦争」の語は、日本語としての意味の連想が国家神道、軍国主義、国家主義と切り離せないと判断され、「八紘一宇」などの語とともに公文書で使用することが禁止された。

同年12月8日(開戦4周年)には新聞各紙がCIE作成の「太平洋戰爭史」の掲載を開始、さらに翌日からは日本放送協会から「眞相はかうだ」のラジオ放送が開始され、「大東亜戦争」という用語は強制的に「太平洋戦争」に置き換えられていった。

占領軍が日本軍の残虐行為と国家の罪を強調するために行った宣伝政策について、文藝評論家の江藤淳はその著書でウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」)としている。

呼称に対するGHQの検閲

GHQは出版物についても検閲をおこない、「大東亜戦争」表記の排除を図った。まず占領政策の前期においては、あらゆる出版物が「事前検閲」を受け、「大東亜戦争」はすべて「太平洋戦争」に書き換えられた。

占領政策後期に入ると「事前検閲」は「事後検閲」へ変更された。印刷・製本済みの出版物を占領軍が検閲し、「大東亜戦争」その他占領軍に不都合な記述(GHQへの批判等)があれば、発禁処分をおこなった。出版社は莫大な損害を蒙ることになるため、自主的に占領軍の検閲に触れるような文章を執筆する著者を敬遠し、占領軍の意向に沿わない本を出版しなくなった。江藤淳は、これを「日本人の自己検閲」と呼び、この構造が言論機関に定着するに従い検閲は占領軍によってではなく、日本人自身の手によって行われるようになったと主張している。
「日本における検閲」および「プレスコード」も参照

戦後の法令にみる呼称

GHQの神道指令により、「大東亜戦争」という用語を公文書で使用することは禁止された。しかし、神道指令が講和独立によって失効した後に制定された法令の条文などでも、大東亜戦争という言葉は使用されず、「太平洋戦争」あるいは「今次の戦争」という表現が使用されている。

「今次の戦争」という表現は、「罹災都市借地借家臨時処理法」(昭和21年8月27日法律第13号)、「認知の訴の特例に関する法律」(昭和24年6月10日法律第206号)といった戦後早い段階の法令にみられる。

また、「太平洋戦争」という用語は、「在外公館等借入金の確認に関する法律」(昭和24年6月1日法律第173号)を皮切りに、「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法」(昭和52年5月18日法律第40号)、「沖縄振興特別措置法」(平成14年3月31日法律第14号)等で使用されている。

このうち「沖縄振興特別措置法」の別表には、「…指定区間内の国道を構成する敷地である土地のうち太平洋戦争の開始の日から復帰協定の効力発生の日の前日までに築造された道の敷地であったもの…」というくだりが見られるが、その開始日をはじめ「太平洋戦争」に関する定義を欠いている。他の法令も同様である。

なお、「昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク国有財産法中改正等ノ件」(昭和21年3月14日勅令第142号)等により、法律や勅令の文中に「大東亜戦争」の呼称を使用していた物は「今次ノ戦争」と改められている。

呼称を巡る状況

1952年(昭和27年)の講和独立以降も、日本の公教育、公文書作製、言論出版界は「大東亜戦争」はほとんど使用せず、現在「大東亜戦争」を使用している、保守・右翼系の作家や評論家、雑誌・新聞も、この頃は洩れなく「太平洋戦争」と記述していた(一方、戦中派の一般国民には「大東亜戦争」を用いていた者も多かった)。

このような風潮に対し反抗する著述が、1964年(昭和39年)に出された林房雄『大東亜戦争肯定論』と1967年(昭和42年)に出された名越二荒之助『大東亜戦争を見直そう』であった。この2冊の出版に対して、左右両派から賛否の声が挙がり、論議を呼んだ。この2冊はその後も版を重ね、社会主義思想の退潮等の他の要因とも相まって、日本人の先の大戦に関する考え方に少しずつ変化をもたらしていった。現在活動中の保守派知識人の多くが、かつてこの2冊を読んだことを述懐している。

