ゼロから学ぶ 【太平洋戦争② (Pacific War)】

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2011/05/22(日)
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真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、英語:Attack on Pearl Harbor、日本時間1941年12 月8日未明、ハワイ時間12 月7日)は、休日である日曜日を狙ってハワイオアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空攻撃である。当時の日本側呼称はハワイ海戦(布哇海戦)。太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦の南方作戦の一環として計画された作戦であり、マレー作戦に次いで開始された作戦である。戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を喪失した。世界史的には、この攻撃によって第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大した。

背景

作戦構想

オアフ島真珠湾のアメリカ海軍基地は1908年に設置され、以来日本海軍にとって脅威となっていた。真珠湾の海軍基地はオアフ島要塞と呼ばれた要塞群で守られており、中には戦艦と撃ち合える40センチ砲も設置されていた。上陸可能な死角も存在しなかったため、艦砲射撃や上陸作戦には成功の見込みはなかった。日本軍は工事労働者に変装したスパイを多数送り込み、要塞の詳細を把握していたと言われる。

日本海軍は対米戦争の基本戦略として漸減邀撃作戦を有していた。これは真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊の戦力を、潜水艦と航空機を用いて漸減させ、日本近海において艦隊決戦を行うというものであった。だが1939年に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六は異なる構想を持っていた。1941年1月、山本は第11航空艦隊参謀長であった大西瀧治郎少将に対して「真珠湾を航空攻撃できないか」と航空攻撃計画の作戦立案を依頼した。

当時数少ない海軍将官きっての航空通の1人であった大西は、ある程度骨子を作った後、2月に第1航空戦隊の参謀であった源田実中佐に山本の意向を伝えた。源田は1週間後、オール爆撃案と、雷爆撃併用案の2つの案を作り大西に示した。真珠湾への航空攻撃の成否を左右するのは雷撃が可能かどうかであった。真珠湾の平均水深は12メートルである。当時の航空魚雷は攻撃機が投下し着水した後、平均数10メートル以上沈んでから航走しつつ調停深度まで浮上してくるものであった。これでは投下した魚雷はことごとく真珠湾の海底に突き刺さってしまう。

結局大西と源田は当時海軍が保有していた正規空母4隻と軽空母「龍驤」を主力とした部隊を用いて、雷撃は諦めて攻撃隊は全て爆装とした上で、水平爆撃と急降下爆撃を行うという案を山本に提出した。水平爆撃に関しては当時既に長門型戦艦の主砲弾を改造した800キロ徹甲爆弾が完成しており、命中率は低いものの敵戦艦の撃沈は物理的に可能であったからである。これに対して山本は不満を表して「雷撃ができないのなら真珠湾攻撃は諦める」とまで言ったといわれる。そこで大西は雷撃に関しては攻撃前までに攻撃法を研究開発することにして、雷爆撃併用に案を改めた上で山本の了解を取り、軍令部第一部長福留繁少将に作戦準備を依頼した。

実施許可

1941年9月、アメリカやイギリスとの関係悪化を受け、日本軍は南方作戦を具体化させていった。作戦目標は蘭印(オランダ領東インド)の石油資源の獲得であるが、制海権確保のためにアメリカ太平洋艦隊の戦力を減殺する必要があるとされた。だがこれを実現するための山本の真珠湾航空奇襲案に対して軍令部は大反対した。この案では日本海軍の持つ正規空母の全てをハワイ作戦に投入するため、南方作戦への航空支援が手薄になる上に、万が一作戦が失敗したときには、最悪日本は虎の子の正規空母4隻を全て失い、制空権、制海権を完全に失うこととなりかねないからである。軍令部において9月に行われた兵棋演習では、敵戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引換えに味方正規空母4隻中3隻沈没、1隻大破で機動部隊全滅という結果に終わり、軍令部の危惧を裏付ける結果となった。

あくまで正規空母全艦投入を求める連合艦隊司令部と、軍令部の対立は日を追って激しくなり、終には作戦そのものが中止になりかねない雰囲気になりかけたが、正規空母「翔鶴」、「瑞鶴」が秋口に相次いで竣工した上、雷撃に目処が立ったことで、連合艦隊司令部が最後の賭けに出た。連合艦隊参謀黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰っている」と軍令部次長伊藤整一中将に言い放ち、これに驚いた軍令部総長永野修身大将は渋々作戦実施を認めた。

