金 正日 (Kim Jong-il、김정일)

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2011/07/13(水)
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金 正日(キム・ジョンイル、1941年2月16日 - )は、朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)の政治家、軍人。北朝鮮を建国した金日成の長男であり、父の死去によって同国の最高指導者の地位を継承した。現在、朝鮮労働党中央委員会総書記、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員長、朝鮮人民軍最高司令官、朝鮮労働党中央軍事委員会委員長を務める。称号は朝鮮民主主義人民共和国元帥、朝鮮民主主義人民共和国共和国英雄(三回受称しており「三重英雄」と称される)。

来歴

出生

父親の金日成が逃亡先として滞在していたソビエト連邦の極東地方に生まれたといわれ、幼名は有羅(ユーラ)というロシア風の名を号した。「ユーラ」から「ジョンイル」に変わったのは朝鮮半島の解放後のソビエト連邦軍政期とする説、1960年夏頃とする説がある。1980年の第6回党大会にて金正日という表記が確認された。また、「キムジョンイル」の名が公式文書に登場した当初、日本では“金正一”の字があてられていた(当時、朝鮮人が父母の名から字を取ることは稀であり、朝鮮の伝統的な命名ルールではあり得ないこととされている)。

出生地について

金正日は、1941年2月16日にソビエト連邦の極東地方の軍事教練キャンプで生まれた。正確な出生地についてはハバロフスク近郊のビャックエにある北野営、ウラジオストク近郊のオケアンスカヤにある南野営、ウラジオストク市内の病院といった諸説がある。

ただし、北朝鮮側の発表では金日成、金正日を神格化する意図から、「1942年2月16日に白頭山で誕生した」と宣伝されている。1982年2月15日、中央人民委員会より「白頭山密営にて誕生」という公式発表がおこなわれ、“白頭山密営”は「革命の聖地」とされた。1987年2月には密営の建物(丸太小屋)が建設された。北朝鮮では、この密営に“巡礼”することが全国民の義務とされている。

幼年期

1945年11月25日、父・金日成の側近の1人である趙明禄の護衛により、母・金正淑、弟・修羅(金万一)とともにソ連から海路で朝鮮に帰国。雄基港に上陸後、清津を経由して平壌に移動し、先に帰国していた父のもとに落ち着いた。1946年に妹・金敬姫が生まれたが、1947年に弟を事故で、1949年には母を前置胎盤でそれぞれ亡くしている。幼年期は内向的な性格だった。

朝鮮戦争開始後の1950年9月中旬、北朝鮮軍の形勢が不利になると、曽祖父母や妹と共に平壌から慈江道長江郡に疎開するが、国連軍が北上し中朝国境付近に迫ると、満浦経由で中国に脱出、吉林市内の学校に通学した。1952年11月下旬、父の指示により北朝鮮に帰国した。

青少年期

現在ロシア在住の当時の同級生によると、仲間と一緒に様々な学校でのイベントを主催したり、家でパーティーを開くなど、幼少期に内向的だった性格は次第に社交的になっていったという。

平壌第一初級中学校、南山高級中学校(現在の平壌第1高等中学校)卒業後、1960年9月1日に金日成総合大学経済学部政治経済学科に入学。在学中の1961年7月22日、朝鮮労働党に入党。1964年3月30日に大学を卒業した金正日は党中央委員会に勤務し、同年6月には党組織指導部の指導員となる。その後、党中央委員会の指導員、課長、副部長、部長を歴任し、1969年9月に党組織指導部部長に就任。また、党宣伝扇動部副部長や文化芸術部部長を兼任した。この間、北朝鮮独自の立場とされているチュチェ思想の思想整備を担当した黄長に師事していたこともある。

