証言から知る 「ニュルンベルク裁判 (Nuremberg Trials)」

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2011/07/25(月)
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ニュルンベルク裁判(ニュルンベルクさいばん)は、第二次世界大戦においてドイツによって行われた戦争犯罪を裁く国際軍事裁判である(1945年11月20日 - 1946年10 月1日)。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党大会開催地であるニュルンベルクで開かれた。日本の東京裁判と並ぶ二大国際軍事裁判の一つ。

最初の主な裁判(英語:Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal, IMT)と、それに続く12の裁判(英語:Nuremberg Military Tribunals, NMT. 1949年4月14日まで行われ、一般には「ニュルンベルク継続裁判」として、最初の主な裁判とは区別される)で構成された。

この裁判において裁かれるべき罪として次のものが挙げられた。

1. 侵略戦争などの共謀への参加
2. 侵略戦争などの計画、実行
3. 戦争犯罪
4. 非人道的犯罪

この裁判においては、ドイツの最高指導者であった総統アドルフ・ヒトラー、最高幹部であった宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスや親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがすでに自殺しており、起訴することが不可能となった。また、ナチ党最大の実力者であった党官房長マルティン・ボルマンも行方不明のまま(後年になって自殺していたことが判明)であり、起訴はしたものの欠席裁判(死刑判決)だった。その点で、戦争の全容解明に困難があったとともに、「自分は指導者ヒトラーや上官の命令に従って行動したまでで、責任はない」という被告の弁解が横行することになった。宣伝省の幹部であったハンス・フリッチェの起訴はゲッベルスの「身代わり」としての意味合いが強く、フリッチェは裁判で無罪判決を受けている。有罪となった者はバイエルン州のランツベルク刑務所ほか各地へ移送され、懲役や死刑に処された。

裁判への批判

この軍事法廷は「勝者の連合国によって敗者のドイツを裁く」という異例な形式の裁判で、「法廷は法を発見する場所」という、英米法的な「裁判」の考え方を基礎に進行された。そのため、日本やドイツの欧州大陸法的な常識(法の不遡及)からは「法廷による法の創造」が行われた違法な裁判との批判が当時から現在まで根強くある。リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領は開戦時の外務次官であった父エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーがニュルンベルク継続裁判で有罪になった件について「侵略戦争を指導した」とする罪状を「まったく馬鹿げた非難だった。真実をちょうど裏返しにした奇妙な話である」(ヴァイツゼッカー回想録より引用)と全面的に否定し、裁判の不当性を批判している。

他の批判として以下のようなものがある。

ニュルンベルク裁判における全ての裁判官がアメリカ、イギリス、ソ連、フランスという戦勝国だけから出ていたため、これが戦勝国による軍事裁判であることを考慮したとしても、裁判の中立性を著しく欠いていた。これに対して、東京裁判では比較的中立的な立場に立てたインドからも判事が召請されており、ラダ・ビノード・パール判事が個別意見として全被告人の無罪判決を言い渡している。

ニュルンベルク裁判アメリカ検事団長のロバート・ジャクソン連邦最高裁判事の上司で、当時アメリカ連邦最高裁長官だったハーラン・フィスケ・ストーン判事 (Harlan Fiske Stone) は、雑誌『フォーチュン』の記者とのインタビューで次のように答えている。

ニュルンベルク裁判は、戦勝国が敗戦国に正当性を押し付けた裁判でした。つまり、敗戦国が侵略戦争を行ったというわけです。しかし私は今でも残念に思いますが、ニュルンベルク裁判は法的には全く根拠を欠いた裁判でした。それは裁判ではなく、戦勝国の政治行動だったというのが、最も正しい言い方でしょう。
ニュルンベルク裁判はコモン・ロー〔不文法〕、あるいは憲法の装いの下で罪人を裁いたのであり、これが私を考え込ませています。私たちはある命題を支持してしまったようです。つまり、いかなる戦争においても、敗戦国の指導者は戦勝国によって処刑されねばならない、という命題です。


また、尋問官その他のスタッフには欧州からの亡命者が多く、そのために裁判は「復讐裁判」的な色彩を一層強くしたという指摘がある。ニュルンベルク裁判の判事を務めたが、裁判の手続きを批判して辞任したアメリカのウェナストラム・アイオワ州最高裁判事(Charles F. Wennerstrum, 和訳ではヴェンナーストラムとも表記されている)は、こう述べている。

