【中国年表】中国苦難の109年 - アヘン戦争から中華人民共和国建国まで

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2012/01/20(金)
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年代 事件・政変 概要
1840年 アヘン戦争(阿片戦争) 清とイギリスとの間で2年間にわたって行われた戦争。清との貿易赤字に苦しんでいたイギリスは植民地のインドで栽培したアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺していた。その結果清国内にアヘンが蔓延、健康を害する者が増え、風紀も退廃した。

事態を重く見た清は1838年に林則徐を欽差大臣に任命し広東に派遣、アヘン密輸の取り締まりを開始。林則徐はアヘンを扱う商人からの贈賄にも応じず、非常に厳しいアヘン密輸に対する取り締まりを行った。1839年には、アヘン商人たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない」という旨の誓約書の提出を要求し、イギリス商人が持っていたアヘンを没収、同年6月6日にはこれをまとめて処分した。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。

林則徐による貿易拒否の返答を口実にイギリスは戦火を開き、清国船団を壊滅させた。イギリス側は完全に制海権を握り、火力にも優るイギリス側が自由に上陸地点を選択できる状況下、戦争は複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍に対する、一方的な各個撃破の様相を呈した。また、広州に上陸した一部の英軍は略奪や暴行事件を起こして民衆の怒りを買い、三元里事件などが起きている。

「麻薬の密輸」という開戦理由に対しては、清教徒的な考え方を持つ人々からの反発が強く、イギリス本国の議会でも、「こんな恥さらしな戦争はない」などと反対の声が強かったが、清に対する出兵に関する予算案は承認された。

1842年8月29日、両国は南京条約(江寧条約ともいう)に調印し、阿片戦争は終結した。
1841年 三元里事件(さんげんりじけん) 阿片戦争中に起こったイギリス軍と民間の武装勢力との衝突事件。
1842年 南京条約(なんきんじょうやく、江寧条約) アヘン戦争を終結させるため清とイギリスの間で結ばれた講和条約。条約の内容は下記の通り。

 ・香港島割譲
 ・賠償金2100万$を四年分割で支払う
 ・広州、福州、廈門、寧波、上海の5港開港
 ・公行の廃止による貿易完全自由化

この条約により、それまで強い制限下ヨーロッパとの交易を広州1港で行っていた体制「広東システム」が終結した。
1843年 虎門寨追加条約(こもんさいついかじょうやく) 阿片戦争において締結した南京条約の不明確な内容を明確にするようにイギリスが清朝に求め、清英間で締結された追加条約のことである。内容は以下の通り。

・清朝は、広州、福州、廈門、寧波、上海の五港を開港し、イギリス商船による通商を認める。
・イギリスの商人は内地旅行を禁止する。
・イギリス人は五港の定められた地域の中で、家屋または土地を租借し居住することが出来る。
・双方の関税は、以後両国の共同の協定によって決める(関税自主権の喪失)。
・イギリス人が犯罪を犯した場合、イギリスの官憲が逮捕、清朝と協議の上にイギリス官憲が共同調査する。すなわち領事裁判権を認める。
・もし清朝が他国との条約で有利な条件を他国に与えた場合、イギリスにも同一条件を認める。すなわち清朝は片務的最恵国待遇を負う。
1844年 望厦条約(ぼうかじょうやく) 清とアメリカ合衆国の間で結ばれた条約。アヘン戦争でイギリス帝国に敗北した清は、イギリスと南京条約、虎門寨追加条約を結んだが、その内容は関税自主権の喪失、治外法権などを定めた不平等条約であった。

このことを踏まえ、1844年7月3日にマカオ郊外の望厦村において、イギリスに南京条約で認めた内容とほぼ同様のことを定めた修好通商条約が結ばれた。これが望厦条約である。
黄埔条約(こうほじょうやく) 清とフランスの間で結ばれた国際条約。アヘン戦争でイギリスに敗北した清は、南京条約、虎門寨追加条約を締結したが、その内容は治外法権、関税自主権の喪失などを含んだ不平等条約であった。そのあと、同様の内容を1844年の望厦条約でアメリカにも認めた。

このことを踏まえ、1844年10月24日に広州郊外の黄埔において、フランスと清の間にも修好通商条約が結ばれた。これを黄埔条約と称する。特に、この条約ではフランスのカトリック宣教師の中国入国の自由が最初に規定された。こうして、列強の中国に対する経済進出が本格化していった。
1850年 道光帝(どうこうてい)死去し、咸豊帝(かんぽうてい)即位 咸豊帝は中国清朝の第9代皇帝。即位後の道光30年12月10日に太平天国の乱が勃発し、平行して1858年にはアロー戦争(第二次アヘン戦争)に敗北し、天津条約を結ばされた。この条約により北京への使臣常駐、キリスト教布教の公認、アヘン輸入の公認などを認めさせられる事になった。これにロシアも乗じて愛琿条約を結ばされた。

1860年、この条約にも満足しなかった英仏連合軍は更に清軍を挑発する事で戦火を開き、北京にまで攻め上った。咸豊帝は粛順の言を容れ、北京を恭親王に任せて熱河へ撤退した。恭親王は英仏連合軍がやってくるとどこかに隠れてしまった。皇帝のいなくなった北京で英仏は円明園の略奪を行い、財宝の無くなった円明園に放火して証拠を隠滅した。

その後に恭親王を通じて北京条約を結んだ。この条約により天津条約の内容に加えて天津の開港、イギリスへの九竜半島割譲などを認めさせられた。外交的には帝国主義諸国への大幅な譲歩を迫られ、内政では太平天国を未だ鎮圧できない状態で、弱体化が明らかになった清政府は中国の支配者たる資格を失っていった。

咸豊帝は、即位当初こそ熱心に政務をおこなったが、しだいに部下任せになるようになり、趣味の芝居見物に熱中するようになった。避難先の熱河でも続け、死の二日前におよんでも取り止めなかった。在世中から評判は悪かったが、現在の中国でも暗君として評価されている。
太平天国の乱(たいへいてんごくのらん) 洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起こされた大規模な宗教反乱。内乱は14年に及び、終結時には史上最も犠牲者の多い内乱として記録された。

当初はアヘン戦争で消耗し、またアロー号戦争をも同時進行で戦わなければならない清軍(以下正規軍)は苦戦、太平天国軍は正規軍を何度も打ち破った。太平天国軍は一時は激戦故に5000人までに減少したにもかかわらず、その後20万以上の兵力にふくれあがっており、水陸両軍を編成するまでに至った。その理由として、清朝の増税に対するの民衆の不満、アヘン戦争後多くの匪賊が横行し、これらを太平天国が吸収したことが挙げられている。

しかし、太平天国の内紛(天京事変など)、当初は規律が厳正で高いモラルを有していたにも関わらずそれが緩んだこと、正規軍側の軍隊の近代化、西洋式の銃や大砲を整え租界にいた外国人傭兵部隊とも戦わねばならなかったなど、様々な理由により次第に太平天国軍は苦戦を強いられはじめる。

1863年以降、太平天国は太倉州・無錫・蘇州・杭州と次々失い、天京は孤立した。食糧事情が逼迫しており、1864年6月1日、洪秀全は栄養失調により病死。7月19日、湘軍の攻撃により天京が陥落した。こうして14年に渡る太平天国の乱は終結を迎えたが、遵王頼文光捻軍と合流し、さらに4年に渡って戦闘を継続することとなる。
金田蜂起(きんでんほうき) 洪秀全に率いられた太平天国が広西省桂平県金田村で行った武装蜂起である。
1856年 天京事変(てんけいじへん) 天京(南京)で1856年に発生した太平天国の指導部の内紛である。東王楊秀清・北王韋昌輝・燕王秦日綱が命を落とし、2万人余りが殺害された。天京事変は太平天国が衰亡へ向かう転換点となった。
アロー号事件 1856年10月8日に清の官憲がイギリス船籍を名乗る中国船アロー号に臨検を行い、清人船員12名を拘束、そのうち3人を海賊の容疑で逮捕したことを発端に戦争にまで発展した一連の事件のこと。

当時の広州領事ハリー・S・パークスは清国の両広総督・欽差大臣である葉 名琛に対しイギリス(香港)船籍の船に対する清官憲の臨検は不当でイギリスの国旗を引き摺り下ろした事は、イギリスに対する侮辱だとして抗議した。

清側はこれに対して国旗は当時掲げられていなかったと主張したが、パークスは強硬に自説を主張し、交渉は決裂。実際には、事件当時に既にアロー号の船籍登録は期限を数日過ぎており、アロー号にはイギリス国旗を掲げる権利は無いし、官憲によるアロー号船員の逮捕は全くの合法であった。

しかし、清国側の葉 名琛も基本的な事実関係の調査を全く行わずこの事実に気がつかなかった。パークスの行動を見た清国駐在全権使節兼香港総督ジョン・ボーリングは現地のイギリス海軍を動かして広州付近の砲台を占領させた。これに対して広州の反英運動は頂点に達し、居留地が焼き払われた。
パンゼーの乱 1856年から1873年にかけて現中華人民共和国の雲南省で発生した回族主導によるムスリム系少数民族達が清朝に対して起こした大規模な反乱である。パンゼーはビルマ人(現ミャンマー)による雲南回民の呼称である。この事件は中国では“杜文秀起義”と呼ばれている。
1857年 アロー戦争(第二次阿片戦争) 清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争。

阿片戦争後の南京条約により、様々な特権を得たイギリスであったが、内地へと入ることは認められておらず、また清国内での反英運動も激しくなり、期待した程の商業利益は上がらなかった。この理由を清の貿易機構に求めたイギリスの政界では、再び戦争を起こしてでも条約の改正を求めるべきだとの意見が強くなっていた。そしてその口実とされたのが上記のアロー号事件である。

イギリス首相パーマストン子爵は現地の対応を支持(上記のアロー号事件参照)し、本国軍の派遣を決定。一時は、議会の反対により頓挫したが、パーマストンはこれに対して解散総選挙を行い、今度は議会の支持を受けて、現地に兵士5000からなる遠征軍を派遣した。同時にフランスに共同出兵を求め、フランスは宣教師が逮捕斬首にあった事を口実として出兵した。

1857年12月29日、英仏連合軍は広州を占領して葉 名琛を捕らえた。翌年2月にはイギリス、フランス、ロシア、アメリカの全権大使連名により北京政府に対して条約改正交渉を求めた。しかしこれに対する清の回答に不満を持った連合軍は再び北上して天津を制圧し、ここで天津条約を結び、連合軍は引き上げた。しかし、連合軍が引き上げた後の北京では天津条約を非難する声が強くなり、この条約内容を変更しようと動いていた。

1859年6月17日、英仏の艦隊は天津条約の批准のために天津の南の白河口に来た。これに対する清の迎接は無く、また白河には遡行を妨げる障害物が配置されていた。これを取り除いている最中に大砲で清の攻撃を受けた英仏艦隊はモンゴル人将軍センゲリンチンの軍に敗れて上海へ引き返した。

激怒した英仏軍は大艦隊と約1万7千人の兵隊という大軍で再度進軍して清の砲台を占領し、清側との交渉に当たった。しかし、ここでハリー・パークスらが皇帝の指示によってセンゲリンチンに囚われ、使節団のうち11名が拷問の上で殺害されると言う事件が起こったために決裂し、連合軍は北京に迫ったため、狼狽した咸豊帝は熱河に避難した。

10月7日、8日、英仏連合軍ことに仏軍は円明園で略奪した。エルギン伯爵は7日夕方、円明園から引き上げてすぐに、その有様を「今や廃墟。見た限り、略奪、粉砕が半分もされなかった部屋はひとつもない。仏軍は織物を引き裂き、工芸品を壊して回り、尚且つ略奪した。」等と記している。

10月18日、19日、英軍は清朝による捕虜殺害に対する報復として円明園を焼き払った。仏軍と英軍は、仏軍による略奪と英軍による焼き払いを、互いに非難し合った。 1860年、連合軍は北京を占領し、英仏遠征軍司令官と恭親王との間に北京条約が締結され戦争は終結した。
1858年 アイグン(璦琿)条約 ロシア帝国と清が結んだ条約。この条約によって、1689年のネルチンスク条約以来、清国領とされてきたアムール川左岸をロシアが獲得し、ウスリー川以東の外満州(現在の沿海州)は両国の共同管理地とされた。また、清はロシアにアムール川の航行権を認めた。

19世紀から20世紀初頭にかけて、清が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。太平天国の乱やアロー戦争(第二次アヘン戦争)による清国内の混乱に乗じたロシア帝国東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが、停泊中のロシア軍艦から銃砲を乱射して、調印しなければ武力をもって黒竜江左岸の満洲人を追い払うと脅迫し、清国全権・奕山に認めさせた。

現在のロシア連邦と中国の極東部での国境線は、この条約と下記の北京条約で確定されたものが基本となっているが、その後の河川の流路の変化により、中ソ国境紛争など両国の対立の原因の一つとなっていた。しかし、2004年にようやく国境全部の画定が完了した。
1858年 1858年の天津条約(てんしんじょうやく) 清国と諸外国間に締結された17条約の通称。清朝が天津でロシア帝国・アメリカ合衆国・イギリス・フランスの4国と結んだ。この条約は広範囲な外国の特権を規定しており、それ以後の不平等条約の根幹となった。

条約の内容は、

 ・軍事費の賠償(イギリスに対し400万両、フランスに対し200万両の銀)
 ・外交官の北京駐在
 ・外国人の中国での旅行と貿易の自由、治外法権
 ・外国艦船の揚子江通行の権利保障
 ・キリスト教布教の自由と宣教師の保護
 ・牛荘(満州)、登州(山東)、漢口(長江沿岸)、九江(長江沿岸)、鎮江(長江沿岸)、台南(台湾)、淡水(台湾)、潮州(広東省東部、後に同地方の汕頭に変更)、瓊州(海南島)、南京(長江沿岸)など10港の開港
 ・公文書における西洋官吏に対して「夷」(蛮族を指す)の文字を使用しない


