キューバ:ピッグス湾事件(プラヤ・ヒロン侵攻事件)勝利50周年記念パレード (Cuban Military Parade 2011)

航空兵器・陸上兵器・海上兵器・銃器・戦争・紛争・歴史・革命・テロ・事件・軍事動画・ニュース(報道)・社会情勢・政治運動・評論・講演など、軍事関連の情報を公開しています。宗教・思想・経済・政治的なものも少しアリ

広告
2011/04/18(月)
*





ピッグス湾事件(ピッグスわんじけん、西:Invasión de Bahía de Cochinos、英:Bay of Pigs Invasion)とは、在米の亡命キューバ人達で構成される親米ゲリラ「反革命傭兵軍」がアメリカ合衆国の支援を受け、革命政権の再転覆を試みた1961年の事件のことである。キューバ政府はスペイン語での正式な地名を用いてプラヤ・ヒロン侵攻事件(Invasión de Playa Girón)と呼ぶ。この事件により、キューバキューバ革命が社会主義革命だったことを宣言した。

概要

キューバ革命

1959年1月に発生したキューバ革命により、アメリカは共産主義国家の脅威を間近で実感する事態となった(1962年には実際的な脅威としてキューバ危機に発展)。

キューバ革命により、アメリカが支援していたキューバの指導者フルヘンシオ・バティスタは権力の座を追われ、ゲリラ軍を率いたフィデル・カストロが権力を手中にした。カストロは当初は「アメリカに対して友好関係を保つ」としたものの、CIAの報告により「共産主義者」との疑いをもたれていた上に、バティスタとの癒着によってキューバに多くの利権を持っていたアメリカの大企業やマフィアからのプレッシャーを受けたドワイト・D・アイゼンハワー大統領はこれを拒否し、カストロ政権を認めるには至らなかった。

国交断絶

これに反発したカストロは1960年6月にアメリカ資産の国有化を開始するとともに、弟のラウル(ラウロ・カストロ)にソ連の首都のモスクワを訪問させ、ソ連首相のアナスタス・ミコヤンをハバナに招請し、冷戦下でアメリカと対峙していたソ連との接近を始めた。

これに対してアイゼンハワー政権はキューバの最大の産業である砂糖の輸入停止措置を取り、キューバに対して経済制裁に踏み切り、1961年1月3日には対キューバ国交断絶に至った(制裁は国際連合総会からの非難と再三の解除要求決議にも拘らず、2011年現在も解かれていない)。この間、大量のキューバからの避難民がフロリダ州マイアミに集まり、その数は10万人に達した。

ケネディ大統領就任

これに先立つ1960年3月に、カストロのソ連への接近を憂慮したCIAとアイゼンハワーはカストロ政権転覆計画を秘密裏にスタートさせ、万一の場合に備え、母国を脱出してきた亡命者1,500人を組織化し、1954年のPBSUCCESS作戦により親米軍事政権が成立していたグアテマラの基地でゲリラ戦の訓練を与えており、この部隊に軍事援助と資金協力をして解放軍を結成する許可を与え(反革命傭兵軍)キューバ上陸作戦を敢行させることとした。退任間近だったアイゼンハワーはこの時点でキューバ問題から手を引き、その後は副大統領のリチャード・ニクソンやアレン・ダレスCIA長官らに委ねられた。

その間、作戦は当初のゲリラ戦から通常戦に変更する決定が下された。そして、兵員数と物資で圧倒的に劣る亡命キューバ人部隊がカストロ軍に打ち勝つために、アメリカ軍の正規軍の介入が計画に組み入れられた。この時点で大統領選挙が行われ、1961年1月20日に民主党選出のジョン・F・ケネディが大統領に就任することが決定した。

作戦実行

就任したばかりのケネディ大統領は、当初ソ連との宥和政策を目指していたこともありこの作戦の実行には反対だったが、結局閣僚やCIAのアレン・ダレス長官らに説得され作戦の実行を決意した。しかしこの際にケネディが上陸地点を変更するよう迫った為に作戦に混乱を与えた上に、CIAが作戦失敗のリスクを過小評価して報告していたことが後日明らかになっている。