奇襲訓練

真珠湾航空奇襲の訓練は鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に、鴨池、鹿屋、笠之原、出水、串木野、加世田、知覧、指宿、垂水、郡山、七尾島、志布志湾の各地で行われた。技術的な課題は、第1に水深12メートルという浅瀬でどうやって魚雷攻撃を行うか、第2に戦艦の装甲をどうやって貫通させるか、の2点であった。

第1の点に対しては、タラント空襲を参考に着水時の走行安定性を飛躍的に高めた愛甲魚雷を航空技術廠が苦心の末に改良し、ジャイロを用いて空中姿勢を安定させて沈度を大幅に抑えることに成功したことと、鴨池航空隊による超低空飛行訓練により、最低60メートルの水深が必要だったものを10メートル以下に引き下げることに成功した。第2の点に対しては、戦艦の装甲を貫徹するために水平爆撃で攻撃機の高度により運動量をまかなう実験が鹿屋、笠之原で実施され、模擬装甲にはアメリカのベスレヘム・スチール社、ドイツのクルップ社、安来などの鋼板を用い、貫通するための運動量の計測などが行われた。

航空攻撃と併用して、5隻の特殊潜航艇(甲標的)による魚雷攻撃も立案された。特殊潜航艇による真珠湾侵入は生還を期しがたい決死の作戦となるため、岩佐直治大尉ら10名の特別攻撃隊が選抜された。鹿児島県での訓練を終えた艦隊は大分県の佐伯湾に集結し、最終演習の後、11月18日に択捉島の単冠湾へと向かった。

経過

ニイタカヤマノボレ

1941年11月1日、東條英機内閣は大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降陸海軍は12月8日を開戦予定日として真珠湾攻撃を含む対米英蘭戦争の準備を本格化した。南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」および「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」を基幹とする日本海軍空母機動部隊は11月22日に択捉島の単冠湾に集結。出港直前、空母「赤城」に搭乗員達が集合し、南雲中将が米太平洋艦隊を攻撃することを告げた。赤城艦長は山本長官の「諸子十年養うは、一日これ用いんが為なり」という訓示を代読している。11月26日、南雲機動部隊はハワイへ向けて出港した。12月1日、御前会議で対米宣戦布告は真珠湾攻撃の30分以上前に行うべきことが決定された。

12月2日、大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が発信された。ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で当時の日本の最高峰、一二〇八とは12月8日のことで、「日本時間12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」の意の符丁であった。ちなみに、戦争回避で攻撃中止の場合の電文は「ツクバヤマハレ」であった。

12月7日、伊号潜水艦隊から特殊潜航艇が発進した。12月8日午前1時30分(日本時間)ハワイ近海に接近した日本海軍機動部隊から、第一波空中攻撃隊として艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機、計183機が発進。午前2時45分、第二波空中攻撃隊として艦戦36機、艦爆81機、艦攻54機、計171機が発進した。

なおこの攻撃に先立ち、陸軍はイギリス領のマレー半島コタ・バルで奇襲上陸作戦を行っていた。真珠湾とマレーで一方が先行すれば他方の奇襲が成り立たなくなる。しかし源田の案により、暗闇での発艦を回避するため、攻撃隊の発進は当初の予定より2時間遅れとなった。この決定を軍令部が把握した時には命令変更の時間がなかったため、三代辰吉中佐がコタバル攻撃部隊へ伝達しないことにした。これにより、真珠湾攻撃はコタバルの2時間遅れとなった。

トラ・トラ・トラ

ハワイは現地時間12月7日日曜日の朝だった。7時10分(日本時間8日午前2時40分)に、アメリカ海軍の駆逐艦DD-139「ワード(ウォード)」がアメリカ領海内において国籍不明の潜水艦を発見し、砲撃によりこれを撃沈した(ワード号事件)。これは日本軍の特殊潜航艇であった。ワード号は直後に「未識別の潜水艦」を撃沈した旨を太平洋艦隊司令部へ打電したが、ハワイ周辺海域では漁船などに対する誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されず、アメリカ軍は奇襲を事前に察知する機会を逸した。

