ゼロから学ぶ 【太平洋戦争⑧ (Pacific War)】

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2011/06/27(月)
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インパール作戦(-さくせん)(日本側作戦名:ウ号作戦(うごうさくせん))とは、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され6月末まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。 補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、歴史的敗北を喫し、日本陸軍瓦解の発端となった。 無謀な作戦の代名詞として、しばしば引用される。

日本軍作戦立案の経緯

二十一号作戦

インドへの侵攻作戦という構想は、ビルマ攻略戦が予想外に早く終わった直後から存在した。インド北東部アッサム地方に位置し、ビルマから近いインパールは、インドに駐留するイギリス軍の主要拠点であった。ビルマ-インド間の要衝にあって、連合国から中国への主要な補給路(援蒋ルート)であり、ここを攻略すれば中国軍(国民党軍)を著しく弱体化できると考えられた。

日本の南方軍は、「二十一号作戦」と称して東部インドへの侵攻作戦を上申した。1942年(昭和17年)8月下旬、戦争の早期終結につながることを期待した大本営は、この意見に同調して作戦準備を命じた。参加兵力は第15軍の第18師団を主力とする2個師団弱とされた。イギリス軍の予想兵力10個師団に対して著しく少ないが、ビルマ戦の経験からはこの戦力比でも勝算があると考えたのである。

しかし、二十一号作戦の主力に予定された第15軍及び第18師団(師団長:牟田口廉也中将)はこの計画に反対した。現地部隊は、雨季の補給の困難を訴えた。乾季であっても、山岳や河川による交通障害、人口希薄地帯ゆえの徴発の困難などが予想されると主張した。現地部隊の反対に加え、ガダルカナル島の戦いの発生もあったため、同年11月下旬、大本営は二十一号作戦の実施保留を命じた。ただし、あくまで保留であったため、現地では作戦研究が続行されるべきことになった。

武号作戦

1942年10月以降、第一次アキャブ作戦などイギリス軍の反攻作戦が起きるようになった。1943年前半には、オード・ウィンゲート率いるコマンド部隊が空挺侵入して、地形的に防衛側有利と思われたチンドウィン川東方のジビュー山系へもイギリス軍の反攻が可能なことが示された。

イギリス軍の反攻作戦が予想される一方、日本側は太平洋方面の戦況が悪化し、ビルマ方面からは航空兵力が転用されるなど戦力低下が生じていた。そこで日本側は防衛体制の刷新を図り、緬甸方面軍(ビルマ方面軍)を創設するとともに、その隷下の第15軍司令官に牟田口廉也中将を昇格させた。この大規模な組織再編・人事異動により、第15軍司令部では牟田口以外の要員の多くが入れ替わったため、唯一現地の事情に詳しい牟田口の発言力が大きくなる結果となった。

第15軍司令官となった牟田口は、従来の単純な守勢から攻勢防御によるビルマ防衛への方針転換を主張した。具体的には、イギリス軍の反攻拠点であるインパールを攻略するという計画だった。かつては攻勢反対論者だった牟田口であったが、ウィンゲート旅団のような反攻を受けた場合、現在のジビュー山系防衛線は無効化されることを恐れて判断を変えていた。より西方のチンドウィン河に新たな防衛線を構築することも考えられたが、乾季には障害として不十分であり、彼我兵力比を考えると防衛正面も広すぎると牟田口は判断した。名目上も保留中の二十一号作戦に沿うものだった。さらに、アッサム地方へまで侵攻すれば、インドの独立運動を誘発して戦争の早期終結につながるとの期待も持っていた。これは盧溝橋事件に関与した牟田口の個人的責任感にも由来するとの見方もある。

牟田口は、まずインドへの侵攻拠点として、防衛線をチンドウィン河西方ミンタミ山系に進めることを考えた。イギリス軍の反撃を避けるために、部隊行動が難しくなる雨期入り直前に奇襲的に防衛線を進めるべきだと牟田口は主張、これを「武号作戦」と呼称した。しかし、部下の小畑信良第15軍参謀長らは、ウィンゲート旅団掃討後の部隊休養・再編が先決であることや、チンドウィン河西方への駐屯は困難であることなどから、武号作戦に反対した。まもなく実際に雨季が近付いたため、作戦実行は時期的に不可能となり、武号作戦案は自然消滅となった。