を主な内容とするが、英仏軍が引き上げると清廷では条約に対する非難が高まり、条約の批准を拒んだ。このため英仏軍はさらに天津に上陸、北京を占領し、ロシアの仲介で下記の1860年の北京条約が締結された。
1860年 北京条約(ぺきんじょうやく) 清朝とイギリス・フランスが締結した天津条約の批准交換と追加条約である。また仲介したことを口実に清とロシアとの間でも新たな条約が結ばれた。

この条約で、

・清朝は英仏への800万両の賠償金の支払い(天津条約で課せられた額600万両より増額)
・天津条約の実施
・北京への外交官の駐留
・天津の開港
・清朝による自国民の海外移住禁止政策の撤廃と移民公認


また英仏個別の条項では、清朝が没収したフランスの教会財産の返還、および英国へ九竜半島の南部九竜司地方(香港島に接する部分)を割譲することが定められた。
1861年 咸豊帝(かんぽうてい)死去し、同治帝(どうちてい)即位 アロー戦争により熱河に逃れた清朝の第9代皇帝「咸豊帝」は1861年に崩御した。

咸豊帝死後の政治の実権をめぐり、載淳の生母である懿貴妃と咸豊帝の遺命を受け載淳の後見となった8人の「顧命大臣」載垣、端華、粛順らは激しく争った。懿貴妃は皇后鈕祜禄氏と咸豊帝の弟で当時北京で外国との折衝に当たっていた恭親王奕訢を味方に引き入れた。そして咸豊帝の棺を熱河から北京へ運ぶ途上でクーデターを発動し載垣、端華、粛順らを処刑(辛酉政変:下記参照)し権力を掌握した。

同治帝は中国清朝の第10代皇帝。即位当初から東太后、西太后、叔父の恭親王による摂政で政治が進められ、同治帝在位中を通して実権は西太后に握られていた。1875年、同治帝は19歳の若さで早世する。その死因は、天然痘ともお忍びで遊郭に出向いた際に罹患した梅毒とも言われる。なお清東陵に陵墓がある。
辛酉政変(しんゆうせいへん) 西太后や恭親王奕訢らが、粛順一派を排除した清朝でのクーデターである。祺祥政変ともいう。これにより西太后と奕訢が清朝の実権を握ることとなった。
1862年 ヤクブ・ベクの乱 清末の1860年代から1870年代にかけての、東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区)をめぐる戦乱。ムスリムの蜂起の結果、ヤクブ・ベクによって東トルキスタンは統一されたが、最終的にヤクブ・ベクは清の左宗棠に敗れた。
回民蜂起 1862から1873年に陝西省・甘粛省を中心に発生したドンガン人の蜂起。この蜂起の結果、多くの回民が殺害され、陝西省では戦乱の前に70~80万いた回民が10年後には2~3万に減少したという。
1860年代前半- 洋務運動(ようむうんどう) 中国の清朝末期(1860年代前半 - 1890年代前半)に起こった、ヨーロッパ近代文明の科学技術を導入することで中国の国力増強を図ることを意図した運動。

運動の第一段階は太平天国鎮圧することであり、大量の銃砲や軍艦を輸入するだけでなく、ヨーロッパの近代軍備を自前で整備するために、上海の江南製造局に代表される武器製造廠や造船廠を各地に設置した。他にも、電報局・製紙廠・製鉄廠・輪船局や、陸海軍学校・西洋書籍翻訳局などが新設された。
1868年 揚州教案(ようしゅうきようあん) 1868年に清国・揚州で発生した教案(反キリスト教事件)。
1870年 天津教案(てんしんきょうあん) 1870年に天津で発生した教案(反キリスト教事件)。
1874年 日本による台湾出兵(牡丹社事件、征台の役) この出兵について、

・当時の琉球王国は、江戸時代には日本(薩摩藩)と中国大陸の清の間で両属関係にあり、日本で明治政府が成立すると、帰属を巡る政治問題が起こっていた
・当時台湾は清の統治下にあったが、清は台湾をあまり重要視していなかった。それ故に清の台湾統治は永らく消極的であり続け、統治範囲は台湾の島内全域に及んでいなかった。
宮古島島民遭難事件

以上を念頭におく必要がある。

当時、宮古・八重山地方では琉球王国の首里王府から人頭税が課されていたのだが、1871年(明治4年)10月、首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、漂着した69人のうち3人が溺死、山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民(台湾パイワン族、Sinvaudjan)によって殺害された。この事件が宮古島島民遭難事件である。日本政府は清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民(国家統治の及ばない者)」という返事があり、日本政府は台湾出兵を行った。

1874年、長崎に待機していた西郷率いる征討軍3000名は出兵を決断。5月6日に台湾南部に上陸すると台湾先住民と小競り合いを行う。5月22日に西郷の命令を受けて本格的な制圧を開始、6月には事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。だが現地軍は劣悪な衛生状態の中マラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。日本軍は激しく侵攻、熟蕃、生蕃各社は降伏した。最終的には牡丹社と高士仏社の頭目も降伏。

当時の国際慣習を知らない明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない国際問題であった。

事後処理として日本政府は大久保利通を北京に派遣し、交渉は9月10日に開始された。清国政府代表は面子もあり激しく抗議したが、大久保利通は、日本の意見を強力に主張した。清国の主張は、台湾生蕃の地は清国の属地である。「台湾府誌」に載せているのは属領の証拠である。清国の内地にも蕃地がある。副島使清の際の一場の説話である(口頭の言明であったこと)、万国公法は西洋諸国が編成したもので、清国のことは載せていない、などである。交渉は決裂しそうであった。英国は中国との貿易に利益をあげており、北京駐在英国公使トーマス・ウェードは、調停を申し出た。、交渉した結果、10月30日、以下の内容を含む日清両国間互換条款を締結した。

・清国はこの事件を不是となさざること。(「日本の台湾出兵を保民の義挙」と認める)
・清国は遺族にたいし撫恤金(ぶじゅつきん)(弔意金のこと)を出す。
・日本軍が作った道路、宿舎は有料で譲りうける。
・両国は本件に関する往復文書を一切解消する。
・清国は台湾の生蕃を検束して、後永く害を航客に加えないこと。
・日本軍は1874年12月20日まで撤退する。


この条款によって、両国は、琉球は日本国の領土であり、台湾は清国の領土であることを認めた。また、琉球民のことを<日本国属民>と表記することによって、条約上、琉球が日本の版図であることを日清両国が承認する形となり、琉球処分を進める上で、日本に有利に解釈される結果となった。
1875年 同治帝死去し、光緒帝(こうしょてい)が即位 光緒帝(こうしょてい)は中国清朝の第11代皇帝である。同治帝が早世した後に権力保持を狙う西太后によって擁立された。即位したのは3歳の時であり、当然実権は西太后が握っていた。

同治10年(1871年)のイリ問題、光緒2年(1876年)の琉球失陥、光緒11年(1885年)の清仏戦争によるベトナムへの影響力喪失、光緒20年(1894年)の日清戦争による朝鮮への影響力喪失など、相次ぐ自国のふがいなさを光緒帝は嘆き、国勢回復を切望するようになった。それゆえ康有為、梁啓超らによる変法運動への興味を強く持つようになり、西太后の傀儡から脱し、自らの親政により清の中興を成し遂げようとした。光緒帝は1898年に体制の抜本的な改革を宣言(戊戌の変法)。しかしあまりにも急進的な改革に宮廷は混乱し、保守派の期待は西太后へ集まるようになる。

西太后は当初静観していたが、変法派の一部が西太后の幽閉を計画。当初変法派に同調していた袁世凱は、変法派を裏切りこの計画を西太后の側近栄禄に密告した。西太后は先手を打ってクーデタを起こし、光緒帝を監禁し、変法派を弾圧した(戊戌の政変)。西太后は一時光緒帝の廃位を考え、端郡王載漪の子溥儁を大阿哥(皇太子)に立てたが、外国の反対にあい光緒帝の廃位は断念した。

義和団の乱が勃発し八ヶ国連合軍が北京に迫ると、西太后は光緒帝を連れて西安まで落ち延びる。その際に光緒帝の側室珍妃が西太后の命により井戸に投げ込まれて殺害された。外国との交渉で、事件の処分は直接首謀者だけに限られ、北京帰還後も実権は西太后が握り続けた。その後、西太后の主導で、かつての戊戌の変法と基本的に同じ路線の近代化改革である光緒新政が展開されるが、光緒帝は終始西太后の傀儡にとどまった。光緒帝は光緒34年(1908年)に死去。清西陵に陵墓がある。
1881年 イリ条約(サンクトペテルブルク条約) イリ条約(イリじょうやく、中国語: 伊犁條約)とは、1881年2月24日にロシア帝国と清朝の間で結ばれた条約。サンクトペテルブルク条約とも。1862年以降、清朝の支配に対して東トルキスタンのイスラーム教徒の反乱が続発した。これに乗じてロシア帝国が1871年にイリ地方を占領したため、露清間の紛争が起こった(イリ事件)。清は左宗棠を派遣して1878年に反乱を鎮圧し、ロシア軍の撤退を要求して紛争を重ねたが、1881年にイリ条約を結んだ。 中国語、ロシア語、フランス語の3ヵ国語を正文とし、解釈に相違がある場合にはフランス語文に拠る(第20条)とされた。当時としては珍しく清朝有利に国境の画定が行なわれ、清の対露賠償、通商協定などを決めて妥協が成立した。
1884年 清仏戦争(しんふつせんそう) ベトナム(越南)領有を巡るフランスと清との間の戦争。フランスでは戦争の遂行目的(領土領有)を結果的に達成した為、この戦争を「フランス軍の勝利」と捕らえるのが一般的である。しかしフランス軍は戦争中、幾つかの重要な戦いで質的に劣る清軍に敗北しており、軽視できない損害を出した。また講和も戦勝によってではなく、イギリスと清軍穏健派の手引きによって成立した側面が強い。
1885年 1885年4月の天津条約(てんしんじょうやく) 1884年12月に朝鮮において発生した甲申政変によって緊張状態にあった日清両国が、事件の事後処理と緊張緩和のために締結した条約。日本側全権・伊藤博文と、清国側全権・李鴻章の名をとって「李・伊藤条約」とも呼ばれる。この条約によって日清両国は朝鮮半島から完全に撤兵し、以後出兵する時は相互に照会することを義務付けられた。
1885年6月の天津条約 (てんしんじょうやく) 天津条約(てんしんじょうやく)は、1885年、清仏間に結ばれた、清仏戦争の講和条約である。清はベトナムに対する宗主権を放棄し、フランスの保護権と、中国南部における通商、鉄道建設をみとめた。

清仏戦争講和のため1884年5月に合意された停戦協定(李・フルニエ協定)に基づき、1885年6月9日に清仏間で天津にて締結された。1884年に合意されたフエ条約(第二次フエ条約、甲申条約)にて確立されたベトナム(アンナン及びトンキン)へのフランスの宗主権を認める内容となっており、中国側のベトナムに対する宗主権の放棄が明確となった。この結果、フランスはインドシナ植民地を確定し、植民地帝国を拡大した。内容は以下、

 ・清はベトナムをフランスの保護国として認知する
 ・ラオカイ(保勝)とランソン以北にそれぞれ通商港を開港する
 ・清が鉄道を敷設する際にはフランスの業者と商議する
 ・フランスは基隆、澎湖島から撤退する
1894年 日清戦争(にっしんせんそう) 主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と清の戦争である。朝鮮国内の甲午農民戦争の処理を巡って、日本と清国の対立が激化し、日清戦争に発展した。6月朝鮮に出兵した日清両国が8月1日宣戦布告した。

近代化された日本軍は、近代軍としての体をなしていなかった清軍に対し、終始優勢に戦局を進めた。清の北洋艦隊を壊滅させるなどし、遼東半島などを占領。翌年4月17日、下記の下関条約が調印され、日本は清から領土(遼東半島・台湾・澎湖列島)と多額の賠償金などを得ることになった。
旅順虐殺事件(りょじゅんぎゃくさつじけん) 日清戦争の旅順攻略の際、市内及び近郊で日本軍が清国軍敗残兵掃討中に旅順市民も虐殺した事件。旅順陥落後の犠牲者がどの程度の数に上るのかについては諸説ある。現代の中国側の研究では2万名弱という数が定説となっている。一方日本の研究では2000名弱~6000名という風にばらつきがある。
1895年 下関条約(しものせき じょうやく、日清講和条約、馬関条約) 日清戦争後の講和会議における条約である。主な内容は下記の通り。

・清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。(第一条)

・清国は、遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。(第二条、第三条)

・清国は、賠償金2億テール(現在価値で銀1kgが12万円程度なので、8950億円前後。当時価格で日本の国家予算8000万円の4倍強の3億6000万円前後)を日本に支払う。(第四条)

・割与された土地の住人は自由に所有不動産を売却して居住地を選択することができ、条約批准2年後も割与地に住んでいる住人は日本の都合で日本国民と見なすことができる。(第五条)

・清国は、沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放する。また清国は、日本に最恵国待遇を認める。(第六条)

・日本は3か月以内に清国領土内の日本軍を引き揚げる。(第七条)

・清国は日本軍による山東省威海衛の一時占領を認める。賠償金の支払いに不備があれば日本軍は引き揚げない。(第八条)

・清国にいる日本人俘虜を返還し、虐待もしくは処刑してはいけない。日本軍に協力した清国人にいかなる処刑もしてはいけないし、させてはいけない。(第九条)

・条約批准の日から戦闘を停止する。(第十条)

・条約は大日本国皇帝および大清国皇帝が批准し、批准は山東省芝罘で明治28年5月8日、すなわち光緒21年4月14日に交換される。(第十一条)


