20世紀の日本の戦争 (Japanese War in the 20th century) - 日露戦争から太平洋戦争終結まで

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2011/12/24(土)
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203高地(にひゃくさんこうち)は、中国北東部の遼東半島南端に位置する旅順(現在の大連市旅順口区)にある丘陵である。1904-1905年の日露戦争ではロシア海軍の基地のあった旅順港を巡る日露の争奪戦による激戦地となった場所。

地理

旧市街地から北西2kmほどのところにある。海抜203メートルであることからこの名が付けられた。

現状

大連市により、文物保護単位に指定されている。
中国海軍の軍事施設に含まれており、外国人の立ち入りは長く禁じられてきたが、1990年頃から水師営と共に観光客に開放されるようになった。

日露戦争

日露戦争において、ロシアの旅順艦隊を覆滅するのに失敗した日本海軍の要請により、旅順攻略は必要不可欠になり、日本陸軍が旅順要塞を攻撃した。

203高地は、当初あまり重要視されなかった。日本側は観測できる地点は203高地の他にもあり、既に総攻撃前に占領した大孤山から観測射撃を実施していた。砲撃開始2日目には戦艦レトヴィザンに命中弾を与え、旅順艦隊に危機感を抱かせ、黄海海戦への端緒になってもいる。

ロシア軍側も、203高地一帯は要塞主防御線から離れており攻撃側からしたら移動に時間がかかるし、その際は他の防御保塁からはまる見えで迎撃を被るという攻めるに不利な地点であったため、当初は特に多くの守備兵を割いてはいなかった。

しかし、海軍が旅順港停泊中のロシア艦隊を砲撃する際の弾着観測点として好適であるとして攻略を進言(秋山真之が進言したともいわれるが定かではない)し、これに当初から要塞西方主攻勢論だった中央の大本営が同調して203高地攻略を支持する。

これに対し満州軍総司令官の大山巌や総参謀長児玉源太郎、現地軍である第3軍司令官乃木希典らは

・既に大孤山からの観測砲撃や黄海海戦で旅順艦隊は壊滅しており、観測点など必要としない。
・艦隊を殲滅しても要塞守備隊は降伏せず、降伏しない限り第3軍は北上することはできない。そのためには、要塞正面への攻撃による消耗戦しかない。


と判断し、海軍や大本営の203高地攻撃要請を却下し続けた。

戦車や航空機のない当時としては、第二次世界大戦での電撃戦のような早期突破はできない以上、塹壕に籠り鉄条網と機関銃で守っている敵要塞を落とすには消耗戦しかなかったのである。

しかし大本営からの圧力(本来、第3軍は満州軍の所属で、大本営の直接指揮下にない)に第3軍が屈し1904年(明治37年)11月28日に203高地攻撃を開始する。一度は奪取に成功するもロシア軍が反攻して奪還され、一進一退の激戦となる。

結局12月4日の早朝に日本軍が占領して戦闘は終了した。結果的にこの戦いで要塞の予備戦力が枯渇し、続く要塞正面での攻防で有効な迎撃ができず、正面防御線の東鶏冠山保塁、二龍山保塁などが相次いで陥落、翌1905年1月1日に要塞は降伏した。

本争奪戦は、多くの戦死者を出した。第7師団(旭川)は、15,000人ほどの兵力が5日間で1,000人にまで減少した。ロシア側の被害も大きく、ありとあらゆる予備兵や臨時に海軍から陸軍へ移された水兵までもが、この高地で命を落とした。乃木希典は、自作の漢詩で203高地を二〇三(に・れい・さん)の当て字で爾霊山(にれいさん)と詠んだ。

203高地からの観測射撃について

1904年12月5日に日本軍が占領し、永野修身海軍大尉が指揮した陸上からの砲撃でロシア東洋艦隊を壊滅させたというのが通説だが、陥落後の陸海軍による沈艦への調査では、ほとんどの艦は命中しても艦底に損害を受けておらず、浸水などは起こしていなかった(陸軍省軍務局砲兵課石光真臣や武田三郎、上田貢らが調査を開始、1906年11月最終報告)。

使用した二十八糎砲の砲弾が古く、信管の動作不良もあったようで不発弾も多かった。報告を受けた陸軍省技術審査部長有坂成章は砲弾の全面変更を指示している。海軍側の調査では、多くの艦艇がキングストン弁を開いていた事が確認されていたようで、報告では自沈処理されたとなっている。

また第一次総攻撃前に行われた黄海海戦で、旅順艦隊は既に戦闘不能な程の大損害を被っており、旅順港の施設では修復は不可能だった。結局、戦艦セヴァストポリだけが外洋航行可能な程度まで修復された(その後セヴァストポリは戦艦の中で唯一観測射撃をのがれたが、日本海軍の水雷艇の雷撃により大破し自沈した。)が、他の艦艇は戦闘不能なまま放置され、最後は自沈処理された。203高地の「旅順艦隊殲滅のための観測点」としての価値は、実際はほとんどなかったといえる。

さらに詳しく → 203高地  満州事変  第一次世界大戦  第二次世界大戦




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(2010/08/21)
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