ウ号作戦

1943年5月、なおも攻勢防御案を強く主張する牟田口第15軍司令官は、南方軍司令部での軍司令官会合でもインパール攻略・アッサム侵攻を力説した。河辺ビルマ方面軍司令官もこれに同調して、インパール攻略とアラカン山系への防衛線前進を主張したが、牟田口と異なってアッサム侵攻は無謀と見ていた。会合の結果、南方軍全体としてもアラカン山系への防衛線前進を図る攻勢防御が妥当という点で一致したが、稲田正純南方軍総参謀副長などはあくまで限定的かつ慎重な作戦を採るべきという方針だった。

この会合に基づくビルマ方面軍司令部での兵棋演習では、ミンタミ山系への限定前進でも結局はイギリス軍との全面会戦になると予想され、より積極的なインパール攻略のほうが有利との判定が下った。同席の南方軍・大本営参謀らからも攻勢防御案に異論は出なかったが、第15軍の主張するインパール電撃攻略・アッサム侵攻という部分は兵站などの点から問題視された。竹田宮恒徳王大本営参謀は、「一五軍ノ考ハ徹底的ト云ウヨリハ寧ロ無茶苦茶ナ積極案」と評している。稲田総参謀副長らは、コヒマへの投入兵力を限定して柔軟にインパール攻略を中止・防衛線構築に移行という修正案を提示したが、河辺ビルマ方面軍司令官が最終判断は自分が下すと述べ、うやむやとなった。

同年8月、大本営陸軍部は、牟田口第15軍司令官の立案したインパール攻略作戦の準備命令を下達した。このときも南方軍は限定攻勢とする修正を指示したが、ビルマ方面軍はこの修正を強く求めず、第15軍では修正指示が事実上無視されていた。また、アッサム侵攻はこの作戦案には明示されなかったものの、牟田口はなおも密かに企図していたとされ、この作戦の成否を一層危ういものにしていた。

本作戦案は、1944年1月に大本営によって最終的に認可されたが、その背景には、日に日に敗色が濃くなっていく戦局を一気に打開したいという寺内寿一南方軍総司令官の思惑が強く働いていた。この上層部の思惑を前に、インパール作戦の危険性を指摘する声は次第にかき消されていった。第15軍内部で作戦に反対していた参謀長小畑信良少将は、1943年5月に就任後僅か1か月半で牟田口自身によって直接罷免され、またビルマ方面軍の上級司令部である南方総軍では、インパール作戦実施に強硬に反対していた総参謀副長稲田少将が同年10月15日に更迭された。こうして作戦に反対する者が排除される様を目の当たりにする中で、反対者は次第に口を閉ざしていくことになった。
また、インパール作戦の開始前に、支作戦(本作戦の牽制)として第二次アキャブ作戦(ハ号作戦)が、1944年2月に花谷正中将を師団長とする第55師団により行なわれた。この支作戦は失敗し、同月26日には師団長が作戦中止を命令していたにもかかわらず、本作戦であるインパール作戦に何ら修正が加えられることはなかった。

作戦経過

物資の不足から補給・増援がままならない中、3月8日、第15軍隷下3個師団(第15、31、33師団)を主力とする日本軍は、予定通りインパール攻略作戦を開始した。日本軍は1個師団(第31師団)を要衝ディマプールとインパールの結節点であるコヒマに進撃させ、残りの2個師団が東、南東、南の3 方向よりインパールを目指した。しかし作戦が順調であったのはごく初期のみ(但しこれは連合軍側の重点防御地域でなく最初から放棄地帯とされ防御を固めたインパールへ日本軍をしむける罠)で、ジャングル地帯での作戦は困難を極めた。 牟田口が補給不足打開の切り札として考案した、牛・山羊・羊・水牛に荷物を積んだ「駄牛中隊」を編成して共に行軍させ、必要に応じて糧食に転用しようと言ういわゆる「ジンギスカン作戦」は、頼みの家畜の半数がチンドウィン川渡河時に流されて水死、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な地形により兵士が食べる前にさらに脱落し、たちまち破綻した。さらに水牛は味が悪く、現地の中国人でさえ食用にしないものであった。また3万頭の家畜を引き連れ徒歩で行軍する日本軍は、進撃途上では空からの格好の標的であり、爆撃に晒された家畜は荷物を持ったまま散り散りに逃げ惑ったため、多くの補給物資が散逸した。さらに、急峻な地形は重砲などの運搬を困難にし、糧食・弾薬共に欠乏し、火力不足が深刻化、各師団とも前線に展開したころには戦闘力を大きく消耗する結果を招いた。本来、近代戦において歩みの遅い家畜を引き連れて、迅速さを求められる拠点攻略を強行するという作戦そのものに無理があった感は否めない。