賠償金のテール(両)は、1テール=37.3gで2億両(746万kg相当)の銀払いだった。その後の三国干渉による遼東半島の代償の3000万両(111.9万kg)を上乗せして合計857.9万kg(現在価値(2011.4 日中銀取引相場価格)で銀1kgが12万円程度なので、1兆294億円前後。

当時価格で日本の国家予算8000万円の4倍強の3億6000万円前後)以上の銀を日本は清国に対して3年分割で英ポンド金貨で支払わせた。日本はこれを財源として長年の悲願だった金本位制への復帰を遂げた。一方賠償金の支払いは清国にとって大きな負担になり、清国は更に弱体化した。
1896年 露清密約(ろしんみつやく) 1896年6月3日にモスクワでロシア帝国と清の間で締結された秘密条約。ロシア側は外務大臣アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキーと財務大臣セルゲイ・ヴィッテ、清側は欽差大臣李鴻章が立ち会った。この条約は、日本がロシアと清のいずれかへ侵攻した場合に互いの防衛のため参戦するという相互防御同盟の結成が目的であったが、同時に、清に対しロシアの満州における権益を大幅に認めさせるという不平等条約の側面があった。日露戦争を惹起した原因の一つとされる。
1897年 曹州教案(そうしゅうきょうあん) 曹州教案(そうしゅうきょうあん)とは1897年に山東省曹州で発生した教案(反キリスト教事件)。鉅野教案・鉅野事件ともいう。

11月1日、山東省曹州府巨野県張家荘のカトリック教会が大刀会数人の略奪に遭い、教会内にいたフランツィスクス・ニース(Franciscus Nies、能方済)とリヒャルト・ヘンレ(Richard Henle、韓理加略)の2人のドイツ人神父が殺害された。また事件の直前には曹州府寿張県(現在の陽谷県寿張鎮)の教会が襲撃を受けるという事件も発生していた。

11月6日にドイツ帝国は事件を口実に山東省に出兵し、膠州湾を占領した。外交折衝が行われたが、交渉中に山東巡撫李秉衡は解任された。1898年に清朝は過失を認め、ドイツは22万両の賠償金を獲得し、済寧など3ヶ所に教会を建設させた。さらに独清条約が結ばれ、ドイツは99年の期限で膠州湾を租借し、鉄道建設権と鉱山の採掘権を得た。
1898年 戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう) 清王朝時代の中国において、光緒24年(1898年、戊戌の年)の4月23日(太陽暦6月11日)から8月6日(9月21日)にかけて、光緒帝の全面的な支持の下、若い士大夫層である康有為・梁啓超・譚嗣同らの変法派によって行われた政治改革運動をいう。日本の明治維新に範を取って上からの改革により清朝を強国にするという変法自強運動の集大成。あまりに短い改革の日数をとって「百日維新」と呼ばれることもある。
戊戌の政変(ぼじゅつのせいへん) 清において、光緒24年(1898年、戊戌年のおよそ100日間)に、西太后が、栄禄、袁世凱らとともに、武力をもって戊戌の変法を挫折させた、反変法の、いわばクーデターである。
1899年 アメリカによる門戸開放政策門戸開放通牒 アメリカによる清に対する政策と、その政策の一環として清への干渉強めていた列強国への二度の通牒の事を指す。

アメリカは伝統的にモンロー宣言による孤立主義の立場を取っていたが、1890年代のフロンティアの消滅に伴い、中南米、カリブ諸島、太平洋上の島々への急速に植民地を広げ自国権益を広げていった。アメリカは以前から大規模な市場を持つ中国大陸への進出を狙っていたが、既にイギリス、フランス、ロシア、ドイツ、日本などの列強によって市場は独占はされていたため、介入の余地がなかった。そのような状況を打開するためにアメリカが提唱したのが門戸開放主義だった。

19世紀半ばに自由貿易体制を整えて「世界の工場」としての地位を固めていたイギリスと、19世紀末には重工業においてイギリスを凌駕するにいたったアメリカは、どちらも中国における機会均等、自由貿易を望んでいた。そのため、日清戦争の清敗北を契機に起こった列強の中国分割は、経済的観点からすると望ましいものではなかった。

こうした経緯で、イギリスの働きかけもあってアメリカの国務長官のジョン・ヘイが、1899年にイギリス、ドイツ、ロシア、日本、イタリア、フランスの6国へ通牒を送った。これが第一次の門戸開放通牒である。第一次の通牒は、列強による中国分割自体を否定したものではなく、経済的な機会均等を訴えたものであった。

しかし、翌1900年に中国で民衆による排外運動である義和団の乱が勃発する。列強がこれを鎮圧するために派兵を図る中、アメリカは第二次の通牒を発した。ここでは経済的な機会均等に加え、列強が政治的に中国を分割することに対しての反対(領土保全)が強調されている。中国へ市場進出を果たすためには、中国においてなんらかの一国が強い勢力を有することは望ましくない。そのため、この通牒を通じて中国大陸における勢力均衡を図る狙いもあった。
1900年 義和団の乱(ぎわだんのらん、北清事変、庚子事変) 1900年に清で義和団を中心に発生した排外運動。清の民衆の支持を得た義和団は急速に拡大し、当時清の政権を掌握していた西太后も義和団を支持。欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった。だが、宣戦布告後2ヶ月も経たないうちに欧米列強国軍は首都北京及び紫禁城を制圧、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされる。

この乱については諸外国宣教師による清国での宗教活動を知る必要がある。天津条約以後、多くの宣教師が布教のため清へと入っていった。しかし、宣教師たちは、宗教的信念と戦勝国に属しているという傲岸さが入り交じった姿勢で清社会に臨み、その慣行を無視することが多く、しばしば地域の官僚・郷紳と衝突した。

例えば、布教活動や宣教師のみならず、信者と一般民衆との土地境界線争いに宣教師が介入したり、同じ中国人であるはずの信者も不平等条約によって強固に守られ、時には軍事力による威嚇を用いることさえあったため、おおむね事件は教会側に有利に妥結することが多かった。教会建設への反感からくる確執といった民事事件などから清国民は列強への反感を次第に募らせていき、地方官の裁定に不満な民衆は教会やその神父や信者を襲い、暴力的に解決しようとすることが多かった。

乱の主体となった義和団の起源は様々な説があり、単一のものに特定できていない。当初は盗賊を捕まえて役所に突き出すなど郷土防衛や治安維持を担った自警団的性格をもっていた。やがて前述したカトリック信者と一般民衆との土地争いに介入。1897年にカトリック側を襲撃し、教会の破壊や神父の殺害を決行した。同調した各地のグループが次第に統合していき勢力を拡大していった。そして義和団を名乗るようになり、外国人や中国人キリスト教信者はもとより、舶来物を扱う商店、はては鉄道・電線にいたるまで攻撃対象とし次々と襲っていった。

西欧列強の強い干渉によって清朝はこれらを鎮圧したが、鎮圧していた清にも義和団への同情を示す大官が複数おり、徹底したものには至らなかった。また、列強を苦々しく思っていた点は西太后以下も同じであり、その点も義和団への対処に手心を加え、列強への宣戦布告へ繋がった。

北京駐在公使の要請を受け、列強の連合軍は軍事介入を決定。激戦はいくつかあったが、戦闘は連合軍が清朝側を圧倒した。清朝軍と義和団は、連合軍と比べ圧倒的な兵数を有していたものの、装備という点で劣っていた。清側も近代兵器を取り入れている部隊はあったが、訓練不足のためを活用できず、暴発などで自滅した例も有った。義和団に至ってはその装備していた武器は刀槍がほとんどで、銃器を持った者などわずかしかいなかった。

また軍隊組織としてみた場合、義和団は言うに及ばず、清朝軍すら全体を統括指揮する能力に欠けていた。義和団は壊滅し、清は連合国と和議交渉を始め、逐次列国と清国間で協定を締結し最終確認として北京議定書を調印した。
東南互保(とうなんごほ) 清末の義和団の乱の間に、南方の各省が中央政府の命令に背いて、外国との開戦を拒否した事件である。
1901年 北京議定書(ぺきんぎていしょ、辛丑和約) 1901年9月7日に北京で調印された義和団の乱における列国と清国・義和団との戦闘の事後処理に関する最終議定書。北京議定書は列強諸国によって清朝の国権や財政力をもぎとる、まさに当時の中国に対する侵略を象徴する内容であった。そしてその内容のために清朝も、その後継政権である中華民国も苦しめられた。

しかし一方でこの内容は日本などに留学して近代ナショナリズムを取り入れつつある若者に取って大きな屈辱感を伴わせ、反清・革命運動に取り組む大きな理由の一つとなった。日清戦争から始まって戊戌の変法の失敗、そして辛亥革命による清朝打倒に至る大きな流れの一つとしても位置づけることができる。

・義和団に殺害されたドイツ公使と日本書記官に対する清朝要路者の弔問(ドイツ公使には皇弟醇親王載澧、日本書記官には戸部待郎那桐)と十分な賠償、さらに光緒帝本人の哀悼の意の表明。ドイツ公使に対する記念碑の建設。

・外国人殺害のあった市府は5年間科挙の受験を禁止する。

・清国の武器弾薬及び武器弾薬の原料の輸入を禁止する。

・清国は、賠償金として4億5000万両を銀で列国に支払う。この賠償金は年利4パーセントとし、39年間の分割払いとする。

・各国公使館所在の区域を特に公使館の使用のみに充てる。この区域は、各国公使館の警察権下に属する。また、・この区域内における清国人の居住を認めず、公使館を防御できる状況におく。

大沽砲台および、海岸から北京までの自由交通の妨げとなる砲台をすべて撤去する。

・清国は、列国の海岸から北京までの自由交通を阻害しないために、列国が同間の各地点を占領する権利を認める。その地点は、黄村・楊村・郎房・天津・軍糧城・塘沽・盧台・唐山・濼州・昌黎・秦皇島及び山海関とする。

・清国政府は、以下の上諭を各市府に向けて公布すること。

1:排外的団体に加入することを禁止する。禁を犯すものは死刑。
2:地方長官及びその配下の官吏は、自らの地域の秩序に責任があり。もし排外的紛争の再発その他の条約違反が発生し、その鎮圧をしなかったり犯罪者を処罰しなかったら、その官吏を罷免する。また、再雇用も恩典もその後受けることはできない。

・清国政府は、列国が有用と認める通商及び航海条約の修正ならびに、通商上の関係を便利にするための通商条項の内容の変更について今後検討する。

総理各国事務衙門を廃止、外務部を新設する。なおその際、外務部を六部の上位とすること。

この議定書は、列国協議のもとで清朝に拒否を一切認めない形で認められ、首都北京を占領された清朝(西太后李鴻章)はこれを呑まざるを得なかった。そのうちでも公使館周辺区域の警察権を列国に引き渡したり、海岸から北京までの諸拠点に列国の駐兵権を認めるといったものは、清朝領域内でその国権が否定され、列国が統治する地域が生ずるものに他ならなかった。この状況は第二次世界大戦の終了まで事実上維持された。

北京議定書で清朝に定められた賠償金4億5000万両(利払いを含めると8億5000万両になる)という額は、年間予算1億両足らずであった当時の清朝にはまさに天文学的な要求であった。さらにその賠償金の支払い源も海関税など確実な収入を得られるものを差し押さえる形で規定されていた。

列国は清朝や中華民国が賠償によって苦しむ姿を見て、国際社会の批判や自国の中国権益減少を恐れ、第一次世界大戦前後から賠償金の緩和をたびたび行った。特に20世紀初頭に中国接近の度を強めていたアメリカは賠償金を中国人留学生への援助や、大学の建設などに充当した。その大学の一つが現在北京にある清華大学である。 結局1938年までに6億5千万両が各列国に支払われ、ようやく賠償は終了した。
1904年 日露戦争(にちろせんそう) 1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満洲南部を主戦場として発生した戦争である。
1905年 ポーツマス条約 日露戦争の講和条約。日露講和条約とも。条約の概要は下記。

1.日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める
2.日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する
3.ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する
4.ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する
5.ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する
6.ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える

満州善後条約(まんしゅうぜんごじょうやく) 1905年(明治38年)12月22日に北京において日本・清国両国間で締結された条約。日本側特派全権大使小村寿太郎(外務大臣)及び特派全権公使内田康哉と清国側欽差全権大臣慶親王及び瞿鴻禨・袁世凱の間で調印され、全3条の本文と12ヶ条の付属協定、16項目の付属取決から構成された。

1907年 日露協約(にちろきょうやく) 日露戦争後に締結した、日本とロシア帝国がお互いに権益を認め合った4次に亘る協約。1907年7月30日に第1次条約が調印され、1916年7月3日に第4次条約が調印された。秘密条項では日本はロシアの外モンゴルにおける権益、ロシアは日本の朝鮮における権益を認めた。しかし、1917年のロシア革命でロシア帝国が滅亡すると、協約はソビエト連邦政府によって破棄され、日本は中国権益の危機を迎えることとなる。
1908年 光緒帝死去。宣統帝(せんとうてい)即位 宣統帝は清朝第12代にして最後の皇帝「愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)」である。中華世界の最終皇帝(ラストエンペラー)として知られる。

1900年に発生した義和団の乱を乗り越え、当時依然として強い権力を持っていた西太后が1908年に光緒帝の後継者として溥儀を指名したことにより、溥儀はわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代・宣統帝となった。即位式は紫禁城太和殿で行われ、新しい皇帝の即位は世界各国で大きく報じられた。その後溥儀は多くの宦官や女官らとともに紫禁城で暮らすこととなる。
1909年 日清協約(間島協約) 日本と中国を支配していた清朝との間で締結された条約で、通例では1909年9月4日に締結された「満州及び間島に関する日清協約」、別名「間島協約」を指す。この協約は、1910年の日本による韓国併合に先立って、清と大韓帝国(韓国)との国境を画定させる意味を持った。

