ミハイル・ゴルバチョフ (Mikhail Gorbachev、Михаил Сергеевич Горбачёв)

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2011/05/13(金)
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ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ(ロシア語: Михаил Сергеевич Горбачёв(ミハイール・スィルギェーイェヴィチュ・ガルバチョーフ), ラテン文字表記:Mikhail Sergeevich Gorbachev, 1931年3月2日 - )は、ソビエト連邦の政治家で、8代目にして、同国最後の最高指導者。

1985年3月にソビエト連邦共産党書記長に就任し、ソ連国内では東欧の社会主義諸国民主化の契機となったペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)などの大改革を断行し、政治・経済・文化など多岐にわたる分野で合理化・民主化を推し進めた。しかし、ソ連国内の噴出する民族主義を抑えることができず、保守派と改革派に国内の政治勢力が分立するなか、1991年の「ソ連8月クーデター」を招来、新連邦条約締結に失敗した。結果として、ソ連共産党の一党独裁体制とソ連邦そのものを終結・崩壊へと導くこととなった。

外交面ではそれまで40年以上続いていた冷戦を、マルタ会談にて、就任して僅か5年目で終結させて軍縮を進めるなど、世界平和に多大に貢献した。1990年、ソ連で最初で最後となる大統領に就任し、同年にはノーベル平和賞を受賞した。日本を含む西側諸国では絶大な人気を誇り、ゴルビーの愛称で親しまれたものの、ロシア国内ではアメリカと並ぶ二強国であったソ連を崩壊させたことから評価が分かれている。

生い立ち

1931年3月2日、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のスタヴロポリ地方プリヴォリノエ村にて、コルホーズ(農業集団化政策)の農民の子として生まれる。幼年時代、ヨシフ・スターリンの大粛清に遭遇する。このとき、祖父アンドレイがサボタージュの嫌疑で投獄された。父セルゲイ・アンドレーヴィチ・ゴルバチョフは、農業技術者で第二次世界大戦に従軍した。1944年の夏の終わりに父が戦死したとの通知がもたらされたことで一家は悲嘆にくれたが、三日後に本人から「無事息災」と手紙が届いた。1942年に独ソ戦が始まると、スタヴロポリ地方はナチス・ドイツ軍の占領を経験している。

教育と結婚

戦後、14歳でコンバインの運転手として働く(夏のみ働いたというのが有力)一方、成績は優秀で上級学校で銀メダルを授与された。18歳で労働記章を授与される機会に恵まれ、1950年、19歳のときにスタヴロポリ市当局の推薦でモスクワ大学法学部に入学した。同大学にて、のちの妻となる哲学科の学生ライサ・マクシーモヴナ・ティタレンコと出会う。5年間の大学生活中、ゴルバチョフはストロミンカ学生宿舎で生活するが、その間にチェコスロバキアから留学していたズデネク・ムリナーシと出会う。ムリナーシは、のちの「プラハの春」の推進者の一人となり、その後のゴルバチョフに大きな影響を与えた。ゴルバチョフとライサは1953年9月に結婚し、大学卒業と同時にスタヴロポリに移住する。1957年に娘のイリーナ(ru:Вирганская, Ирина Михайловна)を儲けている。大学卒業後、ゴルバチョフはソ連検察庁の国家試験を受験する。いったんは内定を受けたが結局不採用となり、故郷のスタヴロポリに戻って地元のコムソモール活動に従事する。

1952年10月、ゴルバチョフはソ連共産党に入党する。

権力の掌握

1955年にスタヴロポリ市コムソモール第一書記、1962年にスタヴロポリ地方コムソモール第一書記、1966年にスタヴロポリ市党第一書記、1968年にスタヴロポリ地方党第二書記を経て、1970年にスタヴロポリ地方党第一書記に就任し、1971年には40歳の若さで党中央委員に選出される。この間、スタヴロポリ農業大学の通信課程で学び、1967年に科学的農業経済学者の資格を得ている。ゴルバチョフがスタヴロポリ地方の党官僚として階梯を登り始めた時期は、ニキータ・フルシチョフの非スターリン化が実施された時期であり、ゴルバチョフにも影響を与えたとされる。この間、スタヴロポリ地方第一書記経験者のミハイル・スースロフや、同郷のユーリ・アンドロポフの知遇を得たほか、同格の地方共産党の指導者であったボリス・エリツィンやエドゥアルド・シェワルナゼらと交流を持つに至る。