いずれにしてもケネディ大統領は作戦を敢行させ、亡命キューバ人部隊は、1961年4月15日に国籍を隠したアメリカ軍のA-26爆撃機によりキューバ軍基地を空襲し、キューバ軍の爆撃機を破壊し、続いて17日にキューバのコチーノス湾(アメリカ側の呼称はピッグズ湾、「コチーノ」、「ピッグ」共に豚の意)に上陸を開始した。

アメリカの失敗 キューバの迎撃成功

上陸した亡命キューバ人部隊は初戦こそキューバ軍と渡り合ったが、キューバ軍が約20万人で迎え撃ったにもかかわらず亡命キューバ人部隊は2,000人以下にすぎず、その上に2隻の物資補給船がキューバ軍の戦闘機に撃沈されるなど補給経路が早々に破壊された上、期待されていたアメリカ正規軍による空爆がケネディ大統領の命令により実行されなかった等の理由により最終的に部隊は壊滅した。

その後、考えを変えたケネディ大統領の命令によりアメリカ軍の戦闘機による爆撃機への援護が実施されたものの、時差を計算していなかったなどの連絡ミスにより援護が失敗し爆撃機が撃墜されるなどした結果、90人が戦死、1200人が捕虜となる他多数が逃亡するなど作戦は大失敗に終わった。

失敗の原因

CIAがキューバ軍の勢力を過小評価していたことや、「キューバ軍の一部が寝返る」という根拠がない判断をした上に、事前に作戦の実施がキューバ側に漏れていたこと、ケネディ大統領の心変わりにより命令が二転三転したことなどが失敗の最大の原因とみられている。

また、CIAがケネディ大統領と亡命キューバ人部隊側に二枚舌を使っていた節があるという意見もある。これによりケネディ大統領は亡命キューバ人部隊が自発的に軍事行動をしたものと信じ込み、亡命キューバ人部隊側はアメリカ軍の正規軍による全面バックアップがあるものと信じ込んでいたようである。

事件後

ケネディ大統領は記者会見を行い、失敗の全ての責任が計画の実行を命じた自分にあることを認めていた。しかし、同時にCIAに対しては軍事行動の失敗と、さらにその後始末への失敗からその責任を厳しく追及し、アレン・ダレス長官、チャールズ・カベル副長官を更迭した上で、CIAの解体まで宣言していた。CIA解体については、その後のケネディ大統領暗殺事件によって行われることは無かったが、それゆえにケネディ暗殺を「アメリカ政府内の保守派の陰謀」と見る立場からは、当事件がケネディ暗殺の遠因だったと考えられている。

対するフィデル・カストロは軍備拡張の必要性を認識し、東側諸国との友好関係の確立を図った。それまでキューバ革命は特に社会主義革命と宣言されていたわけではなかったが、カストロは1961年5月1日のメーデー演説で「社会主義革命であった」と宣言し、正式に東側ブロックに加入した。これが、翌1962年のキューバ危機を招くことになる。

なお、この作戦後もケネディ政権はカストロ政権の転覆を狙ってキューバ国内へのゲリラ攻撃、カストロ個人の暗殺作戦を続けた。しかし、最終的にカストロ政権を転覆させることは出来なかった。

さらに詳しく → ピッグス湾事件



カストロカストロ
(2005/04)
レイセスター・コルトマン、岡部 広治 他

商品詳細を見る
関連記事

タグ : ピッグス湾事件 キューバ プラヤ・ヒロン侵攻事件 フィデル・カストロ

この記事へのコメント
URL:
Comment:
Pass:   
この記事のトラックバックURL
http://gunjimania.blog108.fc2.com/tb.php/2049-c2d312e2
 この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック

 | Copyright © 軍事マニアクス - Military Maniacs All rights reserved. | 

 / Template by 家族 ペット 自分史 ブログ