ゼロから学ぶ 【太平洋戦争④ (Pacific War)】

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2011/06/03(金)
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年月日:1942年6月5日 - 6月7日
場所:ミッドウェイ島周辺
結果:アメリカ海軍の勝利

ミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん)は、第二次世界大戦中の昭和17 年(1942 年)6月5日(アメリカ標準時では6月4日)から7日にかけて行われたミッドウェー島をめぐって行われた海戦。ミッドウェー島の攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で生起した。日本海軍はこの海戦で機動部隊の中核をなしていた主力空母4隻とその艦載機を一挙に喪失する損害を被り、これ以降戦争における主導権を一時期失った。なお、この海戦ではアメリカ海軍もまた、空母1隻と多数の艦載機や艦船を失い、ミッドウェー島の基地機能に打撃を受けるなど、少なくない損害を出している。

日本の作戦決定の背景

山本長官の作戦思想

日本海軍の対米作戦における基本的な方針としては守勢の邀撃作戦を採っていたが、連合艦隊の司令長官であった山本五十六大将は以前よりこの方針に疑問を持ち、独自の対米作戦構想として積極的な攻勢作戦を考えていた。これにはまず国力から見て圧倒的な劣勢にある日本が守勢を採っても、時期・方面などを自主的に決めて優勢な戦力で攻撃する米国に勝ち目がなく、また短期戦に持ち込むためには早期に敵の弱点を叩くことで相手国の戦意を喪失させる方法しかありえないと判断したためと言われている。さらに山本長官は太平洋戦争開戦当初より敵の空母部隊が日本を航空攻撃した場合、国内へ物質的な打撃だけでなく精神的な打撃が大きいと考えていた点も関係している。すなわち相当の危険性を承知の上でも米国に対しては戦争という局面で勝利を収めるためには、積極的な攻勢を進めるしかないと考えていた。

ミッドウェー作戦着想

山本長官が懸念していた通り、昭和17年になってから米空母部隊はハワイを出撃し、その度に日本軍は来襲の企図や方面の判断に悩まされた。そのため、マーシャル諸島、ウェーク島、本土どれにも警戒処置をとっており、加えて戦力に余裕がなかったために哨戒は不十分であった。奇襲は敵の技量が低かったために被害は小さかったが、連合艦隊は受け身の作戦の困難性を認識した。連合艦隊はセイロン島攻略作戦案が採用されなかったために、連合艦隊幕僚は第二段作戦の移行までに残された4週間に代替案を作成しなければいけない立場に置かれた。連合艦隊幕僚は戦争早期終結に貢献できるような作戦が思いつかず、またこれまで示した作戦案が陸軍部隊を用いるから反対されたと考えており、加えて守勢に回ることの困難性を認識していたために、海上戦力のみで行う攻勢作戦計画の立案を応急的に進めなければいけないと判断し、黒島亀人連合艦隊先任参謀を中心に作戦計画を立案した。

このミッドウェー作戦は、ミッドウェイ島を攻略することにより、米艦隊特に空母部隊を誘出、これを捕捉撃滅する作戦であった。これは米軍の要点であるミッドウェイ島を占領することで軍事上・国内政治上から全力で奪回しようとすることが明白であったので、米空母部隊が出撃するであろうという前提に基づくものであった。しかし、ミッドウェイ島を占領してからの確保は極めて困難であることが考えられており、連合艦隊はあくまでこの作戦は米空母を撃滅することを目的とし、さらに占領後には他方面で攻勢を行い、敵にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ、10月のハワイ攻略作戦にまで確保できると考えた。すなわち、このミッドウェイ島の占領は直接的なハワイ攻略作戦の準備ではなく、空母の捕捉撃滅を第一の目標として考えたものであり、ハワイ攻略作戦にとっては間接的、補助的な役割に限定した作戦であった。

大本営と連合艦隊司令部はこの作戦については激しく対立し、黒島参謀は山本長官が「この作戦が認められないのであれば司令長官の職を辞する」との固い決意を持っているとして軍令部と折衝したが、この論法は真珠湾攻撃の際にも使用されていた事もあって今度は容易には通用せず、交渉は暗礁に乗り上げた。山本長官は工業力で圧倒的に劣る日本がアメリカと講和するには、一時的にでもミッドウェー攻略の後ハワイを占領し、アメリカ国民の戦意を衰えさせる必要があると考えていた。それには、真珠湾攻撃で取り逃がし、その後の数回の空襲で捕捉、撃滅できずにいた米空母部隊を誘い出して決戦し、これを壊滅させることが絶対的に不可欠であると考えた。海軍部との交渉に見込みなしと判断した渡邉参謀は伊藤次長に直接連合艦隊のミッドウェイ作戦案を説明し、山本長官の意向を伝えた。そこで伊藤次長はこれをふまえてさらに審議を行い、FS作戦に修正を加え、連合艦隊の作戦案を採用することを4月5日に内定し、ミッドウェイ諸島の占領および米空母部隊の捕捉撃滅を狙うこととなった。さらに後日アリューシャン列島西部要地攻略作戦をミッドウェイ作戦に追加することを海軍部が提案し、連合艦隊もこれに同意し、ミッドウェイ作戦の全体像が固まった。これには以前行われた図上演習においてアリューシャン方面から米国の最新大型爆撃機が首都空襲を行い、その一部が奇襲に成功するという結果が出ており、海軍部も連合艦隊もこの方面への関心を高めていた背景がある。

5月5日に、海軍部は「聯合艦隊司令長官ハ陸軍ト協力シAF及AO西部要地ヲ攻略スベシ」という命令(大海令第18号)を下す。この命令により、ハワイ攻略の前哨戦として山本五十六長官、宇垣纏参謀長の指揮下で艦艇約350隻、航空機約1000機、総兵力10万人からなる大艦隊が編成された。 当初珊瑚海海戦の報告を聞いた時点で海軍首脳部は無傷の瑞鶴をミッドウェーに大破した翔鶴を修理、アリューシャン作戦に回す予定であった。しかし翔鶴の修理には3ヶ月をようしまた瑞鶴も無傷であるものの参加した搭乗員の損耗が激しく、トラック島に停泊して補充を待っている状態であり、本作戦に参加できなかった。これにより日本側の参加空母数が減ることとなったが、それでも隻数の上では4対3(ただし日本側は4対2と認識)と、米軍より優勢であった。

ドーリットル空襲

1942年4月18日ホーネットはミッドウェーでエンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)と合流し、第 16機動部隊は日本に向けて回頭した。エンタープライズは航空支援を担当し、ホーネットは敵水域に(日本近海まで)深く進入し、ドーリットル中佐率いる爆撃隊が東京を始めとする日本の主要都市を攻撃する予定であった。当初の予定では機動部隊は日本の沿岸から400マイル以内まで進む予定であったが、4月18日の朝に犬吠埼東方で特設監視艇第23日東丸に発見される。巡洋艦ナッシュヴィル(USS Nashville, CL-43)が日東丸を撃沈するが、日東丸は米艦隊発見を報告しており、機動部隊の存在と位置は日本海軍に察知される。日本沿岸から600マイルの地点であったが、日東丸による発見はウィリアム・F・ハルゼー提督に、08:00に攻撃隊の発艦を決意させた。

爆撃隊は前日に発艦準備を整えていたが、40ノットを超える強風と30フィートに及ぶ波が激しいうねりとなり、艦は猛烈に揺れ艦首からの波は飛行甲板と乗員達を濡らした。ドーリットル中佐に率いられた爆撃隊は467フィートに及ぶ飛行甲板に固定されたが最後尾のB-25は扇形に搭載された。09:20までに日本の心臓部へ初の空襲を行う部隊として16機のB-25は全て発艦した。

爆撃隊は、東京名古屋大阪を 12時間かけて散発的に爆撃、中国の麗水の畑に燃料切れで不時着した。着陸予定地は中国領地の奥地だったが、予定より200マイル手前から発艦したため燃料切れが生じた。また、1機だけウラジオストクへ着陸したが、乗っていた兵は捕虜になった。

ホーネットは自艦の艦載機を飛行甲板に待機させ、全速力で真珠湾に向かった。日本語および英語両方のラジオ放送を傍受し、空襲の成功は14:46に確認される。B-25を搭載してからちょうど一週間後にホーネットは真珠湾に帰港した。ドーリットル空襲による被害は微小であったが、日本上空にやすやすと敵機の侵入を許してしまったことは日本にとって大きな衝撃を与えた。また敵が航続距離の大きいB-25を用いたために対応策が考えられず、陸海軍はより大きな衝撃を受けることとなった。国民の間でも不安が広がり、しばらく敵機来襲の誤報が続き、山本長官にも国民からの非難の投書があった。山本長官は米海軍による空襲の危険性については以前より認識しており、この空襲で既に内定していたミッドウェー作戦の必要性を一層痛感し、予定通りに実施するために準備を進めた。