1978年、急死したフョードル・クラコフの後任として農業担当書記になる。1979年、政治局入りして政治局員候補となり、1980年、最年少の政治局員となる。レオニード・ブレジネフの死後、アンドロポフが書記長に就任すると、ゴルバチョフは、No.2に当たるイデオロギー担当書記に引き立てられた。アンドロポフの死後に書記長となったコンスタンティン・チェルネンコは病弱であったため、ゴルバチョフは「第二書記」としてチェルネンコを補佐し、次第に改革派としてその名が知られるようになる。

1983年、カナダを訪問し、首相(当時)のピエール・トルドーと会談。この時に駐カナダ大使で、のちにゴルバチョフ政権のNo.2としてペレストロイカを牽引するアレクサンドル・ヤコブレフ(ヤコブレフは1973年に当時のブレジネフ書記長によってカナダ大使に任命された)と面識を持つ。さらにイギリスを訪問し、首相(当時)のマーガレット・サッチャーから「彼となら一緒に仕事ができます」と高い評価を受ける。

書記長就任

1985年3月、チェルネンコの死去を受けて、ソ連共産党書記長に就任する。高齢の指導者が続いたあとでもあり、若い指導者への期待の大きさはプラウダ紙でのゴルバチョフの写真が死去したチェルネンコより大きかったことにも表れていた。ゴルバチョフの有力なライバルとしては、レニングラード党第一書記のグリゴリー・ロマノフがいた。しかし、ロマノフは代わりにモスクワ党第一書記のヴィクトル・グリシンを推薦するが、外務大臣のアンドレイ・グロムイコらの推薦を得たゴルバチョフが勝利した。推薦演説をしたグロムイコは「諸君、この人物は笑顔はすばらしいが、鉄の歯を持っている」と語った。

ゴルバチョフは書記長就任後、「鉄の歯」にふさわしい人事刷新を矢継ぎ早に行う。自身の後任の「第二書記」にはエゴール・リガチョフを当て、政治局員兼イデオロギー担当書記に加え、「第二書記」に必須の最高会議連邦会議外交委員長に選出した。対抗していたグリシンとロマノフ、老齢の首相ニコライ・チーホノフを解任し、共産党中央委員会書記のニコライ・ルイシコフ(経済担当)を当てた。グロムイコを最高会議幹部会議長(国家元首)にし、新たな外相には、グルジア党第一書記だったエドゥアルド・シェワルナゼを抜擢して内外を驚かせた。

その他経済閣僚では、ゴスプラン(国家計画委員会)議長ニコライ・バイバコフを解任。後任にニコライ・タルイジンを任命した。軍部や地方の共産党幹部も大幅に入れ替えられ、若返った。

ペレストロイカ

本人の南ロシア訛り(アクセントの位置が微妙に違う)に加え、「Процесс пошел(プロツェース・パショール,プロセスは始まった=改革が始まった)」という言葉を多用、正規的なロシア語表現ならば「Процесс начал(プロツェース・ナーチャル)」の方がしっくりくるのだが、多少の違和感を覚えるこの語感にはむしろモスクワの間で流行。次第に行き詰まる改革に合わせるかのように「自分の思い通りとは違う方向へ物事が進んでいる状態」の意味を含んで使われるようにもなった。

1985年11月、スイス・ジュネーヴにて、アメリカ合衆国大統領のロナルド・レーガン(当時)と米ソ首脳会談を行う。この会談で核軍縮交渉の加速、相互訪問などを骨子とする共同声明を発表した。1986年4月、ゴルバチョフはロシア語で「建て直し」「再建」を意味するペレストロイカを提唱し、本格的なソビエト体制の改革に着手する。4月に発生したチェルノブイリ原子力発電所事故を契機に、情報公開(グラスノスチ)を推進する。当初レーガンや西側の保守派は、ゴルバチョフの意図はアンドロポフが指向したような従来の社会主義の修正、あるいは社会的規律の引き締めに過ぎず、西側に対する軍事的脅威はかえって増大されると危惧する警戒・懐疑論を持っていたが、ペレストロイカの進展とともに打ち消される事になった。