7時49分(同3時19分)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田美津雄海軍中佐が各機に対して「全軍突撃」(ト・ト・ト・・・のト連送)を下命した。7時53分(同3時23分)、淵田は旗艦赤城に対して「トラ・トラ・トラ」を打電した。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する符丁である。7時55分(同3時25分)翔鶴飛行隊長の高橋赫一海軍少佐が指揮する急降下爆撃隊がフォード島への爆撃を開始した。

7時58分(同3時28分)、アメリカ海軍の航空隊が「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない」と警報を発した。戦艦「アリゾナ」では7時55分頃に空襲警報が発令された。8時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した800キロ爆弾が四番砲塔側面に命中。次いで8時6分、一番砲塔と二番砲塔間の右舷に爆弾が命中した。8時10分、アリゾナの前部火薬庫は大爆発を起こし、艦は1,177名の将兵と共に大破沈没した。戦艦「オクラホマ」にも攻撃が集中した。オクラホマは転覆沈没し将兵415名が死亡または行方不明となった。

宣戦布告遅延

アメリカ東部時間午後2時20分(ハワイ時間午前8時50分)野村吉三郎駐アメリカ大使と来栖三郎特命全権大使が、コーデル・ハル国務長官に日米交渉打ち切りの最後通牒を手交した。

この文書は、本来なら攻撃開始の30分前にアメリカ政府へ手交する予定であったのだが、駐ワシントンD.C.日本大使館の井口貞夫元事官や奥村勝蔵一等書記官(2人ともその後外務事務次官を務めた)らが翻訳およびタイピングの準備に手間取り、結果的にアメリカ政府に手渡したのが攻撃開始の約1時間後となってしまった。その為に、「真珠湾攻撃は日本軍の騙し打ちである」とのアメリカのプロパガンダに使われることとなった。

なお、1939年9月のドイツとソビエト連邦によるポーランドへの攻撃は、完全に宣戦布告が行なわれなかったにもかかわらず、このように喧伝されることはなかった。

第二波攻撃

ハワイ時間午前8時54分(日本時間4時24分)、第二波空中攻撃隊が「全軍突撃」を下命した。奇襲から立ち直った米軍は各陣地から猛烈な対空射撃を行い、日本軍航空隊を阻止しようとした。第二波攻撃隊は米軍の防御砲火を突破して、小型艦艇や港湾設備、航空基地、既に座礁していた戦艦「ネバダ」への攻撃を行った。第二波攻撃隊の被害は第一波攻撃隊と比べて大きく、「加賀」攻撃隊(零戦9機、艦爆26機)だけでも零戦2機、艦爆6機を失い、19機が被弾した。

5隻の特殊潜航艇による攻撃は、4隻が撃沈され、1隻が座礁・拿捕で全滅・生還者なしという結果に終わった。従前は成果なしとされていたが、近年の写真解析などにより少なくとも1隻が戦艦への雷撃・命中に成功したとの見方が有力になっている。日本では、撃沈された4隻の乗組員8名と、拿捕された艇で戦死した1名を加えた9名が「九軍神」として宣伝された。拿捕された艇の艇長で捕虜となった酒巻和男海軍少尉は「軍神」から外され、捕虜となったことは公表されなかった。

帰投

日本時間午前8時30分頃、空中攻撃隊は順次母艦へ帰投した。午前9時頃、日本海軍空母機動部隊は北北西に変針し日本への帰路についた。このとき港湾施設を徹底的に破壊するために第三次攻撃を行う可能性もあったが、三川軍一中将のみが意見具申を行い、山口多聞少将は催促に留まった。

12月16日、第二航空戦隊司令山口多聞少将の指揮下、「飛龍」「蒼龍」と護衛の「利根」「筑摩」及び駆逐艦「谷風」「浦風」がウェーク島攻略支援に向かった(ウェーク島の戦い)。12月23日、機動部隊は瀬戸内海に位置する柱島泊地に帰還し、作戦は終了した。

12月26日、異例の事ながら佐官級による昭和天皇への真珠湾攻撃の軍状奏上が行われ、第一波空中攻撃隊隊長の淵田美津雄中佐は艦船攻撃について、第二波空中攻撃隊隊長の嶋崎重和少佐は航空基地攻撃について奏上した。続く海軍大臣官邸での祝賀会では海軍軍事参議官が参集したり、翌27日に霞ヶ関離宮で成人皇族達と面会するなど真珠湾攻撃の影響の大きさがうかがえる。

