リビア内戦(2011 Libyan civil war)は仕組まれたのか

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2011/09/07(水)
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2011年リビア内戦(2011ねんリビアないせん)は、リビアにおいて2011年に起こった政治社会的要求を掲げた大規模な反政府デモを発端とする武装闘争である。

2月15日に開始され、同年8月に首都トリポリが北大西洋条約機構軍の支援を受けた反体制派のリビア国民評議会の攻勢によって陥落し、40年以上政権の座にあったムアンマル・アル=カッザーフィー(事実上の最高権力者。以下カダフィ)が率いる大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国が事実上崩壊。その後カダフィは逃亡を続けたが10月20日に身柄を拘束され、その際に受けた攻撃でカダフィは死亡。10月23日に国民評議会によりリビア全土の解放が宣言され、内戦は反カダフィ勢力の勝利に終わった。

概要

1969年以来、41年間というアフリカ諸国最長の政権を維持するムアンマル・アル=カッザーフィー大佐(事実上の最高権力者。以下カダフィ)に対する退陣要求が高まった。一連の反政府運動は、チュニジアでのジャスミン革命、エジプトでの騒乱が他のアラブ諸国に波及した騒乱のうちの一つとして数えられている。

リビアは先に反政府デモが勃発したチュニジアやエジプトとは違い、豊富な石油や天然ガス資源を背景とした富がある程度は国民に配分されていたとされる。しかし1969年の政権掌握以来、強権的な統治を行ない、また反政府活動に対する厳しい監視や弾圧が行われており、カダフィに対する不満は鬱積していた。国民だけでなく、権力の後ろ盾となってきた軍や部族の間にも、カダフィに対する不満があったとされる。

概要

1969年以来、41年間というアフリカ諸国最長の政権を維持するカダフィに対する退陣要求が高まった。一連の反政府運動は、チュニジアでのジャスミン革命、エジプトでの騒乱が他のアラブ諸国に波及した騒乱のうちの一つとして数えられている。この騒乱により、カダフィは政権の座を追われ、長期独裁に終止符が打たれることになった。
リビアは先に反政府デモが勃発したチュニジアやエジプトとは違い、豊富な石油や天然ガス資源を背景とした富がある程度は国民に配分されていたとされる。しかし1969年の政権掌握以来、強権的な統治を行ない、また反政府活動に対する厳しい監視や弾圧が行われており、カダフィに対する不満は鬱積していた。国民だけでなく、権力の後ろ盾となってきた軍や部族の間にも、カダフィに対する不満があったとされる。

推移

デモ発生前夜

チュニジアで2010年暮れより発生した一連の反政府運動に対してカダフィは一貫して批判的な立場を取り続けてきた。しかし民衆の間でインターネット上で反政府デモを呼びかける動きが始まり、これに対して当局も書き込み者を逮捕するなど封じ込めに躍起となった。

反政府デモ勃発

2011年2月15日、拘留されている人権活動家の弁護士の釈放を要求するデモがリビア東部のキレナイカにあるベンガジにて発生し、警官隊や政府支持勢力と衝突。警官を含む38人が負傷した。同時に、政府を支持する行進もリビア全土で行われた。ベンガジはリビア王国時代にとられた複都制ではトリポリと共に首都に定められていた。カダフィが倒した王政の中心地であり、王制時代唯一の国王イドリース1世の出身地であって、カダフィへの支持が比較的弱い都市であった。

結局、政府は沈静化のため翌16日には釈放要求に応じ、拘留されていたリビア・イスラム戦闘集団(英語) (LIFG) のメンバー110人を釈放した。しかし16日以降もデモは続き、反政府デモが数日前より呼びかけられてきた17日には「怒りの日」として複数の都市においてデモが発生し、16日と17日の反政府デモでは治安部隊の弾圧により24人以上が死亡した。こうした抗議運動に対抗するため、17日には数千人の政府支持派が首都トリポリなどで集会を開いたほか、治安部隊に軍やリビア政府直属の民兵だけでなく外国人の傭兵も投入した。