物資が欠乏した各師団は相次いで補給を求めたが、牟田口の第15軍司令部は「これから送るから進撃せよ」「糧は敵に求めよ」と空電文を返すばかりであった。 また、この時期、日本軍に対してイギリス軍が採用した円筒陣地は、円形に構築した陣地の外周を戦車、火砲で防備し、日本軍に包囲されても輸送機から補給物資を空中投下して支え、日本軍が得意とする夜襲、切り込みを完全に撃退した。これに加え、イギリス軍は迫撃砲、機関銃で激しく抵抗したため、あまりの防御の頑強さに、インパール急襲を目的とした軽装備(乙装備)中心の日本軍は歯が立たず、この円筒陣地を「蜂の巣陣地」と呼んだ。皮肉にも日本兵はイギリス軍輸送機の投下した物資(「チャーチル給与」と呼ばれた)を拾って飢えを凌いだため、この物資を拾う決死隊が組織される有様だった。

4月に入って雨季が始まり、補給線が伸びきる中で、空陸からイギリス軍の強力な反攻が始まると、前線では補給を断たれて飢える兵が続出、極度の飢えから駄馬や牽牛にまで手をつけるに至るも、死者・餓死者が大量に発生する事態に陥った。また、飢えや戦傷で衰弱した日本兵は、マラリアに感染する者が続出し、作戦続行が困難となった。機械化が立ち遅れて機動力が脆弱な日本軍には、年間降水量が9000mmにも達するアラカン山系で雨季の戦闘行動は、著しい損耗を強いるものであった。しかし、牟田口は4月29日の天長節までにインパールを陥落させることにこだわり、

1. 天長節マデニインパールヲ攻略セントス。
2. 宮崎繁三郎少将ノ指揮スル山砲大隊ト歩兵3個大隊ヲインパール正面ニ転進セシム。
3. 兵力ノ移動ハ捕獲シタ自動車ニヨルベシ。

と、作戦続行を前線部隊に命令した。しかし、この頃では、各師団は多数の戦病者を後送出来ないまま本部に抱えており、肥大化する戦病者と、欠乏した補給に次第に身動きが取れなくなっていた。中には武器弾薬が尽きて石礫を投げて交戦する部隊まで出始めた。

さらにこのような戦況をよそに、司令部が400キロも遠方のメイミョウに留まっていることに対する風当たりが次第に強くなったため、牟田口はインダンジーまで15軍司令部を進出させることにした。しかし実際には芸者と料亭「清明荘」を伴って少し進んだシュエボーで停止。同地で料亭はそのまま営業を再開した。

第31師団は「山を越えてやってくるのは一個連隊が限度」と見ていたイギリス軍を一個師団丸ごとで急襲することに成功し(但し、31師団は戦力を抽出していたため二個連隊の戦力)、インパールの北の要衝コヒマを占領していた。コヒマはディマプールとインパールを結ぶ街道の屈曲点に当たる要衝で、コヒマの占領は通常ならばインパールの孤立の成功を意味するはずだが、連合軍は豊富な航空輸送能力を維持しているため、効果は薄かった。しかしこの瞬間に、最重要援蒋ルートの1つレド公路への要衝ディマプールまで遮る部隊がない状態であったために、前進を継続していたらディマプールは陥落していた可能性が高いと、戦後のイギリス軍の調査で結論付けたものもあった。しかしながら、一粒の米、一発の弾薬も届かない状況であり、明らかに攻勢限界を通り越しており、ディマプールどころかコヒマ維持も不可能であった。戦後、この調査報告を鵜呑みにした牟田口中将は自身の正しさが証明したお墨付きがでたかのように喜び、作戦失敗が部下の独断撤退のせいだと転嫁する論拠の1つとした。 現状を正確に認識して、部隊の自壊を危惧した第31師団長・佐藤幸徳陸軍中将は、「作戦継続困難」と判断して、度々撤退を進言する。しかし、牟田口はこれを拒絶し、作戦継続を厳命した。そのため双方の対立は次第に激化し、5月末、ついに佐藤は部下を集めて次のように告げた。

1. 余は第三十一師団の将兵を救わんとする。
2. 余は第十五軍を救わんとする。
3. 軍は兵隊の骨までしゃぶる鬼畜と化しつつあり、即刻余の身をもって矯正せんとす。