1980年代に、作家の山中恒は、辺境社から出版した『ボクラ少国民』シリーズのなかで、戦争の目的を直視してそれに批判的であるためにあえて「大東亜戦争」の呼称を用いるべきだと主張した。また、時代が平成に変わる前後から「大東亜戦争」が右派系の月刊誌で部分的に使われ始め、1990年(平成2年)に中村粲の『大東亜戦争への道』が出された前後から使用頻度が高くなっている(『諸君!』『正論』『文藝春秋』『Voice』など)。一方、『前衛』や『論座』など左派系の月刊誌で「大東亜戦争」が用いられる事は、現在もほとんど皆無である。

日刊紙では「太平洋戦争」が主流であるが、『産経新聞』は比較的「大東亜戦争」を多用している。『読売新聞』は、2006年(平成18年)8月13日の紙面で、満州事変から太平洋戦争終了までを「昭和戦争」と呼称するよう提唱したが、同紙以外で使用することは稀である。

「大東亜戦争」の呼称に否定的な立場からは、「大東亜戦争」の使用を主張する側が右派勢力を中心に大東亜戦争の思想背景でもある大東亜共栄圏の理念を揚げ、「戦争は解放戦争だった」「良い面もあった」といった見解を示す者が多いこと、またこのことから「大東亜戦争」の使用が「戦争賛美」「復古的国粋主義を煽る」「中韓を初めとしたアジア諸国への侵略に対する反省が乏しい」ことを表しているとして、使用に反対する意見も根強い。これらの意見を主張している人々は親中・親韓・左翼が主であり、保守・右翼はこうした主張を自虐史観と非難している。

なお、旧海軍軍人の中には戦後「日本にとって真の敵は(中華民国やソ連ではなく)アメリカであり、したがって大東亜などと無駄に戦域を拡張するべきでなかった」との反省から、「太平洋戦争と(歴史的には)呼称すべきだ」と主張する人々が存在した。

他の呼び方として、1931年(昭和6年)の満州事変と1937年(昭和12年)の盧溝橋事件に始まる日中戦争を大東亜戦争と一体のものとみて、十五年戦争やアジア・太平洋戦争と呼称することもあるが、満州事変に関しては塘沽協定(1933年)で停戦が成立しており、一続きの戦争とみなすことについて否定的な見解もある。ただし、休戦や講和をはさんだ一連の戦争を一続きのものとしてとらえること自体は決して特異な見解ではない(例えば「百年戦争」や「三十年戦争」などの呼称が歴史学で使われている。これらも十五年戦争と同じく、後世の視点で一連の戦争を総括して呼ぶ呼称として生まれた)。

更に庶民の日常感覚では、1937年以降が「戦争」であったことは、同時代の証言としては徳田秋声の『縮図』冒頭部分の記述があり、戦後の証言としては安岡章太郎の回想がある。
また、イギリスの歴史家クリストファー・ソーンは「極東戦争」という呼称を提唱している。なお、少数ながら主に民間で「8年戦争」という呼称が使用されている。

現在の日本政府による公式見解

現在の日本政府は、以下の立場を取っている。

・昭和16年12月12日の閣議決定において、「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」とされているが、「大東亜戦争」の定義を定める法令はない。
・昭和20年12月15日付け連合国総司令部覚書以降、一般に政府として公文書において「大東亜戦争」という用語を使用していない。
・「太平洋戦争」という用語は、「在外公館等借入金の確認に関する法律」(昭和24年法律第173号)等に使用されているが、「太平洋戦争」の定義を定める法令はなく、これに日中間の戦争が含まれるか否かは法令上定められていない。
・「太平洋戦争」という用語は政府として定義して用いている用語ではなく、「大東亜戦争」と「太平洋戦争」は同一の戦争かについて回答することは困難である。


なお、天皇が、この戦争について言及する際には「先の大戦」と表現することが通例となっている。

さらに詳しく → 大東亜戦争




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