グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン (Grigori Rasputin、Григорий Ефимович Распутин)

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2011/10/15(土)
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グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン(露:Григорий Ефимович Распутин グリゴーリィ・イフィーマヴィチュ・ラスプーチン、ラテン文字転写:Grigorii Efimovich Rasputin、1871年1月23日? - 1916年12月29日(ユリウス暦12月16日))は、帝政ロシア末期の怪人物。シベリア、チュメニ州ポクロフスコエ村出身の農民、自称祈祷僧。謎に包まれた経歴や怪異な容貌から怪僧・怪物などと呼ばれ、ロシア帝国崩壊の原因をつくった悪人として、その人物評はすこぶる低調である。反面、その怪しげな経歴から、フィクションの悪役としては非常に人気が高い。

経歴・人物

20歳で結婚した後、突然、父親や妻に「巡礼に出る」と言い残して村を出奔した。一説では、野良仕事をしているとき生神女マリヤの啓示を受けたといわれている。修行僧と自称していたものの、正規の教育を受けた形跡はなく経歴は不明。

1904年、サンクトペテルブルク(ペトログラード)に出たラスプーチンは、人々に病気治療を施して信者を増やし『神の人』と称されるようになり、皇族ニコライ・ニコラエヴィチ大公の妻アナスタシヤ大公妃に取り入った。後にアレクサンドラ皇后に紹介され、血友病患者であったアレクセイ皇太子を治療して皇后の信頼を得た。1905年11月1日にロシア皇帝ニコライ2世に謁見し、以後、皇太子の病状が悪化する度に宮廷に呼び出された。ラスプーチンが祈祷を捧げると、不思議にも皇太子の発作が治まって症状が改善した。その治療法は催眠療法の一種ではないかと推測されているが、こうして皇帝夫妻から絶大な信頼を勝ち取り、『我らの友』と呼ばれるようになったラスプーチンは、夫妻の権威を傘にきて政治に口を挟むようになった。

当時のロシア社会は、日露戦争の敗北、打ち続く労働運動、革命運動の激化によって動揺していたものの、皇帝への表立った非難は抑制されていた。多くの場合、失政の責任は側近に向けられるようになり、ラスプーチンも例外ではいられなかった。ラスプーチンの過去や言動に注目が集まり、馬泥棒の経歴が暴かれ、女性信者との淫らな関係が新聞に報じられたこともあって、多くの廷臣がラスプーチンの排除を望むようになった。しかし優柔不断といわれた皇帝は愛妻の皇后や皇太子の病気に配慮してこれを拒否した。

第一次世界大戦が勃発してニコライ2世が首都を離れて前線に出ることが多くなると、内政を託されたアレクサンドラ皇后は何事もラスプーチンに相談して政治を動かし人事を配置した。前線から届く芳しくない戦況から、敵国ドイツ出身であった皇后とドイツの密約説が流れ、皇帝不在中の皇后とラスプーチンの愛人関係までが真しやかに噂されるようになった。こうしてラスプーチンは廷臣や国民の憎しみを一身に背負うことになったのである。

しかし、元々ラスプーチンは政治に強い関心はなく、その存在は皇帝の政策決定にも大きな影響を与えなかったとされている。第一次世界大戦参戦を主張する皇帝に対して不戦を説いたり、革命派や無政府主義者による運動激化を考慮しての農民の年貢や税金負担軽減など、荒事を嫌う農民出身の聖職者ならではの提言をしたこともあったが、その言が用いられた証跡はない。

ヨーロッパで最も保守的で官僚的といわれたロシア宮廷にあってラスプーチンが重責を担う余地は少なく、単なる皇帝の取巻きの一人に過ぎなかったとするのが適切である。皇后が余りにもラスプーチンを重用し過ぎたために人身御供にされた(そして後世でオカルトや陰謀論の題材にされた)ともみることができる。

暗殺

皇后の信任を背景にラスプーチンが宮廷人事を左右しはじめたことに宮廷貴族たちは危機感を抱き、ついに暗殺の計画が立てられた。1916年12月29日、皇帝の姻戚のユスポフ公は皇帝の従兄弟のドミトリー大公と共謀し、ラスプーチンを晩餐に誘い、彼の食事に青酸カリを盛った。しかしラスプーチンは毒入りの食事を平らげた後も態度に変化を示さず、周囲を驚愕させた。食後に祈りを捧げていたラスプーチンは背後より重い燭台で何度も激しく頭部を殴打されたのち拳銃の弾を撃ちこまれた。ここで反撃に出るがさらに2発、計4発の銃弾を受け、倒れたところに殴る蹴るの暴行を受けて窓から道路に放り出された。それでも息が残っていたので、ネヴァ川まで引きずられ氷を割って開けられた穴に投げ込まれた。三日後、ラスプーチンの遺体が発見され、警察の検死の結果、肺に水が入っていたため死因は溺死とされた。川に投げ込まれた時もまだ息があったのである。

死の前にニコライ2世に謁見したラスプーチンは、以下の様な予言めいた進言をしている。

私は殺されます。その暇乞いに参りました。私を殺す者が農民であれば、ロシアは安泰でしょう。もし、私を殺す者の中に陛下のご一族がおられれば、陛下とご家族は悲惨な最期を遂げる事となりましょう。そしてロシアは長きにわたって多くの血が流されるでしょう

その言葉通り、その後ロシアは革命によってロマノフ朝が崩壊し、またそれに続く内戦やボリシェヴィキ政権による恐怖支配で多くの死者を出すことになる。

逸話

・ロシア革命の指導者アレクサンドル・ケレンスキーは「ラスプーチンなくしてレーニンなし」と記している。
・暗殺には、第一次大戦でロシアの戦線離脱を危惧したイギリスの諜報機関の関与説もある。
・当時、ラスプーチンという姓は西シベリアでは比較的多く見られたが、帝政ロシアを崩壊に招いた人物の姓は忌み嫌われ、改姓する者が多く出た。

・ロシアのプーチン元大統領(現首相)は元KGB情報部員であり、その過去についても不明な点が多く、首相就任時に影の薄かった彼が大統領に就任した際、その謎に包まれた経歴からラスプーチンに引っかけられ、「ラス・プーチン」と揶揄されたことがある。ただし、プーチンという姓はロシア語で道を意味するプーチ (Путь, Put') を思わせ、ラスプーチンのラス (Рас, Ras) は(さまざまな意味があるがその1つとして)「逆」という意味があるため、ロシア人の間では、プーチンは「道」、ラスプーチンは「道がない」という逆の意味だと、好意的に捉える者もいる。プーチン本人は「ラスプーチンとは無関係である」と語っている。

・甘いものが何よりも好物で歯を磨く習慣がなかったため虫歯だらけであった。暗殺の時もお菓子に青酸カリを盛られた。

さらに詳しく → グリゴリー・ラスプーチン




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