今日知っているようなことを数ヶ月前に知っていたとすれば、ここ(ニュルンベルク)にやってきたりはしなかったであろう。明らかに、戦争の勝者は、戦争犯罪の最良の判事ではなかった。法廷は、そのメンバーを任命した国よりもあらゆる種類の人類を代表するように努めるべきであった。ここでは、戦争犯罪はアメリカ人、ロシア人、イギリス人、フランス人によって起訴され、裁かれた。彼らは、多くの時間と努力、誇張した表現を使って、連合国を免責し、第二次大戦の唯一の責任をドイツに負わせようとした。裁判の民族的な偏りについて私が述べたことは、検事側にも当てはまる。これらの裁判を設立する動機として宣言された高い理想は、実現されなかった。検事側は、復讐心、有罪判決を求める個人的な野心に影響されて、客観性を維持することを怠った。将来の戦争に歯止めをかけるためになるような先例を作り出す努力も怠った。ドイツは有罪ではなかった。

ここでの全体的な雰囲気は不健康であった。法律家、書記、通訳、調査官はつい最近にアメリカ人となった人々(亡命したユダヤ系住民のこと)が雇われていた。これらの人々の個人的な過去は、ヨーロッパへの偏見と憎悪に満ちていた。裁判は、ドイツ人に自分たちの指導者の有罪を納得させるはずであったが、実際には、自分たちの指導者は凶暴な征服者との戦争に負けただけだと確信させたにすぎなかった。証拠の大半は、何トンもの捕獲資料から選別された資料であった。選別を行なったのは検事側であった。弁護側がアクセスできたのは、検事側がふさわしいとみなした資料だけであった。…また、アメリカ的正義感からすれば嫌悪すべきなのは、検事側が、2年半以上も拘禁され、弁護士の立会いもなく繰り返し尋問を受けた被告による自白に頼っていることである。控訴権もないことも正義が否定されているとの感を受ける。…ドイツ国民は裁判についての情報をもっと多く受けとるべきであり、ドイツ人被告には国連に控訴する権利を与えるべきである。

– "Nazi Trial Judge Rips 'Injustice,'" Chicago Tribune, Feb. 23, 1948


免責された戦勝国の犯罪

ニュルンベルク裁判の大きな問題点はドイツ側の(戦勝国の憶測によるものも含む)「犯罪」を一方的に断罪したが、戦勝国側の「犯罪」は完全に免責するという基準を持っていたことである。そもそも大戦の原因となったポーランドによるダンツィヒ領の占有問題、1939年9月3日のフランス、イギリスによるドイツへの一方的な宣戦布告は断罪されなかった。また、1939年9月ドイツが西からポーランドへ侵攻した一方で、同じ時期にソ連も東からポーランドに侵攻しており、さらに1939年11月のフィンランドとソ連の冬戦争では、ソ連は侵略の罪状で国際連盟から追放されているにもかかわらず、ニュルンベルク裁判では、ドイツに対しては「平和に対する罪」で告発したが、ソ連の「平和に対する罪」は不問に付された。連合軍によるドイツへの無差別爆撃(ドレスデン爆撃などをはじめとして、日本本土への爆弾投下量の10倍にも当たる150万トンもの爆弾がドイツ本土に投下され、少なくとも30万人の非戦闘員が犠牲になった)や、ソ連軍の侵攻によってドイツのソ連占領地区で起きた、ソ連兵による強姦・暴行・殺人事件も裁判では不問とされた。

終戦前後のアメリカ軍によるドイツ人捕虜への虐待による大量死問題も闇に葬られた。ジェームズ・バクー (James Bacque) の『消えた百万人』では以下のような指摘がある。

戦争終結直前の1945年4月以降、野ざらし、不衛生な環境、病気、飢餓がもとで、膨大な数のあらゆる年齢層の男たちに加えて、女子供までが、ドイツのフランスの収容所で死んだ。その数は、確実に80万を超えたし、90万以上であったこともほぼ確実であり、100万を越えた可能性すら十分にある。捕虜の生命を維持する手段を持ちながら、あえて座視した軍によってこの惨事は引き起こされた。救恤団体の救援の手は米軍によって阻まれた。他に連合軍、ソ連の戦争犯罪には、戦時国際法に違反したレジスタンス(パルチザン)活動の積極的な支援がある。