アメリカ軍の対応

情報収集と分析

米軍は日本軍の来襲についての情報を収集、分析し、ミッドウェイ作戦に準備していた。昭和17年3月4日に太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツはオアフ島に日本軍の大型航空機二機が爆撃し、同月11日にミッドウェイに新型飛行艇一機が接近し、撃墜されたことをふまえて、日本軍の攻勢の兆候と判断した。(ただし実際には攻勢作戦とは関係のない妨害作戦に過ぎなかった)日本海軍の主力部隊は南方戦線から日本本土へと帰投しており、次に太平洋のどこかを攻撃することは確実であるものの、ハワイ、ミッドウェイ、米本土西岸など可能性が幅広く、判断がまとまっていなかった。

真珠湾攻撃直前に変更された日本軍の暗号は、アメリカの諜報部よりJN-25と呼ばれており、4月頃に情報隊が日本軍の暗号を断片的に解読し、日本軍が太平洋正面で新たな作戦を企図していることについてもおおまかに把握されていた。しかし、その時点では時期・場所などが不明であった。5月ごろから暗号解読を進めるにつれて資料が増え、検討を繰り返し作戦計画の全体像が明らかになると、解読文中に登場する「AF」という場所が主要攻撃目標であることはわかってきた。しかし「AF」がどこを指しているのかが不明であった。しかし「A」「AO」「AOB」がアリューシャン方面であることは明白だと判断した。

ワシントンは攻撃目標をハワイ、陸軍航空部隊ではサンフランシスコだと考え、またアラスカ、米本土西岸だと考える者もいた。決定的な情報がなく、5月中旬になっても米軍は日本軍の進攻目標も時期も分からなかったが、ニミッツ大将はミッドウェイが目標であると各種情報と戦略的な観点から予想して、ハワイ情報関係者らも次第にミッドウェイが目標であるとの確信を深めていった。5月11日ごろ諜報部にいた青年将校ジャスパー・ホームズの提案により、決定的な情報を暴くための一計が案じられた。彼はミッドウェイ島の基地司令官に対して、ハワイ島に向けた、「海水のろ過装置の故障により、飲料水が不足しつつあり」といった緊急の電文を英語の平文で送信するように伝えた(オアフ島、ミッドウェイの間には海底電信もある)。

その後程なくして日本のウェーク島守備隊から発せられた暗号文に、「AFは真水不足という問題あり、攻撃計画はこれを考慮すべし」という内容が表れたことで、ミッドウェイ島及びアリューシャン方面が次の日本軍の攻撃目標だと確定された。 5月26日までにハワイの情報隊は暗号解読に成功し、各部隊の兵力、指揮官、予定航路、攻撃時期などが判明した。ニミッツ大将はミッドウェイ部隊に伝えたが、ワシントンでは全面的に信用されず、日本軍の偽情報ではないかと疑問を持つ者もいた。日本軍がサンフランシスコを攻撃するのに陸上戦力を伴うわけがなく、ニミッツ大将は自己の意見がほぼ間違いないと主張した。この論争は続いたが、ニミッツ大将は自己の主張に基づいて作戦準備を進めた。5月26日以降は日本軍が暗号を変えたために解読はできなくなった。

作戦準備

ハワイ諸島とは米国にとって太平洋正面の防衛・進攻の戦略的に重要な根拠地であり、ミッドウェイはこのハワイ諸島の前哨であり、戦略要点であった。ニミッツ大将は日本軍の来襲の危険性があるミッドウェイを5月3日に視察し、同島の指揮官シマード海軍中佐と防備の強化について打ち合わせ、兵器と人員が充足すれば防衛は可能であると意見を述べ、ニミッツ大将は要望通りの補強を行うことにして防備を固めようとした。集結した航空機は約120機、人員は 3027人に達し、陸上部隊は士気が高かったが、航空部隊は寄せ集めた部隊が多く、整備員の増強がなかったために搭乗員は自前で整備・燃料補給を行っていたため、完全に充足した部隊ではなかった。

日本海軍のミッドウェイへの攻撃は、6月3日から5日までに行われることをハワイの情報隊は事前に察知していた。日本側は陽動作戦として空母「龍驤」、「隼鷹」を中心とする部隊をアリューシャン方面に向かわせ、アッツ島、キスカ島などを占領、ダッチハーバーなどを空爆する攻略作戦を計画していたが、これは陽動であることは事前に米軍が察知していた。ニミッツ大将はこれらの情報に基づいて邀撃作戦計画を立案した。しかし日本軍の兵力は大きく、ニミッツ大将の使用可能な戦力を全て投入しても対抗するためには不足が大きかった。そのため、アリューシャン、アラスカ方面を最低限の戦力を送り、主力部隊をミッドウェイに集中した。この作戦計画は5月28日に『太平洋艦隊司令長官作戦計画第29-42号』を発令した。そこで第一に敵を遠距離で発見捕捉して奇襲を防止、第二に空母を撃破してミッドウェイ空襲を阻止、第三に潜水艦は哨戒及び攻撃、第四にミッドウェイ守備隊は同島を死守などを述べた。しかしニミッツ大将は2隻の空母しか本作戦で使用が期待できなかった。

第17任務部隊(TF-17)のフレッチャー少将は珊瑚海海戦で日本のポートモレスビー攻略を防ぎ、敵主力空母へもダメージを与えることに成功した。しかし自身も主力空母「レキシントン」を失い、「ヨークタウン」も中破するという犠牲も払っていた。「ヨークタウン」への命中は爆弾1発のみであったが、排煙経路を破壊されるという重大なダメージを受けていた(排煙が正常に排出されずにいるためボイラーが出力を出せなくて速力が低下していた)。また2発の至近弾により燃料タンクの溶接が外れ燃料が漏れ出していた。特に珊瑚海で油槽船「ネオショー」をも失っていたため、この燃料漏れは重大な結果(海上で立ち往生)を招きかねなかった。

ニミッツ大将は、来たるべき侵攻に備えて太平洋南西部よりフレッチャー少将の第17任務部隊をハワイに呼び戻した。途中で何とか燃料を補給できた「ヨークタウン」は5月27日に真珠湾に到着、直ちに乾ドックに入れられ驚異的な応急修理が実施された。燃料タンクの損傷はアメリカ西海岸のワシントン州ブレマートン港で長期の修理が見込まれていたのだが72時間の不眠不休の作業により応急修理が施され、なんとか戦闘艦としての機能を取り戻すことに成功した。5月28日に第16任務部隊(TF-16)の「エンタープライズ」「ホーネット」が真珠湾を出撃。そして「ヨークタウン」は5月30日に乾ドックを出たが修理工を乗せたままで出航し、航行中も修理が続けられた。また、珊瑚海海戦にて損害のあった飛行機隊は「サラトガ」(雷撃の損傷修理のため本国へ戻るときに飛行隊は降ろしていた)の隊と取り替えて乗船させるなど、ニミッツ大将の持ちうるすべての戦力を日本軍に向けさせるという信念と豪腕により、アメリカ軍は3隻目の空母を戦闘に参加させることができた。

もしもニミッツ大将が準備できた空母が、(入院したハルゼー中将に代わった)スプルーアンス少将の第16任務部隊の「エンタープライズ」「ホーネット」の2隻のみだった場合、戦いの様相もまた違っていた可能性は高い。

6月2日、フレッチャー少将の第17任務部隊とスプルーアンス少将の第16任務部隊がミッドウェー島の北東で合流。この合流した機動部隊の指揮はフレッチャー少将がとることになった。

戦闘の経過

南雲機動部隊

5月27日午前5時、日本の南雲忠一中将率いる第一航空戦隊(赤城、加賀)、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)を中心とする南雲機動部隊(第一機動艦隊)が広島湾柱島から出撃、主力部隊も2日後に同島を出撃した。

南雲機動部隊は6月5日1時、作戦海域に到達。同時30分、ミッドウェーへ第一次攻撃隊が空母4隻各艦より護衛戦闘機(零戦)9機、急降下爆撃機(九九艦爆)第一航空戦隊、赤城 加賀より18機ずつ、攻撃機(九七艦攻)第二航空戦隊、飛龍 蒼龍より18機ずつ合計108機が出撃、空母赤城、加賀からそれぞれ1機、巡洋艦利根、筑摩から2機ずつ、戦艦榛名から1機索敵機が発進した。そのうち利根の1機(利根4号機)は発進が30分ほど遅れた。第一次攻撃隊の発進から間もなく、アメリカ海軍艦隊の出現に備えて急降下爆撃機には通常爆弾、攻撃機には魚雷(対艦攻撃兵装)で第二次攻撃隊の準備を始めた。