18日、ベンガジに軍が配備された。この日にベンガジを始め5つの都市で数千人規模のデモが発生し、治安部隊はこれを実弾で制圧し、35人が死亡。合計死亡者数は84人に達した。ベンガジの東にある都市であり、旧王家(サヌーシー教団)の本拠地であったベイダが反政府派によって制圧され、政府支持派の民兵2人が処刑された。

19日、ベンガジで再びデモが発生し、受刑者が刑務所から多数逃亡し警察署に放火。また犠牲者の葬儀に集まった反政府デモ隊に対して治安部隊が発砲し死傷者が出た。デモ参加者は数万人規模となった。

20日、合計死亡者数が250人に達した。

反政府デモが拡大の一途をたどる中、国営テレビでカダフィの次男サイーフ・アル=イスラム・ムアンマル・アル=カッザーフィー(英語)が演説を行い、デモに対する軍や警察の対応には誤りがあったことを認め、また政治改革を行う姿勢を示した。一方で一連のデモによって死者が何百人も出ているというのは誇張だとして否定し、リビアにおける内戦勃発を警告し、また反政府デモに対して厳しい対応を取ると明言した。しかしこの日、ベンガジでは政府の国民への攻撃に反発した軍の一部が政府に反旗を翻して反政府側につき、ベンガジを制圧し、放送局が襲撃され放火された映像が国営テレビにて流された。

21日には反政府デモが首都トリポリにまで飛び火し、政府施設である人民ホール、全人民会議、警察署などが炎上。またこの日にトリポリや近郊都市で発生した反政府デモに対して政府当局は空爆を実施。この日だけで250人が死亡し、同時に戦闘機やヘリコプターによる機銃掃射、手榴弾や重火器、さらには戦車を使用してデモ隊への攻撃を開始し、事実上の自国民への無差別虐殺が始まった。油田でのストライキも発生し、操業が停止した。

高官の離反・カダフィへの反旗

こうした政府当局による大規模な弾圧に対し、政権側からも批判の声が上がり始める。リビアの国連代表部を務めるイブラヒム・ダバシ次席大使は、リビアは大量虐殺という戦争犯罪を行っているとして強く非難。国際刑事裁判所による調査を要請するとともに、カダフィに退陣を要求。2月21日に亡命した。この21日にはアブドゥル・ラフマン・シャルガム国連大使を除く国連代表部のメンバー全員がカダフィからの離反を宣言した。カダフィとは高校時代以来の半世紀にわたり友人であるシャルガム大使だけは忠誠を誓い続けたが、25日に国際連合にて非難演説を行い、各国に対しリビアを救うよう涙ながらの要請を行い、国連安保理でのリビア制裁案を支持するとも表明した。

外交官アウジャリ駐米大使、またアラブ連盟のリビア代表もデモ隊を支持し辞任した。また軍関係では2月21日に開始されたデモ隊への空爆に際して空軍機2機が命令を無視してマルタに亡命した。また23日にも空爆を拒否した戦闘機の乗組員が機外へパラシュートで脱出、同機体は砂漠に墜落した。反政府側が制圧したベンガジでは一部の兵士が政府軍に反旗を翻して戦ったほか、軍将校らが兵士に反政府運動への参加を促し、軍にトリポリへの行進を求めた。

身内からもカダフィを見限る動きが進み、長女や五男の妻など一族が航空機で海外逃亡を試みたものの逃亡先の空港で着陸を拒否されるなどのケースが相次いだほか、カダフィのいとこアフメド・カダフ・アルダムがエジプトに亡命した。

高まる政権崩壊の可能性

2月22日

前日イギリスのウィリアム・ヘイグ外務大臣が、カダフィがリビアを離れ、飛行機でベネズエラに向かっているという情報があると言及(ベネズエラの政府高官は否定)したのを受け、カダフィ自身が国営テレビに自宅前から出演し、トリポリに居る事を表明した。夕方に国営テレビに再び登場した際、演説の中で反政府運動を「六四天安門事件のように叩き潰す」と強硬姿勢を崩さず、また国外亡命の可能性についても改めて否定した。このカダフィの発言に対して、中国政府は不快感を表した。