影響

第二次世界大戦の拡大

日本軍の奇襲作戦は成功し、アメリカ軍の戦艦8隻を撃沈または損傷により行動不能とする大戦果をあげた。アメリカ太平洋艦隊の戦力低下により、日本軍は西太平洋海域の制海権を確保し、これにより南方作戦を成功裏に終えた。真珠湾攻撃の前にマレー半島での上陸作戦(マレー作戦)が開始されているが、真珠湾攻撃によって日本とアメリカとの戦争は始まったと言って良い。真珠湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルト大統領の要請により、アメリカ合衆国議会は日本に対して宣戦布告した。

12月10日、アドルフ・ヒトラーは軍部の反対を押し切ってアメリカへ宣戦布告し、第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカのみならずアジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大した。当時モンロー主義を色濃く残していたアメリカは、ヨーロッパでの戦争にも日中戦争にも介入には消極的であり、連合国に対する支援はレンドリース法による武器援助に止まっていたが、真珠湾攻撃を受けてアメリカの世論は一気に参戦へと傾いた。

さらに、日米交渉打ち切りの文書を渡す前に攻撃を始めた事、その文書は交渉打ち切りの文書であって開戦や武力行使を示唆する言葉が無かったこと、日本が数日から数週間以上前より戦争準備を進めていたことが明らかなことから、真珠湾攻撃が「卑劣な騙し討ち」として宣伝されることとなったことも世論に影響した。イギリス首相ウィンストン・チャーチルは、真珠湾攻撃のニュースを聞いて戦争の勝利を確信したと回想している。

航空主兵への転換

当時、航空機による戦艦など主力艦の撃沈は不可能であるという考えが主流であったが、空母艦載機の集中使用による大規模空襲はその神話を打ち砕いた。この後12月10日にマレー沖海戦で航行中のイギリス戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」が航空攻撃のみで撃沈されたことにより、それまで海戦において補助的な位置付けにあった航空機が主役として注目されると同時に、いかなる艦船でも航空機によって撃沈されうることが浮き彫りとなった。こうして大艦巨砲主義時代は終焉を迎え、時代は航空主兵時代へと移るのである。

アメリカ本土攻撃の恐怖

真珠湾攻撃以降の日本海軍による開戦当初の進撃と、連合軍の度重なる敗退を受けて、日本軍によるアメリカ本土空襲およびアメリカ本土への上陸計画の可能性が高いと考えられるようになった。ルーズベルト大統領は日本軍の上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討した。

実際に1942年に入り、日本海軍の潜水艦によるカリフォルニア州やカナダのバンクーバー島などへの砲撃が複数回にわたり行われたうえ、西海岸沿岸において通商破壊戦が繰り広げられたほか、潜水艦の搭載機によるアメリカ本土空襲が二度に渡り行われた。また戦争開始後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸を伝える誤報が陸軍当局にたびたび報告され、「ロサンゼルスの戦い」のような事件も起きた他、防空壕の整備や沿岸地区への陸軍部隊の配置が進んだ。

アメリカ軍の再建

アメリカ軍の受けた被害は、戦艦などの艦船と飛行場などに集中し、人的被害は小さかった。艦船の乗組員の多くは上陸していたためである。乗艦を失った乗組員の多くは、新たに建造された空母へと配置転換され、むしろアメリカ海軍の航空主兵への転換を手助けしたともいえる。追加的な攻撃もなされなかったため、乾ドックなど港湾施設の損害も少なかった。これは沈んだ戦艦の再生など被害からの復旧の助けとなった。

沈んだ戦艦8隻のうち6隻は後に引き揚げられ復帰しており、最終的にアメリカ軍が失った戦艦は2隻であった。太平洋戦争中この時以外でアメリカ戦艦の喪失はない。主力空母は真珠湾外で輸送などの任務に従事していたため無傷であり、その後の作戦において大きな力を発揮した。また、日本軍の入手した島の地図が古かったことから、実に合計450万バレル相当を貯蓄していた石油タンクを爆撃せず、海軍幹部の娯楽施設を爆撃してしまったという逸話もある。当初からアメリカの国力差から、日本軍は短期決戦を想定していたが、攻撃目標に含まれていた主力空母を撃沈できなかった事は、緒戦でアメリカ軍が持ちこたえる原動力となり、日本軍の短期決戦戦略が頓挫する一因となった。

さらに詳しく → 真珠湾攻撃  太平洋戦争


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