南雲機動部隊から発進した第一次攻撃隊の爆撃によりミッドウェー島の基地は相当な被害を受けた。しかし、アメリカ側が暗号解読によって反撃準備を整え、偵察機とレーダーが南雲機動部隊と基地に襲来する攻撃隊を捕捉して奇襲の阻止に成功し、F2A バッファロー戦闘機20機、F4F ワイルドキャット戦闘機7機など迎撃機を発進させ、迎撃機以外の航空機を攻撃に向かわせるか退避させた。ミッドウェー基地戦闘機隊の多くは第一次攻撃隊の護衛戦闘機零戦に撃墜され要撃に失敗したが、このような措置により第一次攻撃隊はミッドウェー基地に駐留する航空隊の殲滅(地上撃破)に失敗した。

攻撃の成果が不十分と判断した第一次攻撃隊長の友永丈市大尉は南雲機動部隊の旗艦である「赤城」に対し、「カワ・カワ・カワ(第二次攻撃の要あり)」と打電して第一次攻撃隊の攻撃は不十分であることを伝えた。これに対し赤城の司令部では偵察機からの敵艦隊発見の報告がないことや、事前の敵情分析と照らし合わせて再度ミッドウェー島の攻撃の必要性を重く感じ、4時15分に急降下爆撃機、攻撃機共に陸用爆弾(対地攻撃兵装)へ転換を指示して第二次攻撃隊をミッドウェー島の基地に対する攻撃準備を始めた。

4時40分からミッドウェー基地から攻撃隊が順次発進していった。陸軍のB-26B マローダー爆撃機4機(雷装)と海軍の新鋭機TBF アヴェンジャー雷撃機6機、海兵隊のSBD ドーントレス急降下爆撃機16機とSB2U ヴィンディケーター爆撃機11機、陸軍B-17E フライング・フォートレス爆撃機16機、それぞれによる南雲機動部隊へ反撃を実施したものの、直掩機の零戦の邀撃と各艦の回避行動によって直接的な効果を挙げられなかった。しかし、この攻撃で南雲機動部隊を油断させる効果があった。

同じ頃、アメリカ海軍機動部隊の指揮官フレッチャー少将はミッドウェー基地航空隊の活躍によって、日本側より先に南雲機動部隊の位置をほぼ特定することに成功し、攻撃するタイミングを窺っていた。スプルーアンス少将は4時過ぎから指揮下の空母エンタープライズからF4F戦闘機10機(VF-6)、 SBD爆撃機33機(VB-6, VS-6)、TBD デバステイター雷撃機14機(VT-6)と空母ホーネットからF4F戦闘機10機(VF-8)、 SBD爆撃機35機(VB-8, VS-8)、TBD雷撃機15機(VT-8)の計117機、ほぼ全力の発進を開始した。しかし、5時40分過ぎに日本軍の偵察機が艦隊上空に現れたことから、まだ日本側には空母を発見されていなかった上、発艦した飛行隊を小出しにすることは戦術としては非常にまずいにもかかわらず、スプルーアンス少将は発進を終えた飛行隊から攻撃に向かわせるように指示した(全力攻撃なので、全機を飛行甲板に並べて一度に発進させることができないからである)。

また、日本軍の空母4隻すべての所在を確認したフレッチャー少将も警戒のため出していた偵察機(当日はヨークタウンが警戒担当だった)の収容を終えた後の6時頃に空母ヨークタウンからF4F戦闘機6機(VF-3)、SBD爆撃機17機(VB-3)、TBD雷撃機12機(VT-3)の35機を発進させた。結果的にこのスプルーアンス少将の決断が勝因の一つになる。なお、ヨークタウン攻撃隊だけは戦闘機と爆撃機の数が少ない。これはつい一か月前の珊瑚海海戦の教訓から、母艦を守る戦闘機の数を増やすためと、SBD装備の偵察機隊(VS-5)を用心のため残していたからである。

急降下爆撃

南雲長官のもとに遅れて発艦した重巡洋艦「利根」の4号偵察機から、「敵らしきもの10隻見ゆ、ミッドウェーよりの方位10度240浬地点」という打電を受けた。 その後付近の天候情報などを打電してきた。しかし、これでは敵がどんな部隊かわからない。「艦種知ラセ」との問い合わせに5時になって同じ利根4号偵察機から、「敵兵力は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻なり」といった続報で、危急性はないと判断された。しかし、5時半に、「敵はその後方に空母らしきもの一隻を伴う」との打電が入ったとき、南雲中将らの首脳部は混乱する。

しかし偵察機の報告によれば敵までの距離はまだ遠い(実際は敵はもっと近くにいた)ので、攻撃兵装の転換は間に合うと判断、急降下爆撃機、攻撃機共に陸用爆弾(対地攻撃兵装)転換中の第二次攻撃隊は急降下爆撃機には通常爆弾、攻撃機には魚雷(対艦攻撃兵装)へ再度換装することが命令された。

第二航空戦隊を率いていた山口多聞少将はこの混乱は危険と判断し「現状況は一分一秒を争う。地上爆撃用の爆弾でもアメリカ海軍空母の甲板を破壊すれば発艦できなくなるのでこのまますぐに発艦し攻撃すべし」との考えから、信号で駆逐艦を中継して「直ちに発艦の要ありと認む」と進言したが却下された。このとき、甲板上には兵装転換の終わった第二次攻撃隊が並べられ始めていたが、また格納庫へ戻す作業が始められた。さらに5時半になると友永隊長率いる第一次攻撃隊が機動部隊の上空へ戻ってきたが、燃料が切れかかっている機、パイロットや機体に被弾し墜落しそうな機もあった。このため南雲機動部隊の空母では、第一次攻撃隊の収容も実施せねばならず、格納庫内は一層混乱し、格納庫内には爆弾や魚雷が乱雑に置かれるという危険な状態にあった。

この状況下、6時20分頃にホーネット、エンタープライズの攻撃隊のうち雷撃機29機が日本の機動部隊上空に襲来、対空砲火と直掩機により25機が撃墜された。また、7時10分頃に襲来したヨークタウンの雷撃機隊12機も、戦闘機の援護があったにも関わらず10機が撃墜された。

先に発艦したエンタープライズ爆撃機隊は日本の機動部隊を見つけられず、予想海域の周辺を捜索した。その時、駆逐艦を発見。この駆逐艦は空母部隊へ向かっているものと判断してその進路上を索敵した結果、日本の機動部隊を発見した(ホーネット戦闘機隊・爆撃機隊は機動部隊を発見できず引き返して一部は燃料不足で水没、エンタープライズ戦闘機隊は燃料不足で引き返している。同爆撃機隊もまた引き返す寸前であった)。7時23分、まさに絶妙なタイミングでヨークタウン爆撃機隊も戦場に到着、エンタープライズ爆撃機隊とヨークタウン爆撃機隊の同時攻撃となった。日本側は先ほどの雷撃機隊に対応して直掩機のほとんどが低空に降りており、さらに見張り員も雷撃機の動向や発艦寸前の艦載機に気をとられていたため「敵、急降下!」と見張り員が叫んだときにはすでに手遅れだった。

この急降下爆撃機による爆撃によって7時23分に攻撃を受け始めた「加賀」4発、至近弾5発3隻の空母はほぼ一分間隔に被弾。「蒼龍」3発の爆弾を受け瞬く間に炎上、旗艦である「赤城」にも7時26分2発の爆弾が命中至近弾1発で炎上した。「加賀」では最初の命中弾に被弾した燃料車が爆発し、艦橋にいた岡田艦長以下指揮官らは戦死した。10時半頃、艦長に代わって鎮火の指揮をとっていた飛行長が総員退去を決め、駆逐艦に移乗してなお機を見て救出も行ったが、15時26分「加賀」は沈没する。「蒼龍」と「赤城」は爆弾そのものの被害は復旧可能な範疇であったが、被弾して生じた火災が兵装転換時に格納庫内に乱雑に置かれた爆弾、魚雷や準備中だった航空機の燃料へと次々と誘爆を起こし、大火災が発生した。両艦のダメージコントロールの悪さもたたって火災の鎮火ができなかったため復旧が進まず、「蒼龍」は16時 10分過ぎから乗員の駆逐艦への移乗を開始して、柳本艦長ともに沈没した。「赤城」は18時になって総員退去命令が下され、火災が続いたまま漂流していたが、20時半頃に山本長官の指示により味方駆逐艦による雷撃処分が行われた。