・図們江(豆満江)を韓国と清朝の国境とする。(第1条)
・清国は間島の竜井村など4地域を外国人の居留・経済活動のために開放し、日本が領事館または分館を設置できる。(第2条)
・韓国人が豆満江以北の開墾地に居住することができる。(第3条)
・間島の韓国人は清国の法律に従う。ただし、訴訟事件では日本側の領事館員の立会や覆審請求権が認められる。(第4条)
・清国は間島の韓国人の土地・家屋の保護の義務を負う。また、往来の自由を認める。(第5条)
・吉長鉄道を延長して韓国鉄道と接続することを認める(第6条)
1911年 辛亥革命(しんがいかくめい)発生し、宣統帝退位 1911年から1912年にかけて、清で発生した革命。清朝が打倒されて古代より続いた君主制が廃止され、アジアでも初の共和制国家である中華民国が樹立された。勃発日の10月10日に因んで、「双十革命」「ダブル・テン(Double Ten)」とも称される。現在の台湾に繋がる政治潮流を造出した歴史的な革命であり、特筆すべき点として元号を廃止した革命でもある。

この時退位した宣統帝は、清朝第12代にしてラストエンペラー(最後の皇帝)」として知られ、、後に満洲国皇帝となる愛新覚羅溥儀である。
武昌起義(ぶしょうきぎ) 中国の武昌で起きた兵士たちの反乱。辛亥革命の幕開けとなる事件である。
1912年 中華民国(ちゅうかみんこく)成立 1912年1月1日に、革命家の孫文を臨時大総統として、中国大陸を中心とする中国を代表する国家として成立した。
1912年 孫文が中華民国臨時政府樹立

南北和議(なんぼくわぎ) 辛亥革命後、南京の臨時革命政府および孫文を臨時大総統とする中華民国政権(革命政権)と、北京の清朝との間で行われた、調整・政権統一のための交渉およびその結果としての和議のこと。南側による北伐(広西北伐軍、広東北伐軍、上海北伐軍、福建北伐軍など)と平行して行われたこともあり、その始点と終点は、必ずしも明確ではない。和議の主たる内容は、以下のとおりである。

1・宣統帝が退位し、清朝を終焉させる
2・臨時大総統の地位を孫文から袁世凱へ移譲する
3・政府は南京におき(首都を南京にし)、変更できない
4・新総統は南京で就任する(それが、孫文辞任の条件)
5・(臨時)約法を制定する
6・新総統は約法(およびそれに基づく法律)に拘束される(約法遵守を誓約する)
7・国会を開設する


しかし、袁世凱はこれらのうち、第3点、第4点、第6点については、きちんと遵守することはなかった。
北京政府(ぺきんせいふ)樹立 袁世凱を大総統とした中華民国政府。1928年に北伐軍によって北京が占領されるまで続いた。1912年1月1日の中華民国成立時点では、中国を代表する政府として国際的に承認されていた「清」がまだ北京に存続していた。 そのため、両者は宣統帝退位、臨時大総統職の孫文から袁世凱への移譲、「臨時約法」遵守などで合意し統一された。袁世凱は、中華民国の首都を南京から自らの勢力基盤である北京にうつしたが、これが北京政府のはじまりである。
清朝崩壊し、君主制が廃止される。第12代清朝皇帝「宣統帝」が退位 宣統帝(溥儀)の皇帝退位にあたり、清朝政府と中華民国政府との間に「清帝退位優待条件」が締結された。優待条件は、

皇帝は退位後も『大清皇帝』の尊号を保持し、民国政府はこれを外国元首と同等に礼遇すること。
溥儀が引き続き紫禁城(と頤和園)で生活すること。
中華民国政府が清朝皇室に対して毎年400万両を支払い、清朝の陵墓を永久に保護すること。
などが取りきめられた。そのため溥儀は退位後も紫禁城で宦官らと皇帝としての生活を続けた。またこの頃、弟の溥傑と初対面を果たした。
1913年 第二革命(だいにかくめい、二次革命) 1913年7月に中国で起きた、孫文ら国民党勢力による袁世凱政権打倒のための一連の軍事蜂起を指す。国民党側は内部統率が取れず、民間や海外の支持も集めきれない中で敗北し、鎮圧された。
1914年 シムラ条約 1914年7月3日にイギリス帝国とチベットの間で調印されて、チベットを独立した国家として認めた条約。ただし、中華民国は署名を拒否した。
第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん 第一次世界大戦は、1914年から1918年にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦である。ヨーロッパで勃発し、ヨーロッパが主戦場となった。しかしヨーロッパだけに留まらず、世界中の多数の国が参戦し、戦闘は世界各地で発生し拡大した。

その戦いは中国大陸でも発生した。大日本帝国陸軍とイギリス軍の連合軍は、当時ドイツ帝国東洋艦隊の根拠地であった中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を攻略。結果はドイツ軍が降伏、両軍は青島開城規約書に調印し、青島要塞は陥落した。連合国の勝利に大きく貢献したこれらの功績により、大日本帝国は連合国五大国の一国としてパリ講和会議に参加し、ヴェルサイユ条約によりドイツの山東省権益を譲り受けた。
1915年 対華21ヶ条要求(二十一か条要求) 第一次世界大戦中、日本が中華民国政府に行った21か条の要求と希望。これを境に日本と中国のナショナリズムは袂を分かった。 第一次世界大戦において中華民国は中立であったが、日本の対独宣戦布告に対し、山東半島において交戦区域を設定し自国領内での日独の戦闘を容認していた。しかし、日本軍は交戦区域外に進出、維県(三水の維)を占領し、青島攻略後も中国領の占領を継続した。

中華民国政府は交戦区域からの逸脱に抗議し、日本の膠済鉄道(山東鉄道)管理権要求を拒否し、青島陥落後は交戦区域全廃止しドイツ租借地外の日本軍の撤収を要求している。しかし日本は要求に応じず、山東支配の確立と、従来の権益の拡大を求めて、1915年(大正4年)1月18日、大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)が中華民国の袁世凱政権に5号21か条の要求を行った。主に次のような内容であった。

第1号 山東省について

・ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること
・山東省内やその沿岸島嶼を他国に譲与・貸与しないこと
・芝罘または竜口と膠州湾から済南に至る鉄道(膠済鉄道)を連絡する鉄道の敷設権を日本に許すこと
・山東省の主要都市を外国人の居住・貿易のために自ら進んで開放すること

第2号 南満州及び東部内蒙古について

・旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年に延長すること(旅順・大連は1997年まで、満鉄・安奉鉄道は2004年まで)
・日本人に対し、各種商工業上の建物の建設、耕作に必要な土地の貸借・所有権を与えること
・日本人が南満州・東部内蒙古において自由に居住・往来したり、各種商工業などの業務に従事することを許すこと
・日本人に対し、指定する鉱山の採掘権を与えること
・他国人に鉄道敷設権を与えるとき、鉄道敷設のために他国から資金援助を受けるとき、また諸税を担保として借款を受けるときは日本政府の同意を得ること
・政治・財政・軍事に関する顧問教官を必要とする場合は日本政府に協議すること
・吉長鉄道の管理・経営を99年間日本に委任すること

第3号 漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中華民国最大の製鉄会社)について

・漢冶萍公司を日中合弁化すること。また、中国政府は日本政府の同意なく同公司の権利・財産などを処分しないようにすること。
・漢冶萍公司に属する諸鉱山付近の鉱山について、同公司の承諾なくして他者に採掘を許可しないこと。また、同公司に直接的・間接的に影響が及ぶおそれのある措置を執る場合は、まず同公司の同意を得ること

第4号 中国の領土保全について

・沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと

第5号 中国政府の顧問として日本人を雇用すること、その他

・中国政府に政治経済軍事顧問として有力な日本人を雇用すること
・中国内地の日本の病院・寺院・学校に対して、その土地所有権を認めること
・これまでは日中間で警察事故が発生することが多く、不快な論争を醸したことも少なくなかったため、必要性のある地方の警察を日中合同とするか、またはその地方の中国警察に多数の日本人を雇用することとし、中国警察機関の刷新確立を図ること
・一定の数量(中国政府所有の半数)以上の兵器の供給を日本より行い、あるいは中国国内に日中合弁の兵器廠を設立し、日本より技師・材料の供給を仰ぐこと
・武昌と九江を連絡する鉄道、および南昌・杭州間、南昌・潮州間の鉄道敷設権を日本に与えること
・福建省における鉄道・鉱山・港湾の設備(造船所を含む)に関して、外国資本を必要とする場合はまず日本に協議すること
・中国において日本人の布教権を認めること


袁政権は日本人顧問を置くとする5号条項(7ヶ条分)を除き、要求を受け入れた。国民はこの要求が突きつけられた日(5月7日)と受諾した日(5月9日)を国恥記念日と呼んだ。日本の中国政策を批判する国際(特にアメリカの)世論が高まり、ワシントン海軍軍縮条約の場を借りた二国間協議で、日本は山東省権益などを放棄した。
中華帝国(ちゅうかていこく)樹立 政治家と袁世凱の帝政復活の企てによって樹立され、1915年末から1916年初めまで続いた短命政権。この企ては結局失敗したが、革命運動の進行は長年にわたって遅れ、中国は割拠した軍閥の各地方勢力に分裂した。
護国戦争(ごこくせんそう) 1915年~1916年にかけて、中国で発生した内戦。袁世凱が1915年12月に北京で帝政を宣言したことにより、南方の軍閥(雲南派)の唐継堯、蔡鍔、李烈鈞などが雲南省で独立を宣言し、あわせて袁世凱討伐の兵を起こした。袁世凱の軍隊は敗北し、南方のその他の地域でも独立を宣言することとなった。袁世凱は内外の圧迫により帝政を取り消し、数ヶ月後に病没した。
1916年 府院の争い(ふいんのあらそい) 中華民国(北洋政府)初期の1916年から1917年にかけて、中華民国大総統の黎元洪と国務総理の段祺瑞の間で行われた政治闘争である。1917年7月1日の張勲復辟を経て7月17日に黎元洪が大総統を辞職、強権型の段祺瑞が国務総理に返り咲いて政権を取った。
1917年 護法運動(ごほううんどう) 1917年から1922年にかけて孫文の指導の下、中華民国北京政府の打倒を図った運動のこと。
張勲復辟(ちょうくんふくへき) 1917年7月1日から12日間、張勲が清朝の廃帝である愛新覚羅溥儀を復位させた事件。
石井・ランシング協定 1917年11月2日、アメリカ合衆国ワシントンD.C.で日本の特命全権大使である石井菊次郎、アメリカ合衆国国務長官ロバート・ランシングとの間で締結された、中国での特殊権益に関する協定である。公文による共同宣言という形式になっている。

協定の内容はアメリカの中国政策の一般原則と日本が主張する特殊利益との間の妥協点を決定するものであった。アメリカはすでに日本の対華21ヶ条要求に対して「不承認政策」を取っており、日米両国政府の合意は「中国の独立または領土保全」と「中国における門戸開放または商工業に対する機会均等の主義」であった。ただし、ここには「特殊の権利または特典」は除外されていた。

そしてその特殊利益とは具体的に満州・東部内蒙古に対する日本の利益をアメリカが承認するところとなった。協定発表時に中国政府(中華民国・北京政府のこと。)は協定に対する抗議を表明している。1922年(大正11年)にワシントン会議で調印された九カ国条約の発効(1923年(大正12年)4月14日)により廃棄された。
1919年 パリ講和会議ヴェルサイユ条約 第一次世界大戦における連合国が同盟国の講和条件について討議した会議と、その結果調印された第一次世界大戦の講和条約を指す。これにより山東半島の権益がドイツら日本へ認められたため、中華民国では下記の五四運動が起こり、中華民国はこれを不満として調印しなかった。
五四運動(ごしうんどう) 1919年のヴェルサイユ条約の結果に不満を抱き発生した中華民国時の北京から全国に広がった反日、反帝国主義を掲げる大衆運動。5月4日に発生したのでこの名で呼ばれ、五・四運動、5・4運動とも表記される。

第一次世界大戦が終結し、パリ講和会議において日本側の「日本がドイツから奪った山東省の権益を容認」という主張が列強により国際的に承認されると、その少し前に朝鮮で起きた三・一独立運動の影響もあって、北京の学生数千人が1919年5月4日、天安門広場からヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求してデモ行進をしたり、曹汝霖宅を焼き討ちにしたりした。

袁の後継者である北京の軍閥政権は学生を多数逮捕し、事態の収拾に努めたが、北京の学生はゼネラル・ストライキを敢行、亡国の危機と反帝国主義を訴え、各地の学生もこれに呼応して全国的な反日・反帝運動に発展した。労働者によるストライキも全国的な広がりを見せ、6月10日には最終的に学生を釈放せざるをえなくなった。また、6月28日に中国政府はヴェルサイユ条約調印を最終的に拒否した。またこの運動は、その広がりの過程において日貨排斥運動へと性質を変え、アメリカ等でも華僑等の誘導による不買運動がみられた。
中国国民党(ちゅうごくこくみんとう)が結成される 孫文によって1894年11月にハワイで結成された興中会を母体として、辛亥革命後の1919年10月10日に、ロシア革命の影響を受け、広東において孫文等により結成された(国民革命党からの単なる「改組」「改称」である、との指摘もある)。同年の五・四運動に民衆の政治意識の高揚を読み取った上での孫文の決断であり、結成された当初の主要メンバーは、孫文の他、汪兆銘(汪精衛)など。なお、宋教仁により1912年に結成された「国民党」は、別の政党である。
1910年代から 新文化運動(しんぶんかうんどう) 1910年代の中国で起こった文化運動を指す言葉である。また、五・四新文化運動、五・四文化革命という呼ばれ方もする。その別称でも分かるように、この運動は、五四運動と不可分の関係にある。見方を変えれば、一連の新文化運動の中の最も重要な事件が五四運動であるとも言える。中心人物は、陳独秀であり、彼の創刊した「新青年」という啓蒙雑誌(白話運動を推進する文学革命の中心的雑誌)に寄稿した、魯迅・胡適・李大・呉虞・周作人などの人々が、運動の中心となった。その主張するところは、儒教批判、人道主義、文字改革、文学改革などであった。