最初に反政府派に制圧されたとされるベイダから「自由リビアの声」と称する国営ラジオとは違う放送が発信され、その放送がデンマークで受信された。その中で、「自由人民軍(と称する組織)がリビアのほぼ全域を制圧した」と声明が流れ、さらに首都の放送局を制圧するためにトリポリに向かってほしいと併せて放送している。同日までにリビア東部はほぼ反政府側が掌握したとされる。23日にはイタリアのフランコ・フラッティーニ外務大臣がリビア東部は政府の統治下にないと語った。

この日、国際刑事裁判所当局者が、弾圧の死者が600人に上ったと伝えた。トリポリの医師が語ったところでは、体制側の雇ったアフリカ系外国人兵が病院に侵入し、負傷者を殺害しているという。22日には国際連合安全保障理事会にてリビア情勢についての緊急会合が行われ、国民に対する武力行使を非難する報道機関向け声明を採択した。

2月23日

先述のとおり、23日までにリビア東部は反政府派に掌握され、また リビア第3の都市ミスラタやトリポリ西部の都市ズワーラも反政府派に掌握されたという報道、更には首都トリポリとカダフィ出身地のスルト以外は政府の施政権が及ばなくなったとの報道も流れ、カダフィは求心力が低下し窮地に追い込まれたとの見方が強くなった。これを証左する動きとして、カダフィを支持するデモには数十人しか集まらなかった点や前日の演説に失望した秘書官が銃でカダフィの暗殺を図った暗殺未遂事件が発生した点、そして先述の国外逃亡を図ったカダフィの娘が乗っていたとされる飛行機がマルタに着陸を許可を求めたものの拒否され、結局リビアに戻るという事態が発生している。

2月24日

カダフィは国営テレビ演説で徹底抗戦する意思を表明。国営の携帯電話会社からは「神は指導者(カダフィ)と人々に勝利を与える」とのメールを配信して求心力の維持を図っている、私兵部隊が精油精製所を破壊している、トリポリ郊外で治安部隊が反政府勢力に攻撃を加えるという報道があった。対して反政府勢力は首都トリポリを包囲するなど事態は深刻化の一途をたどった。首都トリポリから120kmほど西にあるズワラは既に反体制派の手に落ちたものの、石油積み出し施設のある北西部のザーウィヤでは、反体制デモを行っていた勢力がモスクに立てこもっていたため、政府軍がモスクの明け渡しと降伏を要求。これを反体制派が拒否すると、ミサイルでモスクを撃破し、さらに自動小銃で掃射するという残虐行為に出た。この件により23人が死亡し55人が負傷している。なお、ザーウィヤを巡る攻防戦では死者が100人以上出ているとアルジャジーラが報じている。

しかしカダフィに対する包囲網は確実に狭まっていた。スイス政府がカダフィと側近の持つ8億8000万スイスフラン(資産価値は2009年末現在)相当の資産を凍結すると発表した。またリビアの、正確にはカダフィの資金源である石油施設のあるラスラヌフ(トリポリより東方600km)とマルサ・エル・ブレガ(ベンガジより南)が反政府派の手によって制圧されたという報道も流れた。施設は反体制派の警備下にあり、積み出しも継続しているという。さらに、首都トリポリでも市民が属する部族の大半が反カダフィを鮮明にしており、25日に大規模デモを行うよう呼びかけられているという報道もあった。これらの事態を受けて、政権側も24日から25日にかけて、公務員の給与引き上げや各家庭への現金支給(500リビア・ディナール、一般国民の月給とほぼ同額)といった懐柔策を出した。その一方で、反政府デモの情報提供に対しても現金を支給するという対抗策も打ち出した。

2月25日

金曜礼拝に合わせてデモが呼びかけられていたため、モスクはカダフィ支持派の軍や民衆で固められながらの礼拝となる。デモでは治安部隊が参加者に無差別発砲し、首都トリポリだけで10人の死者を出した。この日、日本とアメリカの在リビア大使館は一時閉鎖を決定。 西ヶ廣渉大使ら日本大使館のスタッフ3人は在チュニジア日本大使館に移動して引き続き邦人退避活動にあたる。 翌26日にはフランス、イギリス、カナダも大使館を一時閉鎖している。