権力の掌握

1972年10月、第5期党中央委員会第5回総会で中央委員に選出され、1973年9月の第5期党中央委員会第7回総会で党中央委員会書記局書記(党組織、宣伝扇動担当)に選出された。さらに、1974年2月13日の朝鮮労働党中央委員会第5期第8回総会において、政治委員会委員(現:政治局委員)に選出され、翌2月14日には、金日成の後継者として「推戴」された。ただし対外的には発表されず、金正日は「党中央」としてのみ言及された。「党中央の光」という歌曲が作られ、金正日崇拝への道ならしがおこなわれた。1980年10月10日の第6回党大会および第6期党中央委員会第1回総会で党中央委員会政治局常務委員、中央委員会書記局書記、中央軍事委員会書記に就任し、後継者としての地位を確固なものとした。このとき、金正日は初めて公式に国民の前へ姿を現した。1982年2月に最高人民会議代議員に選出されて以来、今日まで代議員を務めている。

後継者としての地位を確立する過程では、腹違いの弟金平一を推す義母金聖愛との間に激しい権力闘争があったと言われている。同じ時期に金日成を称えるプロパガンダが高まっていったことから、父・金日成のカリスマ化と忠誠合戦を仕掛けることが権力闘争を勝ち抜く彼の方策だったと推測されている。金日成派の独裁化に貢献したと思われることも含め、党内闘争に熟達し、情報統制に長けていると推測されている。これは彼が若い頃に映画局に勤め、父・金日成をカリスマ化するプロパガンダに関係した経験が生かされたと見られることが多い。実際に、テレビ映像やイベント関係の視覚効果などは自ら現場で綿密にチェックすると言われている。自らの肉声をほとんど流さないことでも有名で、南北首脳会談以前の肉声は1992年4月25日に行われた朝鮮人民軍創建60周年の軍事パレードで発した「英雄的朝鮮人民軍将兵諸君に栄光あれ!」というわずか5秒間の音声が唯一であった。
権力の世襲に対する批判に対しては、「金正日は金日成の息子だから後継者となったのではなく、もっとも優れた後継者がたまたま金日成の息子だった」、というのが公式の回答である。

金日成以来、ソ連によって北朝鮮の政権中枢の役割を担わされた満州派(パルチザン派)が朝鮮人民軍を権力基盤としてきた一方で、金正日は党官僚の代表や行政官僚の利益代弁者として振舞ったと思われる時期があった。そのため、金日成死亡の少し前から朝鮮人民軍を掌握しようと腐心していたことが公式プロパガンダおよび人事配置からうかがえる。一方で、外交官経験者を比較的重用し始めていることも人事配置からうかがえる。これはソビエト連邦におけるゴルバチョフ期のソ連・東欧と似た現象である。朝鮮労働党大会は1980年の第6回大会以来招集していない。

金正日は、1991年12月24日、朝鮮人民軍最高司令官に「推戴」され、1993年4月9日には国防委員会委員長に選出された。1972年に制定された朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法(1972年憲法)では、軍の統帥権は国家主席にあり、朝鮮人民軍最高司令官と国防委員長は国家主席が兼務することが定められていたが、同憲法は1992年に改正され、軍の統帥権は国家主席から国防委員長に委譲された。これにより、金正日は軍の統帥権を掌握した。

国家元首として

1994年7月8日、金日成主席が死去。金正日は国家元首の地位を正式に継承はしなかったものの、この日より事実上の最高指導者として統治を開始した。1997年10月8日、金日成の死によって空席となっていた朝鮮労働党中央委員会総書記に「推戴」され、1998年9月の最高人民会議第10期第1回会議において改めて国防委員会委員長に選出された。同会議において、国防委員長は「国家の最高職責」とされた。

2000年6月には太陽政策を取る韓国の金大中大統領を平壌に迎え、南北首脳会談を行う。会談の結果、南北共同宣言が発表された。その直前に現代グループが北朝鮮へ違法な送金を行ったことを黙認しており、会談はこの見返りだったと言われている。以後、民間レベルでの交流事業が本格化し、日本やアメリカも国交正常化交渉へ乗り出す情勢ができた。2000年に南北首脳会談を行ってから、2001年にかけイタリア、イギリス、カナダ等西側諸国との国交を樹立し、徐々に開放政策へと舵を切り始めた。