ロンドン協定への批判

1945年8月8日、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の戦勝連合国はロンドン協定 (London Charter of the International Military Tribunal) を定めて、裁判の法的枠組みを設定した。しかし、近代刑法における原則である法の不遡及が守られず、被告の控訴は否認され、恣意的な裁判審理手続きを定めた裁判は、近代裁判とはかけ離れていた。

また、当裁判の法的根拠であるロンドン協定には、アメリカ検事ジャクソン、フランス予備裁判官ファルコ、ソ連検事ニキチェンコが署名している。このことは、ニュルンベルク裁判が、立法者、検察官、裁判官を兼ねることを禁じた「司法権力の分割」という根本的な原則からして大きく逸脱していたことを意味している。

人道に対する罪や平和に対する罪は、法廷が設置される以前には存在しておらず、間に合わせに作り出され、法的な基準に反して、遡及的に適用された。

* 第13条は法廷は独自の裁判審理手続きを定めると決定している。
* 第18条は国際軍事法廷の本質を明確に表している。

「第18条 起訴事実に関係のない案件および陳述は、その種類のいかんを問わず、一切除外する」。弁護側に許されているのは、起訴状にある罪状についてのみ弁護活動ができるだけで、そもそもの戦争の原因となったドイツ経済を崩壊し、ドイツ領土を周辺国に割譲させ、ヒトラーを台頭させたヴェルサイユ条約に対する批判など、ドイツに有利であり、連合国に不利な弁護活動は禁止された。

* 第19条により証拠の採用基準がまったく存在しない。

「第19条 法廷は、迅速かつ非法技術的手続を最大限に採用し、かつ、適用し、法廷において証明力があると認めるいかなる証拠をも許容するものである。」

* 第21条により連合国当局やソ連、共産国家の人民委員会が文書、報告書、記録で確定した全てのことは、顕著な事実と認められる。

「第21条 法廷は、「公知の事実」については、証明を求めることなく、これを法廷に事実と認める。法廷は、戦争犯罪捜査のため同盟諸国において設立された委員会の決議および文書を含む、連合諸国の公文書および報告書並びにいずれかの連合国の軍事法廷またはその他の法廷の記録や判決書をも、同様に法廷に顕著な事実と認める。」

* 第26条は控訴を全く認めていない。

アメリカ合衆国最高裁・裁判長ハーラン・フィスケ・ストーン判事は、ニュルンベルク裁判は連合国による集団リンチであると述べている。

検事ジャクソンは、ニュルンベルクで高度な集団リンチ (high-grade lynching party in Nuremderg) を行なっている。彼がナチスに何をしているのかについては気にかけていないが、彼が法廷と審理をコモン・ローにしたがって運営しているという振りをしているのを見ることは耐え難い。

– Alpheus T. Mason, Harlan Fiske Stone: Pillar of the Law, Viking, New York 1956, p.716.


冤罪や誇張

ニュルンベルク裁判では、ドイツ側の戦争犯罪が告発されたが、その中には現在冤罪であったことがはっきり分かっているものもある。例えばカティンの森事件は、今日ではロシア政府も当時のソ連が虐殺を実行したと認めている事件であるが、ニュルンベルク裁判当時は、ソ連検事は虐殺の責任をドイツに押し付けた。この事件はソ連が崩壊するまでドイツによる仕業と信じられていた。大戦中、ポーランドのイェドヴァブネ村で起こった虐殺事件(イェドヴァブネ事件)も、ドイツ軍によるものと長年にわたって信じられていたが、現地調査により実際にはポーランド人の手によって行なわれたことが判明している。

ダッハウ強制収容所などドイツ国内にあったとされていた大量殺害を行なうためのガス室を備えた絶滅収容所の存在も現在では否定されている。ニュルンベルク裁判で、大量ガス殺の現場証拠として法廷に提出されたのは、アウシュヴィッツ収容所の物的証拠ではなくダッハウ収容所のシャワールームの水栓であった。裁判では、ダッハウ収容所はシャワー室を改造したガス室の存在した絶滅収容所だと断定され、絶滅収容所はドイツ各地に存在したとされた。反対尋問は許されず600万人のユダヤ人虐殺が認定された。しかし現在では、イスラエルの学者でも、ダッハウ収容所で大量ガス処刑が行なわれたという者はいないし、ドイツ国内に絶滅収容所があったという者もいない。ナチの戦犯追及に尽力したユダヤ人活動家、サイモン・ヴィーゼンタールも、ドイツ国内には絶滅収容所はなかったと述べている。