夜にはトリポリにある緑の広場でカダフィが演説し、「われわれは武装するために武器庫を開ける。(反体制派との)戦いに勝ち、彼らを殺す」「われわれはまだ使っていない武器を持っている。彼らを打ち負かし、踊ろう。歌おう」などと演説し反体制派との徹底抗戦を訴えた。この際、「まだ使っていない武器がある」との発言から、アブドルジャリル前司法書記は毒ガス(マスタードガス)といった化学兵器を使用する可能性を示唆した。カダフィは2003年に化学兵器の廃棄を宣言。2004年には化学兵器禁止機関(OPCW)が査察し、23tのマスタードガスと1300tの毒ガス製造用化学兵器、化学兵器製造施設の存在を確認している。化学物質を装填できる爆弾3500発余りはすぐに廃棄されたものの、毒ガス処分は処理が技術的な問題もあり難航し、20tがまだ残ったままとされている。またアイルランド在住の亡命リビア人記者のアダム・アルキクは、現在も「化学兵器の平和目的」と称しトリポリで研究が続けられていると述べている。

演説の中でカダフィは自国民に団結して外国勢力(アメリカ、イギリスなど)に対抗する事が必要だと強調し続け、その文脈の中で「We have power」といっている。ここでのpower意味は、兵器と言うよりはむしろ国民が団結し、対抗する力のことだと思われる。

外務省は大使館を閉鎖し、最高レベルの旅行勧告である退避勧告を出した。

暫定政権樹立・政権側の反攻

2月26日 - 28日

首都トリポリ以外がほぼ反政府側の手に落ち追い詰められたカダフィは支持派市民に対して武器を渡し、反政府運動の封じ込めに乗り出した。反体制側もミスラータで義勇兵を集め始め、数百人が行列を作っていた。このため、首都での衝突は不可避になった。

27日、カダフィ政権に反旗を翻し辞任したアブドルジャリル前司法書記がベンガジにて暫定政権「リビア国民評議会」設立を宣言、カダフィ政権打倒に向けて国民結束を呼びかけた。この日、首都トリポリの一部は反政府勢力によって制圧された。

国際連合安全保障理事会はリビアに対する制裁決議を全会一致で採択した(国際連合安全保障理事会決議1970)。これと並行して、国際刑事裁判所に付託することも決定した。アメリカ政府もまた、リビアのカダフィ大佐による自国民への武力行使に対して非難、そしてカダフィ大佐などリビア政府の幹部がアメリカ国内に所有する資産を凍結する単独の制裁措置を発動した。アメリカ政府は、さらに多国間の枠組みによる制裁措置の実施に向けて、ヨーロッパ各国や国連などと調整を続けており、リビアのカダフィ政権に対する圧力を強めるとした。28日午前までにリビア在住中国人29,000人が避難した。チュニジアには1.1万人、クレタ島に1万人、マルタには1,600人、中国帰国は2,500人である。

3月1日 - 3日

アブドルジャリル率いる国民評議会の下に当初乱立していた反政府勢力の自治政権が結集し始め、2日にはベンガジで会合を開き、アブドルジャリルが正式に同評議会の議長に就任、革命達成に向けて結束を強めた。一方の政府勢力も傭兵の出動や空軍の空爆などにより領土の奪還に乗り出し、戦局は一進一退の攻防となった。戦局は国家二分、長期戦の様相を呈しはじめ、この頃から、一連の騒乱を「内戦」と表記するメディアが現れた。反政府軍は各国に軍事介入や飛行禁止区域の設定を要請した。

3月4日- 10日

4日、トリポリで金曜礼拝に合わせてデモが行われ、当局の鎮圧により100人以上が拘束された。政府軍のザウィヤ奪還に伴う戦闘で反政府軍の司令官が戦死したほか、ベンガジをはじめ全土で戦闘・空襲が相次いだ。

5日、カザフィの出身地シルトでも部族間の対立から戦闘が発生した。国民評議会は「軍事委員会」の設立を決定し、それまで個別に展開していた反政府軍を正規の「政府軍」として統率することとなった。また、内閣に相当する「危機管理委員会」を設置、「リビア国内唯一の正統な政府」を主張し、EUなど外国政府との交渉を開始した。