礼教としての儒教に代表される旧道徳・旧文化を打破し、人道的で進歩的な新文化を樹立しようということを提唱し、学生・青年層に圧倒的な支持を受けた。また、当時の中国をとりまく国際情勢の中では、この運動が、政治的な主張・要求へと直結するのは、必然的な結果であった。また、民主主義と科学を中心とした新文化の運動の過程において、マルクス主義運動が中国に芽生えることとなり、1921年の中国共産党結党へとつながっているのである。
1910年代から 中独合作(ちゅうどくがっさく) 1910年代から1940年代にかけての中華民国とドイツの一連の軍事的・経済的協力関係を指す。独中合作とも。日中戦争直前の中華民国で、産業と軍隊の近代化に役立った。

軍隊と国防産業の近代化を必要とする中華民国と、資源の安定供給を必要としていたドイツの思惑が一致し、1920年代の終わりから1930年代の終わりにかけて、両国の関係は最高潮に達した。ナチスがドイツを支配し、日中戦争が始まるにつれてその関係は終わりを告げたが、中国の近代化に大きな影響を与え、日中戦争での善戦に寄与したと言える。
1920年 安直戦争(あんちょくせんそう) 中国の北京政府の主導権を巡って華北地方で安徽派の段祺瑞と直隷派の曹錕が戦ったため、「安(徽)直(隷)戦争」と呼ばれる。5日間の戦闘で安徽派は大敗し、段祺瑞の政権は崩壊した。
1921年 外モンゴルが中華民国から独立しモンゴル人民共和国 1921年、ボドー、ダンザン、ドクソムらの指導、スフバートルの軍事的活躍とソビエト連邦(ソ連)の赤軍の支援で中華民国から独立したモンゴルは、1924年にハーンである活仏(化身ラマ)の死に際して、コミンテルンの指導もあり、モンゴル人民革命党による一党独裁の社会主義国を宣言した。これがモンゴル人民共和国で、ソ連に続く世界で2番目の社会主義国家であった。
中国共産党(ちゅうごくきょうさんとう)が結成される 1921年7月に、コミンテルンの主導により、北京大学文科長の陳独秀や北京大学図書館長の李大、元北京大学図書館司書の毛沢東らが各地で結成していた共産主義組織を糾合する形で、上海にて中国共産党第1次全国代表大会(第1回党大会)を開催、結成されたとされる。

一般には、創立党員は57人とされるが、57人の名前が明確に示された文献はなく、本当に57人であるかは定かではない。 結成時に上海に集まった党員は13人であるとする説もあるが、公式記録では、12人とされている。また、顧問として、オランダ共産党政治局員が招聘されている。なお、創立党員で中華人民共和国建国まで生き残り、かつ、死ぬまで「中国共産党」内での名誉を保ちつづけた者は毛沢東と董必武のみとされる。

中華民国の統治期には、中国国民党と、時に協力し(1924年の第一次国共合作)、時に敵対し(1927年の蒋介石による4・12クーデター(上海クーデター)により国共分裂)、軍閥および日本との戦いを続けた。結党当初は、コミンテルンの指導が強く、また、ソビエト連邦への留学生が「中国共産党」の中心勢力であった。 そして広大な農村社会を抱える中国の特殊性を理解せずに大都市の労働者による武装蜂起を革命の基本路線と考えたコミンテルンの指導に忠実に従ったために、第一次国共合作に固執しすぎ、また、国共分裂後は、極左冒険主義に走りすぎるなどの路線の失敗を犯した。 一方で並行して、中国国民党からの熾烈な白色テロの標的ともなったため、中国国民党と比較しても、十分な抵抗勢力とはなりえなかった。

このような中で毛沢東は一農村に拠点を置いて活動していた。そうした農民を対象とした社会主義化の動きは、それまでのマルクス主義やレーニン主義のように労働者階級を中心とするものとは異なっていた。これは、当時の中国の人口の圧倒的多数を占めるのは農民であり、農民の支持なくして革命の実現はありえなかったためである。また、都市部が国民党に押さえられていたため、共産党の活動拠点は山奥の華中や華南の農山村地域にならざるをえなかった。1931年、毛沢東らは江西省瑞金において「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立した。
ワシントン会議(ワシントンかいぎ) 1921年11月12日 - 1922年2月6日、第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領ウオレン・G・ハーディングの提唱でワシントンD.C.で開かれた国際軍事会議。国際連盟の賛助を得ずに実施され、太平洋と東アジアに権益がある日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9カ国が参加、ソビエト連邦は会議に招かれなかった。アメリカ合衆国における初の国際会議であり、歴史上初の軍縮会議となった。国際社会の主導権がイギリスからアメリカに移った会議としての意義がある。
1922年 九カ国条約(きゅうかこくじょうやく) 1922年(大正11年)のワシントン会議に出席した9か国、すなわちアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・イタリア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民国間で締結された条約。

この条約は、中国に関する条約であり、門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括し、日本の中国進出を抑制するとともに中国権益の保護を図ったものである。日本は、第一次世界大戦中に結んだ石井・ランシング協定を解消し、機会均等を体現し、この条約に基づいて別途中国と条約を結び、山東省権益の多くを返還した(山東還付条約)。これ以後、国際社会は、ワシントン体制と呼ばれる、中国権益の侵害を忌む傾向に向かった。

九カ国条約の根本的誤謬は、中華民国の国境を明確に定めないで、その領土保全を認め、清朝に忠誠を誓ったモンゴル人、満洲人、チベット人、回教徒、トルキスタン人らの種族がその独立権を、漢人の共和国に譲渡したものと推定したことである。九カ国条約には、中国に強大な影響力を及ぼし得るソ連が含まれておらず、ソ連は、1924年(大正13年)には、外蒙古を中国から独立させてその支配下におき、また国民党に多大の援助を与えるなど、条約に縛られず自由に活動し得た。その結果、同条約は日本に非常に不利となった。
山東懸案解決に関する条約(山東還付条約)が締結、発行される 第1次世界大戦に参戦した日本はドイツが支配していた膠州湾と青島、山東鉄道を占領し、戦後に戦勝国として租借権の継承を要求、ヴェルサイユ条約でこれが認められた。中国側はこれに反発し、一般の中国人にも反日機運を高めた。これを憂慮した原敬内閣は東方会議において、将来的には中国側に返還することとしたが、日本側に有利な条件での返還を望んだ。

ワシントン会議が開催されると、アメリカ・イギリスの仲裁で山東還付問題が協議されることとなった。租借地と同地の公有財産の無条件返還については合意を得たものの、山東鉄道の問題で両者は対立した。日本側は山東鉄道返還の回避を狙い、山東鉄道の日中合弁化あるいは売却代金4000万円を借款化して長期による割賦とし半永久的な支配権を要求した。

これに対して中国側は即時一括での代金支払を要求した。そこでアメリカ・イギリスの提案で4000万円を15年満期の外債で日本に支払、満期まで運輸主任・会計主任に日本人を起用すること、ただし条約発効から5年経過した場合には中国側は随時繰り上げ償還を行えることを条件として妥協が成立した。その他、日本側は青島税関の管理権を中国側に返還し、日本側が青島での居留地の設置を求めない代わりに、中国側は青島を自由貿易港として外国人の自由な居住と営業を認めること、山東鉄道保護を理由として駐留する日本軍は山東省から撤退することなどが合意されて条約として締結された。

これに基づいて1922年末までに日本軍の撤退と租借地及び公有財産・青島税関の返還が完了し、翌1923年1月1日に山東鉄道が条約で認められた条件付ながら中国側に返還された。
奉直戦争(ほうちょくせんそう) 護法運動後の軍閥支配時代における中華民国での戦争。直隷派の呉佩孚と奉天派の張作霖の間で1922年(第一次)と1924年(第二次)の二回、戦争が行われた。1922年は直隷派が勝利したが、1924年は奉天派が勝利し、張作霖が政権を掌握した。
1923年 長沙事件(ちょうさじけん) 長沙において発生した排日運動を鎮圧するために日本海軍陸戦隊が上陸した事件。汽船「武陵丸」の入港に反対する学生の排日運動を鎮圧することが目的とされたが、上陸を機に排日運動はさらに激化したため鎮圧に手間取り、完全に沈静化したのは6月19日であった。
臨城事件(りんじょうじけん) 1923年、津浦線の急行列車を土匪が襲撃し、国際上、問題となった事件である。

東方文化事業(とうほうぶんかじぎょう、対支文化事業) 日本・中国共同運営で進められた文化事業の総称である。反日感情の緩和を目的に1923年、義和団事件の賠償金を基金に外務省管轄の事業としてスタートし、1925年からは日本・中国(中華民国)の共同運営となった。しかし1928年日中関係の悪化により中国側が運営から脱退し、以後日本単独の事業となった。事業内容としては中国での日系諸団体による社会活動への資金援助や、日中間の交換留学の促進の他、中心になったのは北京人文科学研究所・上海自然科学研究所・東方文化学院などの学術研究機関の設立運営である。
1924年 第一次国共合作(こっきょうがっさく) 中国国民党と中国共産党の間に結ばれた協力関係のことである。「合作」は協力関係を意味する。第一次国共合作は、軍閥および北京政府に対抗する共同戦線であった。国民党は1924年1月20日、広東で開催した第一次全国代表大会で、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立した。中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を取った。

1925年孫文が死去し、1926年に中山艦事件で蒋介石が共産党員を拘束するなどの軋轢があったが、その後国民革命軍総司令官になって実権を握った蒋介石が同年北伐を開始し、1927年に南京に国民政府が成立。1927年4月の上海クーデターによって国共合作は事実上崩壊。7月13日、中国共産党は対時局宣言を発し第一次国共合作の終了を宣言、国共内戦に突入した。
奉ソ協定(ほうそきょうてい) 張作霖首班の東三省政府(奉天軍閥)とソビエト連邦政府の間で締結された主に東清鉄道(東支鉄道もしくは中国東北鉄道と表記される場合あり)に関する協定である。正式な協定名は、中華民国東三省政府とソビエト社会主義連邦政府の協定(中华民国东三省自治政府与苏维埃社会主义联邦政府之协定)である。

1924年5月、中華民国北京政府とソ連両国は国交回復のための北京協定に調印した。その中で中東鉄路の利権を確認した。しかしこの同協定に不満を持つ東三省の張作霖政権は、中華民国北京政府とは別に9月20日に奉天(現在の瀋陽)で調印したのが奉ソ協定であった。

この協定ではロシア帝国時代からソ連が権益を持つ東清鉄道の利権を再確認する内容で、同鉄道の管理運営を取り決めたものであった。ただし在外鉄道資産はソ連が標榜するレーニン主義からすれば否定されるはずの帝国主義的資産であり、本来の共産主義から矛盾した存在であった。また1925年からは中ソ国境線の画定作業が始まったが、中国の動乱(北伐)を理由に翌年に中止された。この協定は1929年に張作霖の死後後継者となった子息の張学良が協定違反を理由にソ連から鉄道権益を実力回収を試みたため、破棄された。
北京政変(ぺきんせいへん) 第二次奉直戦争の最中に1924年10月23日に直隷派軍閥の馮玉祥によって中華民国の首都北京で起こされたクーデターである。首都革命ともよばれる。
1925年 孫文(そん ぶん)が死去 1925年、有名な「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命未だならず)」との一節を遺言に記して(実際には汪兆銘が起草した文案を孫文が了承したもの)北京に客死し、南京に葬られた。
五・三〇事件(ごさんじゅうじけん) 1925年5月30日に中国・上海でデモに対して租界警察が発砲し、学生・労働者に13人の死者と40人余りの負傷者が出た事件。中国語では「五卅慘案(拼音: Wǔ-Sà Cǎn'àn )」と呼ぶ。またこの事件に続く一連の反帝国主義運動を、五・三〇運動(中国語: 五卅運動 Wǔ-Sà Yùndòng)という。

1925年5月15日、上海にある日本資本の綿紡績工場の争議中に、工場側当事者が発砲し死傷者が出たことが発端となり、学生らがビラ配布、演説等の抗議活動を行い、5月30日には数千人規模のデモを組織した。上海租界当局および日本、イギリスなど租界の諸外国は強硬に対処し多数の逮捕者が出た。イギリス租界警察がデモ隊に発砲し、参加していた学生・労働者ら13人が射殺され、40人余りが負傷した。これをきっかけに、全市規模のゼネストに発展した。

さらに6月に始まった省港大罷工など全国に同様の運動が広がった。省港大罷工は広東省と香港で行われ、香港を封鎖した。上海を含めた他地域の運動が沈静化する中1926年10月まで続けられた。この事件は、例えば運動の中心が学生から労働者へ変わったなど、中国の民衆運動が五四運動から次の時代・段階に入ったことを示す画期的な事件であるとされる。また1925年7月の広東(広州)国民政府成立を後押しする大きな力となったとも評価されている。
中国国民党により国民革命軍(こくみんかくめいぐん)が建軍される 国民革命軍は、北伐により中国を統一することを使命とする軍隊として中国国民党によって建軍された。コミンテルンの支援を得て組織され、三民主義の教義に基づき指導が行われ、党、政府、軍の区別がはっきりしないことが度々あった。軍の将校の多くは黄埔軍官学校を卒業し、この学校の最初の校長は蒋介石であった彼は1925年、成功する北伐が開始される前に国民革命軍の最高司令官に就任した。国民革命軍の有名な司令官には蒋介石以外にも杜聿明と陳誠がいた。