さらに司令部に対しては「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」(原文のふり仮名はカタカナ)と返電し、6月1日、兵力を補給集積地とされたウクルルまで退却、そこにも弾薬・食糧が全く無かったため、独断で更にフミネまで後退した。これは陸軍刑法第42条に反し、師団長と言う陸軍の要職にある者が、司令部の命に抗命した日本陸軍初の抗命事件である。これが牟田口の逆鱗に触れ師団長を更迭されたが、もとより佐藤は死刑を覚悟しており、軍法会議で第15軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりであったと言う。また、第33師団長柳田元三陸軍中将が、同様の進言をするものの牟田口は拒絶。これもまた牟田口の逆鱗に触れ、第15師団長山内正文陸軍中将と共に、相次いで更迭される事態となった。天皇によって任命される親補職である師団長(中将)が、現場の一司令官(中将)によって罷免されることは、本来ならば有り得ない事であり、天皇の任免権を侵すものであったが、後日、この人事が問題となることは無かった。

退却戦に入っても兵士達は飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、衰弱してマラリアや赤痢に罹患した者は、次々と脱落していった。退却路に沿って延々と続く、蛆の湧いた餓死者の腐乱死体や、風雨に洗われた白骨が横たわるむごたらしい有様を、日本兵は「白骨街道」、若しくは「靖国街道」と呼んだ。イギリス軍の機動兵力で後退路はしばしば寸断される中、力尽きた戦友の白骨が後続部隊の道しるべになることすらあった。伝染病に罹患した餓死者の遺体や動けなくなった敗残兵は、集団感染を恐れたイギリス軍が、生死を問わずガソリンをかけて焼却した。この悲惨な退却戦の中で、第31歩兵団長宮崎繁三郎少将は、佐藤の命令で配下の歩兵第58連隊を率いて殿軍を務め、少ない野砲をせわしなく移動し、優勢な火砲があるかのように見せかけるなど、巧みな後退戦術でイギリス軍の追撃を抑え続け、味方に撤退する時間をいくらか与えることに成功した。また、宮崎は脱落した負傷者を見捨てず収容に努め、最悪の戦場の中でも最善を尽くし多くの将兵の命を救った。しかし、司令官の牟田口はこれら配下の部隊の帰還を待たず、後に「北方撤退路の視察」と称して司令部を離れ、そのまま単独帰国することになる。

6月5 日、牟田口をビルマ方面軍司令官河辺正三中将がインタギーに訪ねて会談。二人は4月の攻勢失敗の時点で作戦の帰趨を悟っており、作戦中止は不可避であると考えていた。しかし、それを言い出した方が責任を負わなければならなくなるのではないかと恐れ、互いに作戦中止を言い出せずに会談は終了した。この時の状況を牟田口は、「河辺中将の真の腹は作戦継続の能否に関する私の考えを打診するにありと推察した。私は最早インパール作戦は断念すべき時機であると咽喉まで出かかったが、どうしても言葉に出すことができなかった。私はただ私の顔色によって察してもらいたかったのである」と防衛庁防衛研修所戦史室に対して述べている。これに対して河辺は、「牟田口軍司令官の面上には、なほ言はんと欲して言ひ得ざる何物かの存する印象ありしも予亦露骨に之を窮めんとはせずして別る」と、翌日の日記に記している。こうして作戦中止を逡巡している間にも、弾薬や食糧の尽きた前線では飢餓や病による死者が急増した。

7月3 日、作戦中止が正式に決定。投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2千人に減少していた。しかし、実情は傷病者の撤収作業にあたると言え、戦闘部隊を消耗し実質的な戦力は皆無で、事実上の壊走だった。杖を突き、飯盒ひとつで歩く兵士たちは、「軍司令官たる自分に最敬礼せよ」という、撤退の視察に乗馬姿で現れた牟田口の怒号にも虚ろな目を向けるだけで、ただ黙々と歩き続けた。だれも自分を省みないことを悟った牟田口は、泥まみれで悪臭を放つ兵たちを避けながら帰っていった。

7月10 日、司令官であった牟田口は、自らが建立させた遥拝所に幹部を集め、泣きながら次のように訓示した。

「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」

以下、訓示は1時間以上も続いたため、栄養失調で立っていることが出来ない将校たちは次々と倒れた。

苦戦の有様

優位に立つ連合軍は日本軍陣地に対し間断なく空爆と砲撃を繰り返した、兵士達は生き残るために蛸壺塹壕にずっと潜り込んでいるしかなく、反撃などは夢の又夢であった。そのような状況下で雨季が到来すると、塹壕は水浸しになった、掘るためのスコップなど満足に支給されるはずも無く、ありあわせの道具や素手で各自が掘った塹壕では排水溝など望むべくもなかったからである。砲撃のため水浸しの塹壕から抜け出ることができず、ずっと水に浸かっていたために皮膚が膨れ、損壊する兵士が続出した。