経済改革では、社会主義による計画経済・統制経済に対して、個人営業や協同組合(コーポラティヴ)の公認化を端緒として、急進的な経済改革を志向するようになり、1987年8月に国営企業法を制定した。ペレストロイカは、次第に単なる経済体制の改革・立て直しに留まらず、ソ連の硬直化した体制・制度全体の抜本的改革・革命へ移行し、それに伴い、政治改革、ソ連の歴史の見直しへと進行していった。その中で、自らが電話でその解放を伝えたアンドレイ・サハロフをはじめとするソ連国内の反体制派(異論派)が政治的自由を獲得し、スターリン時代の大粛清の犠牲者に対する名誉回復が進められた。ゴルバチョフは自身をソ連崩壊のその日まで「共産主義者」と規定していたが、「多元主義(プルーラリズム)」「新思考」「欧州共通の家」といった新たな価値によって国内政治及び外交政策において大胆な転換を実行していった。

1986年7月、ゴルバチョフはウラジオストク演説でアフガニスタン撤退と中ソ関係改善を表明した。10月にはアイスランド・レイキャヴィークにおいて米ソ首脳会談が行われた。アメリカ大統領のレーガンが掲げていた戦略防衛構想(SDI)が障壁となって署名はなされなかったが、戦略核兵力の5割削減、中距離核戦力(Intermediate-range Nuclear Forces、INF)の全廃について基本的な合意は成立していた。このことが、1987年12月に成立する中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)につながっていく。

1988年9月、ゴルバチョフはグロムイコを解任し、自ら後任の最高会議幹部会議長に就任して国家元首となる。12月、最高会議を改組し、人民代議員大会を設置。この頃より守旧派に接近を余儀なくされる。求心力の低下したゴルバチョフは、1990年3月、複数政党制と強力な大統領制を導入した。3月15日、人民代議員大会においてゴルバチョフは大統領に選出されたが、国民からの直接選挙ではなく、人民代議員大会で選出されたことは、ゴルバチョフの権力基盤を弱める要因となった。副大統領にはシェワルナゼを候補に考えていたが、シェワルナゼは「独裁が迫っている」と守旧派に対する危機を訴えて、1990年12月に外務大臣を辞任して世界中を震撼させた。

ゴルバチョフはやむなく、ゲンナジー・ヤナーエフを副大統領に指名した。皮肉にも、ヤナーエフを始めとするゴルバチョフに任命された人々がクーデターを起こすことになるのである。一方、人格面での問題を糾弾され、リガチョフとの争いに敗れてモスクワ市共産党第一書記や政治局員候補から解任されたボリス・エリツィンが人民代議員として復活し、さらに1990年にはロシア共和国の大統領となり、さらにソ連共産党から離党を宣言して、党外改革派の代表としてゴルバチョフの地位を脅かすようになっていく。

国内政策での保守派への妥協にもかかわらず、ゴルバチョフ政権によるソ連外交の政策転換は明確な形で続けられた。従来の制限主権論(ブレジネフ・ドクトリン)による強圧的な東ヨーロッパ諸国への影響力行使とは大きく異なり、ハンガリー事件やプラハの春で起こったソ連軍による民主化運動の弾圧はもう起こらないことを示した。結局、1989年をピークとする一連の東欧革命をもたらし、1990年には東ドイツの西ドイツへの統合(ドイツ再統一)まで実現することになった。ゴルバチョフはベルリンの壁崩壊前に当時の東ドイツの最高指導者エーリッヒ・ホーネッカーに対して国内改革の遅れに警告を発する一方、壁崩壊後に急浮上した西ドイツによる東ドイツの吸収合併論やそれに伴う旧東ドイツ領土へのNATO軍(アメリカ軍)の展開には反対したが、西ドイツの首相ヘルムート・コールが示した巨額の対ソ経済支援を受け入れることで、ドイツ再統一に承認を与えた。