日中戦争の時期には中国共産党の軍隊は名目上は国民革命軍の一部として八路軍と新四軍を組織して戦ったが、この協力体制は後に崩壊した。中国の国共内戦において国民革命軍には脱走や、多くの部隊が中国共産党のために戦う側に寝返るという問題を持っていた。1949年に人民解放軍に敗北した後は台湾に逃れ、後に中華民国陸軍と名称を変え、今日に至っている。
1926年 中山艦事件(ちゅうざんかんじけん) 1926年3月20日中華民国の広州で軍艦中山艦の回航をきっかけに、黄埔軍官学校長蒋介石が中国共産党員らの弾圧を開始した事件。「三二〇事件」「広州事変」とも。この事件をきっかけに中国国民党内での蒋介石の地位が急速に上昇し、また翌年4月の上海クーデターで第一次国共合作が破綻へ向かう端緒となったが、事件の中核の経緯は未だにはっきりしていない。
中国国民党北伐開始 蒋介石指導の国民党による全国統一を目指して戦われた北京政府や各地軍閥との戦争。上記の中山艦事件を契機に、急速に台頭してきた蒋介石が中心となり、1926年7月1日、国民政府は「北伐宣言」を発表、北伐が開始された(第1次北伐)。北伐軍は、統一を望む輿論を背景に北京政府や各地軍閥を圧倒、翌1927年には南京、上海を占領した。

しかし、中国国民党内部で中国共産党が勢力を拡大したこともあり、4月12日蒋介石は、党内の中国共産党員の粛清を行った(上海クーデター)。その後、上海クーデターから中国国民党の武漢と南京分立(寧漢分裂)、武漢国民政府の中国共産党と決別及び南京国民政府との合流、広州張黄事変に至るまでの間は中国国民党内の混乱によって北伐は一時停滞をみせた。

蒋介石が事態の収拾に成功し権力を掌握すると、1928年4月8日に北伐を再開した(第2次北伐)。日本(首相田中義一)は、中国にある既得権益及び治安の維持のため、山東省に軍を派遣し(山東出兵)、居留民の保護にあたった。この時、済南に入った北伐軍との間で武力衝突が発生した(済南事件)。その後、北洋軍閥の閻錫山、馮玉祥らを傘下に加え進撃した。そして、6月4日奉天派の首領である張作霖が北京を撤退した後、6月15日に北京を占領した(その後、張作霖爆殺事件が起こった)。父のあとを継いだ張学良が12月29日に降伏したこと(易幟)をもって、北伐は完了し一応の全国統一を果たしたのであった。

しかしこの「北伐」完成は、地方の軍閥勢力を残存させたままでの極めて妥協的な「中国統一」であったため、1929年3~6月には蒋桂戦争が、1930年5~11月には中原大戦が勃発する等絶え間ない戦乱が続いた。また、これに中国の共産化を狙うソ連ー中国共産党の工作や、大陸における既得権益を防衛したい英国や日本等の思惑、中国市場の主役の座を獲得したい米国の謀略が加わり、国内政治は常に安定しなかった。
万県事件(まんけんじけん) 中華民国四川省万県で発生した事件。英国の商船が現地の軍閥とのトラブルの末拿捕された。英国側は商船奪還のため砲艦2隻を派遣して砲撃を加え、万県の町を破壊した。 これによって中国人は縮み上がり、長江一帯の反英運動は終息した。
1927年 漢口事件(かんこうじけん) 1927年1月3日、揚子江中流の漢口で、日本の租界が襲われて暴民による掠奪が行なわれ、日本海軍陸戦隊が発砲した事件。日本軍の水兵と中国の少年との口論を端緒に次第に拡大していったとされる。
上海クーデター(四・一二事件) 中国国民党右派の蒋介石の指示により、上海で中国共産党を弾圧した事件のことを指す。
中国共産党、鉄軍(紅軍)を建軍 中国共産党による一番最初の軍組織である。紅軍は時期と地域で様々な呼称・組織を持っていた。似通った名称が同時期あるいは別時期に、同地域あるいは別地域で使用されている。当時は地域名などで呼び分けていたものと見られる。イデオロギーで結ばれた軍隊であり、どの軍隊もすべて通称は「紅軍」である。

後に中国共産党は8月1日を建軍記念日とし、紅軍・八路軍・人民解放軍を通じて祝日となっている(軍隊内部のみの記念日であるが、中華人民共和国では全国各地で式典が開催される)。中国人民解放軍の軍旗、国籍マーク、また軍服の帽章に描きこまれている「八一」の文字は、この南昌起義の日すなわち建軍記念日に由来する。
南昌起義(なんしょうきぎ) 1927年8月1日に中国共産党が江西省南昌で起こした武装蜂起である。
蒋介石が南京国民政府(蒋介石政権)を樹立 同年4月18日南京で樹立した、中国国民党の蒋介石を事実上の指導者(一時、国家主席)とした政府。1949年4月23日に共産党の中国人民解放軍が南京を占領、10月1日に中華人民共和国が成立すると、共産党による中国大陸支配が始まった。これを受けて、2ヶ月後の12月7日に、中華民国政府は台北への疎開が決定された。
寧漢分裂(ねいかんぶんれつ) 寧漢分裂(ねいかんぶんれつ)は、1927年の国民政府の北伐期間中に、共産党に対する立場の相違から引き起こされた中国国民党内部分裂のことである。寧と漢はそれぞれ南京と武漢を指す。蒋介石は武漢政府では中国共産党が優勢な状況になったので、南京で別に国民政府を組織し、清党を主張した。武漢政府は蒋の党籍からの除名と併せて南京征伐軍の派遣を計画した。
大日本帝国、山東出兵(さんとうしゅっぺい)を開始 1927年(昭和2年、民国16年)から1928年(昭和3年、民国17年)にかけて、3度にわたって行った中華民国山東省への派兵と、その地で起こった戦闘。

1926年蒋介石は国内の勢力統一、主に軍閥・張作霖の北京政府撲滅を目指して北伐を開始する。これを受けて日本政府は、中国内の日本権益が北京政府の支配地に多いことから、これらが北伐軍に侵されることを恐れていた。同時期に新たな軍縮会議をジュネーヴで行っていたが、社会情勢の変化によって決裂、日本は山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、山東省へ陸海軍を派遣することを決定。

日本と関東州の大連及び天津から南下した日本軍は首尾よく展開、治安維持活動を開始した。しかし、蒋介石の北伐軍は張作霖に敗北して山東省に入ることなく撤退したため、日本軍もすぐに撤退した。なお、この年に日本領事館が中国共産党及びコミンテルンの策謀によって北伐軍や中国人による暴行や掠奪、陵辱に遭うなど、反日運動は最高潮に達した(南京事件)。これらの出兵は日本人と日本権益の保護を目的としていて、中国民族主義の伸長を恐れる英米も無条件で歓迎した。

翌1928年(昭和3年)3月、形勢を立て直した蒋介石の北伐軍は広州を出発して北上し、山東省に接近、4月末に10万人の北伐軍が市内に突入した。このため日本軍も再び派遣され、6千人が山東省に展開した。省内で日本軍と北伐軍が対峙し、睨み合いながらも当初は両軍ともに規律が保たれていた。

しかし、北伐軍兵士が日本人の家を略奪したため、警備をしていた日本軍と銃撃戦が起こった。ところが、ここで蒋介石に「日本軍が中国人を虐殺している」との出自不明の情報がもたらされ、激怒した蒋介石が日本人12名を殺害させる済南事件が発生した。済南近くの鉄道駅で日本人9人分の惨殺死体が日本軍によって発見され、日本軍は市内に2千人いる日本人保護のために済南城を攻撃、北伐軍は城外へ脱出し北伐を再開した為、5月11日には済南全域を占領した。この事件により日本の世論は憤激、中国に対する感情が悪化した。年内中に蒋介石は北伐を完成させぬまま終了し、1929年には山東全域から日本軍が撤退した。
1927年の南京事件 (なんきんじけん) 国民軍総司令蒋介石の北伐軍が南京を占領し入城した際、反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、日1人、英2人、米1人、伊1人、仏1人、丁1人の死者、2人の行方不明者が出た襲撃事件。
寧漢戦争(ねいかんせんそう) 1927年10月から11月まで、武漢国民政府と南京国民政府の間で勃発した戦争である。新広西派を主力とする南京政府の勝利で終わった。
田中上奏文(たなかじょうそうぶん) 田中上奏文は、その記述によれば第26代内閣総理大臣田中義一が1927年(昭和2年)、昭和天皇へ極秘に行った上奏文であり、中国侵略・世界征服の手がかりとして満蒙(満州・蒙古)を征服するための手順が記述されている。松岡洋右、重光葵などの当時の外交官は、日本の軍関係者が書いた文書が書き換えられたものではないかと見ていた。田中上奏文を本物であると考える人は現在でも特に日本の国外に存在する。

中国の征服には満蒙(満州・蒙古)の征服が不可欠で、世界征服には中国の征服が不可欠であるとしているため、日本による世界征服の計画書だとされた。田中上奏文は中国語で4万字といわれる長文のものである(日本語の原文は未だ確認されていない)。

1.満蒙に対する積極政策(資料により「総論」とする)
2.満蒙は支那に非らず
3.内外蒙古に対する積極政策
4.朝鮮移民の奨励及び保護政策
5.新大陸の開拓と満蒙鉄道
通遼熱河間鉄道、洮南より索倫に至る鉄道、長洮鉄道の一部鉄道、吉会鉄道、吉会戦線及び日本海を中心とする国策、吉会線工事の天然利益と附帯利権、揮春、海林間鉄道、対満蒙貿易主義、大連を中心として大汽船会社を建立し東亜海運交通を把握すること
6.金本位制度の実行
7.第三国の満蒙に対する投資を歓迎すること
8.満鉄会社経営方針変更の必要
9.拓殖省設立の必要
10.京奉線沿線の大凌河流域
11.支那移民侵入の防御
12.病院、学校の独立経営と満蒙文化の充実
13.附属文書
1928年 済南事件(さいなんじけん) 1928年(昭和3)5月3日、中国山東省の済南で、日本の権益確保と日本人居留民保護のため派遣された日本軍(第二次山東出兵)と北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件。蒋介石は日本軍による北伐の妨害であったと後に非難している。藤田栄介青島総領事は、南軍による組織的に計画された衝突と述べている。
張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん) 1928年(昭和3年、民国17年)6月4日、関東軍によって奉天軍閥の指導者張作霖が暗殺された事件。別名「奉天事件」。中国では、事件現場の地名を採って、「皇姑屯事件」とも言う。終戦まで事件の犯人が公表されることはなかった。

また、張作霖爆殺事件はスターリンの命令にもとづいて、ナウム・エイチンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという「ソ連特務機関犯行説」もある。
易幟(えきし) 張学良が、北洋政府が使用していた五色旗から、蒋介石率いる国民政府の旗である青天白日満地紅旗に旗を換え、国民政府に降伏した事件のことを指す。1928年12月29日、国民政府はこれを受け入れた。この易幟により、蒋介石の北伐は終了し、中国国民党が形式的に中国を統一した。
1929年 蒋桂戦争 1929年3月から6月までの間に、中華民国国民政府内部での新広西派(新桂系)軍閥と蒋介石の勢力との間で行われた内戦である。3か月間の蒋桂戦争は蒋介石の勝利で終わった。「寧漢戦争」と「第2次北伐」から絶えず勢力を拡張してきた新広西派にとって深刻な打撃を受けることとなった。
中ソ紛争(中東路事件、奉ソ戦争) 1929年の中ソ紛争は、中東路(中東鉄路)を巡りソビエト連邦と中華民国の間で起こった軍事衝突である。中東路事件、奉ソ戦争、東支鉄道紛争とも呼ばれる。北伐を終えて統一された中国にとって外国との初めての交戦であった。紛争の発端は、中ソの共同管理下に置かれていた中東鉄路の利権を、中国が実力で回収しようとしたことにある。自衛を理由にソ連軍が満州国境地帯に侵攻し、中国軍は大敗した。原状復帰を内容とする停戦協定が結ばれてソ連軍は撤収したが、その後も中国側は協定の無効を主張して再交渉を要求し続けた。
1930年 中原大戦(ちゅうげんたいせん) 中国の中原において、1930年に、軍閥が蒋介石に対して起こした内戦のこと。
1931年 中村大尉事件(なかむらたいいじけん) 1931年(昭和6年)6月27日、新潟県蒲原郡出身の陸軍参謀中村震太郎(1897年-1931年)大尉と他3名が軍用地誌調査の命を受け、大興安嶺の東側一帯(興安嶺地区立入禁止区域)に農業技師と身分を詐称して潜入し密偵していた際、中国張学良配下の関玉衛の指揮する屯墾軍に拘束され、銃殺後に遺体を焼き棄てられた事件のこと。
万宝山事件(まんぽうざんじけん) 1931年7月2日に満州内陸に位置する長春の北、三姓堡万宝山の朝鮮人農民を、中国人農民が水利の利害関係より襲撃、さらに中国人と朝鮮人との両者の争いに、止めに入った日本の警察官とも衝突した事件。この事件を契機に朝鮮半島で中国人排斥の暴動が発生し、多くの死者重軽傷者がでた。
柳条湖事件(りゅうじょうこじけん) 柳条湖事件は、満洲事変の発端となった事件である。柳条湖(溝)事件は、河本大佐の後任の関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀しておこなわれた。奉天特務機関補佐官花谷正少佐、張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、河本末守中尉らが工作を実行した。第二次世界大戦後に発表された花谷の手記によると、関東軍司令官本庄繁中将、朝鮮軍司令官林銑十郎中将、参謀本部第1部長建川美次少将、参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らも、この謀略に賛同していた。

1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、中華民国の奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽)北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、線路が破壊された。関東軍は、これを張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、直ちに中華民国東北地方の占領行動に移った。

