731部隊 (Unit 731)

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2011/04/09(土)
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731部隊(ななさんいちぶたい)は、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。正式名称は関東軍防疫給水部本部で、731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊の略。このような通称号は日本陸軍の全部隊に付与されていた。初代部隊長の石井四郎(陸軍軍医中将)にちなんで石井部隊とも呼ばれる。

満州に拠点をおいて、防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった。そのために人体実験や実戦テストまで行っていたとする説もある。

細菌戦研究機関だったとする論者の中でも、その中核的存在であったとする見方がある一方で、陸軍軍医学校を中核とし、登戸研究所等の周辺研究機関をネットワーク化した特殊兵器の研究・開発のための実験・実戦部門の一部であったという見方も存在する。

沿革

軍隊において防疫や給水は戦力の発揮のために重要な要素である。そのため日本陸軍も、陸軍軍医学校防疫部を置いて研究を行っていた。

1932年(昭和7年)8月に軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設された。それと同時に、日本の勢力下にあった満州への研究施設の設置も着手された。そして、出先機関として関東軍防疫班が組織され、翌1933年(昭和8年)秋からハルビン東南70kmの背陰河において研究が開始された。

この頃の関東軍防疫班は、石井四郎の変名である「東郷ハジメ」に由来して「東郷部隊」と通称されていた。

1936年(昭和11年)4月23日、「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三、関東軍防疫部の新設増強」により関東軍防疫部の新設が提案され、同年8月には、軍令陸甲第7号により正式発足した。

関東軍防疫部は通称「加茂部隊」とも呼ばれており、これは石井四郎の出身地である千葉県山武郡芝山町加茂部落の出身者が多数いたことに由来する。この際同時に関東軍軍馬防疫廠(後に通称号:満州第100部隊)も編成されている。

1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、軍人65人(うち将校36人)と軍属105人であった。部隊規模の拡張に応じるため、平房(ハルビン南方24km)に新施設が着工され、1940年に完成した。

1940年(昭和15年)7月、軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は関東軍防疫給水部(通称号:満州第659部隊)に改編された。そのうちの本部が関東軍防衛給水部本部(通称号:満州第731部隊)である。他にも支部があった。

731部隊を含む関東軍防疫給水部全体での所属人員は、1940年7月の改編時で軍人1235人(うち将校264人)と軍属2005人に増加し、東京大学に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費が与えられていた。この間、1942年8月から1945年3月には関東軍防疫給水部長が石井四郎から北野政次軍医少将に代わっていたが、引き続き731部隊などは石井の影響下にあったと見られている。

1945年(昭和20年)8月、ソ連対日参戦により、731部隊など関東軍防疫給水部諸部隊は速やかに日本本土方面への撤退が図られた。大本営参謀だった朝枝繁春によると、朝枝は8月10日に満州に派遣され、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示したと言う。

この指示により施設は破壊され、部隊関係者の多くは8月15日までに撤収したが、一部は侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、ハバロフスク裁判で戦争犯罪人として訴追された。

軍組織における位置

731部隊は日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)中にかけて発足した旧日本軍のBC戦(生物兵器化学兵器)研究機関「軍医学校防疫研究室」の下部組織である。

当時からその特殊性よって機密性が非常に高い組織であった事、また終戦後のアメリカ軍との取引により関係者の多くが研究成果を引き渡す事を条件に罪不問に付され、戦後医学界の中枢を構成した経緯などから情報が不足し、実態は不明のままであった。近年になり米国の公文書が機密解除されて研究されたが、非人道的な実験が行われた記録は発見されていない。

従来、731部隊は旧軍の細菌戦部隊の中核研究機関のように言われてきたがこれを誤りとする者も存在する。この主張によるとBC戦の研究組織の中枢は当時新宿にあった陸軍軍医学校防疫研究室(または陸軍防疫給水部、この組織は陸軍軍医学校と陸軍参謀本部の両方に指揮系統を有しており、前者による呼称が研究室、後者による呼称が防疫給水部)である。

ここを中核として、当時の旧軍展開地域各所に設置された各部隊(平房の大陸本部、北支那防疫給水部(北京の甲1855部隊)、中支那防疫給水部(南京の栄1644部隊)、南支那防疫給水部(広東の波8604部隊)、南方軍防疫給水部(シンガポールの岡9420部隊など))に指令が出され、さらに国内大学医学部のバックアップの元で広大なネットワークを構成してBC戦術の組織的な研究・開発を推進していた。

731部隊はそれらの部隊中で最大級の設備を有してはいたが、その中心ではなく実験・検証施設であったにすぎない。731部隊は表向き日中戦争時の1941年に各種流行性伝染病予防と兵員用の飲料水の水質浄化を目的として、関東軍が建国した満州国のハルピンに配備された。

731部隊で実施された内容は各部隊の中でも特殊なものであり、人間の生体を用いて非倫理的な実験が行われたと言われているが事実は定かでない。陸軍参謀本部指揮下の『満州第731部隊』は関東軍防疫給水部本部を表す通称号であり、1941年に陸軍の全部隊にそれぞれ付けられた秘匿名である。各支部などをまとめた関東軍防疫給水部は「満州第659部隊」と称した。 