ただし、これによってソ連は東ヨーロッパでの覇権を失い、各国からの撤退を強いられた軍部や、生産縮小を強いられた軍産複合体の中にはゴルバチョフやシェワルナゼへの反感が強まり、新思考外交を「売国的」と批判して、共産党内の保守派と接近した。共産党内でも、ソ連国家における党の指導性が放棄される事に警戒感が強まり、従来は改革派、あるいは中間派と見なされていたヤナーエフなども保守派としてゴルバチョフを圧迫するようになり、これが既述したシェワルナゼの突然の辞任につながった。ゴルバチョフ自身も、1991年2月にリトアニアの首都ヴィリニュスで発生したリトアニア独立(回復)派に対するソ連軍・治安警察による武力弾圧を承認した。

また、極東においてもウラジオストク演説以後に緊張緩和が進み、1989年5月に中華人民共和国を訪問して長年の中ソ対立に終止符を打った。これは六四天安門事件に続く学生たちの民主化運動が高揚する中で行われた。1991年4月には日本も訪れ、首相の海部俊樹(当時)と平和条約締結や北方領土帰属等の問題を討議したが、合意には達しなかった。

「8月クーデター」

1991年、ゴルバチョフは再び舵を改革派の側に切る。ロシアのエリツィン、カザフスタンのヌルスルタン・ナザルバエフの2人と会談し、新連邦条約を8月20日に調印する運びとなった。ところが、8月19日、クリミア半島フォロスの大統領別荘に滞在していたゴルバチョフは、KGB議長のウラジーミル・クリュチコフ、ゲンナジー・ヤナーエフ、そしてソ連の首相でもあったヴァレンチン・パヴロフらの「国家非常事態委員会」を名のる守旧派が起こしたクーデターによって、妻とともに別荘に軟禁された。

ゴルバチョフが軟禁された際、当然ながら外部との連絡は絶たれ、いつ「用済み」として殺されるか分からない状況であったが、偶然別荘にあった日本製のラジオがニュースの電波を拾うことができたため、モスクワにてエリツィン、市民、軍部がクーデター首謀者側に抵抗していることを知り、(救出される)希望を捨てなかったという。

なお、上記のように国民や軍部の支持を得られなかっただけでなく、国際社会からも大きな反発を受けたために、結果的にクーデターそのものは失敗に終わり、8月22日にクーデターの関係者は逮捕されたが、その首謀者たちはいずれもゴルバチョフの側近だったため、皮肉にもゴルバチョフ自身を含むソ連共産党の信頼が失墜。これにより連邦政府自身の求心力も低下を余儀なくされた。

ソ連共産党解体とソ連崩壊

8月23日にゴルバチョフはロシア議会で今後のソビエト連邦と党に関する政見演説を行うが、議員たちはゴルバチョフの演説に耳を傾けることはなかった。同時に、ロシア共和国のエリツィンはソ連共産党の活動停止の大統領令に署名する。

翌8月24日、ゴルバチョフはソ連共産党書記長を辞任する。資産を凍結し、ソ連共産党中央委員会の自主解散を要求し、エストニアとラトビアの独立を承認した。クーデターからおよそ10日後の8月29日、ソ連議会がパブロフの不信任案を可決、ソ連最高会議はソ連共産党の活動全面停止を決定した。

同年末には、この時点でゴルバチョフの政治的ライバルであったエリツィンがロシア共和国のソ連邦からの脱退を進めたことによりソ連は崩壊。12月25日、ゴルバチョフはソ連大統領を辞任、最初で最後の大統領となった。

ソ連崩壊

ソ連崩壊を不本意な形で迎えたゴルバチョフにとって、年金生活入りすることは論外であった。1991年12月より、国際社会経済・政治研究基金(通称、ゴルバチョフ基金またはゴルバチョフ財団)を設立、自ら会長に就任した。また、環境問題に主な活動を移し、グリーンクロスインターナショナルの会長として国際環境保護運動に積極的に参画した。政治活動として1996年のロシア大統領選挙に立候補したが、得票率は0.5%で落選した。その後、ピザハットのCMに出演するなど、政治以外の活動も開始する。