7日、国民評議会はカザフィから自分の身の安全の保証を条件に政権を譲渡する提案がなされ、評議会側が拒否したことを明かした。また翌8日、アブドルジャリル自身が、一連の戦闘に関する追訴を行わないことを条件に72時間以内の退陣を求めたことを明かした。カザフィは提案の存在そのものを否定した。

9日、カザフィ政権は、アブドルジャリルをはじめとする評議会幹部に懸賞金を出した。

10日、フランス政府は国民評議会をリビアにおける正式な政府として承認した。

政権側の猛攻

国際社会から評議会は正当な政権として承認されたものの、後述する国際社会からの飛行禁止区域の制定を得られなかったことで、装備で劣る評議会軍は戦闘でも劣勢に立ち、3月10日ごろから後退を余儀なくされた。政府軍は11日には西部のザウィヤ、14日には同じくズワラ、15日ごろまでには西部のほぼ全域・石油基地をすべて奪還。16日にはベンガジ政府の最後の防御地アジュダビヤ総攻撃を開始した。同日にはセイフイスラムが「48時間以内に全てが終わる」と述べ、ベンガジ住民に反体制派支配地域からの脱出を求める最後通告を行った。評議会は「最後まで戦い抜く」と表明したが、ベンガジを脱出してエジプト国境へ向かう住民が相次いだ。こうして反体制派は劣勢に立たされた。それを裏付けるかのように、16日にはベンガジから国際援助隊がカダフィ政権による攻撃を恐れ、退避を開始した。

米英仏などによる軍事介入・戦局の長期化

評議会は各国に軍事介入を求めたが、積極的な姿勢は少なかった。飛行禁止空域設定の国連決議はアメリカ・ロシア・中国などの反対で採択される目途が付かず、単独で設定する構えを示していたNATOはアメリカの反対で決議をまとめることができなかった。EUにおいても、国家承認をしたフランスやイギリスなど一部の国の支持に留まり、カダフィ政権による評議会側制圧都市や評議会軍部隊への空爆が続いた。

しかし3月12日にはアラブ連盟が、リビアにおけるカダフィ政権の正当性を否定し、また飛行禁止区域の設定を支持する決定を行った。このことと評議会軍が劣勢になったこと、そしてカダフィが17日にベンガジへの総攻撃と無差別殺戮をも辞さないと演説したことが飛行禁止空域設定への一つの追い風となり、同日国連安保理は飛行禁止区域設定の設定と、リビアへの事実上の空爆を容認する決議を賛成10、棄権5(中国・ロシア・インド・ドイツ・ブラジル)で採択した。これによりフランスなどによるリビア空爆への準備が開始され、カダフィも国際的な軍事介入に反発する姿勢を見せたものの、いったんは18日に即時停戦を受け入れた。

しかし直後にベンガジやミスラタに対する攻撃を継続。3月19日、フランスが軍事介入を行う旨を宣言し、直後に米英仏を中心とした多国籍軍がカダフィ政府軍への空爆を開始。アメリカの「オデッセイの夜明け作戦」によりトマホークが100発以上発射された。カダフィは直後に国営放送で演説し、国民に対し徹底抗戦を呼びかけた。リビアはかつてパンアメリカン航空103便爆破事件、リビア爆撃など米英及びイスラエルと対立し、近年は関係改善していたが、今回の攻撃も米英及びユダヤ系でモサドとの関係が報道されたサルコジ大統領が主導している。

しかし、NATO加盟諸国は欧州金融危機への対応を抱えるなど、財政的にリビア攻撃を継続することは容易ではなく、6月上旬にはNATO国防相会合にてアメリカが攻撃に参加しないドイツやポーランドなど5カ国を非難するなど軋轢も起こる。一時期はNATO加盟国のうち17カ国が攻撃に参加したが、8月1日にノルウェーがリビア攻撃から離脱し、参加国は7カ国まで減った。また反カダフィ勢力や民間人に対して誤って攻撃してしまい犠牲者が出るなど、攻撃そのものに対して反政府勢力からも批判も高まった。リビアにおける戦闘は膠着状態が続き、ロシアの元首相エフゲニー・プリマコフはNATOが袋小路状態に陥ったと指摘し、国際連合による介入も実を結ばなかった。

