アフガニスタン紛争 (1979-1989 Soviet war in Afghanistan) - なぜソ連はアフガニスタンに侵攻したのか

航空兵器・陸上兵器・海上兵器・銃器・戦争・紛争・歴史・革命・テロ・事件・軍事動画・ニュース(報道)・社会情勢・政治運動・評論・講演など、軍事関連の情報を公開しています。宗教・思想・経済・政治的なものも少しアリ

広告
--/--/--(--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2012/05/11(金)
*

アフガニスタン紛争(1978年-1989年)では、アフガニスタンで断続的に発生している紛争のうち、1978年に成立したアフガニスタン人民民主党政権に対するムジャーヒディーンと呼ばれる武装勢力の蜂起から、1979年にソビエト連邦が軍事介入を行い、1989年に撤退するまでの期間を扱う。

ソ連・アフガン戦争と呼んだ場合、アフガニスタンの反政府組織や義勇兵とソ連軍の間で発生した戦闘を指す。ソ連軍のアフガニスタン国内の戦闘は1979年の出兵から1989年の完全撤収まで約10年に及んだ。

概要

1978年にアフガニスタンでは、共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党による政権が成立したが、これに対抗する武装勢力蜂起が、春頃からすでに始まっていた。ほぼ全土が抵抗運動の支配下に落ちたため、人民民主党政権はソビエト連邦に軍事介入を要請した。

ソ連軍は1979年12月24日に軍事介入した。ソ連国家保安委員会 (KGB)は政体混乱の収容能力が無いとみたハーフィズッラー・アミーン大統領を殺害し、バーブラーク・カールマルを新たな大統領とし、アミーン政権に対立していた人民民主党内の多数派による政権が樹立された。この事は大きな事件として広く知られることになった。

共産主義政権とソビエト軍に対してムジャーヒディーンと呼ばれた抵抗運動の兵士たちが戦った。また米国中央情報局(CIA)はムジャーヒディーンの支援に総額21億ドルを費やした。これらの資金は陸上からの支援ルートを握っていたパキスタン経由で行われ、パキスタンが同国国内に影響力を保持するきっかけとなった。

また、ムジャーヒディーンには20以上のイスラム諸国から来た20万人の義勇兵が含まれていた。サウジアラビアの駐アフガニスタン公式代表となったウサーマ・ビン=ラーディンもそれに加わった一人である。ビン・ラーディンはこの後のアフガニスタンで反米思想とイスラム原理主義運動に傾倒し、後ろ盾であったアメリカに対してアメリカ同時多発テロを行うことになる。

多くの人は、この戦争は主権国家への正当な理由のない侵略行為だと見なしている。たとえば1982年11月29日の国連総会でソ連軍はアフガニスタンから撤退すべきだとする国連決議 37/37 が採択されている。しかし、ソ連を支持した人もおり、この戦争は貧しい同盟国を救助しに行った行為、あるいはイスラム原理主義のテロリズムを封じ込める為の攻撃としている。

最終的にソ連軍は1988年5月15日から1989年2月2日の間にアフガニスタンから撤退した。ソ連は全ての軍隊は1989年2月15日にアフガニスタンから退去したと公式に発表した。さらにソ連撤退後もアフガニスタンに平和の日々は訪れず、ムジャーヒディーンの内部抗争、タリバンの台頭、タリバンに対する米国および有志連合諸国、アフガニスタン・イスラム共和国政府との戦闘など戦火は続くことになる。

前史

1919年の独立以降、アフガニスタンは王国であり、1933年以降はザーヒル・シャーが国王として統治していた。しかし、アフガニスタンは部族社会であり、地方の権力は部族の長が握っており、政府の権力は十分に浸透していなかった。また国王も部族会議のロヤ・ジルガによって推戴されていた。

ザーヒル・シャーは従兄弟のムハンマド・ダーウードを首相として起用したが、ダーウードの急進的な改革に反発が高まり、ザーヒル・シャーはダーウードを解任した。1973年、ダーウードはザーヒル・シャーが病気療養のためにイタリアに赴いた隙を狙って革命を起こし、アフガニスタン共和国を成立させた。

しかし1978年、ダーウードの強権的な政策に反発した共産主義政党アフガニスタン人民民主党のクーデターによってダーウードは暗殺された。アフガニスタン民主共和国'(DRA)の成立が宣言され、人民民主党の書記長ヌール・ムハンマド・タラキーが大統領に就任した。しかし、1979年には副首相であったハーフィズッラー・アミーンが再度クーデターを起こし、新たな大統領に就任した。

アミーンは当初融和的な政策をとったが、後に宗教指導者に対して弾圧を加えるようになった。このためアミーンに対するジハードが宣言され、全土でムジャーヒディーンが蜂起した。人民民主党政権はアフガニスタン軍に対する大規模な粛清を行っていたため、鎮圧する能力を持たなかった。アミーンはアフガニスタン軍による収拾が困難であることを悟り、ソ連軍の介入を要請した。