空母「飛龍」の反撃

雲下にあり、また、雷撃機回避のため他の3隻の空母からやや離れていた空母「飛龍」はこの難を免れた。7時50分、山口少将は南雲中将の指示を待つことなく独断で即時攻撃を決意し、「全機発進」を指示した。そして第一次攻撃隊として零戦6機、九九艦爆18機の計24機(急降下爆撃機隊)を発艦させた。途中、急降下爆撃機隊は攻撃を終えて帰投するアメリカ軍機の編隊を発見し、アメリカ海軍艦隊上空まで追跡した。急降下爆撃機隊は9時から攻撃を開始し、小林隊長機を含む損失を出しながらも、9時10分頃に 250kg爆弾3発を空母「ヨークタウン」に命中させ、航行不能に陥れた。しかし「ヨークタウン」は11時過ぎに爆撃による火災を鎮火し航行可能に復する。

続いて「飛龍」は10時半に零戦6機、九七式艦攻10機の友永大尉率いる第二次攻撃隊(雷撃機隊)16機を発進させた。また、第一次攻撃隊を収容する直前に空母「蒼龍」から飛び立っていた二式艦上偵察機(後の彗星)が8時半頃にアメリカ軍機動部隊を発見していたが、無線機の故障で報告できていなかった。「蒼龍」上空に帰ってきた時にはすでに母艦は炎に包まれており、10時45分に空母「飛龍」へ着艦して山口少将に対しアメリカ海軍の空母が3隻であることを報告した。11時半、雷撃機隊はアメリカ海軍艦隊を発見するが、それは復旧作業中の「ヨークタウン」だった。火災を鎮火し、戦闘航行中の米空母を見て友永大尉は、損傷を受けていない別の空母と判断して攻撃し、雷撃機隊は約半分が撃墜されながらも魚雷2本を命中させ「ヨークタウン」を大破させることに成功した。山口少将は先の攻撃と合わせて合計2隻の空母を大破させたものと判断し、同じ空母に二度攻撃したことに気付かなかった。この頃、フレッチャー少将は空母「ヨークタウン」が攻撃を受ける前に放っていた偵察機(VS-5)から、空母「飛龍」発見の報告を受けた(離れた所にいたため発見されていなかった)。

山口少将は、帰還した攻撃隊の損害がひどい(半分以下に減っていた)ために白昼の攻撃を断念し、12時半に南雲中将へ「薄暮敵残存空母を撃滅せんとす」と報告した。第三次攻撃隊(14機)が薄暮攻撃を待って待機している時にアメリカ軍の急降下爆撃機隊の奇襲を受けた。14時30分頃、エンタープライズとヨークタウンのSBD爆撃機が襲いかかり、3 発の爆弾が命中・炎上し、戦闘不能状態に陥った。航行不能となった飛龍はしばらくは洋上に浮いており、横付けされた駆逐艦が消火に協力したものの復旧の見込みがたたないことから、山口少将は南雲中将に総員退艦させると報告した。山口少将は、加来艦長と共に、味方駆逐艦の雷撃によって沈む艦と運命を共にした。

撤退

飛龍の攻撃隊により空母「ヨークタウン」は深刻な損害を二度も負った。応急修理で沈没こそしなかったものの(一時は総員退艦まで出した)、「ヨークタウン」の戦闘継続不可能と判断したフレッチャー少将は撤退を決め、同艦を率いて真珠湾に向かった。

指揮権を引き継いだスプルーアンス少将の第16任務部隊も、日本艦隊の動向が把握し切れていなかったため、一時的に東へ退避した。翌7日の黎明、第 16任務部隊はミッドウェーの防衛と日本艦隊の追撃のため西進を開始し、3時頃に艦載機が退避中の三隈、最上を発見した。

支援隊の第7戦隊(重巡洋艦・三隈、最上、鈴谷、熊野)は上陸する輸送船団の護衛として警戒任務に従事していたが、南雲機動部隊の壊滅によって、新たにミッドウェー基地砲撃の命を受けて全速力で前進した。その後、第7戦隊がミッドウェーまで距離があると判明したため、夜戦中止に先立って山本長官から砲撃中止命令が出された。しかし第7戦隊は、転進を行おうとした矢先にアメリカ海軍潜水艦「タンバー」(SS-198)を発見して緊急回頭を行い、その際に衝突事故を起こした。「三隈」に衝突した「最上」は砲塔前部の艦首を切断、速力は10ノット程度に落ちた。第7戦隊司令官の栗田健男中将は「最上」の護衛に「三隈」と駆逐艦2隻をあてて残存艦を率いて主力部隊との合流に向かった。残された 4隻には6時40分頃から「エンタープライズ」と「ホーネット」の攻撃隊が襲来、「最上」を護衛していた「三隈」が炎上し、10時半頃に沈没した。また「最上」や駆逐艦「朝潮」、「荒潮」も被弾した。翌8日0時過ぎ、「最上」は応急修理の結果、速力20ノットまで復帰し、駆逐艦の護衛を受けながら空襲圏外へ脱した。

戦艦「大和」をはじめとした主力部隊は夜戦を企図して東進していたが、「飛龍」を失ったことで再考して21時に夜戦を中止し、0時頃には作戦自体の中止も余儀なくされた。南雲機動部隊の残存艦と第7戦隊を含む第2艦隊を率いて撤退した。

6月7日、「ヨークタウン」は曳船に引かれつつ真珠湾に向かっていたが、「ヨークタウン」撃沈の任を受けて接近した潜水艦「伊-168」の放った4本の魚雷のうち2本が命中、空母対空母の戦いを連戦、日本軍の侵攻阻止に活躍した「ヨークタウン」は沈没した。また同空母に同行していた駆逐艦「ハンマン」にも1本が命中して沈没した。

6月13日、第16任務部隊の「エンタープライズ」、「ホーネット」は艦載機に損失を出しながらも無事に真珠湾に帰港した。

両軍の損害

日本軍側

* 沈没喪失
o 航空母艦:加賀、蒼龍
o 重巡洋艦:三隈
* 大破、のち自沈処分
o 航空母艦:赤城、飛龍
* 大破
o 駆逐艦:荒潮
* 中破
o 重巡洋艦:最上
* 航空機:喪失艦載機289機(内、水偵4機)
o この中には「二式艦上偵察機」(後に新型急降下爆撃機彗星に発展)を含む。

* 戦死
o 山口多聞少将(戦死後中将に特進)
o 岡田次作大佐(戦死後少将に特進)
o 柳本柳作大佐(戦死後少将に特進)
o 加来止男大佐(戦死後少将に特進)
o 崎山釈夫大佐(戦死後少将に特進)

他3,000名以上を失い、その中には友永丈市大尉(戦死後中佐に二階級特進)ら108名(121名とも)の熟練搭乗員を含んでいた。各母艦別の搭乗員損失率は、反撃を実施した飛龍が最も多い。しかし、母艦損失の無かった真珠湾攻撃でも、未帰還機29機で戦死者55名を出していることを踏まえると、空母4隻喪失という結果からすれば、108名で抑えられたと見るべきである。

アメリカ軍側

* 沈没喪失
o 航空母艦:ヨークタウン
o 駆逐艦:ハンマン
* 航空機:基地航空隊を含め約150機を喪失。この数字には被弾により修理不能になった機も含まれる。

米軍は日本機動部隊の壊滅に成功したものの航空部隊の損害は大きいものがあった。特に護衛戦闘機を伴わずに攻撃を行った雷撃隊、急降下爆撃隊の損害は極めて甚大であり日本側を上回る数のパイロットが戦死した。

* 第16任務部隊
* エンタープライズ:6月4日時点でエンタープライズの可動機はF4F戦闘機27機、SBD急降下爆撃機35機、TBD雷撃機14機の計76機であった。

* 6月4日:南雲機動部隊に対して可動機すべてを発進させ攻撃。雷撃隊14機は護衛戦闘機の援護がないまま南雲機動部隊に攻撃を行い10機を喪失。エンタープライズの報告書では日本軍の対空砲火は効果的ではなく損失のほとんどは零戦の攻撃によるものであった(対空砲火は主に目標指示に使用されていた模様である)。続いて急降下爆撃を行った第6爆撃機隊及び第6索敵爆撃機隊の33機は目標突入時には攻撃を受けなかったものの爆撃後に強力な対空砲火と零戦の攻撃に遭い18機が未帰還となった。同日夕刻に行われた飛龍に対する第二次攻撃にはエンタープライズ、ヨークタウン隊混成のSBD急降下爆撃機24機が出撃、攻撃時にエンタープライズのSBD1機が零戦に撃墜されたものの飛龍に直撃弾4発を命中させ大破、炎上させた。

* 6月5日:衝突事故で落伍した重巡最上、三隈へ対しエンタープライズ、ヨークタウン混成のSBD急降下爆撃機32機が発進。目標を発見できず付近を航行中の香取型軽巡洋艦(駆逐艦谷風の誤認)を攻撃。谷風から激しい対空砲火を浴び命中弾はなかったもののエンタープライズ隊は全機帰還。