実際には、爆破は関東軍の虎石台(こせきだい)独立守備隊の一小隊が行ったものであり、つまり関東軍の自作自演であった。この爆破事件のあと、南満洲鉄道の工員が修理のために現場に入ろうとしたが、関東軍兵士によって立ち入りを断られた。また、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過したことからも、この爆発がとても小規模だったことが伺える。
満州事変(まんしゅうじへん) 1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍(満洲駐留の大日本帝国陸軍の軍)が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、大日本帝国と中華民国との間の武力紛争(事変)である。中国側の呼称は九一八事変。
中国共産党が中華ソビエト共和国樹立 1931年11月7日に江西省瑞金を首都として中国共産党が樹立した政権。主席は毛沢東。共産党軍が国民党軍の包囲から脱出し、長征に出る1934年10月に事実上消滅した。
1932年 上海日本人僧侶襲撃事件(しゃんはいにほんじんそうりょしゅうげきじけん) 1932年1月18日午後4時ころ馬玉山路を団扇太鼓をならし南無妙法蓮華経を唱えながら勤行していたいずれも日本人の日蓮宗僧侶2名と信者3名が、抗日運動の活動根拠地と見なされていた三友實業公司のタオル製造工場前の路地で、突如中国人と見られる数十人の集団に襲撃された。その結果、僧侶の水上秀雄が死亡し、天崎天山ら2名が重傷を負った。犯人は中華民国側の警察官の到着が遅れたため逃亡した。日本政府は現地の「抗日会」による犯行であるとして、総領事を通じて抗議し反日組織の解散と反日報道機関の閉鎖を要求したが、上海の工部局(市政府)は応じなかった。

この事件により、日ごろから中国人に反感を抱いていた上海の日本人居留民の怒りを爆発させ、青年同志会員が中国人街に殴り込みをかけ、1月20日には事件の現場になった「反日」の三友實業公司に30人が乱入し工場を放火、中国人と乱闘になり中国人2人を斬殺する一方で日本人1人も射殺され多数が負傷するなど、各所で暴力事件が続発したため、上海の工部局は戒厳令を敷いた。1月20日に上海の日本人居留民は、中華民国の排日運動殲滅すべしとの決議を行った。そして1月28日に居留民保護のために派遣された日本軍と中華民国国府軍とが軍事衝突する上海事変が勃発した。

上海事変の引き金となったこの事件は、現在では関東軍による策謀であるとの説が有力である。これは当時、上海公使館付陸軍武官補佐官だった田中隆吉少佐(後に少将)が東京裁判(極東国際軍事裁判)において、自ら計画した謀略であったと証言しているためである。田中によると、満州事変のきっかけとなった柳条湖事件の首謀者であった板垣征四郎大佐と関東軍高級参謀花谷正少佐から「満州独立に対する列国の目をそらすため、上海でことをおこせ」と工作資金2万円で依頼され、抗日運動の根拠地であった三友實業公司を買収し謀略を準備していた。

この謀略の実行者は憲兵大尉の重藤憲史と「東洋のマタ・ハリ」こと川島芳子であったという。なお川島は田中の愛人であった。田中から1万円の工作資金を渡された川島は、命令どおり中国人を雇い日本人僧侶を襲撃させたとされている。ただし日本人僧侶を襲撃した中国人は何者であったかは明らかになっていない。なお旧清朝皇族であった川島は中華民国政府から裏切り者の「漢奸」として1948年に処刑されたが、一方の田中は東京裁判で検事側の証人として被告人に不利になる事を証言したことから戦犯にはならなかった。
第一次上海事変(だいいちじしゃんはいじへん) 1932年(昭和7年)1月~3月に中国の上海国際共同租界周辺で起きた日華両軍の衝突である。一連の戦闘を通じて、日本側の戦死者は769名、負傷2322名。中国軍の損害は1万4326人であった。36日間の戦闘によって上海全市で約15億6千元の損害を被った。中国側住民の死者は6080人、負傷2000人、行方不明1万400人と発表された。 この戦闘は、空母が初めて実戦に参加した戦闘でもあった。

上海事変について、上海公使館付陸軍武官補佐官だった田中隆吉少佐は、自らが計画した謀略であったと証言している。田中少佐によると、柳条湖事件の首謀者板垣征四郎大佐と関東軍高級参謀花谷正少佐らの依頼によって、世界の目を他にそらすために計画し、実行者は憲兵大尉の重藤憲史と「東洋のマタ・ハリ」川島芳子であったという。

田中の愛人であった川島芳子は中国人の殺し屋を雇い、1932年1月18日の夜、上海の馬玉山路を団扇太鼓をならしながら勤行していた日蓮宗僧侶を襲わせた(上記の「上海日本人僧侶襲撃事件」参照)。この事件が、日ごろから中国人に反感を抱いていた上海の日本人居留民の怒りを爆発させ、青年団が中国人街に殴り込みをかけ、各所で暴力事件が続発したため、上海の工部局は戒厳令を敷いた。治安悪化で日本人が不安に駆られる中、田中隆吉の工作による発砲事件が引き金で、日華両軍の軍事衝突が起きたとする。
上海停戦協定(しゃんはいていせんきょうてい) 1932年1月28日より開始した第1次上海事変における日本と中華民国との間で締結された停戦協定文である。
上海天長節爆弾事件(しゃんはいてんちょうせつばくだんじけん) 上海事変末期の1932年(昭和7年)4月29日に上海の虹口公園(現在の魯迅公園)で発生した爆弾テロ事件。事件があった場所から虹口公園爆弾事件とも呼ばれる。
日本、中国東北部に満州国(まんしゅうこく)を建国 1932年から1945年の間、満州(現在の中国東北部)に存在した国家。帝政移行後は「大満州帝国」或いは「大満州国」などとも呼ばれていた。
国際連盟よりリットン調査団が派遣される リットン調査団(-ちょうさだん/The Lytton Commission)は、国際連盟によって満州事変や満州国の調査を命ぜられたイギリスの第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする国際連盟日支紛争調査委員会より出された調査団の通称である。

1931年(昭和6年)、南満州鉄道が爆破される柳条湖事件が発生した。翌年、関東軍は清朝最後の皇帝溥儀を執政として満州国を建国した。同年3月、中華民国の提訴と日本の提案により連盟からリットン卿を団長とする調査団が派遣され、3カ月にわたり満州を調査、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。この間の3月1日に満州国が独立を宣言、中華民国政府は承認しなかったが報告書提出前の9月15日に日本は同国の独立を承認した。

リットン報告書は「柳条湖事件における日本軍の侵略は自衛とは認められず、また、満州国の独立も自発的とはいえない」とした。しかし、「事変前の状態に戻ることは現実的でない」という日本の主張をとり入れ、日本の満州国における特殊権益を認め、日中間の新条約の締結を勧告した。この報告書をめぐり日中は対立したが連盟で採択されると、日本はすぐに国際連盟を脱退した。
平頂山事件(へいちょうざんじけん) 平頂山事件(へいちょうざんじけん)とは、1932年9月16日、現在の中国遼寧省北部において、撫順炭鉱を警備する日本軍の撫順守備隊(井上小隊)がゲリラ掃討作戦をおこなった際に、楊柏堡村付近の平頂山集落の住民が多く殺傷された事件。犠牲者数については、400 - 800人(田辺敏雄による説)や3,000人(中国説)など諸説があるが、掃討作戦およびそれに伴う民間人犠牲者の存在自体に異議を唱える論者は存在しない。
1933年 塘沽協定(たんくーきょうてい) 1933年(昭和8年)5月31日、河北省塘沽において日本軍と中国軍との間に締結された停戦協定である。これにより柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突は停止された。塘沽停戦協定とも呼ばれる。
中華共和国(ちゅうかきょうわこく)樹立 福建事変(閩変)の際に、陳銘枢、李済深及びに十九路軍によって、福州で樹立された政権の名称。1933年11月22日に正式な成立を果たしたが、1934年1月13日に国民政府の中央軍が福州へ侵攻したため、政権の維持はわずか50数日であった。
1934年 中国共産党が長征(ちょうせい)開始 長征は、中華民国の国民政府が中国共産党に対する攻勢を強めたのに対し、1934年 - 1936年にかけて行われた、中国共産党による脱出と組織の再編。中国国民党からは「大流竄」と呼ばれた。共産党指導部は江西省瑞金から陝西省延安に至るまで転戦、国民党勢力との戦闘などにより10万人の兵力を数千人にまで減らしたが、蒋介石率いる国民党政府が抗日のため共産党との妥協に転じたため状況は終息した。途上で開催された遵義会議などにより、毛沢東の指導権が確立された。現共産党政権は、長征を現代中国形成に至る歴史的転換点と捉えている。
1935年 華北分離工作(かほくぶんりこうさく) 日本が華北五省(河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)で行った一連の政治的工作の総称である。 中国側の呼称は、華北事変で、『中華民国史大辞典』によれば、1935年5月以降の日本軍による一連の「華北自治運動」から、宋哲元をトップとする冀察政務委員会の設置までの期間が該当し、満洲事変・上海事変・盧溝橋事変(事件)と並ぶ「事変」として認識されている。
梅津・何応欽協定(うめづ・かおうきんきょうてい) 1935年(昭和10年)6月10日天津の日本軍司令官梅津中将と北平軍事分会委員長何応欽との間で合意に至った「申合」である。
土肥原・秦徳純協定(どいはら・しんとくじゅんきょうてい) 土肥原・秦徳純協定(どいはら・しんとくじゅんきょうてい、中国語名:秦土協定)は1935年6月に発生した張北事件に端を発し、事件に関与した国民革命軍第二十九軍によるその他の問題を含めて同月27日に取り決められた日中間の協定である。
八・一宣言(はちいちせんげん) 1935年8月1日、モスクワにいた王明等、駐コミンテルン中国共産党代表団が、中国共産党と中華ソビエト共和国中央政府名義で発表した、中国共産党と中華ソビエト共和国中央政府が共同で日本の中国進出に対抗するよう要求した宣言のことである。日本に対する敵対宣言と謂えるものである。
汪兆銘狙撃事件(おうちょうめいそげきじけん) 1935年11月1日に中華民国首都南京で中華民国政府の汪兆銘行政院長が、国民党左派広東系の犯人グループによって狙撃され重傷を負った暗殺未遂事件。
一二・九運動 1935年12月9日に北京で起こった学生運動。
冀察政務委員会(きさつせいむいいんかい)成立 中華民国で1935年(民国24年、昭和10年)12月18日に国民政府により設置された機関であり、宋哲元を委員長に任命し、河北省、チャハル(察哈爾)省を統治させた。「河北省の自治と防共」、「国民政府からの分離」を目指した。

これは蒋介石が関東軍による日本の傀儡化がこれ以上及ぶのを恐れ先手を打ち、表面上は日本が要求している北支自治運動の形式を取っていながら、実態は南京政府の制御下にある「日本の傀儡でない自治政府」である。そのため国民党政府でありながらも日本人軍事顧問が招聘され、中国第29軍(冀察政務委員会の宋哲元の率いる軍隊)軍事顧問には桜井徳太郎、中島弟四郎、笠井半蔵が勤めており、盧溝橋事件の際に現地解決を勤めた。
冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ) 1935年から1938年まで中国河北省に存在した政権。地方自治を求める民衆を背景に殷汝耕の指導により成立した。

1936年 成都事件(せいとじけん) 1936年(昭和11年)に四川省成都でおきた、日本人4名が殺傷された排日事件である。

北海事件(ほっかいじけん) 1936年9月3日の夕方、北海に長く住まう薬種商の日本人・中野順三が暴徒により殺害された事件。同地方は広西軍の新編独立第一師翁照垣麾下の旧十九路軍及び第六十一師丘北琛部隊の暫駐地であり、排日意識が暴動の背因をなしていた。

事件の一報が伝わると、当時成都事件直後の日中関係は緊迫していたため日本は軍艦を派遣、また調査員を送った。9月20日、翁照垣軍の撤退を待って現地調査を行い、9月24日調査を完了。近郊に隠れていた被害者の妻(中国人)及び子供を救出した。事件について日本側は大使川越茂を通じて成都事件とあわせて厳重な交渉を国民政府と行い、幾多の紛糾を重ねて12月30日、国民政府の陳謝、責任者及び犯人の処罰、被害者の遺族に対し3万元を贈ることその他を決定した。
漢口邦人巡査射殺事件(漢口事件) 1936年9月19日に中華民国湖北省漢口で発生した日本人領事館警察官殺害事件。9月19日午前11時半、漢口日本租界河街大正街(バンド下端租界境界線)にある日本総領事館第9号見張所に立番中の吉岡庭二郎巡査(長崎県出身)が日本租界に隣接するスタンダード・オイル社前の道路から7~9mほど入ったところの煙草屋で店主と談話していたところ、河下からやってきた37、8才の支那人が隠し持っていた拳銃で至近距離から吉岡巡査の左頚部を狙撃したため、巡査は即死した。
上海日本人水兵狙撃事件 1936年9月23日に中華民国上海共同租界で発生した日本人殺傷事件。9月23日午後8時20分、上海共同租界海寧路で上陸散歩中の出雲乗組員の水兵4名が呉淞路との交差点付近に差し掛かったところ、停車中のバスに隠れた支那人(中国人)4、5名によって後方から拳銃により銃撃され、田港朝光一等水兵が死亡し、八幡良胤一等水兵、出利葉義己二等水兵が重傷を負った。