部隊の活動

化学兵器生物兵器の使用は国際条約(ジュネーヴ議定書 (1925年))で禁止されたが、日本は1970年まで批准しなかった。後に731部隊の部隊長となる石井四郎は、軍事技術研究のために欧州各国を周遊してジュネーヴ議定書を知り、その有効性(特にそのコストパフォーマンスに関して)に注目した。帰国後に化学兵器生物兵器が日本にとって有用であるとし軍部に働きかけ、防疫研究室が設置された。

防疫活動

BC戦術(生物兵器(B)と化学兵器(C)を使う戦術)を使用する側にとっても防疫活動は重要な要素であり、一般戦術においても有用であることから、これを軍内部のおいての主要な名目として防疫給水部の名称で組織が発足した。表向きの看板とは言え、防疫活動は防疫給水部の重要な研究要素であり、731 部隊においても731部隊第三部が担当し成果を挙げている。

1939 年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。

生物兵器開発

731部隊は、生物兵器の開発に重要な役割を果たしていたのではないかとも言われる。当時、生物兵器の「使用」を禁止する1925年のジュネーヴ議定書が成立していたが、日本は同条約を批准していなかった(1970年批准)。また、そもそも同条約では、生物兵器の「研究開発」や「生産」「保有」は禁止されていなかった。

日本が生物兵器の利用を真剣に検討し始めたのは、731部隊の部隊長などをつとめた石井四郎軍医の働きかけによると言われる。石井は、1928年から1930年にかけてドイツなどヨーロッパ各地やアメリカ合衆国などを視察・研究にまわり、帰国後に生物兵器の有用性を陸軍上層部に訴えるようになった。

石井の主張は、細菌を使った生物兵器は資源の乏しい日本にとってコストパフォーマンスに優れた兵器であり、また世界各国も生物兵器の研究にすでに着手しているというものであった。1932年の陸軍軍医学校への防疫研究室の設置も、石井の働きかけによるとされる。

731部隊が生物兵器開発に関与したとする説によると、ペストやチフスなどの各種の病原体の研究・培養、ノミなど攻撃目標を感染させるための媒介手段の研究が行われていたという。

人体実験

731部隊は捕らえた多くの朝鮮人、中国人、モンゴル人、アメリカ人、ロシア人捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、人体実験や生体実験に供したと言われている。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は3,000人以上とされているが、これを証明する資料は現在のところ確認されていない。

生物兵器の実験的使用

ノモンハン事件での貢献による表彰は、防疫活動に対するものではなく、その際に実験的な細菌兵器使用を行ったことに対するものであったとの見方もある。

終戦

1945 年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、大本営作戦参謀の朝枝繁春は、731部隊の石井四郎隊長に8月10日新京で会い、

「人間を使って細菌と毒ガスと凍傷の実験をやったことが世界にばれたらえらいことになり、(戦犯訴追が)直に天皇に来る。貴部隊の過去の研究ならびに研究の成果、それに伴う資材、一切合財を完璧にこの地球上から永久に抹殺・消滅・証拠隠滅してください」


と告げたと 1997年のテレビ朝日のザ・スクープの取材に答えている。そのため撤収作戦が実施され、施設は証拠隠滅のため根こそぎ爆破、400人を超える人体実験のため収容されていた捕虜は全員が毒ガス等で殺され、死体を焼き、その灰は川に流された。

米軍 (GHQ)との取引

終戦時に特別列車で日本に逃げ帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。戦後、石井は戦犯追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらます。

1947年1月、東京裁判ソ連側検事のヴァシリエフ少将が石井らの身柄の引渡しを要求。ソ連は既に731部隊柄沢(からさわ)班班長であった柄沢十三夫少佐を尋問し、アメリカが把握していなかった中国での細菌戦と人体実験の事実を聞き出していた。

同年2月10日、GHQはワシントンへ「石井達をソ連に尋問させて良いか」と電文を出す。同年3月20日、それに対しワシントンは「アメリカの専門家に石井達を尋問させる。重要な情報をソ連側に渡してはならない」と回答。

石井は再度のGHQの尋問に対し、人体実験の資料はなくなったと主張。さらに、アメリカの担当者ノーバート・フェル博士に文書での戦犯免責を求めると共に、「私を研究者として雇わないか」と持ちかけた。

近年アメリカで公開された資料によると神奈川県鎌倉での交渉で731部隊関係者側が戦犯免責等9か条の要求をしていたことが判明。「日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる」、「報告はロシア人には全く秘密にされアメリカ人にのみ提供される」等と書かれており、731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。

最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」と書いている。

結局、東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない。なお、ソ連によるハバロフスク裁判では訴追が行われている。