* 6月6日:第16任務部隊は最上、三隈、及び護衛の駆逐艦2隻に対する攻撃を続行。F4F戦闘機12機、SBD急降下爆撃機31機、TBD雷撃機 3機が攻撃に参加。エンタープライズの航空隊は損害を受けずに最上型重巡に5発の命中弾を与え帰還。攻撃後2機のSBDが炎上する三隈の偵察に向かい米軍は最上型重巡を誤って2万トンクラス、30センチ砲装備の巡洋戦艦であると結論づけている。

* 6月4日から6月6日の3日間の戦闘でエンタープライズはF4F戦闘機1機(燃料切れ)SBD急降下爆撃機20機、TBD雷撃機10機の計31機を喪失。全航空団の40パーセントに及ぶ損害を受けパイロット24名、銃手25名の計49名が戦死した。

* ホーネット:5月28日から29日にかけて事故等によりSBD急降下爆撃機2機が失われ6月4日時点ではF4F戦闘機27機、 SBD急降下爆撃機35機、TBD雷撃機15機の計77機が可動状態にあった。

* 6月4日:南雲部隊へ向けてF4F戦闘機10機、SBD急降下爆撃機35機、TBD雷撃機15機が発進。真っ先に攻撃を行った雷撃隊15機は零戦の集中攻撃を受け全滅。ホーネット雷撃隊の生存者はゲイ少尉ただ一人であった。F4F、SBD隊は日本機動部隊を発見できずにミッドウェイ島へ不時着。一部は燃料が足りず海上に不時着した。飛龍攻撃に向かった第二次攻撃隊のSBD 16機は付近を航行中の護衛艦艇を攻撃。戦艦1隻に3発、重巡1隻に2発の命中弾を与えたと報告(日本側には該当する記録がなく誤認の可能性が高い)、全機無事に帰還した。飛龍はすでにエンタープライズ、ヨークタウン隊の攻撃を受けて激しく炎上しており目標としての価値がないと判断されたため攻撃されなかった。

* 6月5日:衝突事故で損傷を負った最上、三隈へ対しSBD26機が発進。目標を発見できず付近を航行中の軽巡1隻(谷風の誤認)を攻撃。5発が目標の30メートル以内に着弾したものの命中弾なし。燃料切れで不時着水した1機を除く全機が帰還した。なお谷風は合計58機もの急降下爆撃機から攻撃を受けたものの艦長・勝見基中佐の的確な操艦により全弾を回避した。

* 6月6日:エンタープライズ隊と合同で撤退する最上、三隈に対して再攻撃を実施。ホーネットからF4F 8機、SBD 26機が発進。対空砲火でSBD1機を失ったものの戦艦1隻に命中弾3発、重巡1隻に命中弾2発を与えたと報告した。帰等後SBD 24機は最上、三隈に止めを刺すために再び出撃、2隻にさらに命中弾を与え全機無事に帰還した。

* 6月4日から6月6日にかけてホーネット航空団はF4F戦闘機12機、SBD急降下爆撃機5機、TBD雷撃機15機の計32機を損失。全航空団の 41パーセントが失われパイロット21名と銃手16名の計37名が戦死した。

* 第17任務部隊
* ヨークタウン:6月4日時点での可動機はF4F戦闘機25機、SBD急降下爆撃機36機、TBD雷撃機12機の計73機であった。

* 6月4日:南雲機動部隊に対してF4F戦闘機6機、SBD急降下爆撃機17機、TBD雷撃機12機の計35機が発進。最初に攻撃を行った雷撃機 12機は魚雷投下前に7機が零戦に撃墜され更に魚雷投下後に3機が撃ち落とされた。TBD雷撃隊の援護に回った第3戦闘機隊の6機は零戦20機以上に襲われ1機を失いさらに1機が修理不能の損害を受ける。残った4機は零戦6機の撃墜を報告し帰還。TBD雷撃隊に続いて蒼龍に急降下爆撃を行ったSBD 17機は5発の命中を報告し全機無事に帰還。ヨークタウンはその後飛龍から2度に渡る攻撃を受け大破、放棄され飛行隊はエンタープライズに乗艦して戦闘を継続した。飛龍に対する第2次攻撃にはヨークタウンの急降下爆撃隊も加わり飛龍を大破、炎上させるも2機のSBDが零戦に撃墜された。

* 6月5日:衝突事故で落伍した最上、三隈へ対しエンタープライズ、ヨークタウン混成のSBD急降下爆撃機32機が発進。目標を発見できずに付近を航行中の軽巡1隻(谷風の誤認)を攻撃。命中弾はなく激しい対空砲火を浴びヨークタウンのSBD1機が撃墜された。

* ヨークタウンの航空団は6月4日から6月6日の作戦行動でF4F戦闘機9機(5機が撃墜、2機が不時着で失われ、ヨークタウン沈没時にさらに2機が失われた)SBD爆撃機13機(10機が不時着とヨークタウン沈没時に失われ、飛龍攻撃時に2機、谷風攻撃時に更に1機を喪失)TBD雷撃機12機(2 機が不時着水で失われ10機が機動部隊攻撃時に未帰還)の計34機を喪失。全航空団の47パーセントが失われパイロット15名と銃手13名の計28名が戦死した。

* 基地航空隊
* ミッドウェー基地には第22海兵航空群、第7陸軍航空軍分遣隊、海軍航空部隊など計116機が展開していた。防空戦闘と南雲部隊に対する攻撃で基地航空隊も極めて甚大な損害を受けた。

* 可動機
o 海兵隊第221戦闘航空隊(VMF-221):F2A 21機、F4F 7機
o 海兵隊第240索敵爆撃隊(VMSB-240):SBD 18機、SB2U 16機(この飛行隊にはパイロット29人しか所属していなかったのでVMF-221からパイロット1名を借りて戦闘に参加。パイロットの人数の関係上 SBD 18機とSB2U 12機しか戦闘に参加できなかった)
o 海軍航空隊:PBY 28機、TBF 6機
o 第7陸軍航空軍分遣隊:B-17 16機、B-26 4機

* 防空戦闘:ミッドウェー基地レーダーサイトから大編隊接近の報を受け直ちに可動機すべてのF2A 20機 F4F 6機が発進。上空有利な位置から日本軍攻撃隊に襲い掛かった。しかし護衛の零戦36機が直ちに反撃、旧式のF2Aは零戦に対して全く歯がたたず隊長のパークス少佐機を含むF2A 13機 F4F 2機が撃墜された。また帰還した11機も被弾により大きく破損しておりF2A 5機とF4F 2機が再使用不能の損害を受けた。第221戦闘航空隊の報告書には以下の証言が記載されている。

I saw two Brewsters trying to fight the Zeros. One was shot down, and the other was saved by ground fire covering his tail. Both looked like they were tied to a string while the Zeros made passes at them.(私は2機のブリュースターが零戦と戦おうとしているのを目撃した。1機は撃墜されもう1機は地上からの防御砲火によって救われた。2機はまるで縄で縛られて零戦から攻撃されているようであった)。

* 南雲機動部隊への攻撃:PBY哨戒機からの通報を受けミッドウェー島にあったすべての航空機は逐次南雲機動部隊へ攻撃に向かった。最初に南雲機動部隊を攻撃したB-26 4機はアメリカ陸軍航空隊初となる雷撃を実施。しかし命中弾はなく2機が撃墜され帰還した2機も被弾により激しく損傷しており再使用不能になった(帰還した内の1機は500発以上も被弾していた)。続いて攻撃に向かった最新鋭のTBF雷撃機6機も直衛の零戦に攻撃され5機を失い辛うじて帰還した1機も激しく被弾しており銃手は機内で戦死していた。

ミッドウェー基地を発進したSBD 16機,SB2U 11機 (SBD 2機とSB2U 1機はエンジン故障により引き返した)も程なく機動部隊を発見。ヘンダーソン少佐指揮のSBD 16機はパイロットが経験不足なこともありより危険で効率の悪い緩降下爆撃を行った。しかし零戦から激しい攻撃を受け命中弾はなくヘンダーソン少佐機を含む8機が撃墜され残る8機も被弾により大きく損傷していた。(米軍は戦死したヘンダーソン少佐の勇気を称えガダルカナル島の飛行場をヘンダーソン飛行場と命名した)。SBD 隊の後に戦場に到着したノリス少佐指揮のSB2U 11機は零戦が補給の為に一時的に空母に着艦していたこともあり4機を失っただけで済んだが命中弾を与える事は出来なかった。最後に陸軍航空隊のB-17 16機が高高度から爆撃を行ったが高速で回避運動を行う南雲部隊へ1発も命中させることができず全機ミッドウェー基地に帰還した。