事件後、負傷した3名は付近の至誠同書店に運び込まれたが右胸部と左腕に貫通銃創を受けた田港水兵は書棚にすがりつこうとして床に崩れ落ちそのまま絶命した。

外務当局は交渉を通じて司法の徹底や居留民保護を図ろうとしたが続発する事件を食い止めることが出来なかった。また、上海の事件や北海事件の処理にあたった海軍には対支膺懲の意図が強く支那事変の勃発とその後の進展に影響を及ぼすこととなった。12月13日の西安事件後、蒋介石は剿共戦を止め対日戦に踏み切る決意をした。
綏遠事件(すいえんじけん) 1936年末、徳王麾下の内蒙軍、李守信や王英などの部隊が関東軍の後援をたのんで綏遠省に進出し、同省主席の傅作義軍に撃退された事件。中国側では綏東事件とも。
西安事件(せいあんじけん) 張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件。中国では西安事変と呼ばれる。
1937年 盧溝橋事件(ろこうきょうじけん) 7月7日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である。中国では一般的に七七事変と呼ばれる。この事件は支那事変(日中戦争)の直接の導火線となった。
日中戦争(にっちゅうせんそう、支那事変) 1937年(昭和12年、民国26年)から1945年までの間に、日本(大日本帝国)と中華民国(蒋介石政権)との間で行われた戦争。日本側公式呼称は支那事変。
廊坊事件(ろうぼうじけん) 1937年(昭和12年)7月25日から26日に中華民国の北平(北京市)近郊にある廊坊駅(廊坊)で発生した日中間の武力衝突。郎坊事件と表記される場合もある。
広安門事件(こうあんもんじけん) 日中戦争初期(北支事変)の1937年(昭和12年)7月26日、中華民国冀察政務委員会の支配地域であった北平(北京市)で起きた国民革命軍第二十九軍による日本軍への襲撃事件。
通州事件(つうしゅうじけん) 1937年(昭和12年)7月29日に発生した事件で、「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)による日本軍部隊・特務機関に対する襲撃と、それに続いて起こった日本人居留民(朝鮮系日本人を含む)に対する虐殺を指す。
第二次上海事変(だいにじしゃんはいじへん) 1937年(昭和12年)8月13日から始まる中華民国軍の上海への進駐とそれに続く日本軍との交戦である。 盧溝橋事件により始まった華北(北支)での戦闘は、いったんは停戦協定が結ばれたものの、この事件以後華中(中支)において拡大することになった。1932年(昭和7年)1月28日に起きた第一次上海事変に対してこう呼ぶ。
中ソ不可侵条約 日中戦争の第二次上海事変により日中戦争が全面戦争として勃発した直後の1937年8月21日、中華民国とソビエト連邦の間で調印された不可侵条約である。

同条約に従い、ソ連は中国国民政府に対して空軍支援を送り(Zet作戦)、これは日ソ中立条約が結ばれるまで続いた。条約はまた、中国とナチス・ドイツとの友好関係の悪化に寄与し、それはドイツによる満州国の正式承認と在華ドイツ軍事顧問団の終結で頂点に達した。

一方、条約締結と同時にソ連から中国国民政府に対する武器の供給も開始され、ソ連からは武器購入代金として2億5000万USドルが渡され、航空機千機、戦車、大砲が売却された。ソ連政府はおよそ300人の軍事顧問団を中国に派遣した。

最初の顧問団長は中国語に通じ、後にスターリングラード戦の英雄となったワシーリー・チュイコフ大将である。以後4年間、中国に入る重火器、大砲、航空機の供給はソ連からのみとなったほど、ソ連はライフルの生産しか行われていない中国にとっての最大の武器供給国であり続けた。
中国工農紅軍が中国国民革命軍第八路軍(八路軍)として国民政府指揮下に編入される 日中戦争時に華北方面で活動した中国共産党軍(紅軍)の通称である。1937年8月、中国工農紅軍が"国民革命軍第八路軍"として国民政府指揮下に編入されたことからこの名称で呼ばれた(のちに"国民革命軍第十八集団軍"と改称されたが「八路軍」の通称は残った)。現在の中国人民解放軍の前身のひとつ。
1937年の南京事件 (1937年のなんきんじけん) 日中戦争(支那事変)初期の1937年(昭和12年)に日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間から2ヶ月にわたって中国軍の投降した便衣兵、一般市民などを殺したとされる事件。「南京大虐殺」とも呼ばれ、その真偽や程度などが論議されている(南京大虐殺論争を参照)。
トラウトマン工作 1937年(昭和12年)11月から1938年(昭和13年)1月16日までの期間にドイツの仲介で行われた、日本と中華民国国民政府間の和平交渉である。
1938年 中華民国維新政府(ちゅうかみんこくいしんせいふ)樹立 日本の中支那派遣軍が日中戦争時に樹立した地方傀儡政権。1938年3月28日に南京で成立し、江蘇省、浙江省、安徽省の三省と、南京及び上海の両直轄市を統括していた政権。北洋軍閥系の要人であった梁鴻志が行政院院長として政権のトップにあった。
黄河決壊事件(こうがけっかいじけん) 日中戦争初期の1938年6月に中国国民党軍が日本軍の進撃を止める目的で起こした黄河の氾濫である。事件当時は黄河決潰事件と表記された。中国では花园口决堤事件(花園口決堤事件)と呼ばれる。犠牲者は数十万人に達し、農作物に与えた被害も住民を苦しめた。
張鼓峰事件(ちょうこほうじけん) 1938年(昭和13年、康徳5年)の7月29日から8月11日にかけて、満州国東南端の張鼓峰で発生したソ連との国境紛争。実質的には日本軍とソ連軍の戦闘であった。ソ連側は、これをハサン湖事件(ハーサン湖事件)と呼んだ。
長沙大火(ちょうさたいか) 日中戦争中の1938年11月13日午前2時、湖南省長沙において中国国民党軍によって起された放火事件である。中国語では文夕大火(ぶんせきたいか)とも呼ばれる。人口50万の都市であった長沙は、火災により市街地のほとんどを焼失した。

目的は日本軍に対して一物も与えないための焦土作戦とする見方が一般的だが、この時期に日本軍は長沙に進攻することはなかったため、一部には中国共産党幹部であった周恩来らの暗殺を目的としていたとする見方もある。

火災は3日3晩続き、長い歴史を持つ都市だった長沙は廃墟と化し、文化遺産のほとんどを失った。焼死者は2万人以上、あるいは3万人以上と言われる。
1940年 汪兆銘が中華民国南京国民政府(ちゅうかみんこくなんきんこくみんせいふ)を樹立 汪兆銘による、日本の軍事力を背景として、北京の中華民国臨時政府や南京の中華民国維新政府などを結集し、1940年に南京で樹立した政府。蒋介石の南京国民政府とは別個のものである。
1941年 皖南事変(かんなんじへん) 中国安徽省南部で起こった中国国民党軍と中国共産党軍の武力衝突。具体的には、国民党軍と新四軍の衝突であるが、共産党は事変発生時・発生後に国民党による軍事クーデターであると宣伝した。

事変発生は、1941年1月4日。葉挺指揮下の新四軍9000名の部隊は安徽省南部茂林を移動中、国民党軍8万人に包囲され、7日間の戦闘の結果2000名が脱出に成功するが、2000人以上が戦死、4000人余が捕虜となった。軍長葉挺は身柄を拘束され、副軍長項英は部下の裏切りによって殺された。

結果

共産党
この事変を共産党は「国民党(蒋介石)・南京(汪兆銘)政府・在華日本軍の共謀による反共クーデター」と宣伝し、国際的にもこの宣伝はかなりの効果を挙げた。ただし、形式的には国共合作は放棄していない。事変後、共産党は壊滅した新四軍を再編して軍長代理に陳毅を派遣、政治局員に劉少奇を選任した。しかし、江南における根拠地確保は白紙に戻り、華北拠点の拡充を重点にすえることとなり、八路軍の百団大戦を発動することとなる。

国民党
蒋介石は1月17日この事変は新四軍の反乱であったと発表、新四軍の認識番号を抹消した。しかし、事変発生後の共産党によるプロパガンダにより、援蒋ルートを通じて支援を受けていた英米、またソ連からも激しい非難を浴びることになった。ただし、表向き国共合作は放棄していない。

日本軍
直接の結果ではないが、華北地区では八路軍の大攻勢が開始され、終戦まで長大な戦線を展開せざるを得なくなった。これに対して江南地域では共産軍は組織的な運営がなされず、専ら国民党軍と戦線で対峙する。国民党軍はゲリラ戦を展開することは少なかったが、南京・武漢・重慶と内陸に向けて首府を疎開させる国民政府を追うことになり、戦線は膠着した。
太平洋戦争(たいへいようせんそう)勃発 日本がハワイオアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して攻撃し勃発した戦争。太平洋から東南アジアまでを舞台に日米両軍を中心とした戦闘が行われたほか、開戦を機に蒋介石の中華民国政府が日本に対して正式に宣戦布告したことにより、1937年以来中国大陸で続いていた日中戦争(支那事変)も包括する戦争となった。
1945年 東安駅爆破事件(とうあんえきばくはじけん) 1945年8月10日に満州国東満省東安市(現在の中華人民共和国黒竜江省密山県)の南満州鉄道東安駅で、野積みされていた日本陸軍の弾薬が爆発した事件である。

駅構内にはソ連対日参戦による避難民多数が乗った列車が停車中で、100人以上の死者が出た。日本軍が備蓄弾薬の鹵獲を防ぐために処分した際に起きた事故と見られるが、詳細は不明である。現在の地名から、密山駅爆破事件とも呼ばれる。
日本がポツダム宣言受諾し降伏。第二次世界大戦終結 第二次世界大戦(大東亜戦争、日中戦争及び太平洋戦争)において日本が、アメリカ・イギリス・中華民国・ソビエト連邦によるポツダム宣言を受諾して降伏。これにより、1939年のドイツ軍によるポーランド侵攻から、日本の英米との開戦で全世界を巻き込んだ戦争は終結した。長きに渡るこの戦争による全世界での軍人、民間人を合わせた死者数は6200万人を超えているとされる(死者数は様々な説がある)。

連合国の一員だった中華民国(当時の中国。1949年以後は台湾のみ)は、対日戦勝記念日を9月3日としている。これは、日本政府が降伏文書に調印した9月2日の翌9月3日に、国民党政府がこの日より3日間を抗日戦争勝利記念の休暇としたためである。1949年に成立した中華人民共和国も、中華民国と同じく9月3日を抗日戦争勝利記念日と称している。
国民党と共産党が双十協定(そうじゅうきょうてい)締結 日中戦争の戦闘終結後、中国国民党と中国共産党とが締結した協定。両党が分裂している局面を終結させ、戦後中国に民主的な政権を樹立させることを目的に発表した会談の要旨で、民国34年(1945年)10月10日に調印されたことから双十協定と呼ばれる。主な内容は、

平和的な建国の基本方針を承認し、一切の紛争は対話によって解決することに同意する。
長期に渡って協力し、あくまで内戦を避け、独立し自由で富強な新しい中国を建設し、徹底的な三民主義を実行する。
訓政体制を速やかに終わらせ、憲政を実施する。
速やかに政治協議会議を開き、国民大会やその他の問題の協議を行った後に新憲法を新たに制定する。
中国共産党は、蒋介石主席と南京国民政府が中国の合法的な指導者の地位にあることを承認する。

しかしこの内容では、実質的に両党の間の核心的な矛盾に対し何ら解決が行われておらず、分裂状態は変化は無かった。この政治協議が閉幕すると、短い平和は破られ、共産党による反乱(国共内戦)が勃発した。
1946年 通化事件(つうかじけん) 通化事件(つうかじけん)とは1946年2月3日に中国共産党に占領されたかつての満州国通化省通化市で中華民国政府の要請に呼応した日本人の蜂起とその鎮圧後に行われた中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊)による日本人及び中国人に対する虐殺事件。日本人3000人が虐殺されたとされている。中国では二・三事件とも呼ばれる。
国民党と共産党が再び国共内戦(こっきょうないせん) 日本の敗戦によって中華民国は戦勝国となり、国際連合の常任理事国となったものの、共通の敵を失うとともに、国共統一戦線の意義も名目もなくなり、再び国民党と共産党は戦後構想の違いより対立へと転じ、1946年6月より内戦を再開させた。
大同集寧戦役(だいどうしゅうねいせんえき) 大同集寧戦役(だいどうしゅうねいせんえき)は第二次国共内戦のうちの一つ。1946年7月から9月の間に、聶栄臻と賀竜が晋察冀軍区と晋綏軍区の部隊を指揮して、山西省大同と綏遠省(現在の内蒙古自治区の一部)集寧地区で国民革命軍傅作義の部隊に対する攻城と援軍攻撃を行う作戦だった。しかし、聶栄臻の指揮が不適当だったため、人民解放軍は初期の作戦目標を達成できなかっただけでなく、直接的には辺区の中心張家口陥落を引き起こした。
1947年 二・二八事件(にいにいはちじけん) 1947年2月28日に台湾の台北市で発生し、その後台湾全土に広がった、当時はまだ日本国籍を有していた本省人(台湾人)と外省人との大規模な抗争。

1947年2月27日、台北市で闇タバコを販売していた本省人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。これが発端となって、翌2月28日には本省人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲、抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。本省人は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。
1949年 中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)建国 1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言した。しかし、この段階では国共内戦は終息しておらず、11月30日に重慶を陥落させて蒋介石率いる国民党政府を台湾島に追いやったものの、1950年6月まで小規模な戦いが継続した。

※各戦争内での作戦、戦いは省いた。順次追加&修正予定
下記記事も参考されたし

阿片戦争 (First Opium War、First Anglo-Chinese War)
真実の近代史 台湾史編【小林よしのり】
日清戦争
義和団の乱 (Boxer Rebellion、义和团运动)
平頂山事件 (へいちょうざんじけん)
兵士たちが記録した南京大虐殺
ゼロから学ぶ 【太平洋戦争① (Pacific War)】
日中戦争 (1937-1938)
中国人強制連行 - 体験者の証言より
満州植民地計画から敗戦・引き揚げまでの歴史
通州事件 (Tungchow Mutiny、通州事变)
中国/撫順戦犯管理所 - 6年間の記録
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