翌2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件を境に、2002年にはアメリカのブッシュ大統領が、北朝鮮、イラン、イラクの3ヶ国をテロ支援国家であるとし、「悪の枢軸 (axis of evil)」と呼んで批判するなどの北朝鮮敵視政策が国際的緊張を生んだ。アメリカとの緊張関係は和らぐことなく、「先軍政治」を掲げ、要求が受け入れられないと交渉決裂や武力衝突を辞さない態度をちらつかせるいわゆる“瀬戸際外交”を展開している。

2002年9月17日、小泉純一郎首相との日朝首脳会談の席で金正日は日本人13人を拉致したことを認め、口頭で謝罪した。犯人については、「特殊機関の一部の盲動主義者らが、英雄主義に走ってかかる行為を行ってきたと考えている」とし、関係者はすべて処罰したと述べた。また、2国間の懸案の解決し、国交正常化へ努力することを記した「日朝平壌宣言」を発表した。

2003年、イラク戦争の最中には密かに中華人民共和国の北京を訪問していたという(「STRATFOR」報道、2003年4月11日付=共同通信配信)。

2004年9月1日に高英姫夫人の死亡が報道された。高英姫は帰国事業で家族と共に北朝鮮に渡った在日朝鮮人二世である。このため日本では、金正日との間の次男・金正哲が三代目後継者として浮上し、労働党創建60周年に合わせ後継者に内定されたとの観測が出た。このように日本と韓国のメディアは北朝鮮が最高指導者の世襲後継を慣習化するだろうと前提して後継者が誰なのかについてしばしば話題にしているが、実際には金正日が後継者となった経緯さえ不明であり、世襲は再度可能なのかどうか、不可能だとすればそれにあえて挑戦するかなど様々な憶測がある。

2006年7月16日には北朝鮮のミサイル発射をきっかけに国連安保理の全会一致で非難決議がなされた。また、2006年7月23日には女性秘書の金玉を事実上の夫人とし、一緒に生活している事を報じられた。

2006年には、 アメリカの『TIME』誌に「2006年の主要人物26人」の1人に選ばれ、「金総書記は7月4日にミサイルを連射、米ホワイトハウスで開かれたブッシュ大統領の独立記念日パーティーをメチャクチャにし、10月には世界で最も排他的かつ危険な核クラブの首長になった」と紹介された。

2009年4月9日に開かれた最高人民会議で国防委員長に再任され、政権は3期目に突入した。なお、同月の憲法改正により、国防委員長は北朝鮮の最高指導者として位置づけられた。

2010年2月1日、金正日の「私は、人民が未だトウモロコシの飯を食べていることに最も胸が痛む。いま私が行うべきことは、この世で一番立派なわが人民に白米を食べさせ、パンやめん類を十分に食べさせること」という談話が労働新聞に掲載された。2009年末に行われたデノミが失敗し、その結果としての餓死や治安部隊との小競り合いが頻繁に発生しているという情報が日韓にも入ってきている。金正日自身の健康問題も絡み、いわば今の北朝鮮は「崖っぷち」の状態であると分析するメディアもある。

2010年5月、中国を訪問した。金正日は六者会合の再開に前向きな姿勢を示し、中国側は「中朝の友情を時代と共に前進、発展させる」という発言をした。これは中国共産党内では関係見直しを意味する決まり文句であり、度重なる北朝鮮の独断での強硬行為に中国側は不信感を募らせていると見られ、距離を置かれる形となった。また、金正日が要望した大規模な経済支援も温家宝国務院総理に拒否され、金正日がその後の予定を切り上げて早く帰国したという事実も判明、いわば、友人であった中国にも見捨てられた格好となった。同年8月に再び訪中。

2010年9月28日に開催された党代表者会において、党総書記として改めて推挙される。同日、党代表者会の開催を受けて招集された党中央委員会総会で、政治局常務委員・中央軍事委員会委員長に再選された。

さらに詳しく → 金正日




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タグ : 金正日 朝鮮民主主義人民共和国 北朝鮮 朝鮮戦争

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