* 6月5日:ミッドウェー基地航空隊は前日の戦闘で激しく消耗していたものの可動機全機をもって退却する日本艦隊に向け攻撃隊を発進させた。第 240索敵爆撃隊は稼動機すべてのSBD 6機とSB2U 6機を出撃させ最上、三隈を攻撃。しかしながら命中弾を得られず対空砲火に被弾したフレミング大尉は三隈に体当たりしたとも言われている。またB-17部隊もこの攻撃に参加したが爆弾はすべて外れ対空砲火で1機を、燃料切れで1機を失った。

* 3日間に及ぶ戦闘で第22海兵航空群は42名の搭乗員を失い負傷者も25名に及んだ。また南雲部隊へ雷撃を行ったTBF隊も16名の戦死者を出した。

戦死

* 約300名、高級士官の戦死は無かった。

本海戦の影響

日本軍側
山本五十六は戦前に「日本は開戦から半年、もって1年は優勢を維持することができるが、それ以降はアメリカ(と連合軍)の国力が日本を圧倒するだろう」と述べていたが、国力で圧倒される以前に、戦略、戦術、用兵などの拙劣により、約2倍の戦力を有しながら、ミッドウェーで被害を受けた。しかも作戦戦訓研究会は開かれず、敗戦の責任者が処罰されることもなかった。そのうえ軍令部は、この敗北を国民はおろか参謀本部や東條英機総理兼陸相に対してさえナイショにした。被害がやや大きめだったといえども戦力的には優位を保っていたが、高級指揮官らの士気困惑は甚だしく、「航空基地の偉大なる威力」という戦訓が生み出され、ラバウルから1000kmもかなたのガダルカナル島に飛行場が建設され、また、ガ島基地奪回作戦が行われた。開戦から6ヶ月目に当たるミッドウェーの被害以降、同年に行われた第一次ソロモン海戦や南太平洋海戦、翌年初頭に行われたレンネル島沖海戦などいくつかの局所的な戦いでは日本は勝利を手にするものの、ガダルカナル、ニューギニアやマキン・タラワ島をめぐる戦いで戦局に影が生じるなど、1年を経過せずに日本の戦局は徐々に乱れ始めた。1943年の年末には日本軍の勢いが落ち始め、後年ミッドウェー海戦は太平洋戦争の転換点とも評されるようになった。

また、本海戦で損失した航空戦力を補うため、大和型戦艦の3番艦は急遽装甲空母への改装が決定され、空母「信濃」となる。戦艦伊勢・日向は航空戦艦となった。商船改装の空母の建造や飛龍を元にした雲龍型空母の15隻追加建造が計画された。また、本海戦や後のガダルカナルをめぐる消耗戦等で熟練搭乗員を失ったが、若手搭乗員の訓練・補充がそれに追いつかず、この後の日本機動部隊は、規模的にはミッドウェー海戦時を上回っても、質的には上回ることができず、日本海軍はミッドウェーで半壊した兵力を回復するのに時間を費やした。アメリカの戦力が時間を追って桁違いに強化されていくのは明白だったことを考えると、この時点において日本は実質的に太平洋戦争の勝利のチャンス(もし可能性があったとして)を失ったといえる。

作戦の混乱により短期決戦早期講和派は発言力を失い、軍令部、大本営は長期戦を主軸とした戦略への転換を行わざるを得なくなる。また、大本営は本海戦の戦果を「空母ホーネット、エンタープライズを撃沈、味方の損害は空母一隻、重巡洋艦1隻沈没、空母一隻大破」と国民に発表することによって士気の阻喪を防ごうとしたが、これ以降国民に対して(天皇に対しても)歪曲された戦果報告を行なうようになり、この状態は第二次世界大戦の終結まで続く。これは戦果を正確に記録できていた開戦初頭に比べて、搭乗員の経験不足もさることながら、海軍上層部の冷静な判断力の欠如、また期待感や同情から搭乗員の過大な戦果報告を鵜呑みにしたことも大きい(但し、過大戦果報告はアメリカ軍もおこなっている。)

アメリカ軍側
アメリカ軍は、それまでは隻数が確保できなかったため、止むを得ず単鑑による作戦行動が多かった空母を、戦前から建造を進めていたエセックス級空母の整備に伴って空母機動部隊として集中運用するようになる。大戦後期のマリアナ沖海戦やレイテ沖海戦では、20隻もの空母を含む大艦隊を運用するようになる。
もしも日本軍が勝利し、ハワイ攻略に成功しても、国力の差が歴然としていることから結局戦争全体が長引いたに過ぎないという説が主流である。

太平洋の戦局に余裕を得たルーズベルトは、装備したばかりのM4中戦車300両を回収して、他の武器と共に北アフリカ戦線に急送し、9月3日にスエズに到着。10月23日、英軍はエル・アラメインから反攻し、ロンメル軍を撃破した。ロンメル軍の敗退により、日本軍が企図した西亜作戦(2個師団を当ててインド洋の北西部の要衝を占領し、日独連携を図る)も潰えた。

戦闘の分析

指揮体系

航空戦では、刻一刻と変わる情勢の変化に即応できる指揮体系が要求される。アメリカ軍は、現場の戦闘部隊の指揮官で、空母部隊指揮経験のある(しかも直前に史上初の空母対空母の戦いを指揮した)フランク・フレッチャー少将が作戦全体を指揮した。彼は戦闘中に自分の空母を失うと、即座に指揮権をスプルーアンス少将に移し、その空母によって日本の残存空母を仕留めることに成功した(南雲も、乗艦を失った際に山口多聞少将の具申に従って指揮権を委譲し、ヨークタウンの撃破に成功している)。一方、日本の機動部隊の司令官は、利根4号機のアメリカ海軍空母発見の報告の際、山口の即時攻撃要請を却下し、再びの兵装転換の命令を出さざるを得なかった(理由は後述)。これらのことは、空母部隊の指揮運用に不安要素があった南雲忠一中将であった事に加えて、アメリカ空母部隊とミッドウェー基地攻撃との二方面作戦を厳命されていた日本海軍と、日本機動部隊のみの捕捉撃滅を目指すアメリカとの戦略の根本的な違いなどに起因すると思われる。

日本軍の敗因

本作戦が失敗した原因は多岐にわたる要素が挙げられるが、ここでは主要なものに関してのみ述べる。

艦隊構成

戦艦を主戦力とし、その概念で空母部隊も編成した。広い攻撃エリアの飛行部隊をもつ空母は、戦力の集中が簡単で、各艦の距離を戦艦の10倍以上持てるのに、あえて戦艦並みの距離で4隻が一緒に行動したため、同時攻撃を受けて3隻が壊滅した。

空母の集中運用は、各艦との連絡が取りやすく、指揮官の意思伝達を容易にし艦隊すべての航空戦力を集中的に管理しやすい反面、空母自体の防御力の脆弱性もあり、攻撃を受けると一挙に大損害をこうむる危険もある。また、空母の艦長も各航空戦隊の司令官にも、自分の飛行隊を自由に使える権限がなく、不測の事態に対する柔軟性に欠ける。対して米艦隊は空母を分散運用し、結果的に被害をヨークタウンのみにとどめている。しかし、本海戦における米軍の航空運用は、各空母飛行隊間の連携がほとんど取れておらず、兵法における愚策とされる戦力の分散と逐次投入という状況を招いた。これは空母の分散運用の最大の欠点が現れた形である。現に、戦闘機隊と連携できずに単独で突入した雷撃機隊は有効な攻撃もできずに壊滅している。米軍にとって幸運だったのは、兵力の分散が偶然にも波状攻撃の形となり、日本艦隊の防空の意識が低空に向けられていた隙を突くことになったことである。本海戦は、日本側に空母集中の最大の欠点が如実に現れ、米側は逆に分散運用の欠点が利点に転じた結果となった。

南雲機動部隊は赤城、加賀、蒼龍、飛龍の空母4隻に、霧島、榛名の戦艦2隻、重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦12隻、油槽艦8隻と、空母4隻の護衛艦が貧弱であった。機動部隊の300浬(約550km)も後方に、大和、長門、陸奥の戦艦3隻、鳳翔、千代田の空母2隻、水母、軽巡各1隻、駆逐艦22隻の主隊、および伊勢、日向、扶桑、山城の戦艦4隻、軽巡1隻、駆逐艦12隻の警戒部隊からなる、山本五十六率いる主力部隊、そして、金剛、比叡の戦艦2隻、瑞鳳、千歳の空母2隻、水母1隻、重巡8隻、軽巡2隻、駆逐艦21隻、輸送艦12隻の攻略部隊が続くという編成であった。

一方、南雲機動部隊に、本来与えられてしかるべき海上航空戦力が与えられなかった、という批判もある。ミッドウェー攻略作戦の陽動作戦として、主戦場より遠く離れたアリューシャン攻略作戦には、貴重な2隻の空母隼鷹と龍驤を基幹とする艦隊が投入された。また、珊瑚海海戦を戦った2隻の空母のうち、翔鶴は中破していたが、もう一隻の瑞鶴についてはほとんど無傷であり、搭載機と搭乗員の手配をすればミッドウェー海戦への参加も不可能ではなかったにもかかわらず、なんら、このような努力はなされなかった。