こうした軍事的対応のほか、3月29日にはイギリスのロンドンにてリビア情勢を議題とする国際会議が開催され、以降この枠組はリビア連絡調整グループとして、リビアに対し国際的に協調して対処すること、またリビアと国際社会を結ぶ窓口を確保することなどを目的した包括的組織となる。7月1日にはアフリカ連合がマラボで首脳会談を開き、双方による即時停戦や対話による民主化方針の策定を求めた調停案を提示した。評議会内部では長引く戦局の中で、交渉に応じようという意見が上がり、アブドルジャリルもその考えに賛同していた。

28日、交渉賛成派の1人であったアブドルファッターフ・ユーニス・オベイディ参謀長がベンガジへの帰途中暗殺される事件が発生した。事件については内部の路線闘争とカダフィ側の襲撃との見方があるが、前者の可能性が高い。アメリカ国務省は事件の及ぼす影響を危惧し、8月4日に評議会代表と内乱終結後の手続きについて会合を開いた際に事件の解明を求めた。8月8日、マフムード・ジブリール執行委員会議長(暫定首相に相当)は事件の責任を取って内閣を総辞職させた。この一連の出来事を通して、評議会は一致して武力打倒へと突き進んでゆく。また7月にかけて、大国の国家承認が相次いだ。

反体制派による首都攻勢

8月4日から5日にかけてのNATOのズリタン空爆でカダフィ七男ハミース・ムアンマル・アル=カッザーフィー(英語)がNATOの空爆により死亡したとされたが、カダフィ側はこれを否定。9日には国営テレビにてハミースの映像を公開し無事をアピールした。

評議会軍は、6日にビルガナム、14日には首都西方の補給路ザウィヤ、15日には南方のガリヤンを制圧し、首都包囲が完了したと発表した。17日にはトリポリに石油を送るパイプが遮断された。

カザフィはこれに対して14日からスカッドミサイルをなどのロケット弾で反撃し15日からはカザフィが度々メッセージを発信し抗戦を呼びかけた。しかし劣勢に立たされた陣営からは離脱者が相次いだ。15日にはアブドラ内相がチュニジア経由でエジプトへ、19日にはジャルド元首相がチュニジア経由でイタリアへ亡命し、20日にはイタリアへ出向いていたオムラン・ブクラ石油相が帰国を拒否した。評議会は19日にズリデン、20日にブレイガを奪還した。また19日夜、海路トリポリに武器が持ち込まれ、市内に潜む反体制派に手渡された。

人魚の夜明け作戦による首都陥落・カダフィ政権崩壊

8月20日夜、トリポリ市内東部のタジューラ地区で銃撃戦が発生、市内の情報当局ビルや空港地区をすばやく占領した。包囲軍の一部も合流し、市内各所で明け方まで衝突が続いた。この首都攻略作戦は「地中海の人魚」と言われるトリポリにちなんで「人魚の夜明け作戦」と呼ばれた。

カダフィは21日未明に音声メッセージを発し、「ネズミ(反体制派)は人民に攻撃され排除された」と主張した。市内の反体制派の攻撃はやまず、郊外にある政権の武器庫となっていた基地を奪取、カダフィの居住区バーブ・アズィーズィーヤにNATO軍の空襲が行われた。カダフィ側の政府報道官は同日、反体制派と交渉する用意があることを示し、攻撃停止をNATOに要請した。同日中に市内で1300人が死亡したと発表したが、評議会は「悪質なプロパガンダだ」と反論した。NATO発表では死者は31人であった。またカダフィは再びメッセージを流し、抗戦を呼びかけた。

その日のうちに長男ムハンマド、次男サイフルイスラーム、三男サアディーが相次いで降伏、拘束されたと報道された。市民の心はカダフィから離れており、深夜にカダフィが3度目のメッセージを流した頃にはすでに大勢は決していた。報道陣も市内へ入り、「トリポリ解放」に喜ぶ市民の姿を映した。また、アル=マフムーディー首相がチュニジアへ亡命した。