現在、絶滅収容所であったとされているのは、ソ連軍が占領して調査した東ヨーロッパの収容所である。これらの収容所は戦後しばらく、ソ連が立ち入りを禁止したために、西側の調査団は調査を許されなかった。そのため、ソ連が解放した収容所の実態についての議論が尽きない状態になっている。歴史修正主義、マルコポーロ事件も参照。

ニュルンベルク裁判では、ソ連検事が「人間の死体から石鹸を作ることが行なわれた」と告発し、裁判の判決も「犠牲者の死体の脂肪から石鹸を商業生産する試みがなされた」と断定した。だが、この「人間石鹸」は、戦時中の連合国の反ドイツ宣伝から出たものであり、その宣伝によれば、ドイツはユダヤ人の死体から石鹸を作っており、その証拠にユダヤ人ゲットーに配給されている石鹸には「RJF」(Reines Jüden Fett, ユダヤ人の純粋脂肪)というイニシャルが刻まれているというのである。しかし、この「RJF」は、戦時中に石鹸と洗濯用品の生産・配給に責任を負った機関「帝国産業油脂洗剤局」(Reichesstelle für Industrielle Fett und Waschmittel) の略語「RIF」の誤読であった。今日では、正統派の「ホロコースト史家」も「人間石鹸」の実在を否定しており、ユダヤ系のホロコースト研究家ラウル・ヒルバーグ教授も、カナダでのツンデル裁判で「手短に答えれば、私は人間の脂肪から石鹸がつくられた、ということを信じていない」と述べている。

1945 年1月27日、ソ連軍がアウシュヴィッツ収容所に到達し、約7,500名の収容者がソ連兵士によって解放された。ニュルンベルク裁判でソ連検事は、アウシュヴィッツで「400万人」が虐殺されたと告発した。アウシュヴィッツ収容所の所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスも裁判で「250万人がガス室で殺され、そのほか50万人が飢えと病気で死亡した」と証言している。

しかし、現在ではこの人数は公式に否定されている。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所跡にある慰霊碑に刻まれた死亡者数は、ソ連崩壊後の 1995年に「400万人」から「150万人」に改められた。世界遺産に登録したユネスコの2007年6月28日のリリースには「120万人」と記載されている。これらの数字についても疑問視している研究家もいる。

* ラウル・ヒルバーグ「約100万人のユダヤ人が殺された。25万以上の非ユダヤ人が死亡した」(1985年)。ユネスコの数字とほぼ同じ。
* ジェラルド・ライトリンガー (Gerald Reitlinger)「80万 - 90万人」(1953年)
* ジャン=クロード・プレサック (Jean-Claude Pressac)「63万人から71万人」「そのうち 47万人から55万人がガス処刑されたユダヤ人であった」(1994年)
* フリツォフ・マイヤー (Fritjof Meyer)「50万人」「そのうちガス処刑による犠牲者は35万人であった」(2003年)

アーサー・R・バッツ (Arthur R. Butz) 教授らホロコースト修正主義者たちはもっと少ない数字を挙げている。アウシュヴィッツの死者の総数は「15万に達するが、そのうち約10万がユダヤ人であった」、大半のユダヤ人は殺されたのではなく、とくにチフスの疫病によって死んだのであり、殺虫剤ツィクロンBはガス処刑にではなくチフスを媒介するシラミを駆除するために使用されたと主張している。ドイツにおいてこのような論調は、1995年に制定されたドイツ刑法130条をもとに厳しく規制されており、おもに修正主義者の著作が繰り返し焚書処分にされている。さらに、実際に毎年10,000名から15,000名のドイツ人が思想犯として訴追されているにもかかわらず、このような議論はますます激化している。