戦後の状況

石井四郎が京都大学医学部の出身であったように、731部隊をはじめとする生物化学兵器研究の幹部は、エリートが多く、そのほとんどは戦後になって、東京大学や京都大学を初めとする医学部の教授、陸上自衛隊衛生学校校長、国立予防衛生研究所所長、大阪大学微生物病研究所幹部等、日本の医学界、医薬品業界、厚生行政の重鎮となり、さらに満州のA級戦犯岸信介らが政界の重鎮となり日本国内での人道的見地からの責任追及の動きを封じていく。しかし、近年になり旧幹部の引退などに伴い徐々に弱まって来ている。

1947 年、国立予防衛生研究所の幹部となった北岡正見(旧731部隊ウイルスリケッチア部長)らは府中刑務所の受刑者を使って発疹チフスの人体実験を行った。

1950 年、GHQとコネができた内藤は、後年に薬害エイズを引き起こすミドリ十字の前身の日本ブラッドバンク(6人の取締役のうち3人が731部隊関係者。731部隊隊長を一時務めた北野政次とサンダース中佐が顧問)を創立した。

1952 年の名古屋市立乳児院事件では、乳児達に対して大腸菌を直接飲ませて激しい下痢を起こさせるという人体実験を行い乳児一人を殺している。乳児達は親のいない子が多く拒むことはできなかった。名古屋市立大学小児科の旧731部隊員小川二郎が中心となり石井四郎のネットワークの一つである東京1644 部隊にいた小川透、東大伝染病研究所(現在の医科学研究所)、国立予防衛生研究所が協力して行った実験であった。

同1952年、日本学術会議総会において若手医学者達が731部隊について反省・総括が必要と主張。それに対し戦前からの医学界の重鎮である戸田正三(石井の京大での恩師で731部隊に積極的に協力してきた)は「細菌兵器は今日ほとんど実用になりません。実用にならぬものを苦労して日本で作るというバカが出ましたら、そんなバカなことをするなという勧告を私からよく致しますから、どうかその点、ご安心ください」と回答した。

1956 年、新潟精神病院ツツガムシ病人体実験では、新潟大学医学部の桂重鴻教授らと旧731部隊の北岡正見、浅沼靖が協力して、149人の精神病患者にツツガムシの病原体(リケッチア)を投与し、8人が死亡、9人が腕から皮を剥がされる結果となった。これはアメリカ軍の生物兵器部隊406研究所の出資により行われた、米軍にツツガムシ病がでないための実験であった。

1967 年、ミドリ十字は赤痢予防薬の人体実験を陸上自衛隊員を使って行い、1089人中577人に急性食中毒を起こさせた。また、人工血液製剤の承認を求める際に厚生省に提出したデータに改竄の跡があり、その調査の過程で瀕死の女性患者に人工血液を未承認のまま投与する人体実験をしていたことが明らかになった。

1993 年、大阪大学微生物病研究所(旧731部隊渡辺栄らが作ったワクチンメーカー)はMMRワクチン(はしか、おたふく風邪、風疹の三種混合ワクチン)のおたふく風邪ワクチンの成分を厚生省に無断で変えて無菌性髄膜炎を多発させ2人の幼児を死亡させた。近年、アメリカのダグウェイ実験場でも731部隊の人体実験のデータが発見され公開されている。その中には実験で標本にされた人体の顕微鏡写真も含まれていた。

大量虐殺の証言

終戦時の撤退における資料隠滅、ならびに対米工作時の処理のため、731部隊に関する一次資料はほとんど存在していないとされていた。しかし、関係者(その多くは旧軍に所属あるいは関係していた日本人、前述の通り組織的な撤収が行われたため、満州の旧軍機関としては例外的に帰還率が高い)の証言などにより、近年になって、徐々に各種資料が発見され、全貌の究明が進みつつある。

ニューヨーク在住のノンフィクション作家である青木冨貴子によって石井四郎の書いた日記が発見され、それには戦後の彼の行動が克明に記録されており、戦時中の行動に関しても相当量が記載されていた。この中に使われている符丁が、人体実験を表しているのではないかと疑われている。戦後、ペスト・コレラ・性病などの生物兵器、糜爛性・腐食性の毒ガスを用いた化学兵器の研究に携わっていた特殊部隊であったと、ロシア国内で行われたハバロフスク裁判で認定されている。

日本国への賠償請求

731部隊が日中戦争中に違法な生物兵器の実戦使用を行ったとし、それにより損害を受けたとする者らが、日本国を相手取って損害賠償請求を求めている。1997年には、中国人180名が、細菌戦の被害者への謝罪と賠償を求めて「731部隊細菌戦裁判」を起こした。

この訴訟の結果は、人体実験等の存否にかかわらず、第二次大戦についての戦争賠償・補償ついては日本と被害各国との間で条約・協定等が締結、履行された事により解決し、国際法上も日本の国家責任については決着していることから、請求棄却判決により原告敗訴となった。その後に提起された同種の訴訟も、全て原告の請求が棄却された。

安部英も731部隊での人体実験関与を経て後に帝京大学の医学部教授に就任、その後血友病治療の権威として薬害エイズに関わり、逮捕される。

さらに詳しく → 化学兵器  生物兵器  石井四郎  ノモンハン事件



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(2008/01/29)
青木 冨貴子

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