22日早朝までにはバーブ・アズィーズィーヤ地区を除く市内全域が制圧された。首都中心部にある緑の広場は未明に解放された直後から市民が事実上の政権崩壊を祝い、評議会の軍人も続々と駆けつけた。カダフィ政権の象徴であった緑の広場はすでに「殉教者の広場」と呼ばれていた。午後には国営テレビが制圧され、カダフィは情報発信の重要な拠点を失った。トリポリ国際空港も制圧され、アブドルジャリルは「カダフィ政権崩壊」を宣言した。

22日夜、ムハンマドの自宅に政府派の兵士が突入し、軟禁されていたムハンマドが解放された。また23日未明、バーブ・アズィーズィーヤ地区にあるサイフルイスラームの自宅に招かれたメディアの前にサイフルイスラム本人が姿を現し、「拘束されたと言う情報はデマだ」と述べた。その足で各国メディアが滞在しているリクソス・ホテルに出向き、支持者らとともに気勢を上げた。サイフルイスラムが拘束されていなかったのかは不明である。

23日午前、NATOの空爆を合図に地上軍がバーブ・アズィーズィーヤ地区に突入し、5時間に及ぶ戦闘の末に陥落させた。カダフィ政権は完全に崩壊したが、カダフィ本人及び息子たちは発見されなかった。住居地下に大規模な地下通路が発見され、大量の備蓄が見つかった。評議会は、トリポリにおける被害を死者400、負傷者2400と発表した。24日午後、リクソス・ホテルに監禁されていた海外取材陣約30名が5日ぶりに解放された。国境なき記者団は非難の声明を発表した。

その後も南部を中心に局地的な戦闘が続いた。27日未明、反カダフィ軍はサラハディン地区に残ったカダフィ派のトリポリ最後の要塞に突入し、7時間に及ぶ戦闘の末陥落させた。また同日、トリポリ国際空港付近一帯も制圧し、首都奪還を完了した。

連合軍によるカダフィ捜索

カダフィは8月24日、地元メディアのアル・ライ・テレビでメッセージを流し、居住区撤退を「戦術的行動」と主張した。支持者にトリポリ奪還を呼びかけ、徹底抗戦の意思を示した。カダフィは以降も、不定期にメッセージを放送し続けた。カダフィ派は兵力を中部スルト及びその近郊へ集中させ始め、スルトに向かった反カダフィ軍は足止めを食らった。アブドルジャリルはカダフィ拘束に賞金200万リビア・ディナールをかけた。

25日、カダフィがアブザリム地区に潜んでいるとの情報が流れ、軍が地区の住居をしらみつぶしに捜索したが、発見には至らなかった。

27日、首都奪還を達成した反カダフィ軍は首都駐在の軍の大半をスルト戦線へ投入した。28日にはスルトを包囲し、現地の部族長と投降にむけた交渉を開始した。30日、「9月3日までに投降しなかった場合は武力行使する」と最終通告を突きつけた。同日カダフィ七男ハミスが負傷し、夜になって死亡した。遺体は同日中に埋葬されたという。

29日、アルジェリア政府は、カダフィの妻サフィア・長男ムハンマド・五男ハンニバル・長女アイシャらの入国を、妊娠しているアイシャに対する人道行為の観点から許可したと発表した。アイシャは30日、女児を出産した。評議会は「侵略的行為」だと非難し、身柄の引渡しを求めた。

31日、オベディ外相及びカダフィ側近のアブドラ・アル・ヒジャジが相次いで拘束された。三男サーディが「身の安全と引き換えに投降したい」と呼びかけ、評議会の関係者と話し合いをもった。

9月1日、評議会は、2日前にイタリアANSA通信が「信頼できる人物」から入手した「カダフィはバニワリドに潜伏している」と言う情報の信憑性が高いと判断し、スルトの投降期限を3日から10日に延長した。

5日、カダフィ派の大規模な車列が隣国ニジェールに入り、6日には首都ニアメーへ到着した。一行には治安責任者のマンスール・ダウラら政府高官多数が含まれていた。アメリカ政府はニジェール政府に対し、身柄拘束と武器や現金などの押収を求めた。11日にはサーディが入国し、同国への亡命を申請。身柄を確保された後、ニアメーに護送された。ニジェール政府は「リビアで公平な裁判が行われる保証がない」として、送還を拒否した。