裁判で証拠とされた資料文書について、イギリス人の歴史学者A・J・P・テイラーはこのように述べている。

これらの資料文書は厖大で立派にみえるけれども,歴史家が使用するには危険な資料である。これらの文書はあわただしく殆んど手当たり次第に,法律家の訴訟事件摘要書を根拠づけるために蒐集されたものである。これは歴史家のとる方法ではない。法律家は訴訟を目的とするが,歴史家は状況を理解しようとする。法律家を納得させる証拠はしばしばわれわれを満足させるものではないし,われわれの方法は彼らには著しく不正確にみえるようである。

だが法律家ですら,今日ではニュールンベルクでの証拠について疑念を抱いているにちがいない。文書は被告人の戦争犯罪を証明するためだけでなく,原告である諸大国の戦争犯罪を隠すためにも選択されたのである。ニュールンベルク法廷を設立した四大国のいずれかが単独で裁判を行なったとしたら,中傷はさらにひどかったろう。西欧諸国は独ソ不可侵条約をもちだしただろうし,ソ連はミュンヘン会談やいかがわしい取引をもちだして報復したであろう。四大国に法廷が委ねられたため,第一に実行可能な方法はドイツの単独責任を前もって仮定することであった。評決は裁判に先行し,文書はすでに決まっている結論を証拠立てるために提出されたのである。

– A・J・P・テイラー『第二次大戦の起源』吉田輝夫訳、中央公論社、 31-32頁。


被告に対する暴行や弁護団への不法行為

アウシュヴィッツ議論や、カティンの森事件のような冤罪が起こった原因の一つとして挙げられるのは、ニュルンベルク裁判での証拠採用基準は近代の裁判基準から大きく逸脱しており、通常の裁判でならば、信頼できないものとして却下されるような伝聞証言が、犯罪を立証する証拠として採用され、弁護団には裁判資料を閲覧する機会、検事側の証人に対する反対尋問の機会がほとんど与えられず、その一方で弁護側の証人は様々な脅迫を受けて、出廷を妨げられたり、退廷させられたりしたからだという。

もっと問題であるのは、被告が逮捕・尋問の過程で脅迫ひいては拷問を受け、自白を迫られていることである。アウシュヴィッツ収容所の所長であったヘスも、尋問の際にリンチを受けている。ドイツ近代史の専門家であり、ミュンヘン大学教授でもあったヴェルナー・マーザー博士 (Werner Maser) はこの問題点について、こう述べている。

弁護団の証人や援助者は、ときどき頃合いをみて、また執拗に脅迫を受けたりして、強引に出廷させてもらえなかったり、あるいは退廷させられたりすることも珍しくなく、さらには自分たちの声名を検閲されたり、押収されたりしたうえで、検察側の証人にされたりした。1956年5月になってやっと刑務所入りをしたオズワルド・ポール (Oswald Pohl) は、アメリカおよびイギリス役人から尋問を受ける際、椅子に縛りつけられ、意識を失うほど殴りつけられ、足を踏まれ、ついにワルター・フンク (Walther Funk) の有罪を証明するものを文書で出すと約束するまで虐待された。

これに反して検察側によって証人やその文書の申し立てを適切とみなされた時はいつも、それらは法廷では自由に使用することができた。しかし検察側の一定の証人たちが、ややもすると、弁護団側の反対尋問にもちこたえられそうもないと判断されると、検察側や法廷は単なる宣誓供述書で満足するのだった。この種の宣誓供述書は、裁判の経過中に、数千通も書かれたのであった。」

– ヴェルナー・マーザー 著、西義之 訳『ニュルンベルク裁判』


ダッハウ裁判やマルメディ裁判では,自白を引き出すための拷問は一般的であったという。弁護団から、ドイツ被告が公正な裁判を受けておらず、取調べで拷問が行なわれているという告発を受け取った、ダッハウ戦争犯罪裁判調査委員会委員アメリカ・ペンシルベニア州判事ヴァン・ローデンは,その調査報告書の冒頭で「ドイツのダッハウでの合衆国法廷のアメリカ人尋問官は,自白を手に入れるために次のような方法を使った。すなわち、殴打と野蛮な足蹴。歯を折ること、顎を砕くこと。偽裁判。独房への拘禁。僧侶の振りをすること。食糧配給の減額制。無罪の約束」と記している。

さらに詳しく → ニュルンベルク裁判




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(2008/02/19)
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