ソ連侵攻の要因

ソビエト連邦政府はアフガニスタンに軍事介入することについては当初、国際関係上の影響を考慮して非常に慎重であった。それにも関わらず行動を起こした動機については様々な政治的な要因がある。

大きな要因として、まず当時アフガニスタン大統領であったアミーンは独裁的な政治を行って、独自の外交政策を展開したことが挙げられる。

CIAと関わり、共産主義では否定されるはずの宗教聖職者との関係を強化した。これはソ連政府にはアフガニスタンの西側への転向の兆候と見られることとなった。アフガニスタンが転向することにより、ソ連の中央アジアにおける勢力圏を米国とイスラム主義勢力から防衛し、共産圏諸国へのソ連の国家的威信を維持する必要性が生じた。

このことにより、ソ連政府は短期間で決着する軍事作戦を策定し、被害を最小限にとどめながらもアミーン政権を崩壊させることを狙って実行に移した。

また米国の軍事支援の影響もあった。当時の米国政府はパキスタンを経由して非軍事的物資と活動資金をムジャーヒディーンに提供していた。しかしこれら支援は秘密裏に進めるように努めており、ソ連との対立姿勢を明確にすることは当時進行していた米ソデタントの動きからも不利益と判断された。

ソ連政府は武装勢力の台頭やイスラム国家建国の動きに対して強い警戒感を持っており、これらの武力化の恐れがある政治的な動きを制御する必要性に直面していた。

もう一つの要因としてイスラム原理主義の動きから発生したイランでのイラン革命が挙げられる。革命でモハンマド・レザー・パフラヴィー国王政府が倒され、ルーホッラー・ホメイニーを中心とする新政府が樹立された。

このことはソ連にとって脅威であった。なぜならアフガニスタンでイスラム原理主義の革命が起こればソビエト連邦にも飛び火する危険性があったからである。アフガニスタンではイスラム原理主義の声も上がっており、革命後のイランには、北のソ連や東のアフガニスタンに革命を拡大するための宗教的、政治的及び経済的な動機が十分にあった。

これらの意見は、当時のソ連の指導者レオニード・ブレジネフが、ソ連は(おそらく連邦内の共和国を含め)危険にさらされている同盟国を救援する権利を持つと宣言した「ブレジネフ・ドクトリン」によって裏付けられている。その後勃発したイラン・イラク戦争において、最も強力にイラクを援助したのもソ連であった。

また、アメリカの外交政策の転換も重要な要素として挙げられる。1978年5月にはワシントンでNATOの軍事費増大計画が決定された。1979年の秋にはテヘランのアメリカ人人質解放のためといい、航空機や核兵器など積んだ大量の軍をペルシャ湾へ派遣した。冬には本格的なアメリカの軍事拡張計画(五ヶ年計画)、ミサイルの生産とヨーロッパ配備の決定などが下された。

反ソを目的とした中国とも接近もあり、SALT II批准の可能性は皆無と見られていた。これら緊張緩和放棄政策に、ソ連も何かしら応える必要があった。

ソビエト連邦軍の戦略

まず、ソビエト連邦は、アミーン大統領がソ連軍派遣を要請したのを受けたのを利用して派遣部隊をアフガニスタンに進入させた。しかし、ソ連軍はアミーン大統領の拘束殺害を目的とした宮殿への襲撃作戦(嵐333号作戦)を立案し、アルファ部隊やGRUスペツナズなどの特殊部隊を投入して実行した。

その後は親ソ的なバーブラーク・カールマルを首班とする新政権を擁立してアフガニスタンを早急に安定化させ、部隊を長くとも半年程度で撤退させることを計画していた。しかし、その後、反政府勢力の台頭や活動の活発化などによって治安が急速に悪化し、新政権の強い要望によってソ連軍はアフガニスタンに足止めされることとなってしまった。そのため、治安作戦とアフガニスタン政府軍の訓練を推し進め、撤退後のアフガニスタンが安定するように努めた。

戦術

ソ連軍は下記のような戦術を用いてアフガニスタンでの戦闘を行った。

ソ連第40軍(10万人以上の地上部隊で構成)の展開。航空支援、兵站部門、内務省(MVD)の部隊及び国家保安委員会 (KGB)傘下の国境警備隊、それから他の種々雑多な部隊を含めると、総勢でおよそ17万5千人になったと複数の観測者によって計算されている。この数字は当時のソビエト連邦が保有するカテゴリー1(第一線級)の師団のほぼ20%に相当した。

前線の裏側ではソビエト連邦によって化学兵器が広域にわたって使用されていた。このことは(ソ連の軍事雑誌が伝えるところによると、ソ連軍のための訓練だとみなされていた (化学兵器の使用については異説あり))。