6日、評議会は、カダフィが3日にニジェール国境付近のガート村で目撃されたとの情報が入っていることを明らかにした。翌日には、カダフィの潜伏先の周囲60キロを包囲したと発表したが、場所は明かさなかった。

拠点制圧、大佐の拘束と殺害

評議会は9月21日にはカダフィ派の諸点の一つ南部サブハを制圧した。さらに10月17日にバニワリドを制圧し、カダフィの居住区だった建物をブルドーザーで取り壊した。10月20日にはカダフィの出身地スルトを制圧し、国民評議会はリビア全土を掌握。

そしてカダフィ自身が逃走しようとしてスルト市内の排水管に身を潜めた処を反カダフィ派の者たちに発見され、排水管から引き摺り出されて拘束され、その際に受けた攻撃でカダフィは死亡したと国民評議会が発表。カダフィが拘束され、死亡したとされる模様を映した映像がアルジャジーラにより世界各国へ配信され、そしてカダフィの遺体はリビア西部のミスラタに運送された。10月23日、国民評議会はリビア全土の解放を宣言し、内戦は終結した。

傭兵

カダフィは政権の座についた直後の1970年代より、近隣諸国出身の兵士を雇兵として集め、一部は国軍に編入してきた。今回の騒乱でも、国民を銃撃することを厭わない他のアフリカ諸国出身の傭兵が、反政府軍に転向する正規軍に代わって政府の戦力になっていた。主にフランス語を話す者で、2008年以降にリビアに来ていた出稼ぎ労働者の可能性が高い。急きょ集められた者だけでなく、以前から訓練されていた者も含まれるとされる。このほか、近隣諸国において1日2,000USドル(約16万円)で私兵を募集しているともいわれる。ただ、リビア国内にいる出稼ぎ労働者には200USドル(約16,500円)が一方的に支払われている。またカダフィ派の兵士が出稼ぎ労働者の家に押し入り、暴行を加えて拘束した後、金品を強奪したうえで兵士になるよう強要されたという。なお、断るとその場で銃殺されるという。

カダフィ自身がアフリカ合衆国提唱者で、コートジボワールやコンゴ民主共和国の部族長を招待し、そこ部族出身の貧しい労働者を迎え入れるなどアフリカ国内の友好関係を重視していた点も理由として挙げられる。

外国人傭兵を擁する背景として、リビア独特の部族社会を指摘する声もある。例えば、同じ部族の人同士での銃撃を避けるために、彼らに『汚れ役』を担わせるというものである。また傭兵は正規軍と比べて、「外国人」であるリビア国民を銃撃することへの抵抗が少なく、デモ参加者への無差別発砲も彼らが行ったといわれる。

北朝鮮からの傭兵がいるという噂も流れていたが、可能性は非常に少ないと大韓民国外交通商部の関係者が否定している。北朝鮮傭兵がいるという噂は、イギリス・ガーディアンが韓国傭兵がいるという誤報を掲載したことから端を発しており、過去リビアに朝鮮人民軍の派遣があったことも噂が広まった理由とされている。

イギリスのサンデータイムズは、リビアに送られたジンバブエの軍人とOBが上記の傭兵軍と合流したと伝えた。
シリア人、セルビア人、アルジェリア人、ルーマニア人のパイロットが空爆作戦に加えられている。

当局によるメディア統制

一連の反政府デモを報道する機関にも政府当局の手は伸び、反政府デモが開始されてからは外国メディアによる取材は制限され、ベンガジへの移動が禁じられた。18日にはアルジャジーラが放送を妨害され、またウェブサイトへのアクセスも遮断されていると発表した。また一連の反政府運動に威力を発揮しているインターネットそのものも使えない状況となった。

デモ弾圧の正当化

カダフィは「中国の天安門では、武装していない学生も力で鎮圧された。天安門事件のようにデモ隊をたたきつぶす」「われわれは武装するために武器庫を開ける。(反体制派との)戦いに勝ち、彼らを殺す」と述べ、反体制派に対する虐殺などの弾圧を正当化した。それに対し、中国外務省は「中国政府と国民は既に明確な結論を出している」と述べ、不快感を表明した。

※この記事は現在進行中の事象を扱っています。記事の内容は最新の情報を反映していない可能性があります。

さらに詳しく → 2011年リビア騒乱


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