1999年9月20日、妻のライサを白血病で失う。最愛の妻を失って悲嘆に暮れる姿はロシア国民から広く同情を集めた。

2001年11月、ロシア社会民主党党首に就任したが、2004年5月22日には同職の辞職を発表、事実上の政界引退となった。なお、ロシア社会民主党はロシア最高裁から解散命令が出され、ゴルバチョフは不快感を表明した。

2006年11月には右頚動脈に異常が認められ、ドイツのミュンヘンの病院に入院、11月21日に手術を受け、経過は良好であると発表された。

2007年にはフランスの高級バッグメーカーのルイ・ヴィトン社の広告に登場した際には、脇にアレクサンドル・リトビネンコ毒殺事件を特集している雑誌記事が映っており、ウラジーミル・プーチン政権を暗に批判しているとの憶測が出ている。しかし、2007年10月20日、2007年ロシア下院選挙を目前に社会民主同盟(社会民主連合)を創立し、結成大会で議長に選出される。就任演説で「議会は一党のほぼ支配下にある。左派の理念も自由主義も取り込んだ幅広いものとするべきだ」と現状を批判し、政界復帰の意欲を見せたものの、同選挙ではプーチン政権与党の統一ロシアへの投票を呼びかけた。

ゴルバチョフはプーチンについて、「ロシアに安定と経済的繁栄をもたらした」として評価している。しかしプーチンが党首を務める統一ロシアについては、2009年に入ってAP通信のインタビューで「官僚の党」と述べ、更に「それはソビエト連邦共産党の最悪の形だ」と批判している。

2008年に勃発した南オセチア紛争については、8月14日にCNNの番組「ラリー・キング・ライブ」に出演した際、「ロシアの軍事介入は南オセチア・ツヒンバリの惨状への対応であるため、ロシアとグルジアの衝突を招いた責任はグルジアにある」と発言した。また、西側のマスコミに対しては、「ツヒンバリの惨状について最初しか映し出さず、ロシアのみに紛争の責任を負わせようとしている」と批判した。また、アメリカが推し進めている東欧ミサイル防衛構想を批判し、「再び冷戦を繰り返さないようにしよう」と述べている。

民主系新聞の「ノーバヤ・ガゼータ」の大株主となっているほか、世界ノーベル平和賞受賞者サミットの公式スポンサーであるイタリアの自動車メーカーのランチアのテレビCMに、元・ポーランド大統領レフ・ヴァウェンサやミャンマーの非暴力民主化活動家であるアウンサンスーチー、イングリッド・ベタンクールなどとともに出演した。

新党結成

2008年9月、ゴルバチョフは、アレクサンドル・レベデフ(en:Alexander Lebedev)とともにロシア独立民主党という新党を結成したことを発表し、2009年5月には、活動がまもなく開始されることも発表した。その際に多数の支持者がいることも述べた。これは2001年のロシア社会民主党結成および社会民主同盟以来、ゴルバチョフの3度目の政党結成の試みである。

評価

ゴルバチョフに対する評価は二分している。前述したように現役当時から西側諸国では絶大な支持がある。西ドイツの首都・ボンに訪問した時など「ゴルビー! ゴルビー!!」と、冷戦当時に西ドイツを訪問したアメリカのジョン・F・ケネディ以来の熱狂的な支持があった。米タイム誌の特集「20世紀の重要人物100人」に、ロシアの政治家からはウラジーミル・レーニンとゴルバチョフのみが選ばれている。

一方のロシアでは、就任当初を除いて在任中から不人気でありつづけた。風貌と語り口から典型的な南ロシア出身者とみなされたことが、エリツィンの人気を一層引き立てる結果になった。ソ連崩壊後のロシアでは、経済・軍事などあらゆる面でアメリカとの国力差が広がったため、「“偉大で強い”古き良き時代であったソ連を崩壊させた」、「アメリカに魂を売った売国奴」という意見も多い。

また、ゴルバチョフが政権初期に飲酒制限政策(酒類供給量の制限や販売時間の制限等)を展開したことで、酒好きで知られるロシア人から更なる反感を買うこととなった。

さらに詳しく → ミハイル・ゴルバチョフ



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