2000万個以上の対人地雷がソ連軍によってばらまかれた。これらの対人地雷は地雷が不発弾となったとき発見しやすくする為に色を塗り、投下時の空気抵抗を減らすために異様な形をしたもの(PFM-1を参照)が生産された、それをおもちゃと間違えて拾った子供が死傷する事件が度々起こったため、人形爆弾と呼ばれた

ソ連軍の戦闘教義はもともと平原及び丘陵地帯における(NATO軍や中国人民解放軍などの)正規軍相手の電撃戦及び総力戦を前提としたものであり、ゲリラ及びパルチザンの掃討作戦や山岳戦を想定していなかったため、戦闘では苦戦を強いられることが多かった。ベトナム戦争におけるアメリカ軍と同様にヘリコプターで機動する治安作戦、掃討作戦がアフガニスタン全土で多く実施されたが、目覚しい戦果はあがらなかった。

9年間に渡る戦争において平均してアフガニスタンに駐留したソ連軍の兵力は10万人強である。1984年頃、ソ連陸軍首脳は政府に対し地上兵力増強を要求した。軍の要求した兵員数は30.5万人で駐留軍を3倍に増やすというものであった。アフガニスタンのゲリラ勢力は最大でも10万人であり、30万人増強が行われれば反政府勢力は壊滅していたと思われる。

戦闘が最も激しかった1985年のソ連軍の総兵力は実に511万5000人(他に国内保安部隊など113万5000人)という大きなものであったが、その世界最大の陸上兵力を持つソ連軍が、より多くの兵員をアフガニスタンに投入出来なかったのは経済面を含んだ輸送力の不足のためであった。

対ゲリラ専用に戦闘ヘリコプターMi-24が多数投入され、航空戦力を持たないムジャーヒディーンにとって大きな脅威になった。しかし、アメリカがムジャーヒディーンにスティンガーミサイルを供与したため、Mi-24の脅威は限定的なものとなった。

影響

ソビエト連邦軍はゲリラに対して決定的な勝利を得られないまま1989年に全面撤収するが、ソ連による戦術の結末は次のようなものであった。

ソビエト連邦

ソビエト連邦軍では15000人が死亡し、75000人が負傷した。アフガン人はソビエト兵の100倍の死者を出した。

ソビエト連邦軍の費用は、1986年のドルで計算して一年におよそ200億ドルかかっており、国家財政を圧迫した。
アフガニスタン紛争は、結果としてソビエト連邦の破局を招いた。ソビエト連邦は占領経費の増大によって冷戦の継続が不可能となり、ペレストロイカによって路線を大幅に転換した。そして、1989年のアフガンからの撤退の2年後に、ソビエト連邦は崩壊した。

アフガニスタンに駐留するソビエト兵の間で麻薬が蔓延し、帰国後も兵士達が社会に復帰ができないことが社会問題となった。

アフガニスタン

戦闘員(ムジャーヒディーンや政府関係者)はおよそ9万人が死亡し、9万人が負傷した。市民の死傷者を含めると、総人口の10%、男性人口の13.5%が死亡し、全体では150万人が死亡したと推定されている。国民の半分が14歳以下(つまり大人が次々と虐殺された)になるほどであった

およそ600万人の難民が周辺諸国に逃れた。

アフガニスタンは国の価値の約1/3から1/2にあたるおよそ500億ドルの損害を被った。

1万5千ある村落のうち、5千の村落は徹底的に破壊されるか、または農地や井戸や道路といった経済的な基盤をすべて破壊されることで経済的に立ち行かなくなった。

全国民の半数の14歳以上の者が死んだために、識字率は36.3%という低い数字にまでなった。

あまりにも識字率が低いために今でも最貧国で、経済成長を遂げているベトナムとは正反対である。

農業生産量は50%にまで減少し、家畜の50%が失われた。

舗装された道路の70%は破壊された。

ソ連軍は大量の兵器を遺棄し、またアフガニスタン政府軍に供与したため、以降のアフガニスタン紛争(内戦、1989年-2001年)に使われて大きな被害をもたらした。

さらに詳しく → アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)


大きな地図で見る




アフガニスタンの風アフガニスタンの風
(2001/11/01)
ドリス レッシング

商品詳細を見る
関連記事

タグ : アフガニスタン紛争 ソ連のアフガン侵攻 アフガニスタン侵攻 ムジャーヒディーン

この記事へのコメント
URL:
Comment:
Pass:   
この記事のトラックバックURL
http://gunjimania.blog108.fc2.com/tb.php/2130-eb81dd8c
 この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック

 | Copyright © 軍事マニアクス - Military Maniacs All rights reserved. | 

 / Template by 家族 ペット 自分史 ブログ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。