補給が軽視され河舟、車両等機械力による大量補給は殆ど行われなかった、偶さかそのような手段が確保されたとしても「食糧よりも武器弾薬」という方針により餓死寸前の前線に食糧が届けられることは乏しく、糧食は集積所に放置され腐るに任されたとされる。そのため前線の兵士は「食うに糧なく、撃つに弾なし」という、もはや戦闘どころではない状態に置かれた。ある部隊では、野砲はあっても砲弾の割り当ては一日にたった2発だったという。また15師団の生存者が証言するところによれば、弾薬が尽きた部隊は投石で抵抗するしかなくなっていた。

作戦梃子入れのため、弓師団に着任した田中信男少将は早速配下部隊を視察した、しかし、ある中隊長の軍刀を抜くと真っ赤に錆びていた。彼は中隊長を叱責し、その場にいた全将校の軍刀の検査を行ったところ、ほぼ全員の軍刀が錆びている事が判明した。激怒した彼は、部隊長に今すぐ部下に軍刀の錆びを落とさせるよう命じた。 しかし、誰一人として軍刀を磨き錆を落とす将校はいなかったと言う。連日の豪雨と泥に浸かっている戦場では、軍刀を維持する方法は無いと分かりきっていたからである。

作戦を通じて航空機を投入したイギリス軍に対して、日本軍の航空支援は皆無だった。「制空権がなく航空作戦は無理」という陸軍第5飛行師団に対して、牟田口が「それならばチンドウィン渡河まででよい」と、むしろ支援を断る結果になったためである。 しかし、作戦中補給を求めても、空返事しか返さない牟田口に業を煮やした各師団は、指揮命令系統を超えて第5飛行師団に窮状を訴えた。第5飛行師団もそれに応じて、敵制空権下を突破して手持ちの食料医薬品を投下したが、襲撃機の武装を外しても輸送できる物資はわずかであり、全くの焼け石に水だったという。

結果

結果として本作戦は日本軍参加将兵約8万6千人のうち戦死者3万2千人余り、戦病者は4万人以上(そのほとんどが餓死者であった)を出して7月 1日に中止された。

しかし、その後終戦に至るまで、この作戦の失敗の責任が明らかにされることはなかった。陸軍は、佐藤中将が作戦当時「心身喪失」であったと言う診断を下し、予備役編入とした為である。佐藤の撤退の責を問う軍法会議が開催されることで、軍法会議の場で撤退理由をはじめとするインパール作戦失敗の要因が明らかにされると共に、その責任追及が第15軍、ビルマ方面軍などの上部組織や軍中枢に及ぶことを回避したのである。結果的に、3万人の損害を出したインパール作戦の失敗の責任の所在を陸軍が検証することは最後まで行われなかった。自らも病に倒れ、後送された山内正文師団長は、死の床で「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」と語った。

牟田口は戦後、インパール作戦失敗の責任を問われると、頑なに自説を曲げずに自己見解の説明に終始した。インパール作戦で自身に責任が無かった旨を強調する冊子を配布した話や、ラジオやテレビ、雑誌などで機会あれば同様の強調を繰り返した。

この作戦失敗により、英印軍に対し互角の形勢にあった日本軍のビルマ=ベンガル湾戦線は崩壊、翌1945年(昭和20年)3月には、アウンサン将軍率いるビルマ国防軍(日本軍が組織、育成した)が連合軍側へと離反し、結果として日本軍がビルマを失陥する原因となった。

戦後、インパールのあるマニプール州などのインド東北部は、隣接するナガランド州などの分離独立運動による政情不安のため、インド政府は外国人の立ち入りを規制、このため現在に至るも遺骨収集などは遅々として進んでおらず、日本政府がインド政府の協力の下、インパール近郊のロトパチン村に慰霊碑を建立したのは1994年(平成6年)のことである。本作戦を特集したTV特番では『一将功成らずして万骨枯る』(注:"一将功成りて万骨枯る"の故事を皮肉ったもの)とこの作戦を総括した。

さらに詳しく → インパール作戦  牟田口廉也


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(2010/06)
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