南雲忠一に対する批判と擁護論

本作戦における南雲に対しては、兵装転換による無駄な時間を生じた点などで、その作戦指揮に対する批判が多い。また、それに対して当時の背景状況や、部下の進言・不手際にこそ問題点があったとする反論もみられる。なお、これらについては、南雲忠一の記事にも詳しい記載がある。

指揮官としての経歴やパーソナリティに関する問題点について

南雲は、本来水雷戦隊を率いての戦いが専門であり、航空戦を理解しておらず、敵の見えない戦いについての訓練もされていなかった。しかもリーダーシップに欠けて優柔不断だったといわれる。航空隊の指揮官だった淵田は後に、自著に「少々耄碌(もうろく)していた」と記している。こうした批判に対しては、そのような人物を年功序列で司令官においていた海軍の人事自体も問題視するべきで、ミッドウェーの敗因を南雲ひとりに負わせてしまうのは酷であるとする意見がある。

作戦指揮そのものに対する問題点について
敵発見後に即時攻撃せず、爆撃装備から雷撃装備に換装させるという判断を下し、貴重な時間をとられたということが最大の失敗との分析が多い。通常の爆弾でも、特に対空母であれば甲板を破壊することで沈めずとも艦種としての主要機能を無力化できる。対砲艦であっても、爆撃で露出した対空装備や甲板上の戦闘要員をなぎ払えば戦力低下をもたらすことができる。事実、本海戦での日本側空母は、米側の魚雷よりも爆弾による攻撃がもたらした火災被害が喪失の大きな原因となった艦が複数あった。早期に発艦すれば攻撃の機会があった上、換装途中の航空機や弾薬の誘爆による被害拡大を防ぐことが出来たと見られ、南雲の戦闘指揮に対する批判としてよく挙がるものとなっている。 この批判に対しては、結果を知っているからこそ言えるいわゆる「後知恵」が多分に含まれているものが多いという意見や、南雲がこの判断を下したのは源田の進言に従っての事であることも考慮されるべきという意見がある。

また、兵装転換をはじめとする作戦指揮への批判には、以下のような用兵等の観点からの反論もある。これらについての詳細は別節にて後述する。

* 敵発見の報告後、直ちに攻撃隊を発進させたとしても、それまでの防空戦に大半の戦闘機を割いている状況だった。これは戦闘機の護衛がほとんど無い実質丸裸の攻撃機/爆撃機隊を送り出す事になることを意味する。(先の珊瑚海海戦で攻撃隊が米軍戦闘機の迎撃を受けて大きな損害を出している例があり、適切な措置であるとはいえない。)

* 対地爆撃装備のままでの艦船攻撃は(直接的に浮力を奪うための攻撃という観点で)効果をさほど期待できない。また、艦攻による水平爆撃は命中率が悪く、充分な成果を挙げ得るとは考えにくい。

* 米空母発見の報が届いた時間帯は、ミッドウェーを攻撃した第一次攻撃隊がちょうど帰還してきた頃である。当時の空母は、発艦・着艦を同時に行うことはできない。攻撃隊発進を優先することは、第一次攻撃隊の着艦を妨げることから実質不可能であり、反復した波状攻撃としては間が空く。これは米空母に復旧・反撃の時間的猶予を与えることになる。
* 利根4号機が知らせてきた米空母の位置が、実際よりも遠方であった。このため、時間的余裕があると判断することは決して不自然なものではなく、第一次攻撃隊の収容と、それに平行して艦内での対艦攻撃装備への転換を実施して、完全な攻撃隊を編成することは、誤った措置であるとは言い切れない。

* 南雲を索敵軽視と評する批判もあるが、その論拠となる「発進の遅れた利根4号機の報告を待たずに、攻撃目標をミッドウェーに切り替えたこと」については、代替機でより早く確実な情報を得ようとしても、要員や機材の準備が間に合う確証がないことからやむを得ないものである。また、索敵方法自体も従来から行われているものであり、むしろその問題点の発覚は本海戦の戦訓によるものであった。雲上を飛行したために見逃してはいるが、筑摩の偵察機は米軍艦隊上空を飛行しており、水平方向の索敵範囲としては問題の無いものである。レーダーも無い機体で視界の不十分な雲上を飛行して見逃したことは、そのパイロットに責を問うべきで、南雲が直接批判されるべき問題ではない。

ミッドウェー攻略の作戦自体を問題視する意見
以下のようにミッドウェー攻略の計画自体の破綻を指摘し、南雲に責を問えないとする意見もある。ただし、米軍の待ち伏せは日本軍が作戦実施前に把握出来なかったことであり、これを以っての擁護論は現場の戦術レベルの問題と戦略レベルの問題を混同している側面があると言える。また、これ自体が批判と同様に結果を知っているからこその後付けの指摘に過ぎないともいえる。

* もともと、作戦の方針はミッドウェーを攻撃して、その後反撃の為に進出してきた米空母部隊を撃滅するというものであり、米軍があらかじめ待ち伏せていることは想定外に近い状況であった。米軍が待ち伏せていたという時点で作戦そのものが破綻していたと言える。これを踏まえて、期せずしてミッドウェーと、米空母を同時に相手するという状態に陥ったことが、雷爆装転換による混乱という形になって現れ、結果空母部隊をもっとも弱い状態で米軍の攻撃にさらす事になった。これは機動部隊の指揮をとる南雲だけに問われる責任ではない。

レーダー

米艦隊にはレーダーがあり、日本空母にはないという装備上の大きな差があった。米軍はレーダーにより接近する航空機や艦船に対して有効な対応が直ちにできて、奇襲を受けることはなかった。また、攻撃機の空中退避、戦闘機の邀撃、艦隊自体の退避が行えた。そして、米空母の管制により性能で日本側に劣る米戦闘機も空母の近くでは有利に防空戦を行えた。 もし日本に対空レーダーが装備されていれば、奇襲を受けて空母が全滅することはなかったと当時から言われ、以後空母翔鶴を最初に21号電探等の装備が始まった。ただし、そのためにはレーダー探知情報に基づいて自軍戦闘機を誘導するCICのような体制がなければならないが、当時の日本軍戦闘機が装備していた無線電話機は近距離でもまともに交信できない劣悪な性能であった、従ってレーダー単体が完備されていたとしても、組織的な防空体制を整えていなければ、状況はほとんど変わらなかったとも言える。

なお、主隊の伊勢と日向には、試作型の水上レーダーと対空対水上兼用レーダーが日本海軍で最初に装備されていた。

情報戦

米海軍が日本海軍の暗号解読に成功し、これに状況判断を加えることで、作戦計画の概要をほぼ完全に把握し、的確な邀撃作戦を準備していたことがまず挙げられる。一方日本軍は米軍の暗号をほとんど解読できず、主に通信状況、方位測定、平文傍受などの情報から状況判断を加えて分析しており、確度は低かった。

日本の「海軍暗号書D」系統は戦略常務用一般暗号書でよく用いられていたが、乱数表を用いて二重に暗号化した複雑な暗号であり、これに特定地点表示表、特定地点略語表、歴日換字表を併用したものではあったものの、開戦前より使用していたため寿命が尽きかけていた。ハワイの米軍情報隊に暗号は解読され、作戦概要や主力部隊以外のすべての参加艦艇が判明しており、作戦全体像がほぼ察知されていた。日本軍としては暗号書などを改訂しようとしていたが主力部隊の出撃に間に合わず、作戦準備期間の電報が大量に解読されてしまう事態があった。

加えて珊瑚海海戦、5月15日にマーシャル諸島南方において敵空母を発見したことにより、敵空母の所在についての判断を誤る結果となったことも作戦行動に影響している。日本側が想定した米空母数は2隻。日本側の4隻と比べると倍の戦力差があり、このため今まで通り米空母は決戦を避けるのではないかということも考えられていた。情報戦における敗北については戦闘後に宇垣連合艦隊参謀長も「程度は別としてわが企図が敵に判っていた疑いがある」「敵情偵察不十分」を敗因として挙げている。この情報戦は日本海軍の組織の中で最も稚拙なところで、連合艦隊に情報参謀という情報分析を専門に行う参謀が無く、その価値が軽視されていた為におこった事である。

通信

南雲機動部隊を前衛に出し、後方を戦艦大和を旗艦とする本隊が進んでいたのだが、大和には高性能の受信設備と優秀な情報収集班が配置され、ミッドウェー付近の敵の状況を推測の範囲ではあるがある程度まで把握していた。片や南雲機動部隊側の通信設備は性能が劣り、敵の情報をつかむことが困難であるため、本隊からの情報が必要であったが、最後まで的確な情報提供がなされなかった。この情報伝達の不備が敗因のひとつであったと指摘されている。アメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督はハワイで指揮を執り、空母部隊に逐次連絡していたのに比べ、連合艦隊司令長官山本提督は無線封鎖中の戦艦大和で指揮を執り、情報は一切発信しないという状況であった。また日本軍は全てを暗号に組み替えており(米軍は緊急時には平文のまま打電することもある)、通信自体に時間がかかった。

作戦計画

ミッドウェー海戦前に行われた兵棋図演(シミュレーション)で、統裁官であった連合艦隊司令部宇垣纏参謀長は、アメリカ海軍の急降下爆撃と雷撃の命中率を過度に低いものと誤り、参謀らに「三分の一」に減じさせ兵棋図演をやり直させた。ハワイとミッドウェー間で潜水艦によるアメリカ空母部隊の偵察を十分に実施せず、このためハワイのパールハーバー基地から米空母部隊がミッドウェー島東部海上に移動する情報を、連合艦隊は得ることができなかった。宇垣参謀長は南雲忠一司令官の空母部隊に対し第一の攻撃目標を敵艦隊とするという明確な指示を出していなかったため、南雲司令官はミッドウェーのアメリカ軍基地第二次攻撃のため、艦隊攻撃用の魚雷を陸用爆弾へ変更する、兵装転換命令を現場で比較的安易に出した。

哨戒

第一に作戦事前のハワイ-ミッドウェー間の日本軍哨戒網に問題があった。当時の日本軍潜水艦はレーダーを装備しておらず哨戒能力に問題があった。さらに潜水艦の哨戒線が米軍空母の通過よりも遅れて展開されている。また、ハワイ真珠湾を二式大艇で事前偵察を行い、米艦隊の動向を探ろうとする作戦(第二次K 作戦)も計画されていたが、偵察機の給油・中継地とされていた地点に米軍艦艇が出現した為、直前で中止になっている。これらにより南雲機動部隊は、事前段階の敵情報をほとんど掴めないまま作戦にあたることになってしまう。このことが、アメリカ海軍空母部隊の進出は「作戦通り」ミッドウェー攻撃が起こってからという先入観に拍車をかけてしまった。

第二に、南雲艦隊による索敵である。当時の日本海軍では主に巡洋艦に搭載された水上偵察機を主力として索敵を行っていた。空母の攻撃力を重視し他の艦艇との役割分担を明確にするために空母には偵察機を搭載しておらず、攻撃機や爆撃機等の艦載機による索敵にも消極的であった。 本海戦においても索敵には主に巡洋艦の水上機が割り当てられ、空母艦載機は九七艦攻を2機のみである。また、後に米機動部隊を発見する利根4号偵察機の発進遅延については、南雲司令部では把握していなかったという説もある。

また、他の偵察機(筑摩一号機、都間信大尉<兵66期>)は、米機動部隊上空を通過しながら雲の上を飛行したため発見出来なかった。さらに敵艦爆と遭遇しながら報告をしなかった。これらの要因で直線距離約240kmで対峙しながら米軍空母の発見が遅れた。

また、作戦全体において日本軍の将兵に米空母の進出は自分たちのミッドウェー攻撃後に行なわれるだろうという先入観が大きかったと思われる。この先入観による錯誤は、利根4号偵察機が実際に敵を発見した際の南雲部隊首脳部の混乱ぶりからも明らである。

なお、利根4号機が定刻に発進できていれば、米空母発見が早まっていたのではないかとする説もあるが、定刻発進した場合米艦隊が利根機の策敵線に差し掛かる前に利根機が通過していることになり、策敵そのものが失敗していた可能性が高いとも言われる。空母艦載機を積極的に索敵に投入し、濃密な索敵網を形成できればより発見が早まった可能性もあるが、実際に行われた従来道りの方法による索敵は、本海戦まで必要充分の成果を挙げていたことから、従来の方法以外の索敵を適用する発想を当時の日本海軍に求めることは酷であるともいえる。

もともと日本海軍はその数的劣勢に鑑み、攻撃力を温存するために空母艦載機を策敵にあまり使用せず、水上機を策敵の主力に据えていた。日本海軍はこの思想にのっとり、他国の水準を凌駕する水上偵察機や、それを最大限活用して機動部隊の策敵を担う為の「利根」型重巡洋艦を開発・運用しており、有力な艦載水上偵察機を開発できなかった米英海軍とは事情が大きく異なる。こうしたことから、結果的に不十分な内容となった哨戒には問題があったが、そのいくつかは背景状況からみて不可避のものでもあった。

この海戦の結果によって、従来の索敵法では不十分であるとされ、後の南太平洋海戦における二段索敵や、空母搭載用の高速偵察専用機彩雲の開発などにその教訓が生かされることになる。

用兵

山口少将の即時攻撃の進言を退け、雷装転換を優先したことが批判の対象となっている。陸用爆弾で飛行甲板の破壊は(少なくとも数時間は運用不能にする事は)可能であったにもかかわらず、雷装換装を行った。この戦いの正否と結果からすれば、換装することなく直ちに出撃させるべきだったことになる。山本長官から直々に第二次攻撃隊の対艦攻撃兵装のままで待機させておくようにとの指示があったにもかかわらず、まだ索敵機が全て折り返していない(未偵察の海域がある)にもかかわらず、兵装の転換を命令している事が結果に大きく作用した。直接的な要因としては、事前情報がほとんど無かったことに加え、そもそも作戦自体がミッドウェーを攻撃して敵艦隊を誘引するというものであったことや、ミッドウェーの陸上機から空襲を受けていることから、先にミッドウェーを叩いてから敵空母に備えることが機動部隊にとっては妥当なものに思われたことが挙げられる。これらの要因は、前述の「敵の進出はミッドウェー攻撃後である」という先入観を強くしうるものでもあり、それらが複合的に影響して雷装→爆装という判断にいたったとみられる。

ただし、現実的問題として空母機動部隊の主力攻撃力である艦攻は、雷撃か水平爆撃しか出来ない機種で、水平爆撃では高速空母はおろか、戦艦に対して用いても回避行動をとられればほとんど命中を得られないとされていた。軽快な急降下爆撃機が重大な結果をもたらす事は、まさにこの戦いで初めて実証されたのである。比較的優位はずの本海戦で、ここに至るまで多くの功労と豊富な経験を持つ貴重な艦攻隊に、高速空母に対して命中率を充分に得るためには自殺的低高度となる水平爆撃を命じる判断は、戦果と引き換えに発生する機体や熟練搭乗員の損害を勘案すると司令部にとって是認しがたいものであった。

楽観的気運

日本海軍航空隊の精強さについては、支那事変(日中戦争)以来の戦果に対する大きな自信と長い実戦経験があり、さらに日米戦争開戦後は「真珠湾以来すべて完勝してきた」との自信もあった。そのため、珊瑚海海戦で空母同士の戦闘を初めて経験し、訓練された敵の空母部隊と交戦して大損害を受けた後も、その敗北の検証さえ十分に行われなかった。1航戦(赤城、加賀の飛行隊)のパイロットたちも「珊瑚海で米艦隊を撃ちもらしたのは5航戦がだらしないからだ」と信じていた。

さらに、淵田によるとミッドウェーでの米軍の初期の攻撃の拙さに、彼らは哀れみさえ感じていたという。 確かに経験・練度・士気など、いずれの点でも当時の南雲艦隊に勝る空母航空部隊はなかったといえるが、日本海軍はそのことを過信するあまり、自軍を脅かす可能性のある情報や兆候にひたすら目をつむり、希望的観測のみで作戦を進めてしまった。その結果、ミッドウェーで4隻もの正規空母を失うという取り返しのつかない敗北を招いたといえるだろう。

ダメージ・コントロールの欠如

日本海軍では艦船被弾時に備えた防火・消火設備がほとんど整備されていず、火災に備えた訓練も行われていなかった。そのため空母が数発被弾して火災が発生しただけで沈没してしまう結果となった。とくに赤城は(発火しやすい航空機や弾薬を被弾時に格納庫に並べていた不幸はあったものの)爆弾2発で沈んでおり(爆弾により沈んだのではなく一時は曳航も検討されたが断念され日本駆逐艦の雷撃により処分されている)、これは第二次世界大戦で撃沈された正規空母のうち最も少ない被弾数である。

反面、アメリカ軍のヨークタウンは第一次攻撃隊の急降下爆撃時に被弾したがすぐに復旧し、第二次攻撃隊が無傷の空母と誤認するほど回復していた。また、第二次攻撃隊によっても被弾したが(両攻撃で計3発)自力航行可能なまでに復旧している。この艦船被害時の回復力の違いが明暗を分けたとの指摘がある。

さらに詳しく → ミッドウェー海戦


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